ヴォルテックス
@satuma103
第1話
ゴトン、という音と共に缶コーヒーが自販機から顔を出した。無糖のキリマンジャロ。俺の最近のお気に入りだ。梅雨明けの蒸し暑い空気に包まれ、俺の職場「栗原金融」の看板を見上げる形で、冷えたカフェインを飲み干す。社長が親戚ということで、そのツテでのし上がってきた好田だが、彼はこの会社が気に入っていた。
1つ向こうの通りでは昼よりも明るくネオンライトが輝き、遠くから言い争う声が聞こえてくる。いつも通りの、東京の夜だ。
「今夜も残業ですか。精が出ますね、好田先輩。」
出入口の方から古賀が歩いてきた。どうやら彼は既に仕事を終え帰路に着こうとしているようだ。
「次の会議まで長くないからな。それに、実は上から昇進の話も頂いてるんだ。期待に応えないとな。」
「そうでしたか。ですが、体調を崩しては本末転倒ですよ。なにか手伝えることがあればお気軽にどうぞ。」
本当に心配しているのか怪しい表情で古賀は言う。
こいつが感情を顕にしている所を見たことがあるやつは職場には一人もいない。たぶん。それが良いことなのか悪いことなのか、俺には判断しかねるが。
「あぁ、助かる。だが俺だってまだ若いから大丈夫だ。じゃあ、気をつけてな。」
くるりと背を向けて夜闇に消えていく古賀を見送り、オフィスへと足を運ぶ。まだ片付けなければいけない仕事が山ほどあるのを思い出した。
今日の夜は長くなりそうだ。
「ちょっとあんた、何してるんですか!」
翌朝、出勤早々受付の方から山川の焦った声がきこえてきた。どうせまた迷惑な客でも現れたのだろう。朝っぱらから頭が痛くなる。無視してもいいのだが、手際よく解決して上にいい顔をするのも悪くないな、と思い、様子を見てみることにした。
「へぇー、なかなかキレイなとこじゃないですか。強いて言うなら、かわい子ちゃんが見当たらないところがタマにキズ…ですかねー。」
隣の受付にいる松沢が不快の極みのような顔をする。彼女は自分の顔に自信があるんだっけか。
どうやら、受付のカウンター内にいきなり男性客が侵入してきたようだ。
「あっ、好田部長、いいところに!助けてください!変な人が…って、うわ、そっちはダメ!警察呼びますよ!?」
山川は優秀な方だとは思うが、イレギュラーな事態への対応力は小学生並である。
待合席の方に目をやると、多くの客がこちらに注目している。迷惑そうな顔をしている者もいれば、この状況を楽しんでさえいるような者もいた。
ため息をつきながらも、精一杯の笑顔を作り、対応にあたる。
「お客様、こちらには職員のみ立ち入りできます。どうか待合席にお戻り下さい。」
「お、あんた何?お偉いさん?じゃ話が早いですね。実は俺……」
「好田先輩、何か問題でもありましたか。」
言いかけたところに古賀が入ってきた。
「ああ。『土佐』だ。」
小声で言うと、古賀は納得したような顔をした。
土佐とは、この栗原金融における、迷惑客の隠語のようなものだ。その場で対応出来る規模のものが当てはまる。もちろん強盗などの場合はほかの隠語を用意してある。ちなみに土佐の由来は会社創立後、最初にここで問題を起こした迷惑客からとった名前である。
調子を削がれて心外だ、という顔をしながらも、ニヤリと笑い、迷惑な「お客様」は続ける。
「実は俺、今日からここで働かされることになった新しい職員で、榎田と申します。」
横で山川が小さく悲鳴をあげたのが聴こえた。
急遽用意した小さな会議室に榎田を通し、詳しい事情を聞くことにした。
「つまり、社会勉強?ということか?」
「そうなりますね。ま、俺は働きたくないんですけど。」
「まさか理事長にこんな歳の孫がいたなんてな。しかし、自身が管轄する部署に配属しないとはどういうことだ?親ならば自ら子の面倒を見るのが筋だと思うが。」
