ある黒猫との暮らし方
犬飼敬
ある黒猫との暮らし方
ペールイエローのリボン、きらめくシュガーはオーロラ、ぷっくりした小さく透明なハートを載せて、その形よく整えられた爪は今、都織の痩せた肩をなぞっている。手に馴染ませたオイルからはココナツかベルガモットのような鼻の奥に残る香りがする。都織は目を閉じたまま、やわらかい肌色の稜線を思い浮かべる。たっぷりと湿って質量を湛えた、どこまでも続くすべての物体のためのユートピア。
「カリカリ、こそこそ、くしくし、しょりしょり……」
痩せた少女の腿の上で、都織は夢想する。目を閉じている間与えられた暗闇は自由、可能性であって、間接照明が透かすまぶたの血管を何の形と取ろうがここでは咎められることはない。だから思い浮かべるのはどこまでも低反発に沈み込むテクスチャと、人肌よりわずかに高い温度。わずかにしみ出した膏に脚を取られていつまでも絶頂に辿り着けない。
情けない心の奥を見ず知らずの他人に預けている間、頬にわずかに当たるかたまりを都織は感じていた。ただの肉の塊というには少し芯があって転びやすいもの。しかし彼女はそれを手に取ることはなかった。持たないものより持つものがそれを使わずにいることのほうがずっと好ましい。
「しゅわしゅわ、ぎゅっ、ぎゅむっ、じゅわあっ……」
ルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビルビ。
……これは肉声ではなく機械音。都織は人形のように二つ折りに起き上がる。少女は都織を覆ってくれていた柔らかなタオルケットを取り上げて自らの足を隠し、ハスキーに「お時間です。延長のほうはいかがいたしますか?」と言った。都織は首を振る。手渡された少し汗臭いスウェットを頭から被り、ペンダントチェーンを服の下に隠して暗室を出た。すぐ行き当たる玄関に飾られた花は都織がこの間持ってきたものだ。花瓶がないから香水の瓶に突き刺されてどうにもバランスが悪いし、花粉がパラパラと瓶の下を汚している。全く構わなかった。この花を持ってきたとき喜んでくれた顔も、それがどこかぎこちなかったところも、花束のリボンをボトルネックに巻いてこうして飾ってくれるところも、彼女が機械でできた人格ではないことの証左になる。……否、そんなことは正直どうでもいい。気を使わないでいれば永遠に人と触れ合わずに過ごせてしまう都織にとって、人と触れ合うこと、それを試みたという事実が何より重要だった。
少女は正面から腕を回して、都織の首筋にある二つ並んだスロットにカセットを込め直した。『メディケイト』―メーカーズユニオン傘下の企業が開発運営する健康管理用のカセット―は少女も同じものを使っているはずだ。そして、もう一方のカセットにはきっと縁がない。渋滞マップはこの部屋から基本的に出ることのない彼女には関係のないものなのだから。強く抱きしめられると頭の付け根のあたり―ちょうどスロットの上部がビリリとしびれたような気がする。ジュンジュンジュンジュンと脳がまるっきり収縮する感覚。これで無事清算が終了した。便利な世の中になったものだ。少し前までは首からICカードをぶら下げて忘れないように気をつけなければならなかったのに。
「またのお越しをお待ちしております」
そう言って、部屋の外まで見送りに出てきてくれる。背にしたドアには「あかりの部屋」とかわいらしいネームプレート。枝のような手足が寒そうで、都織は足早に階段を下りた。二十四階から地上二階に滑り降りるころにはもう「あかりの部屋」がいったいどれなのかわからない。扉、扉、消火栓、階段、扉、扉、扉。まだ鼻腔に残っている気がする。ミルクのようにこっくりとしたあの部屋の空気。
SETと直球な区画名がつけられたこのアパートはどこも同じような目的で借りられている、そう知ったのは都織がまた学生だった時分だけれど、その頃抱いていたイメージと、三か月前扉を開く側になって直面したビジョンは大きくかけ離れたものだった。青くべたべたに塗られたアパートはそのそっけなさの反面、内側に贅沢をこっそりと溜め込んでいるんだと信じていた。いつだって映像記録の中で人々が体を明け渡すのは、十分豊かな生活をしている脂肪のついたふとももだ。実際そうではないのは、まあ、なんとなく想像がついていた。今度あの青いエリアに引っ越すんだと言った学友たちが、真珠を摘み本物のシルクを引きずっている様子なんて一度も見なかった。それでも都織は現実とイメージの接続を行ってこなかった―その必要に迫られなかったから。
三か月前に街頭でぶつかったあかりはあるいはそういう呼び込みだったのかもしれないけれど、率直に都織の好みだった。手を引かれてそれに応じた。都織は自分がお小遣い程度の労働しかしていないことすら忘れていた。ただ、ここに通い続けるのには好感以上の理由があって、初めて「あかり」に会った夕方のこと、彼女は受付のハグをしながらスロットをそっと撫でてくれたのだ。かつて恋人にもなじられた欠陥を、そうやって慰めてくれる人がいるとは思わなかった。ただそれだけだ。
都織がテクストファンドの下請けの外注のその下で映像メディアの発掘を仕事にしていたころ(当時は今の三倍は稼いでいたし、評価点はずっと高かった。もっともXは一般的に見てあまりに小さい)は、隙を見つけてはアマチュア・アニマルビデオ(AAV)を眺めて無聊としていた。とうに地上から姿を消し、現在では研究施設のほか、保存センターに数体が凍結保存されるのみとなった小鳥や象、蟹や甲虫、それらの資料としてはわかりやすい解説付きの精巧な3Dモデルをぐるぐる回すのが一番有益で、AAVはお話にも上がらない。だから好きだった。勝手に動物たちの気持ちを代弁したような字幕が付くと最高だ。内容のくだらなさに人間の不遜さが掛け合わさると妙にツボに入って、お気に入りのシリーズに過去作があったことがわかった日なんかは安いシャンパンを開けてはしゃいだくらいだった。
そのビデオの中でも特に好きだったのが、素人が素人向けに編集した瑕疵だらけの教育チャンネル。丸いフォントと間延びしたテンポ、ぎこちない合成音声が新しくもたらしてくれた情報はほとんどなかったが、一つだけ興味深いものがあった。ある種の鳥は初めて見た動体を親と思って懐く。その位置づけは何より優先される。そしてもし、再びその動機付けが行われることがあったならば、その記録方法は並行ではなく上書き。新しい親に従って、前の親への執着はきれいさっぱりなくなってしまう。
生まれつき開けるスロットが足りなかった都織にはこのシステムの意味が痛いほどわかる。重要度の高い情報ほど重たいのだ。感情と結びつけばなおのこと。だから一回のインプットで一つの情報を割り込ませるために、一つの情報を切り捨てる必要がある。躊躇してはいられない。我々が暮らしている世界はそういう仕組みでできている。
共用玄関を出て手をあげると植え込みからフロートボードが吸い寄せられたようにやってくる。元々アンティークとも呼べない中古品な上にべたべたステッカーを貼ってミイラ状態にしているから、よくこうやって脇に退けられている。段ボールという濡れて剥がれる旧世代の梱包材によく似た質感を気に入ってオークションで買った。都織の大切な愛機だ。三度蹴って飛び乗って、するとすぐに世界が流れる。途中、流行の典型みたいなメタルのラインを流した車とすれ違って、思わずドライバーの顔を覗き込みたいような衝動にかられ、気を逸らしているうち対向車線の車にぶつかった。ボンネットが柔らかく変形して細身の体を受け止めるが、それでも衝撃で髪がほどける。二度クラクションを鳴らされて終わりの世界。人間たちには好きに内臓を散らす自由もなくて、だからこれくらいのうっかりには目を瞑ってもらいたいと思う。
途中、花屋のワゴンとすれ違った。花屋という名前をやめた方がいいんじゃないかというくらい、彼らは流行に敏感だし何でも売っている。キラキラ透明で心臓型のイチゴのキャンディも、麻のエキスを配合した緑と黄色のグミも、この地区の整備が完了した四月八日を祝うフラッグも、もちろん本物の花も、そしてニセモノの花も。いますれ違ったワゴンはなんとバケツに青い銃を挿して売っていた。最近おもちゃ会社がリリースした、殺傷能力がないどころか人に向けて撃っても本当に何も起こらない銃。ただし銃口から花が咲く。黄色い花が噴き出すのだ。そんなもの、誰がなんのために開発したんだろうか? ジョーク以上の意味がどこにあるのだろうか。
都織の住むアパートの裏通りではめったに人とすれちがわない。そもそも両脇をフルオートマティックな工場で固められている物件に好んで住むヤツなんてろくなもんじゃない。政府に割りつけられてここに仕方なくいると言い訳をしてみたところで、気力と熱量があればさっさと活動を何か証明し、評価点を稼いでこんな区画をさっさと出ていく。都織だって例に漏れずろくなご身分ではないけれど、このAHBからFHBまでの区画の建物、そのすべての階、そこに四から六並んだ部屋各々に人間が棲んでいると考えると気が狂いそうになる。実感を持つことはとても怖いし、ここらの住人は人に会わないで済むタイミングとかやり方ってものをなんとなく体得している。だから息をひそめてようが後をついてくる誰かの影なんて簡単に気付けてしまう。ふっと加速してから急に止まれば慌てて相手が隠れるのが見えた。尖った耳。興味を引かれて高度を上げる。洗練された彫刻も透明で美しい水が湧きだす噴水も、整えられたトピアリーの一つもないから、俯瞰してみればその姿は丸見えだった。
黒い猫がそこには立っていた。氷の海みたいに透明な瞳は大層な出自を思わせたが、毛並みはぼさぼさと絡まって掃除機のフィルターの中のようだ。上を取らせたのが最後、その猫は逃げ場を失くして迫りくる都織を待ち受けることになった。ちかちかと瞬く表情は案外ふてぶてしい。
「気に入った!」
そう叫んだのと猫を腕の中に攫ったのとはどちらが先だったろうか。「わ、」と猫らしくもない驚き方をして、その黒猫は旧い形の都織に捕まえられることとなった。かすかに腕に爪が食い込む。いま流行しているシアーなブルゾンだったら切り裂かれてしまったかもしれないけれど、都織の服装はあいにく野暮なアッシュパープルのスウェットだった。抱き上げた猫の首元には汚れたチョーカー以外になにもなくて、本当に人じゃなく猫なのだと都織はじんわり実感した。腕の中に温かい重量があって、それはさっきまで与えられていた丁寧にラッピングされたものと違う。野性的でこちらを圧倒してくる質のものだ。両脇に手を突っ込まれてなにかに万歳しているような格好の猫を載せて、フロートボードはよろよろと飛ぶ。猫はずっと鼻を動かしていた。
アパートに戻り、急に連れ帰ったことが申し訳なかったように思って、都織は急ぎカセットを入れ替えた。特に料理人でもない一般人が、毎日の食事やそのレシピを上げているサイト、それを連関する網目のように整理するカセットだ。猫、普通、おやつ、かんたん、というようなキーワードを直感的に引っ張るとなんだかたいして人間と変わらないものを食べるのだと分かった。ただし臭いの強いものはダメ。玉ねぎを無理矢理食べさせている最底辺の人間たちの投稿まで一通り見たところで、結局人肌に温めたミルクに二つに割ったクッキーを添えて出してやった。ざらざらした舌を伸ばしてその猫はたまご不使用のヴィーガンクッキーをよくよくふやかして、音もさせずに食べた。
「そういえば、わたし、まだあなたの名前を知らない」
唐突につぶやいたのは問いかけではなかった。それでも猫はミルクのボウルを抱えたまま、「ルビ」と短く答えた。ルビのまつげは短いがふさふさと量が多い。まるでレースのふち飾りだ。
ルビは賢く自由で頭がよかった。都織がなにかにかかり切りな時は、少しにおいをかぐような仕草をして、すぐに我が物顔で調度を見分して回った。都織の話をよく解したし、最初から一匹だけで入浴ができた。もっとも湯舟には浸からないようだったが、カラスの行水スタイルの都織に比べればよっぽどきれい好きだった。それなのに自然乾燥一択でいつもぼさぼさとした印象でいるのはどうやら意図的なものらしい。みすぼらしい風貌すらあえて取っているおしゃれな猫だとわかってからはより親近感がわいた。都織の服の趣味だって一番街を歩くにはちょっとぎょっとされるセレクトで、文字通り他人の手あかがついたみたいなアイテムがいい。少し昔の作業員が着ていたようなのに自分なりのリメイクを加えるのが好きだった。下糸を引っかけたような縫い目とか、緑色のカビでほつれた場所を染めるのなんかは、「発明」の中でもとりわけお気に入りのアイディアだった。だからルビの毛がいくらまとわりつこうが構わず、むしろいい味にすら感じられたし、そもそも都織はあまり外に出られないのだから人目も気にならない。その点に関しては不満な様子のルビは、どうやら人のクローゼットをひっかきまわすというシチュエーションのほうを重視していたらしく、都織が気にしないのを知って「フン」と棚の上へ逃げていった。
最初の頃は夜中の部屋を支配した気で歩き回るルビのことが気になってよく眠れなかった都織も、徐々にその負担は和らいで、カウチの反発度のちょうどいい設定が頭に入ってからはすっかり眠れるようになった。
「都織はなぜ横を向いて眠るの」
ある晩ルビは冷たくも見える目でそう問うた。怖いからトイレに行けないのだと揺り起こされ、まだ冷える夜の空気についてくだらない話をしながら用を足して、それからなぜかしばらく、ルビはベッドルームに帰らなかった。その瞳は暗闇でも光る。透明よりも透明で湧き水のように潤っている。
「わたしは……っていうか一般的にそうだと思うけど、スロットが邪魔で、仰向けになって眠れないの。たとえカセットを全部抜いた状態だってなんだかごろごろするし、睡眠中の体調をこそ記録しておきたいからそれも現実的でないでしょ。二本しかスロットのないわたしがそうなんだから、みんなはもっと寝心地が悪いんじゃないかな」
「なんだ、そんな理由」
そう言ったルビはようやくきっかけを得たように裸足でペタペタとベッドルームに戻っていった。しばらくしてベッドがルビの体重を受け止める鈍い音がした。青いジェリーがどこまでもルビを抱き留める妄想をする。そういえばルビは海に行ったことがあるのだろうか。いつか行った保護区画の海はきれいだった。ひとが触れずにいるというただそれだけで、どこまでも澄んだ水が深く深くへ誘うようにそこにあった。
昔の恋人が置いていったウォーターベッドをルビに譲ってやってから、その鋭い爪と探求心でばりばりひっかいて、朝目覚めたら部屋が浸水していた……そんな最悪の状態を想像し、当初、都織はルビの爪を短く切ろうとした。基本的に素直で聞き分けのいい性格のルビは、知る限り初めて抵抗して、都織が学生時代から飾っている年代物のポスターを引き裂いたうえに、フラワーベースをひっくり返した。机の上に体を丸めて息を荒くしているルビの、その爪がつややかに黒く鋭くかためられているのを見て、ルビなりのこだわりはちっとも理解できない都織も、まあそういうものだと受け入れることにしたのだ。たとえ毎晩溺れる夢を見たとしても、だ。
