時空超常奇譚5其ノ九. 起結空話/笑気ガスはいらんかね

銀河自衛隊《ヒロカワマモル》

時空超常奇譚5其ノ九. 起結空話/笑気ガスはいらんかね

起結空話/笑気しょうきガスはいらんかね

 人を強制的に笑わせる事が出来る『笑気しょうきガス』というものがあるらしい。一般的には何の役にも立ちそうにないが、笑いの有無が死活問題となる芸人や噺家にとっては喉から手が出る程欲しいだろう。もし、そんな笑いの魔法の杖を売っていたら、即刻手に入れたいに違いない。


 お笑い芸人『一郎∞二郎エタニティ』の二人は、翌日に控えている事務所主催のお笑いライブの準備に余念がない。新宿歌舞伎町にあるキャパ100席程度の小さなホールで行われる事務所主催の若手ライブイベントではあるものの、このライブには各TV関係者が来る事がわかっているから、ここで確りと爪痕を残せばTVにオファーされる可能性は必然的に高くなる。

 結成7年目、ちょこちょこ地方のTVに呼ばれたりはするがまだまだ知名度は低い。このライブは売れっ子芸人になる大きなチャンス、決して失敗は許されない。それは二人が一番よく知っている。何としても大爆笑をとりTV関係者の目に留まる事で、自ら未来を切り拓いていくしかない。

 今回は、二人だけでなくマネージャーの三郎も加わって、熱い気持ちでつくり上げたネタで絶対にイケる自信があるのだが、ライブの事を考えれば考える程に心臓は激しく高鳴り、容赦なく緊張が覆い被さって来るばかりだ。出来る事なら逃げ出してしまいたい。


 朝から貧乏ゆすりの止まらないボケの一郎が真情を吐露した。

「なぁ二郎、明日のライブを考えると今からエラい緊張するやんかぁ?」

「まぁな、はぁぁ……」

 いつもと違い、ツッコミの二郎の口数が極端に少ない。それが緊張のせいである事は明白だ。二郎も朝から溜息が止まらない。

「オレな、簡単に客を笑かす薬みたいなもんないんかなて、いつも思ぅんよ」

 何とも現実逃避の能天気な一郎の言葉に、同じように緊張を隠しきれないながらも、何とか押し込もうとする二郎が苦笑いした。

「馬鹿だな、そんなものある訳ないだろ」

「けどな、惚れ薬ってあるやんか。それと同じやん」

「あのな、惚れ薬なんてものがどこの世界に存在するんだよ?」

「ないんか?」

「当たり前だろ、そんなものはない。ついでに、客を笑わせる薬なんてものもない」

 けんもほろろで取り付く島のない二郎の反応に、一郎が更に言葉を返した。

「いや、あるで」

 そう言って、一郎はネットショップで販売している『笑気しょうきガス』なる商品の広告をスマホ画面で二郎に見せた。笑気ガス99800円。小型酸素ボンベのような形の容器に入っている。キャッチコピーは「今日から君も爆笑王だ」で、画面下に極端に小さく「信じるか信じないかはアナタ次第」の文字も見える。

「ほらな、あるやろ?これを吸った人間は、それだけで笑いが止まらんようになるらしいで」

 二郎が眉を顰めた。

「こんなのインチキに決まってるだろ」

「そんな事ないで。これはホンマに客を笑かせる魔法の杖やねん。これさえあったら、明日のライブかて楽勝で大爆笑間違いなしやで」

 相方である一郎の短絡的な発想に、二郎は唯々嘆息するしかない。

「馬鹿だなお前、日本中探してもそんなもの買うボンクラなんていないぞ」

「けどな・」

 何故なのか、一郎が笑気ガスの話題から離れようとしない。何となく嫌な予感がする。一郎は、ヘラヘラと笑いながら内緒と言われた秘密を曝露ばらす子供のように言う。

「それが、そうでもないねん。実は内緒なんやけど、オレな、もうそれ買ぅてもぅてんねん」

「はぁ、何?」

 予感的中。誰に内緒にするのかは不明だが、絶滅危惧種レベルのボンクラがここに一人いた。笑気ガスなるものが一郎の鞄からその姿を見せる。大きさ50センチ程のボンベで、価格は99800円。高いのか安いのか、何もわからない。