そのとき、榎田の顔がほんの一瞬翳ったのを、好田の目は見逃さなかった。
「さぁ、何故でしょうね。まぁ、そう深く考えるほどのことでもないでしょう。」
「しかも、その肝心の配属先が未定とはどういうことだ?そもそも我が社は面接内で人材の長所・短所を見分け、適材適所を心掛けて人員を仕分けているはずだが。 その様子だと、どうせ面接はおろか職員との顔合わせすらしていないんだろう。そもそも、そんなことが許されるのか?いくら理事長の実の孫だとしても、通常では考えられないことだ。資格が必須の部門だって多いし、コネだけの人間にこなせる仕事は君が思っているよりずっと少ないぞ。それに加えて、一般的に銀行員になるためには大学卒が最低条件だが、君の学歴はどの程度なんだ?」
残業明けの回らない頭で慎重に言葉を選び、次々と湧き上がる疑問をぶつける。こんなことになるなら、もう少し早く仕事を終えるべきだった。そんな俺の苦悩も知らず、榎田は待ってました、という顔で答えた。
「慶應です。」
残業のせいで幻聴なんて、しっかりしろ、俺。こんなおちゃらけたやつが慶応なわけないだろう。
「聞こえませんでした?俺、慶応卒です」
どうやら俺の聴覚は正常なようだ。
あぁ、頭が痛い。この話が終わったらキリマンジャロでも買いに行こう。
俺から賛辞の言葉が出ないことを悟ると、残念そうな顔をして榎田は続けた。
「で、好田さん。あんた、所属がRM部門ってここに書いてありますけど、ほんとですか?」
そう言われて自分の首にかかっている社員証に目をやった……はずだが、そこに社員証はなく、汗で滲んだシャツに黒いネクタイがぶら下がっているのみだった。
榎田の方を見やると、社員証をさも当然かのように手に持っているではないか。
「お前、いつの間に?」
すると、彼は表情を変えずに言った。
「え、気づかなかったんですか?普通に首から取りましたけど。ちょっと、大丈夫ですか?」
やれやれ、こいつはここの職員としてというより、スリや詐欺の方が向いてるんじゃないか?
次の瞬間、榎田が耳を疑うようなことを口にした。
「RM部門ってなんかかっこいいし、俺、あんたのこと気に入りましたよ。俺、ここにします。」
蝉の鳴き声が耳のすぐ近くで聞こえるような気がする。あぁ、これ以上俺の心配事を増やさないでくれ……。軽く絶望を覚えながらも、笑顔を作って言った。
「そこまで言うのなら、面倒を見よう。だが、それだと俺にはデメリットしかない。そうだろう。ここは交換条件でどうだ。俺はお前に社会の現実を見せてやる。そこからお前がどうするかはどうでもいい。その代わり、お前の立場を活かして、俺の出世を確実なものにするために理事長に俺へ好印象を与えるような行動をしろ。」
このくらい傲慢で理不尽な条件を出せば、必ずこいつは引き下がる。そう思っていた。しかし、返ってきた答えは、好田の残り僅かな気力を削ぐために用意したような、あっけらかんとしたものだった。
「了解です!」
こうして、今年の夏が始まった。
はぁ。なんで俺が。
今日だけで1ヶ月分のため息を吐いているような気がする。ロビーを出て、自販機の方へ向かう。キリマンジャロタイムだ。硬貨を入れると、こちらに向かってくる背の高い人影に気がついた。
「かなり疲れた顔をしていますね。」
古賀は単調に言う。
「俺たちのオフィスに新顔だ。聞いて驚け、なんとそいつ、理事長の孫なんだぜ。仲良くしてやれよ。」
こんな特殊な状況でも、古賀は眉ひとつ動かさない。
「そうですか。複雑な事情がありそうですね。」
古賀は贅沢にも1000円札を挿入し……いちごミルクと書かれた不健康なピンク色の何かを購入した。
意外にかわいいところがあるものだ。
