タブー・ハント

ヨーグルト

第1話 真紅の夜、始まり


「……なんだよ、なんなんだよおまえは……っ……」


 恐怖、怒り、困惑。

 ありとあらゆる感情がごちゃ混ぜになった言葉だった。

 

 数時間前には真っ白だったシーツは真っ赤な絵の具をこぼしたような赤に染まり、ベッドの角で切り裂かれた枕から床に向けて赤い滴が滴り落ちる。


 毎日のように見ている寝室。

 しかし、その光景は異常だった。


「……母さん?」


 心臓が暴れ、体から力が抜け落ちる。

 血、血、血──ドラマや映画、アニメの中でしか見たことのない量の赤色。


 その赤色の上で横たわっているのは、間違いなく母親だった。数時間まで一緒にご飯を食べた母、一緒にテレビを見た、一緒に笑っていたたった一人の母親だった。


 13歳。 

 そこまで、自分を育てて、愛してくれた母親がベッドに広がる血の中で沈んでいた。

 

 それは誰の血なのか。働いていなかった頭が僅かに動きだし、叫んでいた。

 

 白いシャツを、茶髪を、顔を血で濡らした母親に向けて。

 そして、ベッドの傍らで不気味に微笑んでいる、人の形をした、人とはとても思えないような赤い髪の、に向けて。





「渚。そこ、俺の机だって知ってるよな?」


 口にスプーンを咥え、今まさにアイスクリームの蓋を外そうとしている同居人に俺は抗議のつもりで視線を傾けた。

 帰宅早々、溜め息をついでに添えながら。


「知ってるけど、それが何? 欲しいなら冷蔵庫にまだ残ってるけど?」

「違う。机にちらかってる空き缶や菓子の袋のことだ。俺のいないときに一人でパーティーはやるなって言ったろ」

「アイスを食べたら片付けるつもりだったのよ。お腹を満たしてからサクッと一気にね」

「この机が何色だったか知ってるか?」


 安売りを狙って買ったモダンなテーブルは炭酸飲料の缶やペットボトル、菓子の袋、そして雑に積みあげられた漫画の山で滅茶苦茶だった。 


 反省の様子など微塵も感じさせない清々しい態度と顔で、アイスを食い始めた同居人に溜め息は二度目を迎える。

 『相川渚あいかわなぎさ』 ──欲望に従順なこの金髪娘は、訳あって母さんが残してくれたこの家に住み着いているたった一人の同居人。


 最近ファンになったらしいロックバンドのロゴが入ったライブTシャツとハーフパンツ姿の渚は、テーブルに合わせて買いつけた椅子に座り、アイスを堪能中。

 値段の張ったL字のソファーが目立つ居間は二人で過ごすには広すぎるくらい贅沢な空間だった。


 広さに心地よさを感じる一方、掃除がやや面倒に思えてしまうのは難点だ。折角のスペースをもて余してる、贅沢な悩みだよな。


「また新刊買ったのか。なんでも近頃は電子書籍が流行ってるらしいぞ」

「アタシは次の展開を考えながら自分の指で紙のページを捲るのが好きなのよ。つまり現物が欲しいの。ま、好みの問題ってやつね」

「そろそろ新しい本棚買うか。テーブルを本棚にされるまえに」


 食い散らかした袋や缶をゴミ袋に投げ、積まれていた漫画を排除すると、テーブルも元の姿を取り戻した。

 これが続いていくなら、いずれ教育的介入が必要になるが今日はよしとしよう。今回の宴は見逃してやる。

 

「んで、俺が留守してる間にいいニュースはあったか?」

「理緒がおもしろいネタくれた。ちょっと遠いんだけど、この森で変な生き物が出たんだって」

 

 スプーンを離さない右手とは逆手で、スマホが虚空に投げ出される。

 手に取ってみると、典型的な深い雑木林の画像が映っていた。俺はスマホを片付けたばかりのテーブルの上に置き、渚に話の続きを促すべく声をかける。


「変なのって?」

「理緒が探った話だと、頭はライオン、体は鳥、額に角が2本尖ってるそうよ。もちろん四足歩行。心当たりない?」


 頭はライオン、体は鳥、額に角が2本で四足歩行。

 残念ながら動物図鑑にそんな生き物は載ってない。だが、渚の口から並べられた継ぎ接ぎのような特徴には覚えがある。


「……アンズーか。空腹の熊が出るよりおっかない」

「夜に出会ったら同情するわ。一生魘されるでしょうね」

「昼間に出会っても魘されるよ。怪談のネタにはなるだろうがな」

 