都織から言わせてもらえばルビだって横を向いて膝を抱えて寝ている。仰向けに腹を出して眠ったりはしない。ルビに尻尾はないが、すべてを巻き込んで小さくなって眠る。そして都織が夜中に身を起こすと、壁一枚隔てて物音がする。目を閉じていても常に耳を立てて警戒しているのだ。猫とはそういういきものだとAAVで学んで知った。
あの頃猫のAAVをもっとたくさん見ていたら、何かが違ったろうか。どうにも他のビデオと比べて面白みが薄く感じられたのだ。
だってきちんと教えれば、猫は人間と同じ言葉をしゃべることができる。都織の好きなビデオは「あえて声を当てている」ような人間たちの柔らかくむき出しのエゴが感じられるような部類の作品だった。とはいえ、だいたい記録とか観察という行為に付きまとう動作主の作為というものは、それを見る誰かほかの人間にも返ってくる。そしてぞっとする。そういうときの地面がべたべたの糖蜜で濡れているような逃げられない気持ち悪さを、脳みそはどうして気持ちよさだと感じるのか、それは都織自身にもわからない。倒錯の作られ方は得てして体験が先だから、都織がとにかくアクセスブロックの隙を縫ってなんでもかんでも読んだり見たりする子供だったことにきっと関係があるのだろう。
そういえば、ルビのような猫が仰向けに眠らない理由は人間たちとは全く異なる。そもそも猫にはスロットが存在しないから、仰向けに寝転がったところで、人間のように首の後ろに違和を感じることはないはずだ。とはいえすべての人間がスロットにカセットを込めた状態を常に意識しながら生きているわけでもない。
今の人間たちは生まれたときから四つも六つもうなじに穴をあけて、金属を埋めてそれがふさがらないようにしているのだ。そんな手術が一般的になってからもう長い時間が経っていて、スロットに受けた刺激を、もともとの自分の体の一部のように感覚する、というデータを最近トロントの研究所が出してきた。多くの人間はそこに適宜心地よいムードや便利で役立つ機能を与えてくれるカセットをぶち込んで生きている。人生の折々にそれを入れ替えることはあるけれど、そのセレクトは慎重に行われる。少なくともルビはそういう風に認識しているだろう。
だから都織のスロットがたった二つしかないことにも、傍から見たらさぞ無為に見える一日の過ごし方―黄ばんだカセット収納ボックスを抱えてきてしゃがみ込んみ、そこから適当に一本つまみだし、自分のうなじに挿し込んで、しばらくすると外してその辺に放る、その繰り返し―にも驚いたようだった。カセットが補助するのは脳内の情報処理や仮想空間への接続だから、そのビジョンを共有していないルビには都織の脳内で何が起きているのかはまるでわかりようがない。ただ、それ以前の問題としてルビは、都織がなぜそんなことをしているのかが理解できずに表情が固まっていた。手の動きを目線が追って、律義に頭まで動かしていた。目の端でそのさまを認めていた都織は、その遊びをやめ、デイリーズのインスタントスープにお湯を注いで、ポニーテールに指を突っ込みながら、自分の行動を説明する羽目になった。
「カセットがこの世にいくつあるか知ってる? ルビ。わたしは知らない。でもそれだけあるんだから、試す人間も必要でしょ」
「いいえ、都織のカセットはたぶん―この表現が正しいかはわからないけれど―正規品ではないでしょ? パッケージもされていないし、旧い型のを無理矢理はめ込んでいるときもある。樹脂の色がまだらだったり金ぴかだったり、ラベルが剥がれかけのものもあるし、たまに、ちょっと痙攣してるときにルビがカセットをむりやりひっこぬいてあげたりもしてるよね」
「そうだった?」
「うん」
ルビはドライベリーをいくつか浮かべたぬるいミルクを飲みながら、都織の目を覗き込み、言葉を待った。都織はといえばオレンジ色に染めた髪をほどいたり結びなおしたりしながら時間を稼ごうとする。
「ルビはね」
「うん」
「都織のやっていることをジャッジする理由も権利も持たないよ」
都織はパシパシと瞬きをした。目の前の猫は耳を前に向けて自分の話を待っている。このように教育を受けているのだろうか。向き合った時、どうしても正直に口を開いてしまいたくなるように。あるいはこの瞳が理由なのだろうか。まだチキンの香りの湯気が立っているスープを飲み干してから、都織は結局そういう〝つくり〟に敗北した。
「スロットが二本しかないの。わたしの体はスロットを―それを固定するための金属を排除してしまうから、二本だけしか開けなかった。一本は『メディケイト』……健康管理用の、みんなが使ってるカセットをわたしも結局使っているからさ、一本しか選べないってわけ」
「だから入れ替えるのは仕方ない、ってこと?」
唇をすりあわせながら都織は答え方を考えているように見えた。向こうの通りでサイレンが高くなり、低くなりながら遠ざかっていく。
「もともと、だと思う。そして結果的に、だとも思う。もちろんこの制限はわたしに影響を与えたと思うけど、何でも試してみる性格とか、たまたまこういう、他の人にはぜんぜん価値を見出されないカセットたちを集めているようなやつらと早くに出会う機会があったこととか、今こうやってAHBの区画で暮らしていることとか、全部がわたしの行動の理由だし、私の行動がもたらしたものなの」
「このアパートで暮らしてるっていうのも関係があるの? ……でも他の部屋のみんなは一生懸命プログラムを組んだり針金を編んで花を咲かせたりしてた。都織はここらの中でも変な方だよ」
「それは、まあ実際そうだよ。でもルビ、わたしはここにいると変なんじゃなくて、どこにいても変なの。……ここはさ、政府が買い上げて安価で貸してるアパートでしょ。特に大きな事故に遭った人間たちがしっかり二本足で立って歩いて出ていけるようになるまでの間、ここで暮らせるの」
「そうなの?」
「そうなの。だから、そうやって保障されてる間、遊んでられるっていうのはあるんじゃないかな」
ルビはボウルの底まで舌を伸ばしながら、都織から目を離さずにいた。
「遊んでていいの? その、評価点とか」
「痛いとこを突くね……」
実際にどこか、例えば首筋なんかが痛むように顔をしかめて、都織もスープを飲み干した。
「でもまあ、わたしは遊びを仕事にしてるからね。こうやってどう見ても需要のないカセット―仮想のハンバーガーに好きなだけケチャップとマスタードを掛けられる、夢の体験を試してみるのも、どう巡って仕事に繋がるかわからないから」
「テスターってこと? もしくはデバッガー。でもそういうのってカセットを作る会社の人たちの中にもいるんじゃないの」
「うーん……自分で言うのはなんだか奇妙な感じがするけど、わたしのやってることはもっと性悪だな。だってルビの言うような職業の人たちは、見つけることが仕事でも、最終的にはそれをふさいだり回避したりする、って目的があるわけでしょ。そしてその職業倫理に則って働いている。わたしは……なんていうか、見るからに転びそうなところに、先回りして罠をしかけといて、引っかかりたくなかったらお金を頂戴っていうお仕事。秘密にしとくから私を生かしてて?って、口止め料を貰ってるんだ」
「でもそんなの、都織を殺しちゃったらいい」
ルビが発した言葉の強さに都織は目を見開いた。今更、目の前に行儀よく座っているのが猫だと思い出したように、少し浅くなった息を落ち着ける。
「でもわたしが死んじゃったらさ、競合他社の弱いところを永遠に知ることができなくなっちゃうし、逆に『ここは他と違う強みだから大きい会社に売りつけたら?』って提案も誰も持ってこなくなっちゃうからさ」
「なんで?」
「みんな保証もないカセットを頭に挿すのは怖いからだよ」
「都織は怖くないの」
「なんか……慣れちゃったし」
都織は二人分の食器をシンクにセットする。十五秒待つと汚れはきれいさっぱり落とされて、あたたかい空気がシンクの中に吹き始める。
「それに、ほら仕事のやりとりはNorでやるからね。誰かに漏れる危険性もないし、わたしが誰なのかも結局みんなわかってない。わたしのことを殺せる人はいない……はず」
「ルビはセロリは嫌いだよ」
「わたしもあんまりすきじゃない。Norを作った人はセロリが好きだったのかな」
そう言うと再び都織はうなじのカセットを抜いたり外したりし始めた。ちょうどスロットの上部がビリリとしびれたような気がする。ジュンジュンジュンジュンと脳がまるっきり収縮する感覚。ルビはそれを手伝う方法もないので、狭いアパートの部屋を見て回ったり、割り当てられたベッドで体を丸めて昼寝をしたりした。ルビも多くの猫と同様、お腹を見せて眠ることはない。それはいつだってすぐ体を起こせるように。すべての猫は教育されて、そのような生きものになったのだ。例外があるのかは、都織の知るところではない。
ルビがこの部屋にやってきたことによって、都織には新しくやることができた。カセットと日がな戯れて生きてきた都織はいつも息を切らしながら、それでも徐々に体力がついてきた。それもこれもすべて、猫というあまりに都合のいい人懐こさと、自立しているくせに目を離せない魔性を持った生きものと暮らす上で、どうしたって必要になってくるものだ。たとえ二十本カセットを挿すことができる人間だったとしても猫と暮らすことは難しいんじゃないか。都織はそう思いながらルビと手をつないで踊った。手の甲にはいくつものひっかき傷ができたが、ルビが寝た後にハンドクリームを塗る時間も無駄には感じなかった。
生まれた場所も、過ごしてきたやり方も、おいしいと思うものも何もかも違う相手と過ごすことは、それだけで暮らしの情報量を増やす。猫であるルビはスロットがないから映像や音楽の同時視聴ができなくて、都織がしまい込んできた安いプロジェクターで一緒に古い映画を見た。明るいブラウンの巻き髪にグリーンアイの少年と、ボブまで伸ばしたブルネットの青年のラブロマンス。銀色の肌の宇宙人と指先から草木の生えた少女の冒険譚。狂った男が妻子を殺し、最終的に自分の頭に銃口を突き付ける映画は途中で見るのをやめた。ちなみに、必要十分にお金をかけて作られた、南極で暮らす生きものたちの映像は、当たり前に人間語のセリフがなんてひとつも挟まらず、心地よいナレーションと壮大な音楽がセラピー体験になって、ルビが途中で肩にもたれかかってくるのを感じた。
その昔ジャンクカセットヤードでおまけにもらった、というよりは押し付けられた人生すごろくをふたりで囲み、マスを進めながら、都織はここ最近の生活を振り返る。
「なに?」
「なにが?」
「難しい顔。眉間にしわが寄って、犬みたい」
「犬見たことあるの?」
「この間都織と見た映画に出てきた。しわくちゃのシーツみたいな肌色の犬」
「……そんな顔、してた?」
ルビはとうに富豪ルートに突入し、都織の遥か先を進んでいく。「してたよー」と言いながらブルーのコマをもてあそぶ爪は褐色に硬く光っている。それを見ていて思い出したのは、今も青いアパートの一室できっと誰かの耳元に唇を寄せているあかりのことだった。あの区画でも、誰かに評価点をつけられることがあるのだろうか。
「犬を飼っていた人っていうのは、統計的に評価点が高かったらしいよ」
「真面目で静かで感じがよい、っていうこと?」
「たぶんね。もしかしたら今も、わたしたちの知らない遥か高い評価点を持ってる人たちは、犬を飼っているのかもしれない」
「猫と暮らし始めてきっと都織は評価点が下がったね。夜中にステップを踏んだりスピーカーから大音量で音楽を流したり。これ以上いいおうちに住めないかも」
なんでもなさげに言うルビの厚いまつ毛がほほに影を作っている。手持ちから五億円を銀行に払ったルビに、都織はつま先立ちで歩くような気持ちで「大丈夫だよ」と言った。
「みんなきっと評価点なんてつけることに飽き飽きしてる。わたしテキトーにいつも真ん中を選んでるし」
「そうなんだ」
ルビはルーレットを回し、ゴールを越えて四マス折り返す。ちょうど都織と同じマスにコマを並べて立ち上がった。ルビに尻尾はないけれど、もしも長くつやのある尻尾が生えていたなら、きっとそれはご機嫌に揺れていただろう。
「ルビは都織のことが好きだよ」
都織は自分のイエローのコマをルビのコマとくっつくように隣に並べてから、「そうだね」とうなずいた。きっとわたしたちの前では、他人の評価などいとも簡単に剥がれ落ちる。それを言葉にしないまま、カセットをそこらに放り捨て、代わりに新しいのを一つ選んで挿し込んだ。ちょうどスロットの上部がビリリとしびれたような気がする。ジュンジュンジュンジュンと脳がまるっきり収縮する感覚。
「ルビ、ご飯取りに行くよ」
「外で食べるの?」
「デリで頼んだの」
「また餃子? ……ルビは餃子は食べられないってば」
「ちゃんとルビのは用意するけど―もうとっくにきていい時間なのにおかしいから、どうなってるかチェックしないと」
不満げに腕を組んだルビは「都織はせっかちだ」と空を蹴った。
「だってせっかくの餃子が冷めるのは嫌だし」
緑色のジャンパーはルビには少し大きくて、指先まですっぽり隠れてしまう。何度もたくし上げて腕を出そうとするが、するすると袖が落ちて来る。そんなさまを見ながら都織はローファーのかかとを直した。首元から滑り出たペンダントをスウェットの下に仕舞って、ふたりはあたたかい部屋を出る。
ルビは十三階からの階段を滑るように下りていった。都織は息を切らしながらその背中が見えるようにどうにかついていく。こうしてみると猫というのは実に官能的な生きものだ。なめらかですばやく曲線的な動き、それにあるがままにうつくしい。生活に余裕がある人間が保護猫を迎えようとするのもわかる。ひとりで生きていくことに慣れない時、このあたたかさと柔軟さがすぐ横で息をしていたならばどんなにか心が楽になるだろうか。
「でも外に出ても意味があるの? 誰が持ってくるのかわかるの?」
ルビが振り返ると強く風が吹き、ジャンパーが大きく膨らんだ。都織は首筋にはめたカセットのざらつきを確認しながら「まあね」とうなずく。ついさっき入れ替えたばかりのこのカセットは、スマイルデリの配達員がいまどこにいるのかをマップに重ねて表示するものだ。配達員の顔写真と登録ナンバー・暗証マークも合わせて表示される、おそらく社内で使われるような代物を、どこから持ってきたのかは知らないが、都織はそれほど高くない値段で買った。もともと出前を使う方でもなかったから、ラベルのスマイルマークを面白がってカートに入れたのだ。今こうして挿し込んでいるのも半分は試遊のような気持ちだった。キツネのマークは三番の印だと決めたのは果たして誰なのだろうか。そのセンスはどこから来ているのかわからないけれど、手でキツネを作ってみたときの感応とはちょうどしっくりくる。都織が中指・薬指・親指を合わせたキツネを二匹作ってパクパクと会話させていたら、ルビは振り返って不思議そうな顔をした。
「……キツネ」
「それは見たらわかるよ」
「配達員がAHB-3だったの」
「そうなんだ。だからキツネ?」
「うん。暗証マークもキツネだったし」
「ルビには暗証マークは見えないよ」
「そっか。スロットビジョンが見えないもんね」
ふん、と鼻を鳴らしてかかとを鳴らしながら階段を下りていくルビのショートヘアは、風に吹かれて時々うなじがあらわになる。そこにはグロテスクなスロットなんて開けられていない、肌色の地平だ。たった二つしかスロットの開いていない都織は、ルビと十分近い立場のように思っていたけれど、共有ビジョンで同じ映像を見ることもできないし、通信チャット用のビジョンを二人で使うこともできないのだ。