小さい1口で満足したのか、古賀はペットボトルをそばにあった塀の上に置くと言った。
「好田部長。さては何かあくどい事をしましたね。」
この職に就いていると、鋭いヤツが身の回りに多くて困る。まぁ、古賀になら話してもいいだろう。
「あぁ。大人なら、全ての機会に自身の利益を見出し、結果に繋げるべきだからな。少々汚い手口かもしれないが、俺側の負担も相当大きなものになると思われるし、古賀もそのくらい見逃してくれるんだろう?まぁ、榎田が俺の言いつけ通りに動くか怪しいが。しばらく昇進の話が近づいてこないようであればこちらからクビを切ればいい。RM部門…法人営業担当部門は常に専門性の高い雑務に追われるプロダクト部門やカリスマ性や対応力が問われる市場部門、素人には手が付けられない上に失敗した時のリスクが大きすぎる審査部門に比べて俺たちがリカバリーできる要素も多いから、一人素人が増えたくらいで部全体の回転が滞ることも考えづらいだろう。つまり、会社側からしてもこれが最善の選択なんだ。監査会が視察に来たりして、専門の知識がない者を起用していることがバレたらまずいことになりそうだが、流石にそんな稀有なことは起こらないだろうよ。」
古賀は遠くを見つめながら俺の話をじっくり聞いていたが、こちらに向き直り、珍しく険しい顔で言った。
「言い訳がましいですが、一理あります。しかし、その言い分はB改制を無視しています。当社では人材の養成に当たって、怠慢による成長の停滞などを避けるためにB改制を組んでいることはご存知ですね?自然に競争を生み出し、努力を怠らないことで、現に好田先輩のような立ち位置に上り詰めている人が殆どです。育てるからには、本気でやる。あなたがそのような人だということは、共に仕事をこなしている中でわかっています。残念ながら、今のRMには時間を持て余している社員なんて居ませんし、そこに割ける時間があるのなら会議の成功の可能性を少しでも高める努力をする時間にするべきです。つまり、私が言いたいのは…」
「つまり、もう1人起用するべきということだな。」
古賀が無言で頷く。
「そういうことなら、既に目星はついている。」
法人営業担当と書かれた小さな看板の下をくぐり部屋に入ると、新人2人が好田を待っていた。
「今日からお世話になります。」
事前に打ち合わせでもしていたのか、完璧にタイミングを合わせて頭を下げてきた。
「あ、あの、俺がRMに転属って、どういうことなんでしょうか。総務からの直々の司令ということはわかってるんですが、俺は一介の受付担当ですよ。期待通りの仕事ができるか、正直分かりません。」
おどおどしながら山川が訊いてくる。そう、俺が採用したのは受付係の山川だ。以前から目をつけていたのに加えて、彼の仕事ぶりは知っていたし、彼は受付係内で、よくパニックを起こし煙たがられていたようなのだ。特にあの松沢とかいう女性社員は、ハンサムで高収入な社員の前では口が裂けるくらいの笑顔を振りまいているが、山川を見ると途端にしかめっ面になる。この会社内で重要な役を担っていると自負している好田にとって、栗原金融を大きくしていく上で客と最も近い場所に堂々と不安分子が存在するのは以前から考えものであった。そこで、目の届く場所に置くことと、B改制の条件達成のためということ、二つの意味で、山川を連れてくることが最善だと考えたのだ。それを総務に話し、見事に思惑通りに転属させることに成功した。本人からしたら半ば強制的なものであっただろうし、理不尽な異動ではある。しかし、この社会では上層の意見が絶対なのだ。彼に拒否権は無い。それに、受付業務よりも我が部署の方が収益も高い。それを盾にして罪悪感など感じていないと言える訳では無いが、なかなか良い条件だと我ながら思う。現に山川も受付担当の同僚たちには辟易としていたようなので、それを理由に、自分が間違っていないと思うようにした。
