第2話

ロビーに4人の不揃いな靴音が響く。大理石を基調にした広いロビーには、太い柱が4本どっしりと構えていて、水色の作業着を着た清掃員らしき老人と2人の受付嬢以外に人は見当たらなかった。やけに静かだ。古賀がカウンターに近づき、受付嬢に要件を伝えた。

「栗原金融の者です。会議室の場所を教えてください。」

すると、胸に早坂と書かれた名札をつけた受付嬢が進み出て言った。

「例の案件ですね。8階の会議室を使って頂きます。……会議に出席されるのは好田様と古賀様のお二方ということでよろしいですね。」

軽く頷く。

「では、ご案内いたしますので、こちらへ。」

カウンターを出た彼女に続き、4人はロビーの右側のエレベーターへと向かう。その時だった。好田は足を止め、玄関口方向、つまり向かって右へと目をやった。一瞬、そちらから鋭い視線を感じたような気がしたのだ。しかしそこには柱しかなく、ただ清掃員のモップをかけるカチャ、カチャという音だけが響いていた。今、柱の裏に誰か居たような?

「好田先輩、どうしたんですかー?先行っちゃいますよー?」

山川に呼ばれ、はっと我に返る。気づけば、彼らと10メートルほど離れていた。小走りで彼らに追いつくと、

「大丈夫ですか?急に立ち止まったりして。」

と、山川が顔を覗きこんできた。

しかし好田の目は彼ではなく榎田に向けられていた。明らかに様子がおかしい。目を見開き、表情は硬く強ばっている。不審に思ったが、古賀が目配せしてきたので、ひとまずは気にしないことにした。

ボタンを押すと、エレベーターの扉はすぐに開いた。古賀と榎田が先に乗り込み、奥に詰める。その後に山川と好田が続き、最後に早坂が乗り込んだ。しかし、彼女は扉の付近ではなく、何故か好田と古賀に挟まれるような形で好田の背後に移動してきた。そして、彼女は唐突に口を開いた。

「法人営業担当部門の皆様の話は聞いております。なんでも、そちらのお二方は最近配属された方だとか。」

彼女は榎田と山川の方に目を向けた。

言っている間に、扉がゆっくりと閉まり、エレベーターが上昇し始めた。彼女の言葉に、榎田は我関せずと言った顔だ。しかし山川は何故か頬を赤らめている。

「は、はい、実は上から転属命令が出まして。俺も前は受付をしていたんですよ。いやぁ、この仕事

嫌になりますよね。迷惑な客とかの相手もさせられますし。絶対にやっていることと給与のバランスがおかしいですって。そちらも同じような感じですか?」

えらく積極的だな。好田は呆れ顔を作って見せたが、それに気づく者は居なかった。

「はい。私も同じような状況です。でも、すっかり慣れましたよ。」

それを聞いて好田は微かに違和感を覚えた。

栗原金融は会社の特徴故に、融資を貰えなかったことに腹を立てる客や、生活的に困窮して、精神状態の不安定な客など、迷惑な行動を起こしかねないような者が比較的多い。そしてその大半は一般の客だ。外企業から訪れた客が問題を起こしたという話は聞いたことがない。星野流通はその名の通り流通会社だ。一般の来客が来ることは滅多にないし、現に今日のように、人が沢山集まるところではない。迷惑客が現れることなどあるのだろうか?しかし、考えているうちにただただ山川の話に合わせてくれただけのように思えてきた。なにせ、嘘をつく理由がない。古賀と屋上で話してから、少し疑心暗鬼になっているのかもしれない。

榎田が小さく1度咳をした。

階数表示を見ると、まだ3階だ。

話が途切れ、沈黙に包まれる。エレベーターの駆動音だけが狭い箱の中に響いていた。好田は、目の前の扉の何も無い一点を見つめながらRMの今後について考えを巡らせていた。

その時、好田の後ろで突然、ドン、という音と、人が倒れた振動がエレベーター内に響いた。

反射的に後ろを見る。

好田の目に、壁にもたれ掛かるようにして倒れている古賀の姿が飛び込んできた。

緊急停止のブザーがなり、エレベーターが5階で泊まる。あまりにも突然の事で、掠れた声しか出なかった。

「古賀……?」

ほかの3人もあっけに取られた顔をしている。

行動が早かったのは早坂だ。

「古賀様!?大丈夫ですか!?