スロット本体が持つ基本的な機能であるコミュニケーションツール・パスチャットはそのデザインの平凡さから既に流行が過ぎ去っていて、家族のような内々の集まりだったり、公的なサービスの説明を受けるときだったりする。ただ、あるのとないのとでは大きく違う。そもそも現在流行のソーシャル・チャッティング・サービスだってスロットビジョンを拡張して作ったものだし、自分が見たものどころか思い浮かべたものを共有できるというのは現在の社会において大前提になっている。
だからこそ、ふたりで映画を見るために古いプロジェクタを引っ張り出してくるとき都織はなんだか素敵な手間をかけているような気がしていたのだ
わざわざ同じものを見るために面倒を惜しまないというのは気持ちのいいことだ。仕事もしないでのんびり暮らしている評価点の高い人間たちはどうやって長すぎる人生を正気で過ごしているのだろうと考えたりしたことがあったが、案外こうしてひとつひとつ自分で工夫してアンティークなやり方にこだわることでその暇を埋めているのかもしれない。
二階のあたりからその声はかすかに聞こえていたが、裏通りまで出ると誰かが喧嘩しているのが見えた。ルビは咄嗟に都織の後ろに隠れる。丸々と水でむくんだ短髪の女性は、青みピンクのチラシの束を抱え、ぶつかっただの邪魔しただの喚いている。「わたしたちから……奪わないで」とかなんとか、詰め寄られている男の黒いジャンパーはスマイルデリの支給品だし、実際顔に見覚えがあった。
「止める?」
「間に入ったら……たぶん、もっと面倒なことになる」
「違いないね」
それに誰かが言い争いを仲裁するまでもなく、こんな街では一定以上騒音が続けばちゃんと責任者がやってくる。優秀なAIは人間や猫よりずっと上手いこと口論を丸く収めてくれることだろう。特にAHBからFHBまでの福祉区域の責任者は感度が高く設定されている。つまり公的に都織たちは問題児たちだと認められているのだ。
二人から少し離れたところに駐車しているサイクロ・リクシャーはディスクまでマットブラックに塗り上げられている。荷台のトランクに描かれたスマイリーマークで誰もがそのリクシャーが誰のものかわかる―スマイルデリの専用車だ。
都織はトランクの前に立ち、いとも簡単に暗証を突破してみせた。まだあたたかさの残る餃子をピックアップしながら、顔をしかめる。中身が寄っていたからでも皮のパリパリが失われていたからでもなかった。
「どうしたの」
逡巡した末、都織はルビに正直に言った。「嫌なものを見た」
「嫌なものって?」
「ここをハックして、その上で配達完了処理を行うとき、どうしても配達員のステータスが見えてしまう。こういう旧いカセットは何もかもつまびらかにしてわたしたちに全部見せようとして来るって知っていた。スマイルデリがこれまでのお仕事を全部評価して、誇らしげに掲げようって体制なのもわかっていた。わかっていたんだけど、この子が名前の横にばらばら並べていたバッジが……」
向こうのほうで喧嘩が仲裁され、バラバラの方向に二人が歩き始めたのを見て、ルビと都織も遮蔽物のない通りを身をかがめながら歩き始めた。せっかちな都織は竹素材でできたパックを開けて、たれもかけずに餃子をつまみだしている。やわらかい餃子の腹から肉が覗いている。
「都織」
「……お腹が空いてるの。だからイライラしたのかなと思ったの。……配達員のキツネマークの横に並んでいたバッジには『TXT-1』って書いてあった。ちなみに金色のバッジだった。ルビはこの意味を知ってる?」
「『TXT』ってことは……テクストファンドに関係があるのかな。あの区画に出入りしていたってこと?」
都織は餃子のかいた汗に汚れていないほうの右手でルビの頭をやわらかく撫でた。
「くさい、汚い、嬉しくない!」
「ごめん」
ルビはかき乱された頭を手櫛でささっと整える。それでも生来のくせっ毛は跳ねて、すとんと下に落ちてはくれない。
「テクストファンドのあるエリア―特に『TXT-1』に出入りできていたなんて、身元がはっきりした人間だってことでしょ。信用度……多分評価点が高かったんだ。TKYからもきっと出たことがないし。だから、なんとなく、不機嫌な気持ちになった。それだけだよ」
すこしだけ先を行く都織のブルーのシャツの背中には黄色い逆三角形のロゴが印刷してあって、その柄をルビは複雑な気持ちで眺めた。
テクストファンドといえば押しも押されぬ大企業だ。ただし、単なる企業というにはいささか広すぎて、大きすぎる。
「ルビはどれくらいテクストファンドのことを知ってる?」
「本当にちょっと。たくさん情報を持ってるってことと、白くて丸い監視カメラと、なんだか頭がいい人がたくさんいるっていうこと。それだけ」
都織は「まあ結局それだけの団体にすぎないよ。わたしの知識が足りないだけなのかもしれないけど」と言いながら、新しい餃子をつまんだ。
テクストファンドは世界で一番と言っていい大きなデータを蓄積している分、オフホワイトとか薄いグレー、あるいはとにかくカラフルに―パブリックなイメージを世間に刷り込んでいる。「そのデータは本当に合意のもとに取得されているのか?」とか、「データを関連付けるようなAIを開発したのは誰で、相応の使用量が払われているのか?」とか、一般人がパッと思いつくような疑問について答える代わりに、本社の一階にぷりっと誇張された男女カップルの大きなフィギュアを設置するような会社だ。ただ一つ評価できるのは、平からトップまでが大きな個人の裁量を与えられている点で、都織にも何人もテクストファンドの知り合いがいて、情報を売りつけられている。自由主義な社風で、中には対連合自由戦線のような凶暴な団体とくっつこうとしているやつだっているのだと、それはついこの間仕入れた情報だった。
「まあ結局、わたしの経歴がフラフラしているから、ちゃんとしている人を見るといやーな気持ちになるんだよ」
部屋に戻った都織は言い放って目の下を触った。擦りすぎて真っ赤になっている。いつもより細かく砕かれたクッキーはふやけるのが早くて食べやすかった。ルビは食事を終えた後、気を利かせるつもりでミルクの注文用ボタンを押そうとして、都織に冷ややかな目で見られた。ボタンは外され戸棚の上のほうに設置されてしまう。
「変な都織……」
それでもへこたれないルビは、適当に音楽をかけて都織の手を取り、振り回し、ローデスクをステップにして踊った。
「ルビ、これ以上周りの評価が下がったら……」
「これまで全く気にしなかったくせに?」
音楽はなんだか中途半端なところでフェードアウトしてしまう。ズンズンズンズンとバスドラムの四つ打ちだけが残る部屋で、ルビは都織の深爪を見ながら、言った。
「それもスロットのせいなんだよ、きっと。都織もみんなと同じくらい自分に期待している。なのにそのことを否定しながら生きてるんだ。だから時々、変なところが頭をもたげてくる。膿が出るような自然現象として……ただ、それはとっても疲れるだろうね」
「…………」
都織は何も言わずに手を放そうとしたが、ルビのほうがずっと力が強くてそれを許さない。
「ルビが全部カセットを抜いてあげる。人間だって生まれてきた頃はスロットなんてなかったんでしょ。カセットの一つも入れられなかった」
目を見開いた都織は反射的にルビを振り払った。ようやく手が離れる。ルビは拒絶されたことに対して、傷つくよりも先に大きく驚いたようだった。
「その頃に戻るのは、怖いよ。ルビ、わたしが二つ分しかカセットを差せない人間だったとしても、『メディケイト』を抜いたら一つしか選べなくっても、それでも手術を受ける前の、野放図の幼い頃に戻るのは怖い」
ふたりが目を合わせるタイミングはちょうど同じだった。薄水色のビー玉のような、どこまでも透明なルビの瞳には、都織のひまわり色の瞳は映らない。
「生きるのはとっても疲れることなんだね」
「ルビもでしょ。いつだって初めて知ったみたいに言うけど……」
都織はぶるぶると不安定なウォーターベッドにルビを押し倒しながら、形のいい唇を開いた。ニンニクとにらの混じったにおいにルビは顔をしかめる。
「あなたを縛るものすべてから自由になるために、あなたがどれだけ……」
ルビはリモコンでベッドのゲルを極限までやわらかくして、都織の体を沈み込ませる。ちょうどルビの体の上にぴったり重なった都織は、ベッドに顔を埋めてそれ以上何も言わなかった。
「都織、ルビはあなたが好きだよ」
そう言うとルビの頭の中から一つの記憶が引っ張り出されてきた。決して都織にシェアはしない、ごくごくプライベートな記憶。そのひとは黒猫のルビを格子の外に放り出して言ったのだ。
『世界の複雑に耐えられるひとになりなさい。あなたならきっとできるから』
既にもやのかかった情景。それでもたなびく長い髪はどこか都織に似ていた。
ぼさぼさの頭にヘアバンドをつけた都織のオレンジ色の髪が逆立っている。それを無邪気に指摘すると、「まあね」と目を逸らされた。都織は少し気まずそうに仕事をしている。誰とどのようなやりとりをしているのか、ビジョンを共有できないルビに走りようもないけれど、眉根を寄せてまた犬のような顔をしているから、なんだか難しいことに取り組んでいるんだろうという察しはつく。
「都織はさ、Norの通知用のカセットを入れて眠ってるの? どうやってやりとりのタイミングを合わせるの?」
「もちろん、重要な仕事の時はそうやって準備することもあるけど……まあ、大方勘。でも昨日は日課の探索を忘れてあのまんま寝ちゃったから、どこからアポイントが来るかわからない……全部のワールドを見て回らなきゃいけなくて、それが、ほんっとうに面倒」
「ルビ、悪いことをした?」
そう言うと都織は苦々しい顔を上げて「そんなことはないよ」と言い切って、今度こそきれいな手でルビの髪を梳かしてから、仕事に戻った。
ワールドは様々に整備されていて、テキストによる情報交換だけが淡々と行われている掲示板のようなワールドもあれば、ローポリアバターを被ってぎくしゃく手話で会話するところもある。凝ったものではマッチング用のワールドの癖、オープンワールドゲームが楽しめるものもある。いちいち目まぐるしくて覚えていられない都織は数で把握することにしていて、今使っているのは十四のワールド。十二訪ねたところでアクセスブロックを食らった。
そこはおもに知育ソフトやおもちゃメーカーとのやり取りに使っていたワールドだった。まるで甘い香りの漂うようなお菓子の世界だった。何度も仕事の続いていて、なおかつワールド外の連絡先を知っているような深い知り合いは片手で数えられるくらいしかいなかったが、スロット側のパスチャットを確認してみると、なるほど;wavingのスタンプが送られてきている。十三個目のワールドが閉鎖されたことを確認したところで、なんとなく深呼吸をしながらリストに残されたワールドにアクセスする。一番最後に持ってきたのはなんとなく、平たく言い方治安の悪い混沌としたワールドだからで、犬のアバターを被った都織があたりを見回すと、そこはいつも通りゆったりとした音楽が流れ、人々が腰を振っていた。
都織はようやく一息ついてビジョンを離れ、現実をゆったりと歩くルビに向かって言った。
「一つだけワールドが潰れてた。でもそれ以外は大丈夫みたい。最近どんどんなくなっていくな……」
ルビは大して興味もなさそうに相槌を打つ。
「なんで潰しちゃうの?」
「まあ、理由はいろいろある、純粋に維持するためのコストが大きくなりすぎた、っていうのもあるんだろうけど……それが一番の理由になるような時代はもう通り過ぎたはず。……例えば、ルビがなんでも知ってる、知ってなきゃいけないって立場だったとするでしょ。それなのにあとからやってきたひとたちが勝手に集まりを作っちゃって、知らないことが沢山起きてたら困るよね」
「それはそうだよ。だってなるべくわかりやすくて、まとまった場所にいて、みんなの考えてることがわかる方がいいもん」
なんとなくその言いぶりにぞっとして、都織はコーヒーで温まったマグカップの表面を撫でた。指先から伝わってくる熱で体の外から心がほぐれて、言葉を選ぶ余裕を取り戻す。
「でも急に一つの居場所を閉じちゃったら、みんなびっくりして反感を持つはず……何か理由がないとそんなことできない。ちょっとそれを今から調べてみる」
「それも仕事と関係のあること?」
都織は下唇を噛んでよそを向きながら、「まあ、わたしの仕事は情報が命だから」と誰にともなく言って聞かせた。
スイーツランドと名付けられたそのワールドは、利用者の特性からか、あらかじめそのように設計されていたのかは知るよしもないが、ポップでキッチュなアイコンが行き交い、甘いにおいが漂ってこないことが不自然な世界観で運営されていた。情報収集に使う、ディレクトリツリー系のカセットに入れ替えながら、都織は自身とワールドとの関係を思い起こす。
誰かの紹介で入ったころにはすでにアミューズメントの開発が進んでいる状態で、しかしそれもどこかスポンサーがついているわけではなかったはずだ。だってスイーツランドはそもそも、チョコレートチップクッキーを買うと付いてくるキャラクターホロを見せ合ったり、交換したりするために作られたワールドだったのだ。スイーツランドを情報交換の場として活用している人間がいくらか財布から出していたとしても、大きなスポンサーがついて、盛り上げたり収益を得る目的で運営されていた場所ではなかった。だから安心して、都織もかなり実名に近いハンドルネームを使っていたのだ。姓の〝シノミヤ〟から取って〝ミャオ〟とか、小さい頃に初めて考えたあだ名をそのまま通り名にしていた。呼ばれるたび確かに恥ずかしい思いもしていたから、ワールドごと爆破されてしまったならすっきりする―という考え方もできないことはない。しかし、経緯がわからないままにゆるいパスが切れてしまうことは、都織の生業にとっては致命的だった。
そんなことを考えているうちに、中古とはいえ開発元のはっきりしているカセットは拾ってきた情報をつなぎ合わせてまとめ始める。脳の奥が収縮と弛緩を繰り返す音が頭蓋に響いてくるのを感じながら、この部屋にたったひとりの聞き手に言葉を漏らす。
「直接的な原因は、結局ドラッグみたい。しかもワールド内の。遠因は……誇大広告なのかな。それ自体疑わしいけど。誰か異常なほどマメで正義感の強いヤツが、クッキーのおまけについてくるキャラクターホロの排出率は公表されている通りじゃないって言いだした。どうやって突き止めたんだろうね、そんなの」
ルビはカセットの色でグラデーションを作る手を止める。せっかく都織が機能別やらメーカー別に分けてプラボックスに収納していたのに、このところその分類はめちゃくちゃになりつつある。生活の中で、都織だけがアクセスできる領域がどんどん狭まっているのだ。
「山ほどクッキーを食べたのかな。ルビはチョコが食べられないからわかんないけど、お腹がパンパンに膨れそう」
「フッ、なんか義憤のためにいくらでもエネルギーを使ってたのかもね。だからどれだけ食べても足りなかったとか」
