廃園の亡霊たち

尾崎滋流(おざきしぐる)

廃園の亡霊たち



庭園に朝日が射すと、光の中に過去がわだかまる。

蔦に覆われた石造りの壁が、崩れた列柱が、手入れのされていない生け垣が、白い光によってその生命の無い顔を晒され、うごめく記憶は影に逃げ込んでいく。

書庫の細く切り立った窓を、亡霊が横切るのが見える。


「しばらく、ここを離れることにする」

朝食を食べ終わった霽芳ジーファンが唐突にそう言うので、私は動揺を隠すことができなかった。

「お別れなの」

ひどく傷ついた顔をしているだろう私に呆れた視線を向け、彼女が言葉を続ける。

「ちゃんと人の話を聞きなさい。しばらくって言ったでしょう」

私と霽芳が寝起きする庭園の管理所は、くすんだ紅色の瓦屋根をもつ南方風の住居で、私たちは大きな窓のある食堂で朝食を摂っていた。

毎日同じ時間、同じ場所、ささやかな野菜の入った包子バオズタンだけの同じ食事、そんな儀式のような朝食の場が、凍り付いたように冷たくなった。


つややかな黒髪を肩の下で切り揃え、臙脂に黒い刺繍をあしらった絹の旗袍チャイナドレスに身を包んだ霽芳。私の全て。

彼女と出会ったのは、台南の旧市街にひっそりと残された古い館でのことだった。

高い塀に囲まれ、生い茂る木々に半ば覆い隠されたその石造りの館で、彼女はたった一人で死にかけた象を見守っていた。

吹き抜けになった玄関広間に、まるで大陸の神像のように、大きな象が横たわっていた。

紫と灰色の間の色をした硬い皮膚に、薔薇のように見える赤黒い模様が浮き出ている。延命処理の影響だ。

「私の役目は、この子の面倒を見ることなの」

霽芳はどこか遠くを見るような目で動かぬ象を撫で、流動食を大きな匙で食べさせていた。

象の目は果てしなく深い群青で、数百年の時の向こうから私たちを見つめているように思えた。

私は彼女が付けている日誌を盗み見、その字がとても美しいことを知った。庭園の管理には、字が書ける者が必要だった。


何度目かに訪ねた日の真夜中、私は彼女に言った。

「あれは、もう死んでいるべき生き物だと思う」

「なぜあなたにそんなことがわかるの」

「あの象はずっと昔に、本来の寿命を過ぎているでしょう。それを無理に生かしておくのは変だよ」

私の胸を黒い髪でさらさらと覆ったまま、霽芳は小さな声で応える。

「それは私たちが決めることではないよ。あの子は、現にいま生きているんだから」

彼女の言うことは理解できたので、その時は何も言わずにその髪を撫でていた。

翌朝、私は象に飲ませる薬を、薬局ヤオジューで買った風邪薬と入れ替えた。

一番大きな樹の下に、二人で泥まみれになって象を埋葬した後、霽芳は責めるでもなく私を見て、「あなたがやったの」と尋ねる。無言の肯定に、彼女はひとつ溜息をつき、駆け寄って、ふたたび私の胸に顔を埋めた。

「連れて行って」

そうして、彼女はこの庭園にやって来たのだ。



食卓に座ったままの霽芳ジーファンにそれ以上何も尋ねることができず、私は逃げるように自室に戻り、身支度を整えて庭園へ出た。

「今夜、颱風タイフォンが来るよ」という声が背後から小さく聞こえた。

管理所は庭園の入り口にあり、曲がりくねった石畳の歩道の先、反対側の端に、榕樹ガジュマルの深い森に埋もれるようにして図書館が建っている。

小さな丘を回り、伸び放題の植え込みの間を抜け、干上がりかけた水路を渡る間、朝の淡い光とぬるい空気が私を包み、泡立つ頭を少しだけ冷やした。

図書館は煉瓦造りの二階建ての洋館で、壁という壁が触手のような榕樹ガジュマルの根によって網目状に覆われ、ゆっくりと浸食されつつある。この建物が崩れ落ちる前に、私は私に課せられた仕事を終えなければならない。