急にどうして……とにかく、上の者を呼んできます!」

古賀はぴくりとも動かない。意識を失っているようだ。

「こ、古賀先輩!聞こえますか!?」

山川が駆け寄り、肩を乱暴に揺すっている。好田は混乱していたが、冷静に、と自分に言い聞かせ、古賀をエレベーターの外に運び出すことにした。

「おいお前ら、コイツを外に出すぞ。手伝え。」

榎田はさっきからずっと呆然としていたが、突然口を抑え、今にも吐き出しそうな顔をしてエレベーターの外に駆け出して行ってしまった。緊急事態だというのに、あいつは一体どうしたというのか。

「山川、聞いてたか?俺は頭と背を支えるから、お前は足の方を持て!」

山川から返事はない。まさか……。

「え、え、えあ……こが先ぱ…ひっ!」

彼はパニックを起こしてしまったようだ。好田は小さく舌打ちし、仕方なく古賀の足を引きずるようにして外に運び出した。山川はエレベーターの隅で縮こまっている。何とか古賀を運び、廊下に横たえると、2人分の忙しない足音が近づいてきた。

「ちょっと、早坂君!もう少しゆっくり走ってくれないか!」

「こちらです!」

早坂が帰ってきたようだ。後ろには上司らしき男性が着いてきていた。

「人事部の稲垣です。く、詳しくはわかりませんが、ひとまず古賀様は医務室に運ばせて頂きます。えぇと……他の者に担架を頼んでありますので、ご安心ください。因みに、なぜ倒れたか分かる方は?」

彼は俺と山川に訊いたようだが、答えられる状態なのは俺だけだ。首を横に振る。

「では、状況に応じて搬送も検討いたしますが、ひとまずこちらにお任せ下さい。好田様、商談は2時から──つまりですね、あと15分ほどで始まってしまいます。特殊な状況ですが、何しろ重要な決定事項があると聞いております。どうか欠席なさらぬよう。」

古賀のことが心配で仕方がなかったが、欠席してしまえば、会社にそのしわ寄せが来る。この時期にそのようなことが起こるのは絶対に避けなければいけない。それに、もし彼が同じ状況に立ったら、同じ選択をするはずだ。そう思ったが、古賀はまだ好田にも読めないところがある。彼なら倒れた仲間に付き添うことを優先するかもしれない。

そうこう考えているうちにも容赦なく時間は迫ってくる。稲垣が促すように言った。

「では、会議の方に。」

俺は視線で山川にエレベーターを出るように命じ、

幸いにも落ち着きを取り戻してきていた彼はそれに

気づいて従ってくれた。

古賀を稲垣に託して好田が中に乗り込むと、早坂が後ろから着いてきて、8階のボタンを押した。

「災難でしたね。古賀様の件は私から栗原金融様に通しておきますので、ご心配なく。それでは、今のうちに本日の会議で使用する資料をお渡ししておきます。」

扉が閉まり、エレベーターが上昇し始めると、早坂は何枚かの書類が挟まれたファイルを手渡してきた。

「どうも。それにしても、うちの者が迷惑をかけまして、申し訳ありません。良ければ、今度若いのに菓子折りでも持たせますので、早川さんから上にこの旨を伝えておいていただいてもよろしいでしょうか。」

「…………」

沈黙が走る。なにかまずいことでも言っただろうか。

早坂の顔を窺うと、怒りを抑えたような笑顔でこっちを見ていた。同時にチン、という軽快な音とともに扉が開いた。

「ええ、承りました。主任に伝えておきます。後日、空いている日をお伝えしますね。あと、ひとつ言わせてもらいますが、私の姓は早坂です。は・や・さ・か。二度と間違えないでください。」

