フェルマイヤーに雨の降る

有澤いつき

友よ、それが君の願いなら

 既にアベルに言葉を発する力は残されていない。はっ、はっ、と苦しそうな呼吸を繰り返し、瞳には生理的なものか、涙の膜が張られている。


 アベルの身体の自由を奪った毒薬はどこまで回っているのだろう。少しずつ、それこそ身体を蝕んでいくという表現が最適で最悪な劇物は、特効薬も治療法も一切見つかっていない。アベルに毒薬を呑ませたクソ野郎は確かこう言っていた――「端的に言うならば永続的な痺れ薬。生命維持に必要な活動を停止させることで死に至らしめる」と。たとえば心臓が脈打たなくなるとか、息を吸うことができなくなるとか。そもそも「美しい死体を残す」ために編み出された邪悪なる劇薬は、それを追っていたアベルに厄災として降りかかったのだった。


『よろしい。ならば、君は今日から私の助手だ。名探偵であるこの私をしっかりとサポートしてくれたまえよ?』


 アベルは治安の悪いフェルマイヤーの街で唯一の探偵だ。掃きだめみたいなこの街は窃盗や暴力なんて日常で、むしろ犯罪を犯さなければ今日の飯すらありつけない、そんな劣悪な環境に放り出された身寄りのない人間たちの集まる場所だ。そんな街の一角にボロとはいえ屋根のある小屋を拠点にし、こともあろうに探偵稼業を始めたのがこのアベル・ジュスティンガーという男だった。


 名乗る姓があるということは、まっとうな生まれであることを意味する。出自のはっきりしている上流階級の人間であるはずの彼が、どうしてこんなクズ共の集まる街に根を張ろうとしたのか。

 俺を拾って「助手にする」なんて言うくらいだから、やっぱりどこかおかしかったんだろう。


『名前がない? それは困る』

『別に困らないぞ。名前なんて記号でしかないだろ』

『いや、名前というのはとても大切なのだよ。贈り物だからね』

『はあ?』

『親愛のあかしということさ』


 それからアベルは、俺に「ロルフ」という名前を贈った。その日から「俺」は「ロルフ」になったのだ。


 アベルが薬を盛られ、両脚が動かなくなった段階で俺はアベルを担いで奴らのアジトから命からがら逃げ出した。いくらアベルが線の細い紳士だとしても、そして俺が力仕事しか取り柄のない男だとしても、さすがに大人一人を抱えて追手を振り払うことは容易ではなかった。入り組んだ路地の多い街の雑多な構造をフル活用して、身を隠し攪乱し、それでも完全に撒くまでにかなりの時間を要した。その頃にはもうアベルの身体にはだいぶ毒が回っていて、手足を動かすことも叶わないようだった。


 死体がその辺に転がっていてもおかしくないのがこの街だ。雨に体温を奪われ、顔色も蒼白になっている。アベルはもうすぐ死ぬのだとわかった。


「……お、……ぅ」


 声帯もほとんど機能していないだろうに、それでも喉を震わせようとアベルが必死に息を漏らす。雨が打ち付ける路地の奥で俺はアベルを壁にもたれさせ、その音を聴き逃すまいと耳を寄せた。


「どうした、アベル」

「……ぅ、う。ぉ……う、ぅ」


 吐息にほんの少しだけ混ざる音はほとんどが掠れていて、また雨の叩く音が煩わしいのもあり、ほとんど聞き取ることができなかった。アベルは繰り返す。呻くようで、囁くようで、弱いようで、強いような声で。


「……ふ。お……う、ふ」

「――――‼」


 その意味を理解した瞬間、あんなにうるさかった雨の音が聴こえなくなった。


『親愛のあかしということさ』


「あ……べる」


 お前が息も絶え絶えな状態で贈ろうとしているものは。

 まともに言葉も発せないのに伝えようとしているものは。


「アベル。アベル、アベル、アベル……!」


 死ぬんだ。アベルは死ぬんだ。全身に毒が回って、身体の自由を失って、決して美しいとは言えない終わりを迎える。


 変に自信家だから「私がこの街に来たからにはもう安心だ。犯罪はなくなり、きっと住みよい街になる」なんて一介の探偵一人には到底できないような大言壮語を吐いて。じゃあ実際どうするのかと思ったら、最初にやったのは炊き出しだった。

 呆れて「それが探偵のやることかよ」と言ったら、アベルは大真面目にこう言った。


『探偵というのはね、人々の困りごとを解決する仕事なのだよ。であれば、今私がやっていることはまさに探偵のソレと言えるのではないかね』


 アベルはフェルマイヤーの人々の貧困を解消するために奔走した。炊き出しを行い、古着を供給し、住民を雇って賃金を払うこともあった。彼らが犯罪に手を染めなくても生きていくための手立てを得られるように、アベルは彼の手の届く限りを尽くしていた。当然、この街から彼が得られる収入なんてなかった。

 時には探偵小説に出てくる探偵らしく、フェルマイヤーの住民を受け子にした犯罪組織の幹部を突き出したりもした。今回もそのひとつだった。


 何が彼をそこまで突き動かしたのだろう。俺にもわからない。俺には他人にそこまでする理由はないし義理もない。貧困をなくすのだと得意げに話す彼のことを無理だと思いながら隣に立っていた。

 でもお前は本気だった。誰かに与えることを喜びとしているみたいだった。それはきっと、俺やフェルマイヤーの人間にはわからない価値観なのだろう。お前は俺たちとはまったく異質の人間で、よくわからない。でも、だからこそ、


 そんな「探偵」のお前が好きだった。


「アベルゥッ‼」


 名は、贈り物だとお前は言った。親愛のあかしだと。

 俺は何度もお前の名前を呼んだ。口の中がしょっぱかった。


 ◇ ◇ ◇


『お前さ、なんで俺を助手にしたいんだよ』


 何もよろしくなかったので、アベルにはすぐに理由を尋ねた。当時の俺は力しか取り柄がなかったから、相手を殴って金品を強奪することで日々を生きていた。フェルマイヤーに住む人間なんてほとんどが貧困に喘いでいるから、奪えるのも微々たるものではあったが。


『私の助手になることが不服かい?』

『意味がわかんねえって言ってんだ。お前を殴って金を奪った方がよっぽど楽だからな』

『なるほど。人材を採用するにあたっての理由を知りたい、ということだね』


 それも話が違うのだが、論理的な話し合いなんてものはてんで縁がなかったので付き合うだけ無駄だとは思っていた。


『私が君を助手にしたい理由はね、実は結構単純で』


『この街で一番最初に出会ったからだよ。きっとこれは運命だと思ったね』


 その答えで、俺はこいつについていくと決めた。


 ◇ ◇ ◇


 雨が降る。降り続けている。完全に動かなくなったアベルにも、縫い付けられたみたいに動けない俺にも平等に。

 どうか、もうしばらく降っていてほしい。すべての音をかき消すくらい、激しく、強く、叩くように。

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