学校に通っていたころに読まされた小説を思い出す。これと決めたら鉄砲玉のようにすっ飛んでいく男の話はいつでも廃れない。きっと社会にそういう人間が一定数存在するからだ。
「……まあ、そのデータの信ぴょう性は今となってはわからない。既にデリートが済んでしまってるからね。でも、そういう不平等があるって信じたい人がいたんだよ、結構。一個のワールドでどういう見た目か、そんなことがきっかけで急に死んじゃおうって動きが始まったみたい。それに乗っかって、悪意のある誰かがドラッグをばらまいた。楽しくなるやつじゃなくて、楽にイケるやつを」
「ワールド内でドラッグなんて使ってもあんまり意味がなさそう。見た目の効果とか、歪んだ音楽が聞こえるとか、そういうフィルターみたいならものなら、他にたくさんやり方があるんじゃないの?」
ルビは何も知らない無垢な猫のようでいて、猫だましのようなことはたくさん聞きかじっている。
「どこで聞いたかはわからないけど、最近のはもうちょっと進んでるよ。権限をゆるく開いておけば、スロット越しに脳までくらくらさせられる……らしい。わたしは試したことないけど」
ジンジャークッキーのアバターがばたばたと倒れてゆく様を想像する。それはドミノ倒しみたいですこし滑稽で、でもだからこそ危険だった。
「でも結局、そんなことしても現実のみんなには何にも返ってこないんでしょう」
都織は腕を組んで唸った。まさにその通りだ。
「何にも返ってこないから、現実でやる勇気のないことをやってみるんじゃない? まあ、ノーリスクってわけにはいかないのをみんな忘れてるけど」
「ルビだったら実際に何にも起きないことなんかやらないな」
スロット越しの世界を知らないルビは純粋にそう言ってのける。今や生きるのも死ぬのも自己表現の一つになっていて、究極的で絶対的な価値であった頃からずいぶん遠くに来たものだ。その変化は都織が学生だった時に始まって、まさに〝発明〟だった。
「まあ、そういう言い方をすれば、ワールドみたいな拡張現実も、音も映像もわたしたちに何ももたらさないよ。直接お腹が満たされることなんてないし、本当はお金が発生する方がおかしいんだ。わたしみたいな詐欺まがいの仕事を除けばね」
「そういうことを言ったつもりじゃなかったけど」
ルビは柔らかい体を寄せて来る。まるで一つのモニタを覗き込むときの近さで、都織の話に寄り添おうとする態度を見せてくる。野性を奪われ人を懐柔するように訓練されてそうなっているのだ、と穿った見方をしたところで、結局自分の隣にいるあたたかい命への愛着は拭うことができない。
「たぶんユニオンだよね?」
「……十中八九ね。わざわざワールドの増殖をコントロールしようとするのなんて、メーカーズユニオンしかいない。彼らは自分の把握できる世界だけを、一律に幸福にしたがる性質を、結局どうやっても隠すことができないんだ」
馴染んだ相手とのコミュニケーション目的にしか訪れないから、大した鍵もかけておかなかったのは失敗だった。管理者という頭を抑えられれば結局何もかもが丸裸になるけれど、そうなるまでの時間や手間でいかようにも逃げることができると知っていたのに。
都織は目の下を擦りながら次にとるべき行動を考えた。窓口の担当者からは返信が来ないが、なにも存在ごとすりつぶされるわけじゃない。気の向いたときに正面玄関からアポイントを取れば、ちゃんと交流は復活するだろう。ただ、メーカーズユニオンに少しでも自分の動向を気取られるのは―少なくとも、今なお明るいところで暮らせないと知られるのは、わずかばかり痛かった。
「ユニオンは……しつこい。でも、都織が何も悪いことをしてないなら警戒する必要は何にもない」
子どもの聞きかじりのように喋るルビにしては珍しく、実感のこもった言葉だった。都織は「どうして?」と何に対してか不明瞭なまま問う。
「わたしはあんまり社会のことは詳しくない。でも、都織は紛れていたい事情があるんでしょ。だから不安定なことばかりしている。それはわかる。……都織にもし、少しだけでも『付け入るスキ』があるんなら、」
そこで言葉を切ったルビは俯きがちで、そのさまは本当に美しかった。猫は美しくひとのこころを惹くように育てられている。それは都織の勘違いでなければ、メーカーズユニオンの施策のはずだった。
「とにかく、ユニオンは悪いの。」
手を握ってくるルビの爪が都織の手の甲に食い込む。その痛みに、ルビが自分と出会うまでに過ごしてきた環境のことを考える。半・AAVが映し出す凄惨さa.k.a実情を斜めから少し齧ったくらいのもので、知識もほとんどなかったし、知ろうともしてこなかった。
それでも、ルビの善意の忠告にかこつけて、じゃあいまここであなたの胸を開いてみせてというのはあまりにも烏滸がましい。都織は「わかった、気を付ける」とだけ言って、消え失せたワールドでの行動記録を漁る、亡霊探しのような作業に戻った。腰を浮かせてルビが顔を近づけているのもわかっていたけれど、だからといっていったい何を慰めてやればいい?
都織はこのワールド―に限った話ではないが―で起きる大小さまざまなムーヴメントを面白がって首を突っ込みまくった。例えば、アルファントのチョコレートの配合は、開発者が元々務めていたイーグレットの丸パクリ、だから不買運動をしよう。例えば、たまごボーロ派の人間は毎月第三木曜日に必ずたまごボーロを食べる、「たまごボーロ教」を作って広めよう。全員が十二月十二日十二時十二分に訳もなく敬礼をしよう。思い出すだにくだらないことばかりだった。先刻ルビに言った通り、現実じゃ到底実行しようと思えないようなスポークスに乗っかって、軽率な行動ばかりとることができる場所がワールドだった。現実の世界よりもずっと魂に近い場所にある。
メーカーズユニオンの一存で、それがある日突然消えてしまう。
都織はぞっとしながらパスチャットの連絡先を開き、メーカーズユニオンと少しでも関係していそうな知り合いを衝動的に全員ブロックした。出入りしているコンサルタント。ユニオンに出資してもらっている研究者。連盟企業の開発担当……増えていく縁切りリストを眺めているうちに顰めていた顔が、あるアイコンを目にしていっそう歪むのがわかる。
「さっきからずっと不機嫌そうだったけど、その顔は初めて。犬じゃない。くしゃくしゃのレタスみたい。どうしたの?」
都織はそれに応えなかった。六角形に切り取られた写真の中で、長い黒髪が横顔を隠している。この女と自分の関係はなんだったのだろうか。昔の恋人、あるいはツレ、それとも同志? 彼女はいつでもすべての問題の渦中にいた。離れたきっかけだって大きく括ればそのせいだ。空の下でピンク色のマシンガンを携えるアイコンの横に表示されたゴシック体の『ニカフ・ノーマンド』、その役職名は『対連合自由戦線・広報部隊』と薄いグレーで書き添えてあった。
するすると抜け出るルビについていく。ここらの地図はすっかり頭に入ったようで、その物覚えの良さは猫だからなのか、生来のものなのかわからない。生乾きの髪が頬に張り付いているのに気付いたが、それを払ってやるにはずいぶん先に進んでしまっている。ルビはきれい好きで、しゃがみこんで体を洗うから、シャワーには長く時間がかかる。カラスの行水のように粗雑な都織とは真逆だった。
その施設はメーカーズユニオンの看板が始終くるくる回って消費者たちを出迎える。都織は草色のバラクラバを被りなおし、ちょうど潜り抜けたところで自動ドアが閉まった。迷い込んだ建物の中にはパンパンに欲望が詰まっている。あるいは、それを喚起するプログラムが。
大型のカートを引き出すと、ルビは心なしか中に入りたそうに都織を見上げたが、人目を気にしてふちを掴むにとどめた。食品エリアの一番目立つところにクッキーの箱の山があった。味はシナモン、ジンジャー、チョコチップの三種類。確かに都織は生理の直前で、甘いものならいくらでも食べられそうな気分だったし、それは在庫放出前代未聞の大安売りだったが、さすがに手に取ることはしなかった。
これから一生モノを買わないというくらいにカートになんでも放り込む。本当はメーカーズユニオンの息がかかっているものなんて、何一つとして体に入れたくなかったし、触れたくない気分だった。それでもシェア数がそれを許さない。薄い黄色が基調の統一感と、それでいてそれぞれの魅力が手に取る前にわかるようなパッケージ。そのデザインに従うのが最短距離だと思わせられて抗えない。資本主義に敗北し、抵抗を諦めた都織は、ライスプティングの味を選んだ。
そもそもメーカーズユニオンは、その名の通りメーカーによる連帯がそもそものはじまりであって、しかもそれぞれの企業はかなり小さかった。自社で大々的に売り出すよりも、名を連ねる企業の顔色をお互い伺いながら、競合しないように、足並みをそろえていけるようにと舵を切ったメーカーたちが、いつの間にやらマジョリティになってしまった。内部事情も例外ではなく、どこの企業でもみな同じような待遇を受けている、とユニオンとは縁遠い都織にすら聞こえてくる。社会は平らに馴らされるのが一番良いという強迫観念は、外から見ると共感できないけれど、実際、都織宅のシャンプーもリンスもユニオン所属の企業のものだ。
だから、猫であるルビが―その価値観が細胞の隅々までいきわたっていそうなのに―ユニオンを悪だと言い切ったのは、都織にとって目が裏返るような驚きだった。言葉の強さもさることながら、善悪を振り分けたこと自体、ルビの行動として全く予想すらつかなかったのだ。
「都織? デイリーズのコンソメはどれ、チキンとオニオンとビーフ」
「んん……家に在るから大丈夫」
「もう二箱しかなかったけど」
「それだけあれば十分、……じゃないかもしれないけど、少し疲れた。もうお会計にしよう」
都織はカートを押してレジゲートをくぐる。スロットとの通信が行われ、自動的に決済が終わる仕組みだ。これを真っ先に導入したのもメーカーズユニオンで、なんでもその方面に長けた中小企業のいくつもと肩を組んでいたらしい。連帯は近代の社会において最も優れた発明だ―ユニオンの会長のインタビューを思い出す。
結局半分ほどしか埋まらなかったカートを台に寄せ、グリーンのメッシュバッグを広げる。横からルビの細い手が伸びてきて、缶詰を並べて底を作った。
「都織疲れてるんだよね。荷物詰めるのルビがやるよ。やりたいし」
言いながらも休まらない手際の良さに、少し置いていかれた気分になって、頷きながら場から外れた。それでもぼんやり口を開けている気分にはとてもなれなくて、ルビの背中を視界に収めながら、パスチャットを開いて連絡先の精査を始めた。感情に任せて作られたブロックリストの中にも、本来は交際を絶つべきではなかった相手がいる。人間関係はバランスだから、それでも結局は絶交に傾く日が来るのかもしれない。それでも今のところは……という気軽な基準でブロックを解除していく。
そうして交流可能に戻った何人かに『扉の影から顔をのぞかせる』スタンプを送信しているうち、難しい相手に行き当たった。下唇を噛んで考えを巡らせていると、荷造りの済んだルビが「できたよ」と声を掛けてきた。
「どうしたの? 何してたの?」
「また犬の顔になってた?」
「それとはちょっと違ったけど……」
二人の体重と両手の荷物分を背負ったフロートボードは実にのろのろと進む。自分の足で歩くほうが早いくらいだったが、ふたりはぼーっとしていても家に着くメリットの方を取った。
「またパスチャットをいじってたんだけど、少し面倒な相手がいて。まあ、仕方ないから帰ったら直接話してみる……」
「スタンプとかで済ませられない相手なの?」
「スタンプでは絶対済まないんだよね、まあ、この世にはいろいろな興味関心があるってこと」
ルビはそこではピンとこないままのようだったが、気が進まないのだけは伝わったらしい。なんせいつもの道よりずっと遠回りしてアパートまで帰ったのだ。そして、その理由をすぐに知ることになる。
「シノミヤ! ずいぶん久しぶりだと思ったら、俺のことブロックリストに入れてたんだって? この薄情者! 常に俺は最新鋭のこの世にまだ生まれたばかり、否、この俺が生み出したばかりの情報を共有してきたというのに」
プロジェクタに大写しになる男に顔をしかめて、「ね、わかったでしょう」と都織は言う。春の桜の淡いピンク色の髪が目立つ、痩せた顔の美しい男は、見た目だけで言えばややはかなくも見えたけれど、喋り出すとまるで違うことがわかった。
「えーっと、ポンプス、こちらルビ。最近一緒に暮らしている猫。ルビ、こちらポンプス。学会を追放されて今はニート」
「それなら、都織とはニート仲間だね」
「痛いところを突かないで……」
都織はへなへなと崩れ落ちながら、「そもそもこいつは研究倫理を逸脱したから追放されたんだよ」と自分とポンプスの間に一線引いてみせる。
「何の研究をしていたの」
「君ってば……よくぞ訊いてくれた。話せば長くなるし、テレパス形式のコミュニケーションをしない猫には実感を持ってもらうのは難しいだろうが、それでもあえて説明すると、愛の研究だよ」
「EYE?」
「そう、I。そしてやっぱり愛の研究」
横から都織がへらへらと手を振って、二人の会話を遮ろうとする。
「言っておくけど、そんな抽象的なものじゃないよ。つまり、パスチャットでわたしたちはスタンプを使う……ルビだって資料としては見たことがあるでしょう。にっこりマークが、踊るクマが、きらきらした目で見上げる小さなネズミが、果たしてどういう感情を包含しているのか―つまり、単に〝ありがとう〟って言うとき、他ではなくそのスタンプを選ぶ理由、あるいはそのイラストを送ったことによって削がれてしまう部分はどこかっていう研究をコイツはしているわけ」
ふうん、とルビは小首をかしげてあまり興味がなさそうにする。ルビの非当事者性なんて全くどうでもいいかのようにポンプスは立て板に水のごとくまくし立てた。
「その説明は正確じゃないな。圧縮された感情を解凍しようとしているんだよ、俺は。この研究はあまりに広範だから最近はチームを作ってより効率的に動いてる、だから正確に言えば〝俺たち〟だ」
都織はうんざりしているのをあからさまに隠さない。あちら側は勝手にマイクをオンにしているが、こちらはそうでないからだ。声は筒抜けだから、都織はルビの手のひらに文字を書いた。『めんどう』『にがて、とっても』
そんな二人の様子がまるで見えていないポンプスは手を組んで「そうそう紹介したいやつがいるんだった」と叫び、その場を立ち去る。ふたりが印象と愚痴の大会を前に引っ張ってきたのは、前髪の長い中肉中背の男で、灰色のトレーナーにはハートマークが描かれていた。
「人々の動き方のログをメーカーズユニオンは録っているわけだろ。次に何が必要か? どういう新フレーバーが求められているのか……彼は……そういうのを探ろうとするアーティストなんだよ。具体的に言えば、小さなファージ型のプログラムをスロットに隠して持っていって、いろいろな場所にばらまく。もう一度そこを訪れて、それを回収するというやり方なんだ」
灰色の男はポンプスのことを肘でついて黙らせようとしたが、そんなことで止まる喞筒ではない。
「別にそんなに大それたことはしていません。これでも前科はないです」
言い添えられても、目を合わせた都織とルビの間には不思議なテレパシーが働いた。テロリスト? 泥棒? 結局犯罪者?