はぁ、思わぬ地雷を踏み抜いてしまったようだ。

内心呆れながらも、決して顔には出さないように気をつけながら好田は外に出た。



長い廊下を進み、会議室の2枚扉を開けると、効きすぎた冷房の空気が我先にと吹き出してきた。

部屋の中には、中心に並んだ3つの長机の向こう側に男性が2人、座っているのが見えた。

机のこちら側には二脚の椅子が用意してあったが、片方は既に意味を失っている。

そして、向かって左側の所謂お誕生日席のようなところにも一脚あるが、空席のようだ。

「どうも、栗原金融の好田です。本日はどうぞよろしくお願いします。」

「こんにちは、渉外課の斉藤と、こちらは部下の嶋岡です。」

嶋岡と呼ばれた男が小さく一礼した。

「……会議に参加されるのは好田様と古賀様のお2人と聞いていますが……古賀様は?」

好田は斉藤の正面に座ると、事前に準備していた言葉で状況の説明を始めた。嶋岡は時折驚いたような顔を見せていたが、斉藤はあまり関心は無さそうだ。

「……そうですか。古賀様の無事を祈っていますよ。しかし……欠員のまま進めますか?それともまた後日に?」

「いいえ、こちらの私情で迷惑をかける訳にはいきませんから、このまま始めましょう。」

そう言うや否や、嶋岡が机の下に置いていた鞄から数枚の資料を取り出し、斉藤と自分の前に並べた。

好田もそれに倣う。

「承知しました。さて、本日の協議事項は弊社と栗原金融様との業務提携の企劃についてでしたね。」

「はい。流通会社であり、海外に太いパイプをいくつも持っている貴社ですが、社長が代替わりしてからはなかなかの不振で最近は経営が危ういところまで来ているとか。そこでこの話が持ち上がったわけです。」

嶋岡の表情が曇ったが、齊藤は真顔で答えた。

「ええ、必死に海外への進出を急いでいるそちらと経営が危ういこちらが業務提携と言う名の同盟を組めば双方に利がありますから、妥当な案だと思いますよ。問題は、互いに何をどのくらい提供できるのか、ということですけどね。そちらはカネ、こちらは海外進出のお手伝い。良い取引です。」

毒には毒で返してきたか。面白い。

「先に金額を聞いておきましょう。」

両者の鋭い視線が無機質な長机の上で交わる。

好田は齊藤の目を見ながら、右手で4つ指を立ててみせた。しばらくの沈黙。少し考え込むような素振りをした。彼は嶋岡と目配せすると、こちらに視線を戻して言った。

「事前の想定額よりも二回りほど多い…感謝します。」

嶋岡はよく分かっていなそうな顔だ。

「では、こちらからはいくつかの海外企業に貴社の紹介をしましょう。どうですか?」

「何社ほど?」

すかさず訊き返す。

「……さすがは敏腕部長ですね。そちらの恩に報いて、常識の範疇ならば、お選び頂いたところ全てに。」

好田は心の中でにやり、と笑みを浮かべた。

今日の商談も上手く行きそうだ。これで昇進に1歩近づけるだろう。

真剣な面持ちのまま、好田は感謝を述べる。

齊藤は好田の手元のファイルを見やると言った。

「では、2枚目の資料の中に弊社と馴染みがあり且つ貴社に興味を持ちそうな会社をリストアップしたものがありますので、そちらをご覧下さい。」

どうやら、こちらが充分な額を提示することは予見されていたようだ。我が社の持つ信用の賜物だろう。通常であればここで両社の要求が噛み合わず睨み合いと なるが、こうもとんとん拍子に話が進むと気持ちいいものだ。実はこちらから出す額は好田の独断で決定したのだが、ここにもひとつ工夫がある。出すことの出来る最低額から相手に提案しても、受け入れられることはそうそうない。そうなると、段々と要求される額が上がっていってしまう。

しかし、最初から少し多めに見積もった数字を出すことで、そういった場合よりも少額で済ませられることもある。このような交渉にはある程度の駆け引きをする力が必要なのだ。これは先代の部長、川崎から教わったことだ。

