別れの言葉は聴こえない
睦月
あるピアノ少女
その日、私はとある決心をした。
♪♪♪
君と出会ったのは、今から十年くらい前だった。今でもあのときのことは鮮明に覚えているよ。確か、君がピアノ教室に通い始めたばかりの時期。学校の友達がみんなピアノを習っていて、それに憧れてピアノを始めていたよね。
ただ、その頃の君の家にはピアノが無かった。だから、ピアノを買いに家族と楽器屋さんに来た。そして――わたしと君は出会った。
♪♪♪
「本当に良いの?」
母は言った。だから私はこう言った。
「うん。もう、ピアノを弾くことはないだろうから」
♪♪♪
それからの君は、本当に毎日が楽しそうだった。週一回のピアノ教室。教室に通っている子達はみんな君よりも昔からピアノをやっていて、君よりもピアノを弾くのは上手だった。
君はそれに追い付こうとして、必死に練習をしていた。その姿を見るのが、わたしは好きだった。
♪♪♪
段ボールに物を入れる単調な作業にも飽きてきた頃、一枚の写真がでてきた。これは確か、ピアノの発表会で撮った集合写真だ。
写真をぼんやりと眺めるが、誰が誰なのかはよく思い出せない。あの頃はみんなと仲良くしていたはずなのに、いつの間にか会うことも無くなった。それもそうか。だって、私達はピアノ教室をやめたのだから。
♪♪♪
小学校の高学年にもなれば、君の演奏技術は上がっていた。ただ、段々とピアノが面倒くさくなっていた時期でもあったね。ピアノ教室に行く前日だけ練習をするとかね。
あと、ちらほらとピアノ教室をやめる子が増えてきた時期でもあった。その代わりなのか、新しくピアノを始める子も多かった。新しい友達が増えて嬉しい反面、会えなくなる子も増えて、君は残念がっていた。
♪♪♪
さっきの写真の影響か。はたまた決心にまだ心残りがあったのか。とにかく、私はピアノの前に立っていた。上に洗濯物や本が乱雑に積まれているピアノの前に。
その横にある小さな本棚には、練習曲の本や、ペラペラのプリント状態の楽譜、五線譜の書かれた音楽ノートや楽譜を止めるクリップなどが入っている。
♪♪♪
そして君は、中学生になった。君よりも昔から教室にいた子達は、やめるか、他の教室に行くかでいなくなってしまった。そう気がつけば君はピアノ教室の最古参だったのだ。
♪♪♪
そのままピアノを弾いてしまおうかとも思ったが、さすがにそれはやめた。荷造りが終わっていないからだ。独り暮らしすることに決めたのに、荷造りすらろくにしないのは良くない。
それに、実家に残す物を極力減らすため、このピアノを近所の子にあげることを決心したではないか。ピアノを弾くことはもうないからとあげることにしたのに、このタイミングでピアノを弾くのはおかしいだろう。
そう自分に言い聞かせながら、私はまた荷造りの作業を始めた。
♪♪♪
高校生になり、君はとうとうピアノをやめてしまった。当たり前だが、君がわたしのもとに来ることもなくなった。
わたしはそれが悲しくて。君が来てくれることを願って。でもそんなことが起きるはずもなくて。
部屋のすみで君をひっそりと見守ることしかできなくなった。
♪♪♪
脳裏からピアノのことが離れない。忘れようとすればするほど忘れられない。
そんなことを考えていると、荷造りは終わってしまった。自然と足はピアノの方を向いていた。
♪♪♪
君がわたしの元へやってきた。今日になってからは二度目だ。まあ、一度目であるさっきは、すぐに立ち去ってしまったが。
そして少し考える素振りを見せる君。どうやら今回は立ち去らないようだ。君はおもむろに椅子を引き――わたしの前に座った。
わたしは思わず目を見開いてしまった。まあ、見開くことのできる目なんてわたしは持っていないけど。
とにかく、それだけ衝撃的だったのだ。なにぶん、君がこうしてここに座るのは、三年ぶりだったのだから。
♪♪♪
気がつけば私はピアノの椅子に座っていた。椅子の高さは合わなくなっていた。三年ぶりに座るのだから仕方ないだろう。かといって調節するのも面倒くさくて。
電源プラグを差し込み、ピアノの蓋を開ける。上に乗っていたものが雪崩のように崩れていったが、それを拾うのもわずらわしい。
ただ、ただ無償に私は音が聞きたくなって。何も考えずにメトロノームを鳴らし始めた。
♪♪♪
メトロノームの音が部屋に鳴り響く。目の前には君が座っている。それだけで胸がいっぱいになった。
♪♪♪
何か曲を弾きたくなってきたが、ブランクのある私ではとてもじゃないけど弾くことが出来ない。散々迷ったあげく、私は「ド」の音を鳴らした。
♪♪♪
君が音を鳴らした。音を鳴らした!ブランクがあって指ももつれている。でも、君が演奏をしている。音が詰まりながらも演奏をしているのだ。
♪♪♪
少しずつ指が慣れた頃。
――ピンポーン
とインターホンの音がした。どうやら近所の子がピアノをとりに来たようだ。
「おじゃまします……!」
小さな女の子とその家族が部屋に入ってきた。女の子は七歳くらいだろうか。目を輝かせてピアノを見ている。
♪♪♪
とうとう君とのお別れの時間がやってきた。名残惜しいけど、仕方のないことだ。君が最後にわたしで演奏をしてくれただけでよしとしよう。
「さようなら」
口もないわたしの別れの言葉が、君に届くことはあるのだろうか。
♪♪♪
小さな女の子とその家族はピアノを持って帰ってしまった。これで正式に、ピアノとはおさらばだ。これを決心したのは私だ。後悔なんて無い。そう思いたいのに、昔していた音がもうこの部屋で聴こえないのが、無性に哀しかった。
別れの言葉は聴こえない 睦月 @mutuki_tukituki
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