「それってアートなの?」
「そうに決まっているさ。そうじゃなけばこの開拓を、強い意志を何と呼べばいい?」
ポンプスはドラッグでも使っているような高揚に包まれている。
「すごくあなたと気が合いそう」
それが皮肉だと気付かないままに、ポンプスは前のめりになった。
「そうなんだ。実は口説き落として先月から付き合ってる。その夜は曇りと工場の排煙で月も見えなかった……知ってるだろ? 都織とも何度か行った『夜のテラス』……ああ、シャイ、どうか嫉妬しないで。俺たちは決してそういう仲じゃない」
その店名を聞いて都織は思わず目の下をこする。
「あの店の名前は聞きたくない」
「どうして?」
無邪気なルビに都織はこっそり教えてやった。
「『夜のテラス』は対連合自由戦線のフロント―もちろん知らないで使ってる人だっているだろうけど―勧誘を掛けたり、拠点にしたりする店。ポンプスはずいぶん旧い知り合いだから、わざと言ってるんだって断言できる。……それをわたしに話した意味がわかってる?」
「んー、まあこんなに瞬間的に沸騰するとは思わなかった。うちの女王様に吹き込まれていたんだが……」
「んー…………ニカフがね……」
ルビが顔を覗き込んでくる。「ニカフ? ニカフ・ノーマンド?」ニカフは言葉で常に前線に立っているから、知らないひとのほうが少なかった。ポンプスは気まずそうに唇をゆがめて手を擦り合わせる
「気を損ねたなら申し訳ない。素直に謝るよ。ここらで通信を切ったほうがよさそうだな」
「なんだか結局またブロックリストにぶち込むかも」
「そのときはそのときだ、都織。またどこかいい店があったら一緒に行こう」
「かもね」
都織はそして通話を切った。表示された時間はたった十五分ほどで、それなのにその十倍頭を使った。どっと疲れた気がする。都織はカウチの反発度を一番低くして、そこに体を投げた。
「都織、大丈夫?」
「ん……イライラしすぎたかも。生理だからかな」
全くピンとこない様子のルビは「なるほど、生理」と相槌を打った。だがしかし、猫には生理はやってこないのだ。
猫は例外なくスロットを持たない。スロットを持たないのが猫である。どちらも正しい。元々はメーカーズユニオンが特別雇用していた、すべてを身体機能に振った人間だ。都織でさえ二本はこじ開けられたスロットを一本も作れない人間は、その性質の代わりに鋭い爪と動体視力、下肢の筋肉のつきやすさも遺伝する。実際にルビと暮らしていて、フロートボードに乗った都織よりに追いつく足の速さを実感したものだ。猫たちはユニオンの庇護下にある。時おり街で見かけることもあるが、スロットの有無を確認するよりも先に猫だと分かることが多い。つまりごくやせ形であまり身長は高くないのに、その割に膝が高い。
一般的になんでも素直に信じるらしいのは都織も知っていた。ゆったりとカウチに体が沈み込む感覚は、ここしばらくの記憶に意識を耽溺させるかのようだった。ルビは活発で頭が回る。素直になんでも問うし、答えればほとんどすべてをそのままに理解した。ルビを手放した部隊はさぞ痛手だっただろうと思うと少し笑える。
ほとんどの猫はユニオンで生まれ育つが、それから自由意思を得て、演習の隙に逃げてくるものもいる。一般的にはその猫たちを「保護猫」と呼び、専門のNGOがいくつもあった。率直に言って猫たちの存在は時代錯誤だった。着る服にも、食べるものにも、雨風をしのぐ住処にも困ることがない代わり、生まれたときからあらかじめ運命を決められているのだ。メーカーズユニオンは何も始終ドンパチやっているわけではないが、それでもトラブルが起きたとき、前線に押し出されるのは猫に決まっている。
保護猫たちの扱いはいろいろで、団体に接続すれば無理矢理スロットを開ける手術をし、人間と同じように生活をすることもできた。もちろん、元・猫の体はスロットを拒絶し排除しようとするから、定期的な診療が必要だ。もしもそんなお金にあてがない場合は、保護猫を受け入れようという誰かとマッチングさせることになる。多くの団体が性格よりも評価点の高さを重視した。たとえ都織が紹介所に登録したとしても、順番が回ってくることはないだろう。それは傲慢でも不平等でもなかった。なにせ、ユニオン側が連れ戻しに来ることがあるのだ。そういう事態に対して、都織のような不安定な人間はあまりにも無力だ。再び攫われていけば、もう二度と脱出のチャンスはない。追いかけていってもまるで意味がないのだ。それを回避するためにはせいぜい、安定して余裕のある人間と保護猫を引き合わせるしか方法がないのだった。
「ごめんね、ルビ」
「どうして?」
ルビは「どうして?」が多い。都織は常に論理的に考えて因果を意識した話方なんてしないから、そう言われるたび息が詰まるような感じがする。
「わたしがあなたを拾ったのは、なんとなく気に入ったからってだけだったから。あのときどうしてわたしについてきていたのか知らないけど」
「……あんまり暗い気持ちにならないほうがいいよ」
ルビは都織の横に体を沈めて、その透き通る目を向けた。どんな時代の美の定義に照らし合わせたとしても、ルビの美しさは証明されるだろうと都織は思った。短いくせ毛は愛嬌があるし、瞬きは多いし、まつ毛の層が厚い。この美しい生きものを、自分がまるで幸福にできないであろうことが、悔しかった。
「……ユニオンも、戦線も……強いものは渦で、わたしたちを否応なくあっちのペースに引き込んでいく。彼らのフェーズにわたしたちを連れていく引力があるんだ。……私たちは私たちなりの社会のかかわり方をしているのにね。」
もちろん、私のは褒められたやり方じゃないけど、と付け加えた都織にルビは何も言わなかった。否定も肯定も適切ではない、漠然としたどちらでもなさがあって、それを言葉にすることが到底できなかったのだ。
都織はメッシュのバッグからビール缶を取り出し、腰に手を当てて一気に飲み干した。そしてゆらゆらと首を揺らしながら言う。
「もう、途中で手を引くことが嫌なんだ。こうやって頭を撃ち抜かれて破壊されるようなことは……。痛いからじゃなく、自分の思う身動きが取れなくなる。それどころか、自分がどうやってふるまえばいいのかわからなくなる。そして強い渦に飲み込まれる……」
かがんで棚にオリジナルブランドのワインを並べながら、ルビはその意味を取りかねていた。たっぷりと赤や白の酒精を体の中に溜めた瓶は、時折ぶつかって鈍い音を立てる。
「頭がおかしいんだよ、わたしたちは。ここで暮らす人たちはみんな……。いつか評価点の話をしたけどさ、たぶんもう減点する分が残っていないんじゃないかな。とっくにそこまで辿り着いてる」
向こう見ずだった。都織らしくもない、自分しか見えていないような発言だ。しかしその配慮のなさを咎める気にはなれなかった。そもそもどうしてこんなにぐったりしているのか、ルビには全く理解ができなかった。
「底まで辿り着いたら減点もなくなる……マイナスには行けないんだよ。たとえばこうやってメーカーズユニオンのものを食べていれば、それだけで一番底以上になる。これ以上おかしくなることも許されない」
そう言いながら冷蔵庫を開き、習慣的にあるべきものをあるべき場所に仕舞う。その丸まった背中を、なぜかルビは卵のようだと思った。
「ねえねえ、都織」
「なに?」
「この戸棚のツナの缶詰初めて見た。フレーバーがついてるの?」
「ルビ、魚は好きだよね。ちょっと待ってて、片づけてから開けよう」
しかしまだ食べても大丈夫なのかな……都織はそう言いながら、わずかに作業ペースを上げた。ルビもその腕力で積極的に手伝った。ご褒美に開けてもらったツナ缶は、トマトやオリーブが一緒に閉じ込められているもので、ユニオンに所属せず、いつの間にか潰れていったメーカーのものだという。
「タイムカプセルみたいだね」
「あの映画に出てきたやつね」
そう言いながら都織は全粒粉ブレッドをスライスし、レタスと一緒にサンドイッチに仕立てた。缶からそのままつつくつもりでいたルビは、しみじみ都織の顔を見上げた。
都織の一日は始まる時間がまちまちだ。下着姿のままカセットを取り換え、クローゼットに向かう同じ服ばかりがかかっているみたい、と揶揄されたラインナップから、気が向いた色のスウェットを引っ張り出して着る。そうすると下に着るものがサジェストされるカセットのおかげで今日のコーディネートはいとも簡単に決定される。ある頃までは、自分の見た目すら自分で決めないことに罪悪感があったが、すっかり慣れてしまった。
都織より背が少し小さいルビに、自分より少し濃い色のスウェットを着せ、レギンスを履かせる。骨ばった足を包む靴下は、なんとなく少し派手な柄を選んでやるのがオーディナリー。都織はスニーカー、ルビはサンダルを履く。ルビにフーディーを被せてやるのを忘れない。
今日はフロートボードを抱えてきたが、モノレールを使って少し遠出の予定だった。前日に連絡を取ったバイヤーが、普段はとても訪れないような場所を指定してきたのだ。やりとりは初めからNorglam越しで、そもそもこちらの住所が漏れるいわれもないけれど、遠ければ遠いほどプライバシーは保たれるのはまぎれもなく事実だった。
嵌め込んでおけばエイリアンゼリーがビジョンの片隅で踊ってくれる、というカセットのやりとりをするには場違いなほど、上品で閑静で角の取れた住宅が並ぶ街だ。その片隅で、相手は仮面をつけて待っていた。なるほど、アバターと同じファッションで分かりやすい。今回は持て余していたカセットをいくらだっていいから引き取ってくれ、というのが相手方の態度で、値段交渉は一瞬で終わった。普通、一般人と一般人が物を売り買いするときは、履歴を辿りやすいように仮想通貨を使う。ただ、どんな通貨も片端からいろんな企業とのコネクションがついて、信頼が落ちている。それを危惧するような相手とは、結局対面で決済することがしばしばあった。
わざわざお互いに全く関係のない場所を指定してくるような相手だからそれは当然で、都織は三か月ぶりに触る現金で支払った。ほとんど言葉も交わさないままにすべてが完了した。キツネの仮面をかぶった相手は、都織が連れたルビのことすら触れてこなかった。
「どこか都織の好きなところに連れていってよ、せっかく外に出たんだよ」
そう言うルビはきっと、都織が臨んだ取引があまりにも肩透かしだったのだろう。確かに一切ドラマもサスペンスも起こらなかった急ぐ必要もないのでフロートボードを蹴り上げて、都織は自分の庭と言っても過言ではない区画まで足を伸ばすことにした。AKHはジャンクカセットとデッドメディアを売る店ばかりが並ぶ、退廃的でコンプリケイトな雰囲気の区画だ。どう見たって取り締まられるべき煙を吐いている老人が、平気な顔をして道端に座り込んでいる。かと思えば、ホロを仕込んだチカチカ光るミニスカートの少女が、通り過ぎる人々のビジョンに、無差別にライブの告知を送っている。
誰かが置いていったスピーカーからは古くて楽しげなシンセウェイヴが流れてきて、ルビはその場でくるくる踊り出した。ルビの手にかかれば宙返りも倒立旋回もお手の物で、もちろんフードはすぐに脱げ落ちたけれど、だれもうなじになんて目を向けない。あるいは、察してもなお指を差すような野暮真似はしない。歩行者天国は昼からディスコのようになっていて、好き放題できた。
しばらく踊って疲れたルビは、誰かが置いていった机といすに腰掛けた。都織が蒸気式タバコを吸おうとすると、ルビは露骨に嫌な顔をした。
「息がくさい、体にもよくないんでしょ」
「いつの時代のタバコの話をしてるんだか」
一服終えた都織の裾を握るルビは、異様な空気感の街に圧倒されているようだった。それならばと連れて行った店はヴィクトリアンメイドが給仕してくれる、ちょっといいコンセプトレストランで、バターとチーズの香るとろけそうなオムレツを食べる。
「都織って、きれいな格好をしている女の人が好きだよね。今日思ったんだけど」
「そうかな、考えたこともなかった」
「道でボードを持ってたゴシックドレスのお姉さんにも目を引かれてた。ルビもああいう格好しようかなあ」
混ぜ物ばかりのお酒をルビに注いでもらいながら、都織は鼻で笑った。
「ルビは身軽な格好が一番似合うよ。ところで一杯どう?」
「ルビはいつだって平静でいたいから飲まないよ」そう言って空っぽのグラスを押し返す。「寒いところにいたときは飲んだりしてたけど」と漏らした情報は全くの初耳で、アルコールなんて摂っていなくても、それなりに浮ついた気分でいたのかもしれなかった。
そして、そこからは覚えていない。多分ルビとフロートボードの自動操縦が自宅まで都織を連れて帰ってくれたのだろう。目を覚ますとちゃんとカウチの上で、肩までかかった毛布のおかげでいつもより体を起こすのに気力が必要だった。
少しだけ記憶にあることは、帰宅してからルビがプロジェクタの電源を入れて、都織のニュース番組を垂れ流すカセットをそこに飛ばしたこと。それはなにも勝手な行動ではなくて、毎晩のルーティンを守ってくれたのだろう。ルビは実に律儀で賢い猫なのだ。
途中まではKYTで行われた伝統的なお祭り、踊りながら練り歩くロボットみたいな人々が映し出され、二人でぽかんと口を開けて何も考えずに見ていた―正確には、都織は時折その口にビールを流し込んでいた。
すると突如知らないウィンドウが表示され、ルビは跳ねるように寝室の扉の陰に隠れてしまった。閉じても閉じても増殖し、平和なニュースを塗りつぶしていく生中継の会見映像。大写しになるのは、黒く長い髪をした背の高い女。ニカフ・ノーマンドその人だ。なにか本能の次元で怯えるルビをなだめもせず、都織は大笑いしてしまった。会見の内容は大して覚えていない。ただ、最後にニカフは、本営のカメラに向かって、「私たちには言葉が必要だ。そのために必要なキミを必ず引っ張り出して見せよう」そう言い放ち目の下をこすってみせた。
「起きて、都織、今すぐ起きて」
ルビに頬を叩かれて目を覚ます。ウォーターベッドの上で起き上がろうとしてバランスを崩した。ルビが即座にリモコンでジェルの硬度をいじってくれる。服を着せられ、髪まで梳いてもらう最高の待遇を受けながら、それはなにもルビが褒められるためにやっていることではないのだと寝起きの頭でちゃんと理解していた。
