(ピンポン)ダッシュ千本ノック

折り鶴

 RUN&GUN

 

「おまえにしかできないことなんか、世界のどこを探したってありやしない」

 ありふれた台詞ではあるけれど、うまい台詞だな、と思った。真正面からこうもはっきり告げられると、どこか、傷ついたような気持ちにさせられる。

「だけどな」

 そう言って、目の前の男は微笑む。片頬だけをつりあげて。

「だからといってこれが、この仕事が、誰にでも務まるってわけじゃない。——おまえにだから、頼むんだ」

 なるほど、これも、うまいと思った。

 べつにこの言葉に心動かされたってわけじゃない。おまえなら、わたしなら、綿来穂波わたらいほなみならできる! ほんの少しの昔のことを思い出す。たった一年前のこと、そりゃ完全無欠というわけではないけれど、それでも、自分の可能性を無邪気に信じていたころのこと。誰かが、わたしのことを、信じてくれていたころのこと。

 向かい合う胡乱な男から放たれたこの台詞が、けっして信頼に由来するわけではないこと、それくらいは理解している。ただ、都合のいい馬鹿だと思われているだけなのだろう。

 だけど、いまのわたしは、なにもかもがどうでもよくなっていて、なんでもよかったのだ。

 てっとりばやくお金が——それも大金が得られるのであれば。

「やります」

 そう答えたのはわたしだ。だから、やるしかないのだ。



「いや穂波ぜったいやめといたほうがいいよふつうに犯罪だって」

「や、それはわかってるよ」

 ピンポンダッシュを千件やれば、報酬に三百万円あげる。

 バイト先で知り合った男からもちかけられた怪しすぎる話を、中学以来の友人であるたまきにしたところ、返された言葉がこれだった。ふつうに犯罪。だよな。やめといたほうがいい。そりゃそうっすよね。

 でも。

「三百万だよ?」

 ぐ、と環が言葉に詰まったのが目に見えてわかった。

 反論の、説得のための台詞なら、いくらでも浮かぶはずだ。三百万ってたしかに大金だけど、そんな怪しいっつかわけわかんないことして手に入れる額じゃなくない? 捕まったときのリスク考えなよ、危ないよ。まあ、こんなところか。

 だけど環には、わたしを説得することはできないだろう。

 将来のことも未来のことも考えられないくらいに、わたしはいま困っている。

 高校を卒業して就職した会社は三ヶ月で倒産した。

 まじかよ、と思いつつ就職活動しながらバイトをしたけど稼いでも稼いでもとはいってもたいした額ではないんだけどでもそれでも稼いだはずのお金はどんどん消えていく、なぜなら親が勝手に使うから。高校までは好きにさせてあげてたんだから、これくらい当然でしょう。母の台詞。俺がおまえくらいの歳にはもっと稼いでいた。父の台詞。そもそもなんで自分の口座に入れていたはずのお金が勝手に引き出されているのかといえばわたしの通帳の置き場所が甘かった(隠していたつもりではあった)のと、暗証番号を好きなバンドの結成日に設定していたらそれを母に見破られたせいである。こういうところ、母の勘は異常に鋭い。むっかつくなあのババア!

 違う口座をつくってそこにお金を貯めようにも、いままで育ててあげたでしょいくらかかったと思ってんのと面と向かって言われるとやっぱりわたしはお金を渡してしまう、じゃあさっさと家出れば? そう、そうしたいんだけど家を出るための資金がない! だから家を出られない、するとやっぱりお金が貯まらない! 負のループ!

 わたしのこの現状を、環は知っている。

 そして、わたしが同情や憐憫といったものを、なにより嫌っているということも知っている。だから、たとえば、お金を貸すとか、そういうこともできない。でも、それでいいのだと思う、対等な関係でいられなくなることは、とても、とても怖いことだし。

 ほんとは、この話を環にする気はまったくなかった。だけれど、居酒屋バイトの帰り道明け方午前五時、明るみだした空のもとを自転車で走っているとふと中学生のころよくだべってた公園が目についてなんとなくふらっと入ってそれでだーれもいない寂れた公園でブランコを漕いでるといつのまにか環が隣でおなじようにブランコ漕いでて、え、なんで? って訊いたら大学行こうと思ったら穂波がいるの見えたからって答えられてふーん大学ってこんな朝早くから行かなきゃいけないんだ大変だなーとか思って公園の時計見たらもう八時になっててどう考えても大変なのは三時間ブランコを漕ぎ続けていた自分のほうだってことに気づいて、そしたらいつのまにか、環にぜんぶ喋ってしまっていた。怪しい話。三百万円を得る方法。ピンポンダッシュ。魔がさしたってやつだ、疲れていて自制心が足りずについ話してしまった。正直、後悔してる。