軋んだ音を立てる重い樫の扉を開けると、廊下の床にも無数の根が縦横に這い伝っており、躓かないように踏み越えて書庫へ向かう。


いつものように書棚に並ぶ背表紙を追っていく間にも、霽芳の言葉と表情が何度も蘇り、その度に文字が目に入らなくなった。

胸を絞めつける苦しみを振り払うように一冊の本を手に取り、目次を確認する。南満州鉄道株式会社についての本だ。

書庫の隅に置かれた机に向かい、耳を澄ませるようにして本をめくっていく。決まった作業が私の心を落ち着かせ、やがて幽霊たちのざわめきが微かに聞こえてくる。


私にこの仕事を任せたのは、ある大学を訪れていた客員講師だった。歴史と文学を研究しながらも思うように形にすることができず、大学図書館の片隅でくすぶっていた私をその学者は見出し、美麗島フォルモサの南の果てにあるこの庭園へ連れて来た。

資産家であったその学者──果たしてこの人物を本当に学者と呼ぶべきなのかわからないのだが──は私に、庭園の図書館に残された膨大な資料の中から、過去の索引インデックスを拾い集めるように命じた。

学者が言うには、あらゆる過去の断片の中には隠された索引インデックスがあり、それは未来の誰かによって見出されるのを待っているという。そして、そのように見出されることによってはじめて、打ち捨てられ、忘れ去られた過去は救済されるのだと。

その断片を探すのが私の仕事だった。


「それで、それって結局どういうことなの」

初めて庭園での仕事を説明された時、霽芳はそう私に尋ねた。

「正直言って、私にもよくわからない。救済とか、索引とか……でも、何を探せばいいかは、なんとなくわかる」

幼い頃から、私は亡霊たちに悩まされて来た。

実際に幽霊や死者の姿を見るというのではない。絵を見たり、映画を見たり、本を読んだりしている時、ふとした瞬間に、はるかな過去から語りかけてくるような、魂を逆撫でるような違和感にとらわれることがあった。その度に私は怯え、あるいは魅了されて、前後の脈絡や冷静な視点を失い、亡霊に触れられるようなその感覚にただ翻弄された。

文学や歴史を学ぼうと思い立ったのも、それが上手くいかなかったのも、どちらもその感覚が理由だった。

学者は、そのような感覚を持つ者を探していた。

「私は、土星のしるしを持っているんだって」

「それ、占い?」

干上がった水路の上に架けられた四阿あずまやで、霽芳が机に向かったまま返事をする。

「そんなものかもしれない。土星の性質を持っている者、憂鬱メランコリーの星のもとに生まれた者が、隠された過去の断片を見つけるんだって」

「ふうん、そんな困った力でも、役に立つことってあるんだね」

霽芳はそう言って微笑みながら、筆記本ノートに鋼筆を走らせていく。傍らには古い本が置かれ、付箋の貼られた頁が開かれている。

私は書庫に眠る本をひもとき、その中から、死者たちの痕跡を拾い集める。それを、彼女が筆記本ノートに書き写す。革装の筆記本ノートが抜き書きで埋まると、それは管理所の書棚に整然と収められる。

それが、この庭園での仕事の全てだった。

私が無数の本の中から拾い集めて来る断片が、本当にあの学者が求めるものなのか、打ち捨てられた過去の救済に繋がるものなのか、それはわからない。しかし学者は全てを私に一任し、ただ時折管理所に現れては──不思議と学者は図書館には寄り付かなかった──書棚に収まった抜き書きをぱらぱらとめくるだけだった。私はただ、無数の木の根に侵食されつつある図書館で本の頁をめくり、亡霊が語りかけてくるのを待つことしかできなかった。

ごく淡く黄色がかった紙面に黒い墨水インクで書かれていく霽芳の字は、細く清潔で、美しかった。私はこのような字こそ、救済のねがいを記すのに相応しいと思い、嬉しかった。

