どこ吹く風

香久山 ゆみ

どこ吹く風

 ずっと自分のくせっ毛が嫌いだった。そして、それ以上に隣に住むあの子のことが。

 あたしの髪がいつもうねうね曲がりくねっているのは、ドライヤーをしないせいだ。

 ドライヤーって、苦手。コンセントを挿して、電源を入れた瞬間にパンッと火花を吹いたことがある。たぶん、狭小住宅の湿気た脱衣所で長年使用していたせいで、内部が錆びてショートしたのだと思う。けれど、以来ヤツに対する恐怖心は消えない。どうして他の家電は寿命が来ると動かなくなるだけなのに、ドライヤーときたら火花を散らすのか。ちゃんと耐用年数を管理して買い替えろって話かもしれないけど、貧乏暮らしのうちにそんな甲斐性あるわけないだろ。

 ドライヤーが苦手だから、小学生のあたしは夏場は扇風機で髪を乾かした。それでライオンみたいな頭になっては、隣の一軒家に住むユキちゃんに笑われた。

 シングルで夜職の母からネグレクトされぎみのあたしは、よくユキちゃん家にお邪魔した。ユキちゃんの髪はいつでもさらさらだ。風呂上りに十五分もかけて丁寧にドライヤーしているし、朝学校に出る前にもドライヤーを使ってヘアセットしているらしい。それだけの時間をドライヤーに費やすとは、狂気の沙汰だ。にも関わらず、まめに流行を押さえているし、成績もクラスで一番どころか全国模試でも上位だったらしいから、憎たらしい。小学生のくせに模試を受けるなんて生意気だと言うと、大人びた失笑を返されて、逆にあたしが顔を赤くすることになった。

 そんな辱めを受けながらも、いそいそユキちゃん家を訪れるのには訳がある。お風呂を借りた時には、いつもユキちゃんがあたしの髪を乾かしてくれるからだ。ユキちゃんはくせの強い髪に根気よくドライヤーを当ててくれた。ユキちゃんがドライヤーしてくれた翌日は、信じられないくらい髪は真っ直ぐになり、あたしは堂々と登校するのだった。

 相変わらずドライヤー恐怖症は治らないから、中学生になっても高校生になっても、あたしはユキちゃんにドライヤーしてもらった。あたしは髪を伸ばし、じきにユキちゃんの髪の長さを超えた。そのせいでドライヤーに要する時間はどんどん長くなった。だから、学生時代にユキちゃんに恋人ができなかったのは、多分にしてあたしのせいかもしれない。けど、あたしだって嫌がらせで伸ばしてる訳じゃない。長い方が、髪を結んだりまとめたりして、くせっ気でも何とかしやすいからだ。けれど、ユキちゃんは「いいよ、うち来なよ」と言っては甲斐がいしくあたしの髪の世話をした。だから、学生時代にあたしに恋人ができなかったのは、髪のせいではなくて、多分にユキちゃんのせいだ。ユキちゃんはあたしの伸ばした髪を慈しむように丁寧にメンテナンスしてくれる。そんだけ髪の毛を触るのが好きならユキちゃんも髪伸ばせばいいのに。そう言うと、大人びた苦笑を返す。あたしの髪が伸びるのと比例するように、髪を触るユキちゃんの手も大きくなった。中学生の頃には、もう「ユキちゃん」って感じじゃなくなって、「ユキノブ」と呼ぶようになった。

 その役割は、十年経っても二十年経っても変わらない。

 ユキノブは、今もあたしの隣にいる。もうドライヤーくらい平気な気がするけれど、相変わらずあたしの髪はユキノブに任せている。

 彼は本当は美容師になりたかった。けれど、父親が許さなかった。高校を卒業して現役で医学部に進んだ彼は、大学病院の勤務を経て、三十で父親の病院を継いだ。それで一安心かと思いきや、次は結婚だ、子供だと矢継早に言われて、ユキノブは笑っていた。「なら、あたしと結婚する?」と提案すると、心底驚いていた。「え、いいの?」と動揺する彼に、「あたしはずっとユキノブに髪を乾かしてもらえるし、ユキノブはずっとあたしの髪を好きにしてくれていいし。WIN‐WINじゃん」当然らしく言ってみせると、ユキノブは「そっか」と微笑した。見合い話を持ってこられたと笑いながら言っていた時の緊張が解けたことが、頭に触れる指先から伝わってきて、あたしはそっと安堵した。彼の父親からは多少反対されたものの、ユキノブとあたしは夫婦になった。

 結局子宝には恵まれなかったけれど、医者を志す姪が彼のあと病院を継ぐという話になってからは子供云々は言われなくなった。十年ひと昔とはよくいったもので、気付けば世の中の色んなことが静かに変わった。ユキノブは、姪が一人前になるとすぐに病院を譲った。彼女は同性のパートナーとともに経営し、最先端の技術により来年には二人の子を授かる予定らしい。

「きゃっ」

 電源を入れると、バチンと火花が散ってショートした。もう、なんであたしが使うとこうなるのか。仕方がないから、小型扇風機をユキノブの髪に当てる。ユキノブが苦笑する。

 彼が早々に引退したのは訳がある。病気のせいで体の自由が利かなくなってきたからだ。だから、今から心機一転美容師を目指すなんてできないし、仕方ないからずっとあたしの髪の世話だけを焼いてくれた。彼の指が動く間は。今はそれももうできなくて、あたしが彼の髪を乾かさねばならない。

「ねえ、聞いてもいい?」

 扇風機に向かって、あたしの声が振動している。

「もしも今の時代みたいに自由なら、ユキノブはあたしと結婚してた?」

 えー、とユキノブが笑う。現代なら彼も姪みたいに心のままにパートナーを選べたはずなのだ。彼の指先が遠いから、本心が読めない。「それは僕の台詞だよ」と笑っている。扇風機の微風があたしとユキノブの体温を混ぜる。

 十年前に温熱タオルが発売されたあとも、ユキノブはドライヤーであたしの髪を乾かし続けた。不器用で生きづらいあたしたちは、そうやって外野の声を吹き飛ばして懸命に自分達の居場所を守ろうとした。正解なんて知らない、ただ今を生きるために。あたしはユキノブを守りたかったし、ユキノブもあたしを守ってくれた。

「まあ、いっか」

「まあいいよ」

 あたしが言うと、ユキノブもそう言った。「ワレワレハウチュウジンデアル」、小学生の時に扇風機に向かった時みたいに声が震えていて、あたしたちは馬鹿みたいに笑い合った。

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