「今、スマイルデリの調査員の人が来てる」
「なんで? ここしばらくは使ってないよね」
指折り数えて四か月ほど、デリバリーは止めている。ここのところワールドの閉鎖が立て続けに起き、風が吹けば都織が損したことが理由だが、思い起こすうちに嫌な情報同士が繋がった。
「満足度調査だって。迅速だったかとか、感じがよかったかとか。断ったよ、それでも引き下がってくれなかったから、全部真ん中で、って言ったんだけど、対面じゃないとって……」
「最後に使ったの、あのときだよね。ルビが来たばっかりのころ、にらのたっぷり入った餃子」
元TXT-1担当の配達員。最近見たニュース、四社のデリバリーがメーカーズユニオンと提携するという話。キツネのスタンプとサイクロ・リクシャー。目の下をこするスポークスマン。とにかくどのようにブロックたちを組み上げたとしても、都織にとっては不利益なタワーしか生まれない。全てのブロックから針が飛び出している積み木のようだ。あるいは三回見たら死ぬ絵のパズルが、三枚分そこらに散らかしてある状態。
「やっぱりあの時、適当にカセットで読んじゃったから。あの配達員のところから逆探知されてバレたのかな」
「メーカーズユニオンに?」
「ならまだマシだけど。わたしは直接ユニオンを攻撃したこともないし……だから、最悪の場合は……」
ルビはアパートの外に耳を澄ませている。「表には何台も車がいる。二人乗りの速いやつだよ、知ってる?」都織は登山用の角ばったリュックサックから、愛機であるフロートボードを追放した。その代わりに入るだけのカセットを詰め込んだ。食料を増やすより、馴染んだ毛布を突っ込むよりも、なんの役に立つのかわからないカセットのほうが都織にとっては重要だった。
なにか言いたい様子で都織を見下ろしていたルビは、口を開く代わりに、赤い文字で『非常用』とプリントされた、一周回ってレトロでかわいいナップサックを背負う。
「ごめんねルビ」
二人は手を取って、窓からフロートボードで外に出た。表の車に乗ったデリのやつらは、配達員を生業にしているくせ、ずいぶん遠ざかってからようやくそれに気付いたようだった。あるいはそのフリすらしないつもりなのだろうか? 二人分を支えるのにようやく慣れてきたボードは、彼らをとうに置き去りにして、しかし二人の行く末もまた置き去りのままだった
混迷の中に向かうなら、AKHはまさに適したジャングルではある。それでも都織かルビかをはっきり狙っているなら、何度も足を運んでいることがとっくに知れているだろう。都織は今自分たちを追い立てて雁をしている相手が、ユニオンなんかではないことをとっくにわかっていた。ただ何から話すべきかわからないまま―そして道連れにした罪悪感のままに、暗い場所を探す。
そういえばAHBに来た時も、ひとはこうして居場所を勝手に狭められるのだと思ったのだ。今はもっと状況が悪い。保障の一つもない。人や車とすれ違いそうになるたびに道を折れ、最終的に川べりの遊歩道に辿り着いた。ベンチは一人分ごとに区切られて、橋の下の暗いところは夜中になると自動で閉鎖される。その扉に背中を預けながら、アルミでできた軽い防寒シートに二人でくるまった。二枚も持ってはいなかったから―誰かと共に住む日がまたやってくるなんて思いもしなかったから、たった一枚しかないペラペラのシートはあまりにも小さかった。
「ルビはね、ルビルビ帝国から来たから大丈夫。熱いところも寒いところも知ってるし、野宿のやり方もわかる。都織は平気?」
「……正直参ってる、けど、平気だよ。巻き込んで、ごめんね」
見開いたルビの瞳はこんなに暗い場所でも輝いていた。瞳孔の広がっている分、引き込まれるように神秘的だった。ルビは唇を擦り合わせてから、パッと笑顔を作って言った。
「あの時、ドアの向こうにいた調査員の人を殺しちゃうことだってできたんだよ、本当はね」
そう言って鋭く黒い爪を見せてくる。いくら逃げてきたと言っても、なにか植え付けられた判断として、ユニオンの人間に爪を立てられるのだろうか。都織が黙って俯いていると、ルビは突然パーカーの前を開けてみせた。白い首があらわになる。人間と違って、スロットをこじ開けられていない首。そこにはチョーカーが巻かれていて、ひどく汚れている。メーカーズユニオンのイエローやオレンジではないし、ましてやテクストファンドのオフホワイトでもない。くすんで薄闇には紫に近い色に見えるけれど、都織は多分、本当の色を知っている。
「都織はなんの色か知りたくないの? これまで、知りたいと思わなかった?」
「……」
都織は黙ってリュックサックを漁る。あたりにカセットが散らばるのも厭わない。その奥底から引っ張り出したラップトップの外装は、目が覚めるほどの青みピンク。ルビのチョーカーの元の色。都織がたもとを分かった対連合自由戦線のカラー。そして、かつて都織がその手に携えていた、銃の色も同じピンクだった。
ふたりは言葉もないままに、お互いが話さずにいたことの輪郭をすぐに捉えた。冷たい風に体を寄せる。都織はなんだか泣きたい気分だった。自分が離れてから、どんどん望まぬ方向に組織が走り出したのはなんとなくわかっていた。既に外部の人間である自分が関わる余地などないと背を向けて、何も見ないふりをしてきたのだ。そこに飛び込んできた黒猫は、あるいは初めから都織を。
首をカクンと落として寝るルビの頭を、自分の肩に預けさせる。今日はこれが精いっぱいだった。けれど、明日にはもっと、明後日にはもっと、躊躇わずに話さなければならないタイミングが来る。
都織は今ルビのことが大切だった。その気持ちのままどう話を切り出せばいいのか考えているうちに、いつの間にか瞼は重くなり、凍るように眠りについた。
寄りかかっていた橋下の格子戸が動き出し、都織は目を覚ました。ルビを揺り起こしてプロテインバーをかじりながら、ぽくぽくと動き始めた。相変わらずコミュニケーションの少ないまま、横を走ってゆく車から顔をそむけるタイミングだけがぴったり揃う。
「ルビは戻りたい?」
どこに? とは訊かれなかった。
「戻りたくはないよ」
ぽつんとそう返されて、都織はルビの手を握った。そういえば、ルビと出会ってから、ずいぶんその道とはご無沙汰になっていた。
ビル群が低い一軒家に変わり、駐車場ばかりがぽつぽつ並ぶ区画を越えたら、青いビル群が見えてくるはずだ。高さは違えど外壁の色は統一されていて、遠くからはまるで伸びゆく結晶のような眺めなのだ。都織は、そこにルビを捨てに行くつもりだった。
「ねえ、リクシャーのレンタルがあるよ。乗っていったほうが早くない?」
都織の心中など何一つとして知らない、ルビのはしゃいだ様子が耐え難かった。
「ルビ、それには会員認証が必要だから……」
「ゲストモードを使えるんだよ、ほら、ルビには指紋もないから」
言うが早いか、ピ・ピと認証を越えたルビは二人用のサイクロ・リクシャーの運転席に飛び乗って都織のほうを振り返る。ため息をつきながら都織は「運転できるの?」と問うた。
「あんまり上手じゃないけど、居残りでたくさん練習したから大丈夫! ……多分」
目的地を問うナビの電源を切って、滑らかに動き出したリクシャーは快適だった。ルビは都織の言うがままの道を行く。純粋さに胸が刺されるように痛んだが、三十分後にはルビを放り出すのだ。その取り返しのつかなさを考えれば、これくらいで苦しいと思うこと自体、甘えだった。
「ねえ、本当に知らなくていいの、都織」
向かい風の中にルビの声がする。その短い髪が遊ぶように揺れて楽しげだ。当たり前に表情が見えることはない。運転中のよそ見は、いくら事故回避機能がついているからと言えど、危険なことに変わりはない。
「ルビは殺し屋の猫だから、都織も、都織を追いかけてくるやつらもみんな殺してしまえるんだよ。そういう風に爪を研いで暮らしてきたんだ。……これまでどこで買われていたのか、どうしてあの時、都織を尾けていたのか。そういうことを話さないままで本当にいいの」
ルビは少なくとも、近いうちに都織が自分を手放す気だというところまでは察しているようだった。リクシャーに乗っている間は飛び降りて逃げられない。そういうシチュエーションに計算して追い込まれてしまったようだ。
「大体は想像がついてる。あなたの青みピンクは対連合自由戦線の色。そして表向き、彼女らは暴力を決して用いない……ユニオンから逃げ出した―あるいは逃げ出させた猫たちを、網で捕まえるように連れていって、保護者の顔をして教え込んだんでしょう。誰かを殺す方法、人目を忍んで歩くやり方、極寒や猛暑の中でどうすれば生き延びることができるか……。そしてそういう兵隊は彼女たちの中から選抜するわけにはいかなかった。彼女たちはただ一つの例外を除いて人を傷つける力を持たないというのが建前だし―なにより、猫が倒れていたら普通メーカーズユニオンのところの子だと思うから。……吐き気がする。」
「少し停車して休憩する?」
「そういう意味じゃないの、分かってるでしょ」
思えば、名前を聞いたあの時に予兆に気付くべきだった。とても小さいこと、ふりがな、赤い宝石、いくつもの意味を持つ鏡のようなルビという名前。見た目にどこも赤いところのない猫をそう名付けるのは、まさしくニカフのやりそうなことだった。そしてニカフに言葉の多義性を教え齎したのは都織だ。だから、その名から感じ取るべきだったのだ―都織に向けた鋭い期待を。あの日々を呼び起こさんとする笛の音を。
ニカフ・ノーマンド。かつての恋人、親友、同志……そして、あの事故以来二度と会うことのできなくなった人。その名前を見なくて済むように、果てまで逃げたつもりだったのに。
都織の頭に花が咲いたのは、ここ十年で一番冷え込む日のことだった。上空の寒冷前線を恨めしく思いながら、都織と同志たちはアジトでピンクのベンチコートのジッパーを上げた。対連合自由戦線は表向き暴力を使わない。拳もダイナマイトも使わない。その代わり、同志たちは小さな銃を持っているピンク色の銃―それはどちらかと言えば、レーザービームに近い性質を持つ武器だ。額に直接突きつけた状態でトリガーを引くことで、うなじから頸椎にかけて埋め込まれたスロットへ電気信号がビリリと流れる。それは元々の脳みそやカセットが生み出す伝達信号を乱し、処理系統を破壊する。強制的に新たな情報―取り立てて意味のない、激しく強いビジョンやにおい、音やテクスチャが流し込まれることで、文字通り頭がめちゃくちゃになる。そういう武器だった。
都織はその技術にまるで興味がなかったし、最初に手渡された時には、武器の形をしているというその時点で既に忌避感があった。それでもニカフに言いくるめられて、お守り代わりに持っておくことにしたのだ。
「メーカーズユニオンは人を殺せる武器を持っているんだよ。私たちだって、少しは身構えておいた方がいいんじゃない?」
至近距離でしか機能を果たすことのできない小銃は、どちらかといえばお揃いの装備としての意味合いが強い。都織は自分が銃を突きつけられるまで、そう思っていた。
あの時、ニュースメディアが『季節外れの開花』と面白おかしく書き立てたのを覚えている。女性は感情的だから、女性ばかりで連帯すると、痴話喧嘩がこじれて事故が起きるのだと、心理学の専門家がわかったような顔で話していた。その頃はベッドの中にいて、錨すら感じられないほどに、すべての情報が脳の中で散らばっていった。事件の概要としては新しき同志少女が、「初めて触れる武器に興奮して」「中身が空の銃弾だと思い込んで」「安全装置がたまたま外れていて」「思ったよりも軽い力でトリガーが引けて」そのせいで三人が負傷したものの、命に別状はないものだった―そう片付けられた。都織は今でもふいに視界がチカチカ光り出すことがあるけれど、そこまで回復したのはただ一人だ。皮肉なことに、スロットがたった二つきりだったことが幸いしたのだ。二人はいまだに治療を受けている、はずだ。名前も顔も確かに憶えているのに、もう何のパスでも繋がることができない。
あの頃、ベッドでの時間を無為に過ごすのが苦しくて、都織は執拗に自分の知らなかった銃の仕組みについて調べた。揺り返すように何度も目を通し、文章を読み下せるようになるまで、実に長い時間を要した。
結局、あの銃は全く「Gun of Peace」ではなかったのだ。スロット自体、非常に危ういバランスで成り立っているもので、これほど普及するとは開発者は思ってもみなかったらしい。彼は最後の最後まで、「スロットはそう気軽に一般化されるべきではない」と主張を続け、ずいぶん若いうちに亡くなった。スロットに込めたカセットと響き合うショック信号は、頭蓋の中をアトランダムに駆け巡り、完全に脳を破壊してしまうことだってありうる。素人でもわかることだ。初めは銃の形なんてしていなかったそれは、医療用に開発されたのにもかかわらず、その危険性から開発が長い間凍結していた。そこに春をもたらしたのが対連合自由戦線―都織やニカフが参加するよりずっと前の、彼女たちだった。
「ルビはニカフと直接話したことがある?」
「初めて会った時……膝が高くて猫みたいだと思った。でも、猫はみんなそんなに大きくないのに、先生はルビよりずっと背が高かった」
都織は懐かしさに苦笑した。ニカフは身長が低いのがコンプレックスで、いつも分厚い底の靴を履き、高いスツールに座って足をぶらつかせていた。
「訓練をつけてもらったこともあった。あの人は―今は広報をやっているみたいだけど―誰もがみんな高い実践技術を持っているって褒めていたよ。ルビたちの手本だった」
他人の口から聞くニカフの姿は、ニカフがかつてそうありたいと望んでいたまさにそのままの形をしていて、褒めてやりたいような、苦々しいような、折れ曲がった気持ちになる。都織の知るニカフはもっとうろうろと人目を気にする、気の弱い少女だった。
そんな話をしているうちにSETの三番地に辿り着く。肩身の狭そうな低いビルの前でリクシャーを降り、都織はルビの手を引いて、回転扉を押す―と同時にちょうど差し向かう位置に痩せた少女が入ってきた。ちらりと視線を送ると、彼女はこちらを見ながら歩いていた。気付かれるのを待っていたように、強く見つめていた忘れようもない。ペールイエローのベビードールにカーディガンを羽織っただけの軽装で、そこにはあかりがいた。