「ありがとう、一緒に来てくれて」

彼女は少しだけ顔を上げて片目をつむると、すぐに開かれた本に目を落とした。


追憶が途切れると、満ち潮のように不安が蘇った。

しばらく、ここを離れることにする。

しばらくとはどの程度の期間なのだろうか。一ヶ月か、一年か、それとも十年か。

象の目。

深い泉の底から全てを見透かすような、あの横たわった象の目が私を見ていた。

私があの象を殺した。

私が彼女からあの象を奪い、彼女を住処から連れ去った。

彼女は私を責めなかったが、象について、そしてそれまでの暮らしについて、何も語らなかった。

霽芳が私を恨んでいるかもしれないという思いは、常に私について回った。朝食の席で、文字を書き写す彼女の傍らで、月に仄白く照らされた寝室で、その思いはふとした瞬間に小鬼のように現れ、私を恐怖に凍りつかせるのだった。



霽芳ジーファンと話すのが怖くて、私は書庫に籠り続けた。

壁を突き破って這う根の影が徐々に長く伸び、重なり合って不吉な模様を描く。

机には付箋を貼った本がうず高く積まれていた。

この断片たちを、彼女は書き写してくれるだろうか。

私は自分の字が嫌いだった。それは醜く、被造物の不潔さが滲み出ているように思えた。字は神聖なものだから、霽芳の字のように書かれなければいけない。

細長い窓から、庭園の反対側にある管理所が見える。すでに夕暮れ時で、窓に灯りが点いていた。


私は手元の本に目を落とした。

旅順リューシュンに入城した兵士たち。

フランツ・フェルディナント大公の暗殺。

ハイチ革命とブラック・ジャコバン。

台湾海峡を渡った国民党軍。

ジュゼッペ・テラーニによるカーサ・デル・ファッショ。

ウォルト・ディズニーとオッペンハイマー。


かつて、学者に尋ねたことがあった。あなたが救済したい過去とは、一体どのような過去なのかと。学者は、審判の時においては過去のあらゆる時間がひとつに収束するのだが、と前置きした後で答えた。

──私の関心が常に引き寄せられるのは、「二十世紀」です。

──あなたは、二十世紀を救おうとしているのですか。

──そう言ってもいいのかもしれません。いや、何か間違っているのかもしれない。でも、そう、あの書庫にある本は、そのような関心に基づいて集められたものなんです。

学者にはかつて、愛する者があったという。学者の研究、そしてこの書庫は、かつては二人で作り上げたものだった。しかしその者は若くして命を落とし、それ以降、庭園と図書館は墓所に、学者の研究は弔いになった。「二十世紀」とは、その者のことでもあっただろうか。

書庫で過去の断片を集めるうちに、私の中で「二十世紀」の姿はどこまでも大きく膨らんでいった。それはあるいはあの学者の傍らで見知らぬ愛に満たされ、あるいは病んだ巨象のように吹き抜けの広間に横たわって私を見ていた。深淵を閉じ込めたようなその瞳が、私にずっと何かを問いかけていた。


陽が落ちるに従って、強い風が吹き始めた。やがて雨が降り、豪雨となって、大きな雨粒が横殴りに降りしきった。

ごうごうと鳴る風が木々に侵された館を揺らし、苦しげな軋みで満たした。

ぼんやりと外を眺めるうちに、風はますます勢いを増し、恐ろしい音が闇の世界を満たした。

瓦が飛び、木々が薙ぎ倒され始めた。

窓から見える、管理所の灯りがちらちらと揺れていた。管理所の周囲で木々が生きもののようにしなり、恐ろしい影が踊った。

そして木の幹が裂ける音とともに、轟くような大きな音が管理所の方向から響いた。視界を覆う雨粒と木々の影で、窓の灯りが消えているのがわかった。

私は椅子を倒すように立ち上がり、書庫を飛び出した。

木の根に躓きながら図書館から出ると、風と雨が全身を滅多打ちにする。

闇そのものが吠え、私に殴りかかっていた。

風雨に逆らい必死に足を踏みしめながら、管理所への道を急いだ。

世界は苦悶するような唸り声に満たされ、黒く渦巻いていた。巨大な病んだ象が地上に覆い被さり、過去の痛みに泣き叫んでいるように思えた。幾千万の亡霊からなる巨象。二十世紀。