不安そうな山川に対して、榎田はどこか楽しげだ。
「ま、あくまで社会勉強ですから、お手柔らかに。」
こいつは俺の人柄を理解していないな、と心の中でほくそ笑む。
「改めて自己紹介から行こうか。RM部長の好田だ。お前たちには、実際に戦力となるようにお互いを高めあい、法人営業担当部門としての素養をしっかりと身につけてもらう。俺は本気だ。もし途中で投げ出したくなったら、この仕事を放棄してもいい。だが榎田、お前は自ら志願してここに来た。それは俺の指導を受ける覚悟ができたと言うことを意味する。それに、お前には学がある。きっと大成するさ。ただの社会勉強と言えども、この社会はそんなに甘くない。連帯して仕事にかかれ。そして山川。突然の異動でまだ状況を把握できてないと思うが、お前は出来るヤツだ。すぐに慣れるさ。加えてここはお前がいた受付担当の接客業務よりも色々な意味で気が楽なはずだ。心配事があったら、なんでも言え。」
激励の言葉に、榎田は不貞腐れながらも首を縦に振る。隣では、山川も微笑みを浮かべてこちらを見ている。若干の疲労感を覚えたが、俺の性なのか、こいつらを絶対に立派にしてやる、という無駄なやる気がむくむくと湧いてくるのを感じた。
「随分と楽しそうですね。」
いいところに来た。
「おし、古賀、お前も自己紹介してくれ。」
それを聞くと古賀は、数秒間の沈黙の後、ゆっくりと自己紹介を始めた。
「RM、部長補佐の古賀です。勤め始めて今年で7年になります。以前はシステム部門で顧客管理をしていました。現在はこちらで当社の海外進出の増進、また既にある海外支社との連携を担当しながら、好田部長の補佐を任されています。妻と1人子供がいます。」
……最後の情報が必要だったかはわからないが、流石は新人にしてシステム部門への配属を勝ち取った優秀な部下である。完璧な自己紹介だ。
「よし、じゃあ、次は2人の番だ。」
しばらく榎田と山川はどちらが先に始めるか視線で小競り合いしていたが、山川が押しに負けたらしい。
「えっと…窓口業務をしていました、山川です。本当はもっと上を目指してたんですけど、やっぱり、皆さんは凄いですね、俺じゃ到底たどり着けないところにいらっしゃいます。自分の仕事に嫌悪感を抱いていた、とかではないんですけど、やはり皆さんの雰囲気というか、少し嫌気がさしていたのは事実です。こっちでは嫌われないように頑張るので、よろしくお願いします!」
小声で、妻はいますけど子供はいません、と追加したのは無視して、よろしくと頷き、榎田に顔を向ける。
「榎田。仕事の経験は無いけど、まぁ精一杯やります。」
えらく短いな、と思い、続きを目で催促する。すると、榎田は勘違いしたのか、顔を赤くして続けた。
「お、女なんていませんよ。大体、あいつらは俺じゃなくて家の財産が目当てなんだ。そうに決まってる。」
俺は必死に笑うのを堪えていたが、古賀は珍しく表情を曇らせていた。こうして、RMの門の内に、新しいチームが誕生した。
翌日、早速2人には協同して仕事に当たってもらうことにした。なにせ、2人の職員が増えたことによって、上層部はいつもより多くの書類を回してきたのだ。しかし、当然こいつらの実力ははまだひよっ子同然。急いで育てないとな、と好田は焦りを感じていた。
「じゃあまずは、俺が目を通した書類に判を押してその書類の分類別に仕分けしてからそっちの机に置いといてくれ。あと、付箋が貼ってあるやつと間に封筒が挟まってるやつは古賀の机にまとめて置いておいてくれ。判は一般向け用のと対外企業向けの2つあるから間違えないようにな。押す場所はひとつとは限らないし、押印が薄いと受理されないこともあるから、確実に押してくれ。ひとまず赤と黒のインクがあるのは気にしなくていい。古賀は外勤に行っているから、俺たちで終わらせるぞ。」