「この魔法の杖の笑気ガスが既にオレの手にあるちゅう事は、相方のお前が了解すれば、明日のライブの大成功が今この時点で確定するちゅう事になるんやで」

「そんなもの……」

 二郎は呆れて返す言葉が見つからないのだが、かと言って怒る気もない。


 三日前、ピンの地方営業の出番終わりの控室で一郎が帰り支度をしていると、挨拶なしに「笑気ガスはいらんかね?」と言って、上下黒尽くめのスーツに白いネクタイの老人が入って来た。プライベートの知り合いではないし、コアなファンがじかに控室まで来る事もあり得ない。どう見ても変質者にしか見えないが、例えそれが誰であろうと売れない芸人が態々わざわざ来てくれた客を拒絶する事はない。TVマスコミ関係者である可能性が否定出来ないからだ。それにしても、老人の怪しさはMAXだ。

「お笑いライブの客を強制的に笑わせる事が出来る魔法の杖、『笑気ガス』はいらんかね?」

「あんさん、どちらさんでっか?」

「ワシは神じゃ」

「カミさん?仕事の話やったら、マネージャーに・」

「仕事の話ではない、笑気ガスはいらんかね?」

「何言ぅてるんか、わからへんわ」

 カミとは個人の名前か或いは事務所名か。では笑気ガスとは何だろう。会話が噛み合っていない。

「お笑いライブで絶対に成功する方法があるのじゃ。それがこの笑気ガスじゃよ」

「カミさんて知り合いはおらんし、ライブで絶対に成功する方法ちゅうのもさっぱ訳わからんし……」

 首を傾げる一郎に、正体不明の男が何かを諭すように言った。

「そんなに深刻に考える事はない、ワシの言う事は単純じゃ。ライブで成功する為には大爆笑をとる必要があるな。では、その大爆笑を常に確実にとる為に何が必要か、わかるかな?」

「常に確実に笑かせる為に……ネタやろか?」

 一郎が首を傾げ続けている。客を、常に、確実に、笑わせるのに必要なものとは何だろう。そもそも、そんな魔法のようなものがあるのだろうか。

「常に確実に大爆笑をとる為に必要なもの、それはこの笑気ガスじゃ。これさえあれば、客を強制的に笑わせる事が出来る。この笑気ガスで「今日から君も爆笑王だ」になれるのじゃよ」

「ん?そう言ぅたら、ネットでそんなキャッチコピー見たかな」

 ここ数日間、一郎は緊張の塊と化して昼夜問わずにユーチューブを見捲っている。その中に、中年男が得意げに「今日から君も爆笑王だ」と叫ぶ陳腐な広告があったような、なかったような。

「ふむふむ、それは我社の販売広告じゃ。どうじゃ、爆笑王になりたくはないかな?もっとも「信じるか信じないかはアナタ次第」なのじゃがな」

 間違いなくキャッチコピーはパクリだ、怪しさが駄々洩れしている。老人の格好も話の内容も何一つとして真面まともではない。その素性のわからない神と名乗る老人が買えという笑気ガスという商品。神が物売りをするという矛盾。

 一郎は、わからない事ばかりで眩暈めまいがしそうになる中で、更に立ちくらみしそうな答えを返した。

「うぅぅぅん。えっとな、わからんけどわかった。それがパチもんかどうかはわからんけど、オレは明日のライブで失敗する訳にはいかへんねん。可能性のある事は何でもやる。それがオレのポリシーや」


 魔法の杖、笑気ガス価格99800円を目前に置いて一郎が言う。

「なぁ二郎、明日のライブでこれ使ぅてもエエやろ?「ライブに成功する為には何でもする事が大事なんだ」て、お前も言ぅとったやん?」

「違うよ。俺は、それくらいの気持ちじゃないと絶対に成功しないって言ったんだ」

「同じやんか。それにな二郎、エビデンスはないけど、この笑気ガスはホンマもんやと思う。明日のライブの大爆笑が確定するんやで」

 一郎の興奮は止まらない。もしも明日のライブの成功が魔法の杖で約束されるというのなら、二郎だって飛びつきたい気持ちは同じなのだが、二郎には素直に同意出来ない違和感がある。