 だって、こんな話されても困るじゃん。

 どうしようもないし。

 沈黙を破るように、環はブランコをぐっとつよく漕いだ。わたしより高く、空へちかいところへ、環の姿が浮かびあがる。空は青い。太陽は眩しい。そのまま、環はブランコから飛び降りた。かしゃん、と鎖の音が鳴る。

 そのまま去っていくのかと思いきや、環は立ち止まった。しゃがみこみ、地面に置いていたトートバッグを探り、それから再びわたしのところへと戻ってくる。

「これ、あげる」

「え? なにこれ」

「お守り」

 それは見ればわかる。

 地元の有名な神社のもので、紺地に刺繍で『交通安全』とあった。

「免許取ったから。記念に買ったんだけど、鞄に入れっぱなしだった。穂波にあげる」

「あ、おめでと……いや、じゃなくてじゃあ環が持ってなよ」

「ううん。穂波が持ってて」

 気をつけてね。

 声にはされなかった言葉を、彼女の瞳の揺らぎから、わたしは察する。ああ、そういうことか。じゃあ、もらっておこう。ありがとう。

「ばいばい」

「うん、じゃあね」

 できるだけ、おおきく手を振る。環の姿が見えなくなってから、わたしは立ち上がる。そして、歩き出す。



 報酬は千件すべてクリアで三百万円で、一件あたり三千円。一日の終わりに成功した分の報酬が支払われるらしい。

 つまりは一日で二十件で日給六万円、三十件やればなんと日給九万円!

 そして、対象となる家——というのかターゲットとなる家は指定されている。わたしが自由に選べるわけではない。

 ターゲットの情報は、スマホのメッセージアプリに送られてくる。このスマホは私物ではなく、支給されたものだ。なんとこれが最新機種、めっちゃ性能いい! とはいえ使う機能はこのメッセージアプリと地図アプリくらいではあるのだが。

 スマホの画面を確認し、目の前の立派な一軒家が、ターゲットであることを再確認。

 自転車をとめて立ち、インターホンを見据え息を詰める。

 ただ、インターホンを押して逃げる——それだけならさすがに楽すぎる。

 依頼主からはもうひとつ、頼まれていることがある。

 爆竹か、もしくは、かんしゃく玉と呼ばれる火薬を投げこんでこい。

 それから捕まらないように全力で逃げる。

 ここまでがわたしのミッションだ。

 ピンポンダッシュという言葉でごまかそうとしているが、余裕でなんらかの罪に問われる行為だし、もはや襲撃といってさしつかえない。

 ——なんで、わたしなんですか?

 依頼を持ちかけられたとき、まっさきにした質問だ。

 いくらわたしがお金に困った馬鹿な小娘だとしても、その馬鹿が捕まるなりすれば、依頼主のこの男にだってなにかしら不利益があるはずだ。

 ——あんまり迷うことがなさそうだから。

 依頼主の答えはそれだった。よくわからない。そして、続けられたあの言葉。おまえにしかできないことなんか、世界のどこを探したってありやしない。だけど、おまえにならできるし、頼める。

 掴みどころのない男だった。最初から、ずっとそうだった。男とはじめて会ったときのことを思い返す。わたしはフードデリバリーつまりは料理の配達員をしていて、男は、路地裏で闇に溶けてしまいそうな、ちいさな料理屋の店主だった。こういう店も宅配やるんだな、と意外に思ったことを憶えている。

 料理を箱に詰める手つきが、飄々とした雰囲気からは想像できないほど、こまやかで、うつくしかった。お腹空いてる? と訊かれ、頷くとおにぎりをくれた。最初から餌付けされていたのかもしれない。長くて、少し赤みのある髪を雑に後ろでまとめていて、それがよく似合っていた。そういえば、環も、髪を伸ばしてるって言ってたっけ。

 そこまでぼんやり考えて、急に、意識がいまに引き戻される。

 知らない家。

 インターホン。

 押して、逃げる。

 まだ躊躇っている、そんな自分に気がついて、思わず舌打ちしそうになる。

 男の声が蘇る。あんまり迷うことがなさそうだから。は? そんなわけないだろボケが! いつもいつも悩んでるし迷ってるどうしようもないことをずっと考えてる、なんでわたしはこんな馬鹿げたことしようとしてるんだろう、いつからさきが見えなくなっちゃったんだろう、追い詰められたような気持ちになってるんだろう?