……彼のことを思い出すと、好田は少し憂鬱になる。

指定された資料のページをめくると、確かに数多くの企業が列記されている面があった。その中には、

主に臨川部の採掘で見事に鉱脈を掘り当て、徐々に大きくなりつつある掘鑿会社 River islands社や、谷地の開発で成功を収めているO.SHOHEI社、アフリカに所有している油田から乱暴に石油を取り出し続け、あと5年も経たないうちに資源が底を突くと噂されているSalim・OIL社まである。これはやめておこう。しかし、思っていたよりも星野流通の顔は広いようだ。

好田は小さなメモ帳を胸ポケットから取り出し、有力な候補を急ぎメモし始めた。早く商談を終えて、古賀の様子を見に行きたかったからだ。幸いにも相手の物分りがいいようなので、好田は安堵していた。すぐに話は終わるだろう。選出が終わり、メモをしたページを千切って机の上に滑らせるように齊藤の前に差し出した。確認する齊藤の横から、嶋岡も上半身を彼の方に寄せて目を大きくして覗き込んでいる。

しばらくすると齊藤が口を開いた。

「妥当な数です。了解しました。順次話を回しておきます。では、本日の商談は無事成立、ということでよろしいですね。」

気持ちのいい取引に、清々しい顔で好田は頷いた。その時だった。背後で扉が乱暴に開く音がして、驚いて後ろを見やると、そこには好田と同い年くらいであろう男性がむすっとした顔で立っていた。硬派な七三分けを好む好田に対して、この男はマッシュ?と言うやつだ。嶋岡が声を上げる。

「星野主任だぁ。なんでここに?」

男は苛立たしげに返答した。

「だから…もう主任じゃないよ。社長だよ。俺社長だから。お前は何回言ったらわかるんだよ……」

「すません…」

嶋岡は冷や汗をかきながら謝罪した。

こいつが社長か……?偉く若いな。

軽く会釈しながら、彼の特徴を観察してみる。耳にはピアス穴、ベルトは金ピカ、腕にはどでかい腕時計をしている。この様子だと、へそにも穴が空いていそうだ。「社長」は、部屋の中を見回すと、ずかずかと歩み出て、古賀が座る予定だった方とは違う、好田と斉藤の間にあった席に座った。

「さーて、無事に商談は進んでいるようだね。今はどんな状況なの?」

先程と打って変わって、笑顔で話し始めた男に対して、好田は少し恐怖を感じた。しかし、斉藤が彼に取引が成立した旨を伝えた途端、またむすっとした顔に戻ってしまった。

「つまり、もう終わっちゃったの?話し合いあ〜、じゃあそれ、ナシで。」

好田は耳を疑った。しかし、聞き間違いなどではないようだ。 彼は貴族のように足を組んで腰掛け、ナシナシ、と連呼している。

「ナシ、というのはつまり、破談ということですか。」

一応聞いてみる。

「そうだよ。悪いけど、僕社長だから。」

混乱している好田の向かい側で、斉藤と嶋岡も困惑の表情を浮かべていた。

「ですが社長、互いに納得のいく条件で合意したんですから、取り下げる意味は……」

斉藤の言葉を遮り、男は続ける。

「僕に逆らう気?」

それを聞くと、途端に彼は押し黙ってしまった。好田は気付かれないようにため息を吐くと、慎重に言葉を選んで、優しい声色を作って話し始めた。

「挨拶が遅れました。初めまして。栗原金融、RM部門を任されております、好田です。恐れながら、ナシ、とおっしゃいますが、この契約は既に口頭にて成立していますから、いくら社長という立場でも、独断で完全に無かったことにするのは無理ですよ。」

星野は少し考える素振りを見せると言った。

「そっか。うん、ちょっと荒い真似をしたのは謝るよ。こいつらも最近ウチの調子が悪いからちょっと急ぎすぎちゃってダメだね。その隙を狙ってうじゃうじゃと君たちみたいなのが寄ってきてホントに困るよ。」

やれやれ、と呆れたような顔をしながら時折こちらの顔を窺ってくる。一言返そうとした好田が口を開きかけたのを見て、星野は慌てて続けた。

「とにかく、我が社はちょっとだけ運が悪かっただけだから、すぐにこの不況は脱せるはずだよ。なにしろ、社長がこの俺だからね。父さんみたいな甘っちょろいやり方なんかはきっぱりやめて、オフィスも新しくしてやるんだ。今さえ乗り切れば業績はうなぎ登りだろうね。」