「霽芳!」

扉を跳ね開けるように灯りの消えた管理所に飛び込むと、蝋燭を持った霽芳が驚いたように私を見た。

「この中を戻って来たの? 危ないじゃない。まったく……」

私は力が抜け、その場にへたり込んだ。

「灯りが、消えてたから……」

「うん、木が倒れて来て、電燈が壊れたみたい。他の部屋は大丈夫だと思うけど」

「私、あなたと離れたくないよ」

ずぶ濡れの私の言葉に、彼女は淋しげに微笑んだ。

「ごめんね、あなたが嫌いになったんじゃないよ」



散乱する瓦や太い木の枝を庭園に遺し、夜のうちに颱風タイフォンは去った。

強い風が森を揺さぶり、木々と一体化しつつある図書館の壁にさらなる亀裂を走らせた。

霽芳ジーファンは背包にわずかな荷物をまとめ、旅立つ支度をすっかり整えてから、昨日わたしが集めた断片を書き写し始めた。


「あの象を殺したから、私を恨んでいるの」

「どうしてそう思うの」

「霽芳が、あの象のことを何も話さないから」

「それは、あなたが何も聞かないからだよ」

私の言葉が途切れ、彼女が続けた。

「あなたがあの子のことを何も聞かないのは、恐れているからだと思う。あなたがあの子にしたことだけじゃなくて、私の中の、あなたの知らない私を恐れているんだと思う」

鋼筆を走らせる手が止まった。

「聞いて、玲瑋リンウェイ

彼女が、私の名前を呼んだ。彼女が私の名前を呼ぶときは、きまって何か重要な事柄を話す時だった。そして、その機会はこれまでそう多くはなかった。

「玲瑋、私はあなたと出会ってから、そしてこの庭園に来てから、ずっと死んだあの子のことを考えずに来た。でもやっぱり、あの子のことに向き合わなければいけない。だからお願い、私に少しだけ時間をちょうだい」

「少しだけって、どのくらい」

「わからない。でも、私は必ずここに戻って来る。そしてあなたは、私が戻って来ると信じなければならないの。あなたがそう信じてくれないと、私もきっとここへ戻って来られないと思う。だから、信じてほしい」

そう言って、霽芳は私をまっすぐに見た。その目は、あの象に似ていて、とても深く美しかった。

私は涙が零れ落ちるのを止めることができず、頬を伝った雫が顎から何粒も落ちていった。

「離れたくない」

「玲瑋、私はいま、まだ過去に住んでいるんだと思う。あの子と暮らしていた過去に。いまの私は、あなたが図書館で探している、忘れられた人々に似ているかもしれない。だから玲瑋、私を探して。私が戻ってくるための、私が救済されるための手がかりも、きっとあの本の中にあるよ」

彼女は確信を込めてそう言うと、しばらく私を見つめ、再び筆記本ノートに目を落とした。彼女の清潔な字が、二十世紀のひび割れた瓦礫を書き留めていく。

彼女がいなくなれば、私は自分の醜い字に耐えなければならない。



霽芳ジーファンのいない庭園は広く、静かで、荒れ果てていた。

崩れかけた小さな橋で水路を渡り、誰もいない四阿あずまやを通り過ぎて図書館へ向かう。

陽光の下で陰は濃く深く、目に見えないものたちの蠢動を湿った大気が圧している。

一人でこの場所にいると、普段よりも感覚が鋭敏になるように思え、最初にここへ来た頃のことを思い出した。あの頃の私はたった一人で書庫に籠り、ただ本の中に入り込もうとしていた。


天井が根の力に耐えきれずに裂け、書庫の一角が雨で水浸しになっていた。

私は濡れた本を取り上げ、まだ読める頁を慎重にめくる。

紙が透けて表と裏の文字が重なり合い、秘密めいた紋章となって隠された歴史を語っている。

傷んだ本を選り分けていると、崩れかけた壁の一角に、見慣れぬものが見えた気がした。

榕樹ガジュマルの根によって裂けた厚い漆喰の隙間から、白く尖ったものが突き出ている。


私はショベルを持ち出して脆くなった壁を削り、半日がかりでそれをすっかり掘り出した。

それは一揃えの、そう大きくはない、仄白い人骨だった。

可愛らしい頭骨を手に取ると、愛おしさが胸に押し寄せた。

私はその骨を霽芳ジーファンと呼ぶことにした。





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廃園の亡霊たち 尾崎滋流(おざきしぐる) @shiguruo

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