 思考がそこまで行き着くと、すっと気持ちが落ち着いた。

 いったん怒りを、混乱を、意識して言葉に落としてしまえば、たいがいいつも冷静になることができる。だいじょうぶ、たいしたことじゃない。

 その勢いのまま、左の人差し指で、インターホンを押してやった。

 ぴんぽーん、と、どことなく間抜けな音が響く。

 いち、に、さんまで数えて、それから、右手にひそませていたかんしゃく玉を思いきり扉に向かって投げつける。この距離だったら外さない、ミドルシュートはわりと得意だ、昔から。

 予想していたよりは勢いのない、されど破裂音が響きわたり、ほぼ同時に家のなかからこちらに向かって駆けてくる足音が聞こえてくる。

 足音に追いつかれるまえに、わたしは隣にとめていた自転車に飛び乗って、そして振り返ることなく全力でペダルを漕ぐ。

「ふざけんなこのクソガキ!」

 背後から男の怒鳴り声がしたけど、追いかけてくる気配はない。そのままどんどん脚に力をこめて漕ぎ続ける。

 しばらく自転車を漕いだところで、スピードを落とす。ゆっくり息を吐くと、次に、込み上げてきたのは、意外なことに笑いだった。

 周囲に不審がられないように、下を向いて笑いを噛み殺す。

 先程の怒鳴り声がよみがえる。ふざけんなこのクソガキ、か。傑作だな! 笑ってしまう。そういえば、成人年齢って十八歳になったから、わたしってもうおとななんだっけ。おとなになったらできることがたくさん増えるって思ってたけど、ぜんぜん、そんなことはなくて、むしろ、不自由さを自覚するだけで、気がつけばいつのまにか、思考もからだも鈍ってゆく、そんな感じがする。

 視線を下げると、はき慣れた靴が目に入る。白地にブルーのラインの、バスケットシューズ。ほんとは屋内用だけど、はいてきた。この靴をはいているときが、わたしはいちばん速く走れるから。

 ハンドルから片手を離し、ポケットを探ると、環からもらったお守りの感触があった。

 ぜんぜん、なんにもたのしくないけれど、少し愉快な気持ちになってきたので、わたしはもういちど、下を向いて笑いを噛み殺す。



 慣れてしまえば、楽なものだった。

 二件、三件と続けて行い、初日であっさりと二十件達成。その次の日には二十五件、さらに翌日は三十件とこなすことができた。

 メッセージアプリに成功の旨を伝えると、数時間後には報酬が振り込まれる。

 この制度、もしわたしが嘘をついたらどうなるんだろう、とはもちろん考えた。考えたし、実際に、依頼主に尋ねてみたこともある。返事はシンプルに『おまえはそういうことしないだろ』。

 悔しいがそのとおりだ、わたしは、そういうことはしない。

 だんだんとわたしはこの依頼主の男に、親しみのようなものを覚えだしていた。名前は日比谷ひびやというらしいが、本名かどうかは知らない。

 襲撃を開始し五日ほど経ったころ、いまさらのように、ずっと疑問だったことを訊いてみた。なぜ、こんなことを大金叩いて依頼するのか?

 ——ささやかで、それでいてとびきり不愉快な、反撃をしてやりたくなったから。

 日比谷の答えは、相変わらず意味不明だった。そしてわたしは、その答えを、思いのほか気に入ってしまった。ささやかで、それでいてとびきり不愉快な反撃。日比谷はおそらく、脚が悪い。いつも片脚を引きずるように歩く。日比谷自身には、実行犯は難しいのだろう。

 もちろん、ターゲットに対する罪悪感はあった。でも、やがてそれも無くなった。これには明確なきっかけがあって、あるターゲットの家が、知り合いの家だったのだ。知り合い、というか、小学校のころの担任。盗撮がバレて、移動になった。わたしはこいつが死ぬほど嫌いだった。

 きっと、こういうやつは、世の中にたくさんあふれてるんだろう。

 私的制裁を肯定する気はない。自分の行動を正当化する気もまったくない。

 だけど、迷いはなくなった。

 ささやかで、それでいてとびきり不愉快な、反撃の狼煙を上げてやるのだ!