「仮にそれが本物で、それを使って笑いがとれたとしても……そんなの意味があるのかな?」

 二郎が自前のお笑いを語る。

「綺麗事かも知れないけど、明日客席にそれを撒いて笑いをとって売れたとして……それが俺達の笑いになるのかな?」

 一郎の顔が俄に曇った。

「そう言われたらキツいな。お前の言う事はいつも正しいし理解は出来るんやけど、売れんかったらそれこそお笑いやっとる意味ないんちゃうか?」

「まぁ、それはそうだけど……」

「「どんな手を使ってでも這い上がるんだ」て、お前も言ぅてたやんか?」

「それは言ったけど、でもさ……」

「確かにこんなん邪道やと思うで、けどオレら今がチャンやんか。チャンスは掴める時に掴まんかったら・」

「わかってるよ。気持ちは俺も同じだから、わかってる。でもさ……やっぱり駄目だよ、そんなもの使って笑いをとっても意味がない」

「いや、意味はあると思うで。明日大爆笑とってTVのオファーが来てオレらが売れたら、その時点でもっかいオレらが目指すお笑い追求してもエエんやないかな?」

「そうかも知れないけど、でもさ、違うんだよ、違う。俺達は売れる為にお笑いをやっているんじゃなくて、俺達の笑いの為に売れようとしているんだ。そんなもの使って売れたって本末転倒だって言いたいんだよ」

「それは、確かにそうやけどな……」

 話は堂々巡りで結論が出ない。基本的に価値観を同じくする二人の究極の選択に結論が出ないのは当然だ。目の前に成果の可能性が見えている状況では、どんなに正論を吐き続けながらも手を伸ばしたくなるのは自然な事だ。どんなに理性的に反論したとしても、人間である限り迷いが出るのは仕方がない。

 一郎が藁をも掴む思いで笑気ガスなるものを購入した事を、二郎は本気で非難する事など出来ない。二郎の本音も一郎と何ら変わらないのだ。

 結論の出ない二人はマネージャーの三郎に状況を説明し、取りあえずどうするかを相談する事にした。売れない芸人のネタを一緒につくる同志の三郎、気持ちは二人と変わらない筈だ。いや二人以上に売れる事に強い執着心を持ち貪欲にし上がる事を欲している三郎なら、きっと「正解」を出してくれるだろう。「やれる事は全てやるくらいの強い気持ちがなくてどうするのか」と叱咤激励してくれるに違いないのだ。

 実は、人が他人に相談するという行動の本質は、純粋な相談ではなく「背中を押してもらいたい」場合が殆どだ。今回も二人の腹は既に決まっている。


 だが、それは違った。叱咤激励を期待していた一郎と二郎だったが、マネージャーの三郎の意見は二人の予想とは真逆だった。三郎が興奮気味に「正解」を語る。

「笑気ガス?二人とも何を言っているんですか、笑気ガスを使って客を笑わすって何ですか、情けない。私はね、お笑い芸人『一郎∞二郎エタニティ』の漫才を世に知ってもらいたいのであって、何でもいいから売れればいいなんて考えた事は一度もないですよ」

「それはそうやけどな、今回は特に失敗は出来へんやんか?」

「今回は特別だから・」

SHUT UPシャラップ!二人がそんな気持ちなら、笑気ガスなんかに頼って漫才をすると言うのなら、今直ぐに解散しましょう」

 ブレない三郎の言葉が一郎と二郎の胸を熱くした。何故お笑い芸人を目指したのか、それは自分達の笑いを突き詰めたかったからではないか。二郎が三郎と一緒に会社を辞めたのも大阪にいた一郎が上京したのも、全ては自分達の笑いの可能性を知りたかったからではないか。コンビを組んだ頃の、そんな思いが沸々と湧き上がって来る。

「そうやな、忘れとった」「あぁ、そうだったよな」

 結論は出た。それは単純だ、笑気ガスなど使わずに正々堂々ネタで勝負して認められる事、それこそ二人が芸人として存在する唯一の意味だ。売れる事だけを目指す芸人はそうすればいい。だが二人はそうではないのだ。賢くないと言われようと不器用と言われようとも、それが『一郎∞二郎エタニティ』なのだ。苦しい決断だが、三人は笑気ガスを処分する事を決めた。


