屋上とおじさん

古いビルの屋上。

錆びた柵を乗り越えて、僕は屋上の端へ立った。

ビルの高さは約30メートル、10階建て。

この高さなら、確実に死ねる。

僕はそう思って、両腕を横に広げる。

そして、空を見上げた。

空は快晴だった。

雲一つない快晴だった。

こんな晴れやかな日に死のうと思うやつはおかしいと思われるだろうか。

いや、もう本当に僕はおかしくなっているんだ。

こんなに日差しが眩しいのに、僕の身体は一つとして温かさを感じなかった。

ここは本当に日向なのだろうかと思えるぐらい寒い。

でも、これでもう終わりだ。

ここから落ちたら僕は死ぬんだ。

そう思いながら、決意をするために深く深呼吸する。


「ちょっと」


空気が僕の喉を抜けていく。

耳を澄ませると自分の鼓動も聞こえそうだ。


「おい、ちょっと」


もしここで死んだら僕はどうなってしまうのだろう。

死んだ先に地獄や天国はあるのかな?

でも、自殺する人間が天国に行けるはずもない。

きっと僕は地獄行となるだろう。

それでもかまわない。

この現実の地獄から逃れられるなら……。


「お前、ちゃんと聞けよ!」

「ああ、うるさいな! ちょっと黙っててくれます!?」


僕は後ろから何度も声をかけてくる男の方へ振り向き、怒鳴り散らした。

人がせっかく、最後の人生に終止符を打とうとしているのにどうして邪魔をするんだ。

最後ぐらい気持ちよく逝かせてほしい。


「黙んねぇよ。ってか、お前ここどこかわかってるの?」


男は無精ひげを生やした清潔感のない中年男だった。

シャツがアロハとかマジで趣味が悪い。

僕は完全に興ざめしてしまった。


「わかってますよ! ビルの屋上ですよね。僕は今から自殺しようとしてるんですから、邪魔しないでください」

「そういうわけにいかないだろう?」


何を言っても黙らない男に僕は嫌気がさしてため息をつく。


「止めるつもりですか? 僕は誰に止められてもやめるつもりはありません。僕はこの世界に絶望したんです」


たまにこういうお節介な人がいて困る。

自殺を止めるとかただの自己満足だから。

どうせ、「自殺なんて馬鹿げたことやめろ」とかありきたりなセリフを吐くんだよ。

そう言うのはうんざりだ。


「そりゃ止めるだろう。この世に絶望しようが、自殺しようがお前の自由だから好きにすればいいけどさ、ここから飛び降りるのはやめてくれる?」

「は?」


男の言っている意味が分からない。

この男が僕が自殺しようとしているから、止めているのではないのか?


「じゃあ、ここじゃなければいいの?」


僕は改めて男に質問する。

男は大きく頷いた。


「まあ、好きにすればいいんじゃない? でも出来れば、俺の見えないところでやってほしいもんだね」


つまり、僕が男の前で自殺しようとしているからこの男は止めているだけなのだ。

そんな男の都合で言われても困る。

こっちにもタイミングってものがある。


「わかりました。なら、おじさんはどっか行ってください。おじさんが見ていない間に落ちるで!」

「だから、そうじゃないんだって! このビルで自殺すんのはやめてって言ってんの。君が今から自殺しようとしているビル、誰のビルかわかってるの?」


僕は首をかしげる。

男はさっきから何を言いたいんだ。


「知るわけないじゃないですか。おじさんはその辺のビルの一つ一つが誰のかなんて認識してるんですか?」

「してないけどさ――」

「なら、同じじゃないですか。邪魔しないでくださいよ!」


男はついにあああと大声を上げて叫び出した。

この男は僕以上に頭がおかしいのかもしれない。


「ここは俺のビル! 君は俺の許可もなく勝手にビルの屋上に上がって自殺しようとしてるの! それがどれだけ迷惑かわかってんの?」

「は? このビルおじさんのなんですか? たしかにボロいし、不動産価値は低そうですが、あなたみたいな貧相な人がビルなんて持ってないでしょう?」


僕は疑いの目で男を見つめた。

男はかなり憤慨しているようだった。


「失礼な奴だな! どんな風貌してようが俺のビルには変わらねぇんだよ。確かに不動産価値はそんなに高くねぇよ。でも、お前がそこから落ちたらその不動産価値がもっと下落すんだよ」