都織はすっかり驚いたまま、意味もなく、まるでメリーゴーランドのように二周歩いてしまってから、ビルの外で待つあかりの前に立った。ルビの手を振りほどいてしまったのはどういうやましさからなのか、都織は自分自身でもよくわからない。
あかりは明るい場所で見ても美しい少女だ。零れ落ちそうに大きな瞳と、鹿のような細い脚。パツンと切りそろった髪は癖の一つもない。かわいらしいラウンドカットの爪にはまた新しいデザインが施されている。そして少し照れたように、小首をかしげて笑う。
「ずっと待っていたんです。会いたかった。あなたがくれた花が枯れてしまって、そろそろ来るかもしれないと思った。毎日窓の外をずっと見ていたの」
そして大きく手を広げる。花自体はごく小さいのに、強く香りを放っている。茉莉花、沈丁花、銀木犀。細かな模様はきらめく星のようにも見えた。だが、なによりそこに強く存在するあかりから目を離せない。その表情に惹かれる。
都織はその寒々しい肩を抱こうとして―ルビに突き飛ばされたのと、銃声が聞こえたのがほぼ同時だった。あかりの手にはピンクの小銃。アスファルトに傷一つつかない「Gun of Peace」を落として、あかりはへたりと座り込んだ。
誰もこの真昼に響き渡る銃声なんて気にしていないようだった。SETの区画はいつだって閉鎖的で、どこの部屋で何が起ころうが誰も気付いてくれやしない。それはビルの外でも例外ではないらしい。
あかりは美しかった。まるで自分が撃たれたかのように悲痛な顔をし、身をかばっていても、都織がこれまでであった誰よりもきれいだった。
「どうして」
絶句している都織の代わりに、ルビが訊く。
「この瞬間しかないと思ったから」
あかりは泣き出しそうな顔を振り払って、立ち上がった。ルビに手を引きあげられ、都織も距離を取ったまま向き合う。
「都織を狙ってたの」
「当たり前でしょう。そうじゃなかったら、私がこれを持つことなんて到底できませんから」
「どこで手に入れたの」
「あちらから、Norで連絡がありました。何の対価もいらない、仲間として認める、その代わりにいつか必ず―そのいつかをずっと待っていました。ついこの間連絡があって、もしあなたがここに来たならば、絶対に撃ち漏らしてはならないと言われたのに」
結局私は何もできない、そう言ってあかりはため息をついた。決して都織に対して申し訳なさそうにしなかったし、もう一度射撃を試みることすらしなかった。都織はあかりの足元に目を向けた。外に出るような光沢のある靴ではなく、室内用の小動物のようなシューズを履いていた。これで地面をしっかり踏みしめられるわけがない。
「銃を……手にしようと思ったのはなぜ? あなたもニカフに憧れていたの?」
あかりは諦めたように笑って、整理をつけないままの言葉でくるくると話し出した。
「強く焼き付いたんです。ニカフさんはこんな全部が透けて丸出しになる服じゃなく、上等で分厚くて重そうなコートを着ていた。話している中身は頭の悪い私には全然わからなかったけれど……ああ、今思えば、あの人は姉に似ていた」
「お姉さんがいたのね」
初めて聞いたのに、その情報はどこか納得感があった。常に何かを追いかけているような―追いかけるものを探しているようなあかりのスタイル、流行の髪色、ネイル、コロン、それらの持つ意味が一段上に引き上げられて感じられた。
「双子の姉です。彼女は元から女の子だったから、パンツスーツを履いても、髪の毛をごく短くしても、それが変わることはなかった。賢くて、人には好かれていなかったけれど、憧れていた人は多かったんじゃないかと思います―私のように」
あかりは誰にでもある小さな屈託を、まるでそっと手渡すかのようにつまびらかにした。都織は混乱したまま頷く。未だあかりに手綱を握られ同情するように仕組まれているのだろうか。……それほど邪なことのできる少女だったろうか。
「学校を出て、すぐにここで働き始めて……少しずつお金をためて、体を自分の望むように、だんだん作り変えてもらっていった。でも、それでも気付いていたでしょう。あなたは口にしなかったけれど、私は結局それを切り取るところまで、辿り着けなかった」
「そんなのは自分で決めたらいいことなんじゃない? ……とか、当事者じゃないわたしが言っても、あなたにとっては百一回目だと思うけど」
「ううん、でも、都織さんのことは結構好きだったんです。内腿に隠したピンク色の銃に気付かなかったところも、気付いているはずの私自身のホルスターに何も言わなかったところも」
たったそれだけのことで、客に好感まで持つあかりの生活が流れ込んできて苦しい。未だ裁定を下さんとしてあかりを見つめる透明なルビの瞳は強く、都織はそのようにはとてもあれなかった。わずかに数か月、触れた肌のぬくもりが、もはやあかりのことを他人だと突き放せなくする。
「気付くような人は、私が騙していると言って首を絞めてくることもあったし、逆に膨らんでいるんじゃないと言って付け入ろうとして来ることもあったから。私を認めてくれる人だと思ったんです。もっとほかの関わり方がしたかった。けれど私は結局、憧れとか夢とか、曖昧な世界の中で生きているから、あなたにこの銃を向けるしかできなかった」
誰がいつ都織があかりの元に通っていると気付いたのか―少し考えて、簡単な答えが出てくる。青いビルに向かうものは、暗い部屋で過ごす時間を誰にも悟られたくないから、その間は全てのカセットを抜くのが常だ。それは都織も例外ではなかった。その穴に赤いピンが立つ。どれほどの頻度で、どれだけの時間をそこで過ごすのか、直接触れ合うあかりがもたらす情報と合わせれば、何もかも筒抜けだ。今日この時間にルビを連れてここを訪れるとピッタリな情報までは、まるで相手方も導き出していなかっただろうけれど、きっとあかりにはなんとなくわかっていたのだ。実際、都織は確かにあかりに会いたいと思っていた。
「ここに来て、私の部屋に入るときにカセットを外すでしょう。そうしたら、きっとこの銃の威力は落ちますよね」
あかりは多少なりとも手に持った武器の性質を理解しているようだった。正直驚いたが、そのこと自体があかりへの不遜だとすぐに気付く。都織は黙ってうなずいた。
「その時まで待っていればよかったな。その方が自然に近づけた。その方がためらいなく撃てた。そこの子が邪魔してくることもなかっただろうし。窓から姿が見えて、今、早くって焦ってしまった」
自嘲しながら俯くと、柔らかな光を受けた髪が肩から滑り落ちた。都織は束の間その光景に目を取られてしまって、はたと気を取り直す。
あかりに銃を持たせた人間は、果たしてどの階級にいるのかわからない。ニカフがたとえもう一度こちらに手を伸ばしてきたとしても、壊す理由はどこにもない。都織の知る限り、ニカフは最も感情的で、それゆえにもっとも慎重な人間だった。以下の人間の指示だとすれば、結局のところ、女性ばかりで連帯すると、痴話喧嘩がこじれて事故が起きるという言葉が真実なのだろうか。あまりにも非科学的な話だ。
だが少なくとも、それ(ら)がひたと都織を狙っているのは間違いなかった。ニカフの思い入れを除くにしても、喋るのに長けた人間だとか、同志たる資格を持つ人間の誰でもいいわけではないのだ。だってそれなら武器をくれてやったあかりをそのまま引き込めばいい。……あるいは、あかりの体を嫌悪する閉鎖的なコミュニティに成り下がっているのかもしれないが。
今目の前にいる少女のことを考えた。なにを話すべきなのか。どう切り出すべきなのか。あるいはこのまま立ち去るべきなのだろうか。頬にルビの強いまなざしを感じ、都織は口を開く。ここで言葉にすべきことに、たったひとつだけ心当たりがあった。
「……ニカフは、天才的な革命家でも、立派な殺し屋でもないの。元々は、彼女の思う―そして、かつてはわたしも共感していた―正当な権利が欲しくって、さまざまに喚くだけのワナビーだった。それが洗練されて、力を実際に持つようになると、こういうことが起きる。あなたを魅了したようにもはや内側から輝く」
都織はあかりから銃を取り上げ、五発地面に向けて空撃ちした。火薬の欠片も詰まっていないけれど、これだけ連発すればさすがに腕がしびれる。肩が外れた都織のもとにルビが弾けたように寄っていき、体を支えた。そして銃は持ち主のもとに放られる。淡い空に映える青みピンク。寄り添うふたりを前にして、心底バツの悪そうに苦い顔のあかりは、今度こそ本当にただのおもちゃになった樹脂製の銃をしっかと抱きしめた。
「あかり、そんな顔をしないで。たった一人の客の言ったことなんて気に病まないで。あなたが憧れの中にいた時間は、あなただけのものだから。わたしはせいぜい脇役にすぎない」
ここで何を言おうと大した意味がないことくらい、都織は理解していた。今のあかりはただ、自分がやっと成すことができたはずのことを否定された、一番深い底にいる気分でいる。それがどんなひとにだってわかるような状況だった。自分の言葉が持つ意味それ自体が彼女に届くことなんて、到底あり得ないと知っている。それでも祈るように膝を折る。見上げるあかりは細い顎をしていた。こうして見ると見下されているようだ。
「……でもだとしても、誰かを決定的に破壊してしまえるその銃で、変わるのは相手の頭だけじゃない。あなた自身も、変わる。引き金を引く前と後では」
なるべくごく一般的な事実を話すように、さらに少しだけ押す。かすかに感じるデジャヴはいつどこでのものだろう。自分はこうして、足りないスロットの力を借りられないまま、不完全な言葉を探していたことがあった。相手を変えよう、そのために手を伸ばそう、そうして試みていたことがあった。
「それにきっと耐えられないんじゃないかと思っている。今でもそう。だからあかりのことを好きだと思った。……ううん、今でもそう」
撃たれてもなおあかりのことを全く恨めないでいる。これまでくれた時間は砂のように零れ落ち、都織の中にあかりの似姿を作っていた。それはどこかかつての都織に似ていたのだ。都織自身も忘れてしまったような曖昧な輪郭に。
ルビは黙ってあかりを見つめていたが、薄汚れたチョーカーをとうとうその場に投げ捨てた。見上げて睨めど凄みがあるのは、やはりその瞳のせいだろうか。はらり、と地に落ちて見れば、そのチョーカーは安っぽいリボンの端に金具をつけただけのものだった。刻まれた番号が何を示すのか、居合わせる誰も尋ねない。打ち捨てられてもはや意味がないことを皆が分かっていたからだ。
「ルビは……着いてきてよかった。きっと都織はここにルビを捨てるんだと思ったけど、信じてよかった」
「ルビ」
ルビは大丈夫だと伝えるように、都織に向かって微笑んで見せた。
「やっぱり、憧れに人を傷つけさせるようなところには、もう二度と加担できない。そう思えたから……でも結局捨てられるのは変わりないんだよね」
他人のあかりにとってはどうでもいい話だ。だからこそルビはあかりに向かって言葉を打ち続ける。壁に跳ね返るボールのように、ひとりでそれを打ち返し、繰り返す。
「都織、ルビがいなくて本当に平気? 自分で自分の体を守れる? 都織は気付いている? 今、まぎれもなく都織を、あの人たちは都織だけ見てる。今みたいなことがあった時、どうするの? それだけが心残り」
最初からあかりは困惑していた。都織は自分のことなのに言葉を挟む資格がないと感じていた。そうしてひとりのラリーには終わりが来る。
「なんだか立場が逆転しているみたいだね」
ボールがアスファルトに跳ね、転がっていく様が見えるようだった。さんにんはそれを囲んで黙っていた。その時間は重く、長いものだったが―転がる先を指し示したのは都織だった。都織はぼんやりとした体の向きをルビのほうにはっきり変えた。それは都織のせめてもの誠意だった。
「卑怯だったね、わたしは……浅薄で責任感がなかった。ここの子たちが優しくて、熱に飢えていると思い込んでいて、その態度はルビに対しても、誰に対してだって侮辱だ」
「別にそんなのはいいよ。都織、都織はね、たぶん自分の思っているよりずっと失礼」
「……そうだったかな」
「自分の見えてるものだけをすごく大事にして、あとは気を配らないでいるの。でも、そういうところも好きだよ。都織は?」
ごくシンプルな言葉で追い詰め、すっくと歩き出したルビに、都織はもはや立ち止まっているわけにはいかなかった。
「……わたしもルビのことが好き。優しくて賢いわたしの爆弾」
「そしたら、一緒に逃げるしかないね?」
都織はリクシャーに乗り込む前に振り向いた。あかりは呆れたような顔で手を振る。共に過ごした長いとも短いとも言い難い時間の中で、全く初めて見る部類の表情だった。
そしてルビはエンジンをかける。水面のように澄んだ目を都織に向けて、ふたりきりにしては大きな声で言い放った。
「ルビは、この入り組んじゃった世界のために、都織と一緒にいるって決めたんだ」
しばらく後ろで揺られていた都織のもとにメッセージが着く。『知らないユーザーからのチャットです。許可しますか?』アイコンには顔のよく似た少女二人が肩を組んでいる写真が設定されていた。
『都織さん』
『私、嘘ついてました。』
『サイトのプロフ年齢、十九っていうのはサバを読んでいた。ニカフさんの一つ下なんです』
『そしたら、わたしとは二つ違いだね』
そして送られてきたスタンプはおどけたクマのキャラクターで、こちらに尻を突き出して笑っている表情に、汗か涙かが書き足されている。
ところで青いビルには屋上がある。区画SETに住む誰も部屋から出てはこないから、保たれている緑もほとんど無意味なものだ。無意味なものに咲かれるリソースは、そのまま有意義なものに回すことなんてできない。そんな屋上庭園で遠ざかるリクシャーを眺めていた少女は、深く息を吸うと、ルームプレートをひっくり返して、自室の扉を閉めた。
「それで、どこに逃げる?」
路地裏にリクシャーを乗り捨てて、もちろん足のつかない手持ちがないから清算もしない。絡まり合うようにお互いの身を隠しながら歩く。お互いから肌と汗のにおいがする。数日夜の中を歩き、昼の光にうたた寝をして過ごした。すれ違う誰かにもそろそろ鼻をつままれる頃合いだった。そうして結局ふたりが行き着いたのは、都織の足に染みついたジャングルだった。
