彩るは君の微笑

月白輪廻

彩るは君の微笑


 両親に手を引かれ、彼女は度々肉を買いに来た。



 彼の家は代々肉屋を営んでおり、何れは彼自身も家業を継ぐつもりだった。

 当時幼い子供だった彼は同年代の少年達に、肉屋の倅であることをからかわれた。「動物殺し、血も涙もない」と。それは虐めにも等しい程だった。


 彼としては「じゃあお前等は一口も肉を食わないのか」と思ったが、それを言っては更に実害が大きくなるだけだ。彼は虐めっこ達の理不尽な行いの方が血も涙もないと思っていたし、わあわあと喚き立てる彼等の方が家畜小屋の家畜に思えた。

 彼はただ黙って、子供の無邪気故に遠慮のない暴言、暴力に、日々耐えていた。



 しかしそれは、偶々その現場に居合わせた彼女―――エリンが虐めっこ達を一喝して撃退したことにより、彼への虐めはぴたりと収まった。



 エリンは近所に住む同い年の少女だ。

 貴族でも何でもないただの平民で、平凡な見た目の両親から産まれたとは思えない程美しく、たっぷりとした赤毛を持つ、どこか気品漂う娘だった。

 エリンは虐めっこを口一つで蹴散らすと、彼に笑い掛けた。




「大丈夫?」




 彼がエリンと話したのは、後にも先にもその一言だけだ。実際には、彼はエリンと口を利いてはいないが。

 何故なら、うふふと笑う彼女の、蕾が花開き大輪を咲かせるような笑顔に、魅入られて唖のようになってしまったからだ。

 一言も発さない彼にエリンは不思議そうな顔をしたが、買い物を終えた両親に呼ばれると、彼を顧みることなく走り去ってしまった。






 その後、彼は取り憑かれたようにキャンバスに向かった。

 特段絵が上手いという訳ではなかったが、あの時のエリンの笑顔を何とか形にしておきたいと、何としてでも手元に残したいと思ったのだ。


 学校を終えると全速力で帰宅し、ひたすら絵を描く。納得のいくものが出来ず、キャンバスの方が耐えきれず擦り切れてしまうのではないかという程に下書きを書いては消し、書いては消しを繰り返した。彼は描いて、描いて、描いて、描き続けた。

 学校以外は昼夜問わず部屋に引き籠る彼を、当然両親は心配した。時には、部屋から無理矢理引き摺り出そうとされたこともあった。激しく抵抗し、口汚い暴言を吐く彼に、両親は恐れをなしたか、呆れ返ったか。いつからか口を出されることもなくなった。


 家業を継ぐという気持ちは消え失せ、ただただ己の望む『彼女』を追い求めていたら、気付くと彼は画家として持て囃されるようになっていた。

 時には多くの仕事が舞い込んだが、生活していくのに最低限のものだけを引き受けた。当然だ。彼はただ『彼女』の笑顔を完成させたいだけなのだから。


 あれから結構な時が経っていたが、未だ彼の納得のいく『彼女』を造り上げることは出来なかった。


 そして本当に偶然、本当に偶然だ。いつもならば年老いた両親に頼む買い出しを、彼が気紛れに行った時のことだ。



 人混みに紛れ、―――確かにエリンがいた。



 彼を襲ったのは、このまま死んでしまいそうな程の絶望感だった。

 買い物籠を片手に無防備に歩く彼女は、帰宅途中なのか、どんどん人気のない路地へと入って行く。

 彼は足音を忍ばせ、殆んど反射的に彼女を追いかけ、そして―――。








 微笑む『彼女』の絵は完成した。


 皮肉にも現実のエリンを目にしたことで、彼の中の『彼女』というイメージが確固たるものとなったのだ。

 実物のエリンは、幼い頃の美しさを失ってしまっていた。あの鮮やかな赤毛はくすみ、白いものが幾筋か混じっていた。顔には年相応に皺があり、草臥れている。ほっそりとしていた、均整の取れた身体は出産により体型が崩れ、嫌でも年齢を感じさせた。


 ―――でももう良いのだ。彼にとってのエリン彼女は完成した。ならば、こんな質の落ちた肉の塊はもういらない。






 美しく微笑む『彼女』の前に、家畜の肉が入ったスープを置く。質の悪い肉を『彼女』に差し出すのは申し訳なかったが、致し方ない。

 これは『彼女』が真の彼女と成るために、必要なことだ。そしてようやく『彼女』は、永遠となる。


 そういえば、最後の仕上げを忘れていた。

 彼は絵筆を床の血溜まりに浸す。赤く染まる筆先を、微笑む『彼女』の薄い唇へそっと引いた。




「……ああ、綺麗だ」




 そして残るは『彼女』の瞳に映る、目の前の家畜を葬るだけだ。『これ』は、美しい彼女に相応しくない。

 彼は床に無造作に転がされた肉切り包丁の柄を、ゆっくりと掴んだ。











「何度声を掛けても、息子が部屋から出て来ない」と老夫婦から知らせを受け、警察ヤードが彼の部屋に踏み入ると、首に深々とした傷を負い事切れている壮年の男の姿があった。

 そして部屋の片隅には身元不明の女の生首と、彼女の骨と思われる白いものが積み重ねられていた。


 彼の遺体の前には寒気がする程、美しく笑う赤毛の少女が描かれたキャンバスが一つ。その前にごろごろとした肉の入った、スープ皿が置かれていた。何の肉かは、想像もしたくない。


 この異常な空間でも、絵の中の少女は笑みを絶やさない。そんな彼女の口元は、乾いていない絵の具が垂れたのか、顎の辺りまで赤色が伝っていた。




 ―――まるで、二人を喰らったように。




 うふふと笑う、少女の声が響いた。






 彩るは君の微笑 完

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