随分と自らの手腕に自信があるようだ。しかし、今までずっと安定していた星野流通の足元をこんなにすぐに掬えるなんて、逆に才能を感じる。調子が…とか、運が…と言い訳がましい台詞を繰り返しているが、こいつに代替わりしてからの星野流通の市場のグラフの角度を見てみれば、父親がかなりのやり手だったことと、折れ線のこれからの行く先は明らかだ。一企業が衰退の一途を辿ることに少し無念さを覚えた好田だが、すぐに頭に邪悪な考えが浮かんできた。

「こいつらを利用できないだろうか?」

まだ星野流通の現状を知る者は多くない。自分も実際に相対して初めて今の危うさを実感したのだ。これは好機だ。考えをまとめた好田は話を続けようとしたが、廊下から聞こえてきた慌ただしい足音に遮られてしまった。全員の視線が入口に集まると、豪快に扉が開かれ、真っ青な顔をした稲垣が飛び込んできた。

「社長!た、大変です!早かっ、早坂君が……!」

早坂?あの受付嬢のことか。あの女がどうかしたのだろうか。

「そこで倒れてて!血があんなに……!!」

4人にさっと緊張が走る。

「場所は!?」

咄嗟に好田が訊くと、震えながら稲垣は答えた。

「ひ、東階段の……6階…」

言い終えると、よほどショックを受けたのか、彼は

全身の力が抜けてしまったようで、その場に座り込んでしまった。すると、東階段の正確な位置がわからず送った視線に気がついたのか、後ろで唖然としていた齊藤が好田の隣を走り抜けて行ったので、好田が後に続くと、嶋岡も真剣な面持ちで後ろから着いてきた。星野は口と目を大きく開いたまま硬直している。会議室を出て、来た道とは反対方向に駆けていく齊藤の背を追いかけていると、野太い悲鳴が聞こえた。

「うわぁああ!!し、死んでる!?」

横幅の広い階段を1つ目の踊り場まで降りると、丁度壁に遮られて見えないもう1つ下の踊り場を凝視して腰を抜かしている男性が目に入った。

「安倍!離れてろ!」

齊藤が叫んだ。

安倍と呼ばれた男性の前、つまり7階まで走り降り、肩で息をする3人の眼下には、真っ白なタイルに赤と黒を混ぜた絵の具をぶちまけたかのような、惨然とした光景が広がっていた。ぬらぬらと蛍光灯の光を反射している血溜まりの中でうつ伏せに倒れている女性は、おそらく早坂なのであろうが、首と右手があらぬ方向にねじ曲がり、身につけている服も赤黒く染まっていて判別の難しい姿になっていた。見開かれた目は虚空を見つめ、恐怖の表情のまま固まっている。遺体を見ているうちに、好田はあることに気がついた。早坂の背には、無数の刺し傷があったのだ。それも、二つや三つではなく、十数箇所もの。彼女の女物のシャツはズタズタにされ、痛々しい傷が見え隠れしている。好田は凄まじい悪寒を感じ、目を逸らそうとした。だが、目の前の惨状に怯んだ体がそれを許さなかった。

「嘘、だろ……」

横で齊藤が掠れ声をあげる。すると、まるで金縛りにあったように体を強ばらせている2人の間をすり抜けて嶋岡が早坂 ゙だったもの ゙に近づいていった。制止しようとした好田の左手は、彼の肩に触れることはなく、途中で力を失い、だらんと垂れてしまった。嶋岡は躊躇なく血液の海に踏み込んでいき、彼の黒靴が赤く染まる。彼は傍にしゃがみこむと、まじまじと身体を眺めた後、真顔でこちらを振り返って言った。

「死んじゃってるよ、とっくにね。」

出血の量から見て既に希望がないことははっきりとわかっていたので衝撃は少なかったが、改めて「死んだ」と言われると、段々と目に映るものが現実味を帯びてきて、恐怖をより強固なものにした。

「じゃあ、呼びますね。……警察を。」

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ヴォルテックス @satuma103

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