 はじめは家に帰っていたけれど、だんだんと、適当なカラオケやネカフェで寝泊まりするようになった。家に帰るのが面倒になったというのもあるし、単純に、ターゲットの家がだんだん自宅から遠くなったから、というのもある。

『経費ってことで、宿泊費も申請してくれたら払う』

 家に帰らなくなってから数日後、日比谷から来たメッセージだった。ありがたく、甘えることにした。かんしゃく玉や爆竹はじめ必要物資は、指定されたコインロッカーに届くようになった。

 たぶん、日比谷にはわたしの居場所が常にわかるようになっている。支給されたスマホのGPS機能を利用しているのだと思われる。不快感はなかった。仕事をはやめに切り上げて、映画を観に行ったことがあるが、なにも言われなかったし。

 私物のスマホは、捨ててはいないけど、ずっと電源を切っている。だから、親からの連絡はシャットアウト。環をはじめ、数少ない友だちとの連絡も同様に、だけれど。

 そして当たり前だが、ひとさまの家にピンポンダッシュかまして火薬を投げ込んでいるのだから、それなりに危ない目に遭うこともある。

 実はこの仕事、時間も指定されている。この家は十時から十二時のあいだもしくは十八時以降、といった具合に。ターゲットが家にいるであろう時間に行うよう依頼されているのだ。嫌がらせという名のお届けものを、きちんと受け取ってもらうために。

 だから、怒って追いかけてくるターゲットも、もちろんいる。

 三百件以上のミッションを無事にクリアし、わりと慣れてきたころのことだった。その日、わたしはルーティン通りにチャイムを鳴らし、爆竹に火をつけて敷地内に向かって投げ込んだ。このころになるとだいぶ度胸がついてきていて、火をつけなくてもいいかんしゃく玉だけでなく、爆竹も扱えるようになっていた。

 自転車に飛び乗った直後、背後から怒声が飛んでくる。ここまではお約束。このターゲットはしかし怒鳴るだけでは飽き足らず、自転車に飛び乗り追いかけてきた。

 しかもそいつはなかなか高価そうなマウテンバイクで、鍵を外すのに手間取ったのかはじめこそ距離は開いていたが、あっという間に詰めてくる。

 うお、まじでやばいかも。

 スリップに気をつけつ角を曲がる、置き土産にポケットに忍ばせていたかんしゃく玉を投げてやる。これで引くかな、と期待したけどむしろ火に油、罵声とともにそいつはいよいよ背後に迫ってくる。

 再度角を曲がったところで、大通りに突き当たる。

 すでに赤信号だったが思い切って滑り込む。

 車の運転手から怒鳴り声を浴びせられたがわたしは気にせず走り抜ける。ちらりと振り返ると、道路の向こうに、マウテンバイクに乗って立ち竦むターゲットの姿。突っ切る度胸はなかったらしい。口元に、堪えきれない笑みがこぼれる。

 しばらく走ると、長い長い下り坂にさしかかった。

 もう、怒鳴り声も、追いかけてくる気配もない。

 ペダルを漕がなくても、タイヤはまわる。

 わたしは、坂を下る。

 ふと思う。

 こうやって下り坂から見る眺めは、遠い街並みは、突き抜ける空は、どうしてこうも、どこまでも、どこまでもうつくしいのだろう。

 左右を流れてゆく景色。まるで、走馬灯みたいだ。母と父に手を引かれて歩く子ども。部活帰りなのだろう、大きなバッグを下げて笑い合う高校生。

 わたしにも、そんなときがあった。

 お母さんとお父さんと、三人で出かけたこともあったし、環とは、中学生のころからずっと、あんなふうに、一緒にはしゃいで帰っていた。バスケ部で、いちおうわたしはキャプテンで、慕ってくれる後輩もいた。

 いまはもう、だれもいない。

 坂道を下りきり、惰性でまわるタイヤも、そろそろ限界だった。

 わたしはペダルを漕ぐ。だいじょうぶ。はき慣れたバッシュと、ポケットに入れたお守りだけは、きっと、ずっと、わたしの味方でいてくれる。



 はじめたころは永遠に終わらないんじゃないのかと思っていたが、一日二十件ペースでやれば一ヶ月半かそこらでゴールが見えてくる。

 そしていま、わたしは、最終ターゲットの家の前にいる。

 ついにめでたく千件目!