俺は難しいことを言ったような気は全くなかったが、2人は理解が追いつかないらしく、ただ唖然としている。古賀のようなやつと接しているとどうも感覚が鈍るな、と思いながら、詳しく説明してやった。最初こそあたふたしていた2人だったが、途中からは榎田が一般向け、山川が対外企業向けの判を手に書類の山を片付けていき、時折悲鳴をあげていたが昼休憩までに何とか午前のノルマを達成することができた。
「うおお、終わったー!!」
榎田が椅子を回転させながら伸びをする。隣では山川が魂を抜かれたような顔で机に突っ伏していた。
「お前ら、俺の見込んだ通り、やればできるな。少々押印が雑なのには目を瞑ってやろう。だがこの作業は正直いって専門的な知識がなくてもできることだ。これからは覚えることも沢山あるから覚悟しとけよ。んじゃ、昼飯にしていいぞ。」
気の抜けた返事を背に、好田は弁当を持って屋上へと続く階段へ向かう。大抵の職員は自身のオフィスか食堂で昼飯を食うが、好田はいつからか屋上で食事を済ませるのが定例となっていた。何しろ、ここは人もいないし(稀に見かけるが。)、時折吹く風がとても心地が良い。夏は少し暑さが厳しいが、冷房に冷やされた室内よりもこちらの方が好きだ。
屋上の頑丈な扉を開けると、そこには珍しく人の姿があった。近づいてみると、俺がここで昼飯を食うことを知っている数少ない部下の古賀であった。
「好田部長。どうも。」
欄干に寄りかかって外の景色を眺めていたようだ。彼のシャツが風にはためいている。今日は幾分か風が強いか。
手で返事をし、すぐ近くのベンチに腰を下ろす。
「ここにいるということは、俺に何か用か?古賀。」
一瞬、疾い風が二人の間を吹き抜けた。
古賀は遠くに視線を向けたまま。口を開いた。
「2人の様子はどうですか。」
なんだそんなことか、と思い、少し安堵した。
「今のところはいい働きぶりだな。いつまであのやる気が続くか見ものだ。まぁ、2人合わせてもまだお前には及ばないさ。」
古賀がおもむろに内ポケットから煙草を取り出し、
火をつけて言った。彼はメビウスを常に携帯している。
「榎田という男、どこかおかしいと思いませんか。」
どこか遠くから、ゴロゴロ、と、雷雲の訪れを告げる音が聴こえた。急に何を言い出すかと思えば。困惑しながらも、古賀に訊いてみる。
「例えば…どんなところがだ。」
煙を吐ききってから、古賀が続ける。
「突然理事長の愛孫が現れ、我らがRM部門に配属。これだけで十分非現実的です。加えて、彼は高学歴にも関わらず、今まで仕事を持たずに生きてきたことになります。いくらボンボンでもそれは無いんじゃないでしょうか。そして……好田部長は現栗原社長と血の繋がりがある唯一の社員です。当社は知名度こそ高くはないですが、戦後の財閥解体まではあの四大財閥と肩を並べ、しのぎを削っていた貝崎コンチェルンの残滓です。全国展開、ひいては海外進出もしてることですし、この界隈での影響力は小さくありません。もし、栗原社長が優秀なあなたを次期総務か何かに任命しようとしていたら…このタイミングで何か動きがあることは容易に想像できます。そして、私が一番に懸念しているのが、理事長が他企業側についている、つまり、榎田が水持氏の刺客ということです。」
その瞬間、好田は薄ら寒い感覚を覚えた。
理事長の裏切り?そんなことがあるはずがないだろう。この会社は彼の会社でもあるんだ。自身が理事を務める会社を破綻に追い込んでどうする?その場合、動機はなんだ?