 変な生き物。

 まさしくそのとおり。そいつは普通の生き物なんかじゃない。

 日常の中に隠れ潜み、普通から切り離されたものたち。怪異、モンスター、魔物──呼び方は様々だが、どう呼んでも愉快な響きはしない。


 さっき俺が口にしたアンズーも数多くいる化物の中の一種。

 頭はライオン、背には翼を携え、鋭い牙と爪、嗅覚を備えた鳥と獣のハイブリッド。ライオンに翼が生えて、空からも襲ってくるんだ、ゾッとする。


「この時期のアンズーは血の気が多い、食欲が旺盛になって、口にも入れられるものは見境なしよ。いつものより厄介な案件になりそうだけど、どうすんの月麦」

「渚、思い出してみろ。理緒が持ってくる案件に一度として厄介じゃなかったときがあったか?」

「……言えてる。いつだって配ってくれるのは一癖あるのばっか」


 と、空になったアイスのカップは渚の手から離れ、綺麗な弧を描きつつゴミ箱に投げ落とされた。


「さ、お腹も満たされたし、仕事仕事。アンズーが次の狩りに出る前に片付けるわよ。ほっといたら犠牲者はもちろん、下手な連中が動いても逆に首が転がる」


 椅子から立ち上がった渚は、碧眼を猫のように細めるや鏡台に置かれていたキーケースを取り、投げてきた。

 

「理緒が言ってた。人を誉めるのは苦手だけど、貴方たちは腕がいいって。期待に応えてやりましょう」

「ホント、あいつの言葉ってステルス爆撃機みたいだ。気がついたらやられてる。話に乗せられてる」

「ステルス爆撃機?」

「たとえだよ、たとえ。よし、ガレージ行くぞ。今日も車の中で無駄話しよう」


「途中でドーナツ買っていきましょう。空腹のまま襲われたくないし」

「おい、まだ食うのか」

「車はガソリンがないと走らない、アタシは空腹だと戦えない。そういう構造なの」

 

 空腹と戦っているのは何もアンズーだけではないらしい。

 最低限、いるべきものを詰めたリュックとキーケースを持って、俺と渚はいつものように玄関の扉を開け放つ。

 今まさに夕暮れに差し掛かろうとするオレンジ色になりかけの空から、鮮烈な日射しが照りつけた。綺麗な快晴ですこと。


「月麦、今回は帰ったら何食べる? アタシそろそろ焼き肉に行きたい」

「焼き肉ねぇ。食べ放題、二時間、二人で7000、ソフトクリームバー付き。これでモチベーションはアガるか?」


「120点あげる。無駄話しながらドライブと行きましょう。仕事仕事、今日も魔物から誰かを救ってあげるわ」


 柔らかく微笑み、頭上に広がるオレンジの空を思わせるような陽気さで、渚はガレージに駆けていく。

 相川渚──母さんを『殺したもの』を探し続けていた俺のもとに、ある日突然やってきた得体の知れない少女。



 ──貴方の母親を殺したものを知っている。



 今と同じ。オレンジ色の空の下、渚は第一声にそう言った。

 母さんを殺したものへ繋がる道、渚はそこへの道標。事実、渚は俺に教えてくれた。


 俺たちが思っている以上に、日常のすぐ近くには非日常の世界が広がっていることを。

 人の命、肉を食らう魔物たちの存在を。


「月麦、さっさと来なさい。来ないなら置いてくわよ?」

「おいおい、運転できないのにどうやって置いてくっていうんだよ。ハンドル持ってるだけじゃ車は動かないんだぞ」



 俺の名は、水城月麦みずしろつむぎ

 趣味はダーツと映画観賞。

 使う車はカマロRS。

 



 ──仕事は怪物退治。


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