 ずいぶんと立派な家で、でも庭に置かれた置き物なんかが絶妙にセンスない。駐車場には、わたしにはよくわからんが高級なのだろう車がとめてある。それと、いまいちこの家にそぐわないライトバン。

 これまでどおり、ドアモニターにできるだけ映らないよう気をつける。とはいっても、監視カメラとかある家もあっただろうし、意味はないのかもしれないが。でも、ターゲットたちは警察に通報はしないだろう、と思っている。こいつらが、どうも後ろめたいところのある人間だというのは、確実だった。

 そっと腕を伸ばし、インターホンを鳴らす。

 ぴんぽーん。

 いちで点火し、に、で構え、さんの合図で爆竹を投げ込む。

 景気のいい音が響くのを背中にわたしは自転車を漕ぐ。

 ぐおん、と重たい音が聞こえてきたのはすぐだった。

 え、と思って振り向くと、グレーのライトバンが、こちらに向かって走ってくる。

 見覚えのある車だった。

 さっきの駐車場に、とめてあったライトバンだ。

 やっぱりそう簡単にオールクリアとはいかないか!

 狭い路地が見えたので、とっさにそちらにハンドルを切る。これで撒けるか、と思ったが甘かった。

 ぎぎぎぎぎと強烈に不快な音を立てて、バンが路地に突っ込んでくる。しつけえな! 思い切り舌打ちをするけどそんなことをしている場合でもない。

 路地を抜けた瞬間に、自転車から飛び降りる。バンが急ブレーキをかけた瞬間を見計らい、わたしは再び路地裏に突っ込み、逆走する。さよならマイ自転車いままでどうもありがとな!

 哀れな自転車がバンと衝突する派手な音を背後にわたしはひたすら路地を駆ける。

 路地の出口に、若い男がいた。すみません、とかたちだけ謝ってすれ違おうとしたが、男はそれを許さない。

「ひとりだと思ったか?」

 あ、まずい、と思うももう遅い。首根っこを引っ掴まれて強制的に振り向かされた瞬間、顔面に熱と痛みが炸裂する。

 ぽたり、と鼻から流れる血の感触で、殴られたことを自覚する。鼻血なんていつぶりだろう。小学生のころ、ボールをうっかり顔面キャッチして出たことあったっけな、たしか。本格的にやばいな、と思う。思考が逃避をはじめている。

「噂でまわってんだよ、くだらねえいたずら仕掛けてくるガキがいるってな」

 ぐい、と前髪を引っ張られ顔を上げさせられる。

「火薬の受け取りを、コインロッカーでやってるってのも、知ってる。で、ここで訊きたいことがあるんだが——誰に頼まれておまえはこんな馬鹿げたことやってんだ?」

 日比谷の声が頭によぎる。——ささやかで、それでいてとびきり不愉快な、反撃をしてやりたいんだ。

「……言わない」

「あ? 聞こえねえな、なんつった?」

 わたしはポケットからスマホを取り出すと、それを踵で叩き割ってから怒鳴り返す。

「死んでも言わねえっつってんだろこのクズ野郎!」

 叩き割ったのは支給されたスマホだ。これがなければ、もう、日比谷に繋がる情報はなにもない、わたしが吐かない限りは。私物のスマホはとっくに捨てていた。

 瞬間、お腹に蹴りが飛んでくる。ぐ、と喉元まで胃液がせり上がる。せっかくなので男の顔に向かって吐いてやろうと思ったのだが、肩口を掴まれ地面に引き倒されたので、残念ながらそれは叶わなかった。せめてもの抵抗に、靴に向かって胃液を吐いてやると、即座に頭を靴で踏まれる。