「しかし、理事長が裏切るのは考えづらいんじゃなか。この会社は表向きは栗原社長がほぼ全ての業務の執行を許認可し、その責任を負っているが、実際は栗原社長と水持理事長が2人で操っているんだ。自ら築き上げたものを自らの手で崩そうなど、考える人がいるだろか?」
その疑問は古賀にとっては想定内のものらしく、用意していた答えを話し始めた。
「理事長は度々、雑誌等の取材でこう語っています。『私はある野心に突き動かされて生きているんだ。私の会社を大きくするためなら、なんだってする。例えそれが、何かを失うことになったとしてもだ。』と。水持氏は、我が社の理事長を務めると同時に、 岡田商事の幹部でもあります。もし彼が栗原金融ではなく、岡田商事に未来を見たのならば……」
古賀の話を聞いていると、本当にそのような気がしてくる。しかし、そうだとしたら俺はどうすればいい?確かに社長には気に入られている自覚はある。だが、だからといって俺を潰しに…?俺はそんなに偉くない。会社自体を動かす自信もない。それに、榎田は良い奴のように見える。俺は盲目なのだろうか。しかも、俺を潰したところでどうなる?彼は2つの会社を同時に大きくしようとは思わないのだろうか?古賀の言う通りなら、栗原金融を吸収して更に大きく成長する気なのだろうか?
「水持氏は、手塩にかけて育てた作物に抱く情など持ち合わせてはいないのでしょう。腹が減れば、躊躇うことなくその作物を口にするし、その作物が美しい花の養分を奪ってしまうのであれば、喜んで間引く。どれだけ大きく成長していたとしても、根を抜かれてしまえば私たちはたちまち枯れてしまいます。部長、どうかお気をつけて。」
そう言うと古賀は律儀にも持参した灰皿に煙草を押し付けると、階段の方へ去っていった。
好田の頭上には、いつの間にか太陽が隠れ、暗雲が立ち込め始めていた。また天気予報が外れそうだ。
午後になるとやはり積乱雲が空を覆い、大粒の雨が降ってきた。好田は不吉な予感を覚えていた。よりによって午後は4人揃っての外勤業務だ。古賀にはハードなスケジュールだが、彼は文句一つ言わない。本当は2人だけで事足りるのだが、新人たちを残していってもできることは少ないし、RMには他の社員だっている。だから、いつかやってくる本番のために、手本を見せてやるのだ。いつもなら古賀が社用車を運転するのだが、山川が名乗り出たので、彼に運転を任せた。古賀は性格に反してなかなか荒い運転をするので、滑らかに動く車に少し感動した。
「お前、なかなか上手いな。古賀なんて、そのうち事故るんじゃないかとヒヤヒヤするくらい酷いんだぞ。なんでも、そういう競技なんかにも手を出してるらしい。」
山川が照れくさそうに笑う。
すると、斜め右の後部座席から声が飛んできた。
「趣味でドリフトなんかを練習している程度ですよ。あと、事故を起こしたことはただの1度もありませんから風評被害はやめてくださいね。」
すると山川は驚いたのか、目を丸くしながら言った。
「ド、ドリフト?すごいです……実は俺、そういうのにすごく憧れているんです。小さい頃から興味があって……よくスキャナーなんかを持ってサーキットに行ってたりしました。今では完全に安全運転を心がける一般人になってしまいましたけどね。」
何やら専門的な言葉が二人の間で交わされているのをぼんやりと聞きながら、ふと、榎田の様子が気になったのでサイドミラーを見やる。すると、心ここにあらずといった様子でいつものおどけた様子からはかけ離れた険しい目で車窓に滴り落ちる雨粒を見つめている榎田が目に入った。なにか考えこんで
いるようだ。冷たい部分が彼の中に一瞬見えた気がして、好田は思わずサイドミラーから目を逸らす。
きっと、考えすぎだ。そう思うことにした。
しばらくすると、更に激しくなってきた雨足の中、今日の取引先、星野流通のビルが現れた。この会社は規模こそ栗原金融に劣るものの、貿易関係に留まらず、様々な事業に手を出している。好田はネクタイを締めなおし、できるだけスーツが濡れないように傘を流れるように差して車外に出た。簡単な取引だ。特に問題は起こらないだろう。入口に到着し、好田は重いガラス製の扉を開けた。
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