 ライブ当日、愈々いよいよ一郎∞二郎エタニティ』の出番が来た。有名芸人など誰一人出ない若手イベントであるにも拘わらず、客席は満員で立ち見まで出ている。客席は照明を下げているので見難いが、その中に見知ったTV関係者らしき顔も見える。

 観客の拍手に袖を引かれてステージへと向かい、勢い良くネタが始まった。二人の漫才は「しゃべくり漫才」、いつも通りのタイミングでちょっとした下ネタを絡めた一郎のスピードボケでツカミは上々。更にボケる一郎とそれを間髪入れずに拾う二郎のツッコミ。流れるような気持ちの良い掛け合いが続いていく。

 観客は、ツカミの小さな笑いから小ネタの軽い笑いへと引き込まれて、次第に大きな笑いが渦を巻いていく。そして、考えに考え抜いたオチで観客を意図的に心地良い笑いの坩堝るつぼへと落とし込む。余りの観客の大爆笑に、演者の二人自身が陶酔しそうになる程だ。


 二人が勇んでステージへと向かいネタが始まった時、上手客席端にいた三郎は照明の暗さに蹴躓けつまずき、その拍子に持っていた笑気ガスの容器を床に落とした。

 途端にボンベの口が開き、ほのかに甘い無色透明な気体が微かな音を立てて勢い良く漏れ出した。慌てる三郎の意思に反して、気体はキャパ100席の小さなホール内に流れ出し、呼応するように客席は大爆笑の渦に包まれていった。


 ライブイベントは、予想以上の相当な盛り上がりを見せて成功裏に終了した。

「完璧だ!」「バッチやで!」と、大爆笑に久々の手応えを得た一郎と二郎の二人がガッチリと握手した。

 そして、マネージャー三郎と喜びを分かち合おうと歩み寄ると、三郎がいきなり頭を下げた。顔が顕かに落ち込んでいる。

「申し訳ありません。あの……」

「どないしたんや?」「何?」

「あれが……あの笑気ガスが、客席に流れてしまって……」

「えっ?」「何やて?」

 三郎の説明を聞いても、二人の頭には「笑気ガスが客席に流れた」以外の言葉は入って来ない。いや、二人の意識が全てを拒絶している。

「じゃ、じゃぁ、あの大爆笑は笑気ガスが客席に流れたからなのか?」

「そんなん噓やぁ。ほなら、あの大爆笑はオレらの実力やないて事なんか?」

 二人が天を仰いだ。

「そんな馬鹿な事などあり得ない」「あれはオレらの力やぁ」と大声で叫びたいのだが、どうやら現実は無情にもそれを強烈に否定している。


「本当に申し訳ありません。本当に、本当に……」

 唯只管ただひたすらに謝る三郎を二人が叱責する事はない。ライブは、三人で夜中までネタを考え練習し励まし合って臨んだ。笑気ガスなど使わずに勝負もした。大爆笑が嘘だったとしても、やるべき事はやった。これ以上何が出来るというのだろうか。

 三人は常に同志だ。偶々たまたまのミスで笑気ガスが客席に流れ出てしまった、だから何だというのだ。そもそも、笑気ガスなど三人には必要ない。仮にこの後どうなろうと、熱い漫才をつくり上げていくという三人の絆に変わりはないのだ。


「もうエエよ。ネタでウケたんやないのはショックやけど、次また三人で頑張ったらエエやんか」

「そうだよな。どうせ、為るようにしかならないんだからさ、やる事をやればそれでいいんだよ」

「本当に申し訳・」

「もういいよ」「明日からまた頑張ろや」

 ライブの成功、大爆笑が自らの力ではなく笑気ガスによるものだったショックに肩を落としつつも、三人は次に向かって再び進んでいく事を誓い合ったのだった。

めでたし、めでたし。


 吸入麻酔の一種である亜酸化窒素 N2Oは『笑気ガス』と呼ばれる。全身麻酔手術に亜鉛化窒素を用いると、疼痛閾値とうつうしきいちが高まる事で痛みを感じ難くなり弛緩した患者の表情がまるで笑っているように見える事から、亜酸化窒素 を笑気ガスと呼称するようになったと言われている。


 突然、一郎の控室に現れた神と称する老人が何者だったのかはわからない。だが、「人を強制的に笑わせるガス」などこの世には存在していない。


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