「よその家に爆竹投げ込んどいてどっちがクズだよ舐めてんのか?」

 わたしもクズだがこいつも間違いなくクズだ。最後のターゲットとその周囲の人間がやったろくでもないことに関する情報は、日比谷から事前に聞いていた。ほんとうに、最低なやつらだった。

 ぜったいに泣きたくなかったのに、だんだん視界が滲んでくる。蹴られすぎて、どこが痛いのかもわからない。だけど、日比谷の名前を口にすることだけはしてやらない。

 これまじで死ぬかな、でもまあべつにいいかどうせ生きててもろくなことならないしだったらこうやってささやかな反撃をかましてそれで終わるなら、悪くないか。

 意識が飛びかけたところで、耳に、タイヤの滑る音が届く。あのバンが戻ってきたんだろうか。だとしたら詰みだな。ぼんやりと、そういえば、バッシュが体育館で鳴らす音もあんな音だな、と思う。連想ゲームのように、環の姿が脳裏に浮かぶ。誰かが、誰かの、名前を呼ぶ声がする。

「……!」

 一瞬、呼ばれた名前が誰の名前かわからなかった。穂波、あ、それわたしの名前か! 聞き慣れた懐かしい声が、もう一度わたしの名前を呼ぶ。わたしは、閉じてかかっていた瞼をあけて声のしたほうを見る。


 そこにいたのは、真っ赤な車に乗ってハンドルを握る環だった。


 環は窓を開けて片腕を伸ばし、スプレー缶を突き出すとわたしを蹴っていた男に向けて噴射した。男のくぐもった悲鳴。催涙スプレーのようだった。

 続けて混乱しているわたしの腕を引っ張って、無理やり助手席に座らせる。

「っしゃ、行くぜ!」

 そしてアクセルを踏むと、猛スピードで車を走らせる。

「環、なんでここにいんの?」

「渡してたお守り、あったでしょ!」

 大声で怒鳴らないと会話が成立しない、なぜなら車内は爆音で音楽がかけられているからだ。環の好きな映画の挿入歌。

「あれ、追跡機能ついてるから」

「はあ?」

「ほら私しょっちゅう物失くすじゃん、だから鍵にスマートタグつけてたんだよね。それ外してお守りにしのばさせてもらってた!」

 いや場所特定の方法怖すぎるだろ!

 そしてそれはなぜわたしの居場所がわかったのか、の答えにはなるが、環がなぜここにいるのか、の答えにはならない。

「いっかいやってみたかったんだよね!」

 わたしの思考を読んだように、環が続けて叫ぶ。

「仲間のピンチを助けてからの、カーチェイス!」

 スピーカーから、ギターの歪む音。

 ぐい、とすごい勢いで車が揺れる。方向転換、進路変更。視界の端に、さきほどのライトバンを捉える。怒り狂った顔でハンドルを握る女と、助手席で催涙スプレーの後遺症に苦しむ男の姿がちらりと見える。

 でも、環の、わたしたちの車のほうが速い。

 わたしたちには、追いつけない。

 ふと思いついて助手席から身を乗り出す。

 残っていた爆竹に火をつけて放り投げる。

 派手な音が弾けて、思わずわたしは笑う。

 隣で環も笑っている。

 そういえば。環に尋ねる。この車ってどうしたの? ああこれ? 穂波がやばそうなの見えたからそのへんで車盗もうとしたらさ、知らないお兄さんがこれ乗れって貸してくれたんだよね。なにそれどんなお兄さんだよ。んーなんか髪の長い不思議なお兄さん、俺より君のほうが運転うまそうだから助けてやってくれって。

 間違いなく日比谷のことだった。

 なんだそれ、と笑いと安堵がこみ上げる。顔は血と涙でぐちゃぐちゃで、笑うたびに、引き攣って痛い。それでもわたしは笑い続ける。

 これはひとときの、わずかな瞬間だけの勝利だ。

 いま逃げきれたところで、お金が手に入ったところで、それは所詮、急場をしのぐためだけのもので、相変わらずわたしの未来は不安なままだ。

 だけど、いまこの瞬間、たしかにわたしの隣には環がいて、笑っていて、それで、この赤い車の助手席で笑うことができるのは、世界でわたしにしかできないことなのだと思う。それだけで、これからも、なんとかやっていけるような、そんな気がする。

 わたしは顔を上げて、前を見据える。

 道は、長く遠く、どこまでも、どこまでも続いている。

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