「僕の落下で不動産価値も落下……。うまいこと言ったて思ってるんでしょう? マジキモいっすよ」

「思ってねぇよ。キモくもねぇよ。というか、お前既に犯罪犯してるからな。これ、『不法侵入』って言う立派な犯罪だから!」


男はもうめんどくさいと呟いて携帯を取り出した。

どこかに電話するつもりだ。

僕は男を慌てて止める。

これ以上人を増やされても困る。


「ちょっと電話はやめてくださいよ! どこに電話するつもりですか?」

「警察だよ! 目の前に犯罪者がいるんだから現行犯で捕まえてもらうんだよ」

「け、警察は困ります! 自殺できなくなるじゃないですか!?」

「だから、自殺すんなつってんだよ!!」


お互いの意見は平行線だった。

これではいつまでたっても進まない。


「そもそも、お前知ってんのか? 自分のビルで自殺された後の不動産価値の下落した金額を。 それとな、死体処理だって金かかるんだぞ。警察呼んだ後も、いろいろ調べられるしな、時間もかかるんだよ。ああ、死んじまったなでこっちは終わんねぇんだよ!!」


不動産の下落金額?

死体処理の予算?

現場検証と事情聴取の時間?

そんなこと考えたこともない。


「ついでにどのぐらい下がるんですか?」


僕はとりあえず聞いてみた。


「1~3割引かれるんだよ。お前、スーパーの買い物とは違うからな。元値が高ければ損失もデカいんだぞ。何千万単位だぞ! お前払えんのか?」

「いやぁ、ちょっと何千万までいったら無理っすね」


そうだろうと男はやっと理解できたかと頭を振った。


「ついでに遺体処理ってどのぐらいかかるんですか?」

「5万~50万だったかなぁ。まあ、室内でない分幾分かマシかも知れないが、それでもただじゃねぇよ。掃除するのだって、こっちなんだよ!」


意外と自殺ってお金がかかるんだと知った。

本当に世知辛い世の中だ。


「なら、僕はどこでどうやって死ねばいいって言うんですか?」

「そんなの俺に聞くなよ。どこで死んだって迷惑にはかわんねぇだろう?」


男はそう言って、ひとまずポケットから煙草を出して吸い始めた。

確かに人に迷惑をかけず自殺とかなかなか難しい。

むしろ不可能ではないのか?


「それになぁ、飛び降り自殺はやめときな」


男は煙草の煙を吐きながら言った。


「何でですか?」


俺はひとまず聞いてみる。


「着地がうまくいって即死ならまだしも、失敗したら最低な人生が待ってるぜ。まあ、下半身不随は間違いないだろうな」

「でも、20メートル以上のビルなら確実ってネットでは書いてましたよ」

「まあ、そうなんだけどよ。たまにあんのよ、20メートルそこそこでも死なない奴。地面が土だったり、木とかにぶつかったりして、思うようにいかんものよ。後、死んだ後が最悪な。結構えぐい事になってるぜ。詳しく聞く?」

「結構です!」


俺はきっぱり断っておいた。

聞いたら自殺なんて出来なくなるじゃないか。


「とにかくさ、死ぬなとは言わねぇよ。とりあえず、俺のビルから落ちるのはやめてくれる? それだけ聞いてくれたらOKだから。あ、でも、できれば今日自殺するのはやめて欲しいな。俺の目覚めが悪いだろう? ああ、あいつ今日死んだんだぁとか思いながら寝たくないし、ニュースとかになったら思い出しちゃうじゃん? 出来ればさ、俺が忘れた時にお願いできるかな? で、出来れば俺の目の届かない遠くでお願いしたい」


僕は大きくため息をついた。


「おじさん、本当にめんどくさい人ですね。我儘じゃないですか?」

「まあ、どうせ死ぬんなら、俺の我儘ぐらい聞いてくれてもいいじゃねぇか。これが最後の頼まれごとになるかもしれねぇんだからさ!」


男はそう言って笑った。

僕はひとまず、柵を乗り越えて屋上の中央に戻る。

とりあえず僕は今日、自殺するのを辞めた。

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【短編集】君の為に詠う 佳岡花音 @yoshioka_kanoko

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