「……もしかしたら知り合いが―AKHに暮らしてる奴なんて後ろ暗いヤツばっかりだし―数日なら屋根を貸してくれるかも」
ルビは肩をすくめ、手のつけようがないという顔をした。このところ二人の関係性はすっかり転んでいる。
「そんなの、一番張ってるに決まってるでしょ……でもたくさん穴がありそう、っていうのには同意する。お風呂にも入りたいしね」
言いながら都織の端末を開く。この辺りのカプセルホテルで、あまり系列店を多く持っていなくって、大浴場のないところ。マイナスばかりの検索に奇跡的に引っかかった二店舗は、幸い徒歩にして十五分もかからない場所だった。リュックサックの中身を軽く整理し、ルビは都織の手を引いて歩き始める。
「今更だけど、猫は水に濡れるのが苦手なのかと思ってた」
「人と変わらないよ。びしょびしょになること自体はあんまり好きじゃないし……」
都織はルビが濡れそぼっているところを見たことがなかった。ほとんど水気を飛ばし、あたたかく湿り気だけを残した状態で「上がったよ」と言ってくるのが常だったし、一度も一緒にシャワーを浴びたことがなかった。
だからカプセルホテルに着いたとき、「一緒に入ろうか」と訊いてみたのだ。
「やだ」
「わたし、結構ひとの体洗うの上手いんだけどな」
「……余計、いやだ」
ルビはスウェットの下を外に放りだし、シャワー室にこもろうとする。扉が閉まり切る直前、都織が脚を割り込ませて止めると、ルビは肩を抱いて小さくかがみこんだ。
「背中流してあげるよ」
「大丈夫」
「なんか隠してたりしない?」
「冗談でも怒るよ」
「ごめん。……もう一歩近づけたかなって思っただけなんだ。失礼した」
「うん」
都織は未練がましく曇りガラスの扉に背中をつけて立っていた。一瞬細く開いた隙からスウェットが投げ出されたので、それを受け止めて軽く畳む。
薄い扉越しにもたれかかられる感触があった。自分よりはずっと小さい形に体を収める、その影。思い浮かべるのは同じ力で反発する均衡。薄く脆くて硬いテクスチャと、人肌のぬくもりを奪うガラスの温度。わずかにかいた汗が背と扉の間を流れ、距離を隔てる。
不安定な心の奥をよく知ったはずのルビと預け合いながら、けして扉に当たることのない透明な尾を都織は感じていた。ただの肉の塊というには少し芯があって逃れやすいもの。しかし彼女はそれを動かすことはなかった。持たないものがどうして持つものと同じようにふるまえるのだろうか。
「あのね、都織」
「……どうしたの」
「……ルビには、尻尾がないでしょ。元々はあったんだよ」
「……」
都織は背中をつけたまま座り込んだ。そうすると、痩せた尻よりも突き出した尾てい骨がリノリウムの床に当たる。
「あった、はずなの。……だから尻尾を失くしたころに、お腹に穴をあけられたの。偽物の尻尾をつけるために、根っこを押し込まれていたの」
「言わなくていいよ、ルビ」
「なんだかお腹も膨らんでいる気がするの。あばらも浮き出てるの……だから嫌だったの。見られるのが嫌だった―気持ち悪いと思われたくなかった」
向こうで温度を調整するパネルのピ・ピ・ピという機械音がする。間もなく霧のようにシャワーは床に染み入るように降り始める。ただ旧い型なのか、それともルビの体から落ちる水滴なのか、粒の落ちる音が混じる。
「ルビ、都織のことを心底、信頼、出来ていなかったのかなあ」
温かさがルビの上に降り注いでいる。扉一枚隔てて、都織のいる脱衣所はすっかり乾いている。こんな安宿でも空調設備が効いていて、常に一定の不快指数が保たれている。
「目は擦らないほうがいいよ。水で冷やして……あなたの瞳は宝石みたいにきれいだから。あなたの財産を大切にした方がいい」
「反抗的って言われても?」
思わず目を見開いた。シャワーは止まらない。ルビは体を手際よく洗い続けている。いくら影しか見えないとしても振り返ることは躊躇われた。ルビの表情一つ想像のつかない自分には、確かめようとすることすら烏滸がましく思えた。
ルビはいつだって足先まで丁寧に洗うのだ。その鋭い爪が肌を裂くことがないように、時間をかけて泡を立て、その弾力で汚れを浮き上がらせるようにする。時々、その手腕は都織といるときも発揮された。首をぐらぐらさせて眠りかけている都織を連れて行った洗面台で、あまりにも多い洗い物を積んだシンクで、二人で重ねて洗った掌で。
おそらく泡が全身を包み、肌を滑って洗い流された頃、ようやく都織は口を開く。
「……また、言い方を間違えた」
そしてもう間違えないように。正しさがなくとも誤らないように、告げる声は必然、細く絞り出すようなものになる。
「わたしはルビの目が好きだから、大切にしてくれると嬉しいって思う」
ルビはピ、とシャワーを止めた。
「わかった」
言葉と共に扉は唐突に開かれた。全身を振るうルビのおかげで都織はすっかりびしょ濡れになった。後ろに積んであった二枚三百円のタオルは無事で、都織は少し迷った末に、大きくタオルを広げて差し出してみる。
「拭いてあげる」
わずかに竦んだルビに向かって一歩踏み出した都織の足は、敷居を越えて濡れる。抱いた体は服を着ているときよりもずっと小さく感じられた。
歪な作りのビルを出る。長い長い外階段に吹く風は強く、生乾きの髪を冷やしてふたりを震え上がらせた。十階頃で休憩していると、何か表通りのほうから賑やかな音が聞こえてくる。先導する街宣車はレトロな作りで昼間から惜しげもなく光を放っている。楽しげなポピュラーソングを街の誰もに振りまくように垂れ流す。窓が開き人々の顔が覗く。
次第に誰もが同じ言葉を口にする。
「言葉を奪われないで」
「あたしたちは奪われない」
「犠牲者にはならないの」
ぞろぞろとついてくる人々は花を撒くように青みピンクのビラを振りまいた。そこには強い言葉が書かれているのだろう。すれ違う人が放り投げるほど、地面はピンク色に染まる。人々の足跡を塗り替えるほどのピンク色だ。
「この街にまで来るなんて」
本部はもっと秩序が常に保たれた場所にある。知と良識が常に横たわっているような区画だ。ずいぶん遠く離れた場所なのに、こんなに大規模なパレードを?
都織が階段を降りながら調べると、これは昨日おとといに発表された突発的なものなのだという。都織とルビはフロートボードを蹴りだして、手すりを滑り、地上へ沈みながら人ごみから遠ざかる。しかしその時、車の上に立つ制服と目が合った。青みピンクのラインが二本、同じ色の「ピンク色の銃」を携えている。誰ももはや疑うものはなく、すっかり浸透してしまっている。それぞれが好きな色のぱっつんボブをしているから、うなじがさらさらと覗く。だいたい四から六のスロット、例外は遠目には見つからない。あたりを見渡し誰かを探していた。その紫の頭がふたりを見止め、即通信を飛ばしているのが分かった。
都織はこれまでにないほどスピードを出し、体をかがめてボードを飛ばした。これほどの無理なんて、乗りこなせるようになってすぐの幼い時以来だ。乗るのは好きでも決して上手いほうではなくて、それを後悔したのは初めてだった。ルビは何も言わずともぺたんと身を張りつかせている。この板は今どれほど熱いだろうか。
途中すれ違ったひとびとはみなふたりに悲鳴を上げて、勝手に道を作ってくれた。あんな滑らかな液状ドレスを着た人間も、導かれればAKHまでやってくるなんて、そういうくだらないことを共有して笑う余裕もない。
ふたりのために作られた道を、もっと分厚く大げさなフロートボードに乗ったぱっつん頭が追いかけてくる。バッテリーは十分でしばらくは捕まらないだろうと高をくくっていた矢先―減速が始まった。それどころか、どれほど抵抗しても向きを転換させられる。ふたりの方からたった今来た道を辿らされるのだ。ぱっつん頭はもはや二人を護るかのようにゆっくりと並走している。完全にコントロールを失ったと気付くのが遅かった。ボードを飛び降りた瞬間に、差し向かって大きなかたまりがやってくるのが見えた。
それは大きなゾウだった。ピンク色で、三階建てくらいの大きさがある。牙が生えていて、それは蓄光するマットな素材のようだ。その頭の上にいる人物がふたりを釘付けにした。厚手のコートにピンクのライン。ぱっつんカットは周りの「同志」たちよりもずいぶん長く、手入れが行き届いていてつやつや光る。その女の名を誰もが知っている。その女の顔を見ない日はない。忘れた日もまた。それは紛れもなく、ニカフ・ノーマンド、そのひとだった。
「喪失を経験して強くなったと思っていた。キミたちはまだ逃げるの。これ以上、愚かになることを続けるの」
彼女はピンク色の拡声器でそう言い放ちながら鼻を滑り台にして下まで降りてくる。どこからともなく拍手が沸き起こった。彼らはきっと内容を称賛しているのではない。ニカフの一挙手一挙動が、ひとを惹きつけてやまないのだ。すべてが大げさで、すべてが求められているものだった。都織は懐かしい怒りを覚えながら、マイクもなしに腹の底から声を張る。
「あなたといられなくなって……あなたを喪失したことで、わたしがそこまで堪えるって? 自意識過剰にもほどがあるんじゃない」
ニカフはまるで動じなかった。旧い同志との再会の火蓋がこんなふうに切って落とされても、まるで想定内だったような顔をした。当然といえば当然だ、ニカフの提示した問いかけ自体が、答えを狭めるものなのだから。都織はそれに気付いていながら、止まることができない。条件反射からか、泉のように言葉が湧いてくるのだ。
「そうね、確かにあなたは美しい。決して替えが効かないカリスマで、わたしが人生で出会った誰よりも歴史の編み手に近い立場にいる。いまとなってはきっと、おだやかに微笑み、堂々とお題目を唱えている姿がそのまま受け止められる暮らしの中にいるんでしょう。自分が価値ある存在として、相手の中にいて当然だと思い込める理屈はわかる。
………………実際、わたしは確かにあなたのもとを去った後―去らざるを得なかった後―自分でも驚くほど、ひどく落ち込んだ。一ヶ月も変化を引きずって、目の下にクマを作って、食事は冷凍の生スープかデリバリーのチキン。肌もボロボロ。やることといえばレトロカセットの形式変換とか、更新が止まったワールドのバグを見つけて広げて回ること。仕事にもつながらないような無駄なこと。だけど、それは、わたしが、このわたしがあなたと別れたときに動揺したそれそのことの反動だから。わたしの魂はあなたに傷つけられるほどやわじゃない。もはやわたしはあなたのために生きていない」
全てを無視して唐突に、ルビが「にゃあ」と口にした。
「猫はこう鳴くんでしょ」
その言葉にわずかに都織は昂りを沈められた。ルビは腰のあたりを何度か軽く叩いて、ほとんど過呼吸のようになっている都織にペースを作ってやる。
「噂には聞いていたけど、黒猫は気まぐれなんだね」
そう言うとニカフは拡声器を降ろし、「生きているものはみんなそうか」と付け加える。そのまましばらく、黙ってこちらを見ていた。次の言葉の中に何か漬け込む隙を探そうとしているのか、感情的な都織に面食らっているのか、それとも対等に二本足で立つのを待っていたのか―それはどのようにも取れて、ルビは警戒心をあらわに今にもつかみかからんという勢いで、静かに息を絞っていた。都織もなんとか、一番強い言葉を返そうと躍起だ。
「……自分の存在が必ずや相手に影を落としていると思い込むのはやめた方がいいよ。あなたみたいなひとに身分知らずにもそんなことを言ってあげられるのなんて、もはやわたしぐらいだと思うけど」
「そう、私はこれまで様々な人に折々見限られてきたけれど。キミだけはまだ振り向いてくれるかなと思ったんだ。キミは私との対話を諦められない。外的要因さえなければ、永遠に」
そう言ってニカフはちらりとルビのほうを見遣った。鏡のように言葉は跳ね返る。ルビは都織の前に出て、まるでその反射を止めようとするかのように立ちはだかった。
昔はそうだった。あるいは今もその延長なのかもしれない。都織とニカフは数言交わすだけで空気が氷の針のように尖る。手を叩いた瞬間二人のどちらとも氷の粒に貫かれそうだと半ば本気で怯えられた。都織はルビと肩を並べて、腰を軽く叩いてセーブする。
「ねえ、駆け引きにしては危険すぎる。あなたの指示かはわからないけど……というかむしろどこまでがあなたなのか総体を把握することが難しい。どうせその両脇にいる子たちのスロットも借りているんでしょう」
ニカフは隣に控えたおかっぱ頭のうなじを撫でるようにかきあげた。それぞれ四本ずつ―合計八本分のスロットがニカフに供されていることとなる。あるいはもっと? 都織の二本きり―正確に自由になるのは一本分だけのスロットには、どれだけの無線がニカフに繋がれているのか可視化するような高価なカセットは入れられない。単純に持っていないし、それにはとても容量が足りないから。
代わりに都織はリュックサックを抱いて、その底に縫い付けてあったカセットを一つ剥がして取り出した。ブルーに偏光するラメがぎっしり詰まった樹脂で作られて、見た目で気に入って言い値で購入したのだ。頭が弾けてすぐのこと、ごく久しぶりに自分から手を伸ばしたものだった。
カセットを嵌めるとちょうどスロットの上部がビリリとしびれるような気がする。ジュンジュンジュンジュンと脳がまるっきり収縮する感覚。蒸気機関のように空洞全てを使ってようやくはたらきが始まる。
都織は目の下をこすってから言い放つ。
「あなたはわたしたちの全部、公共財にするつもり? とうとうライン引きも出来なくなった? ……テクストファンドに関わった子全員をずっと張っているの? それともあるエリアに侵入した者だけ? にら餃子一つから、わたしたちをよく見つけたね」
もう一度こする。
「わたしたちを追い立てるとき、スマイルデリに全部なすりつけようとしたでしょう。メーカーズユニオン相手にケンカを売るようなこと―いつのまにか嘘つきも覚えて、たくさんの人にそれをさせて―リクシャーや車やユニフォームをどこからかっぱらってきたの?」
そしてもう一度擦ってから―都織の腕は力を失ってぷらんと体の側に落ちた。
「……わたしたちはどうにかみんなで本当のものを手に入れるために、その制服を着て、銃を取ったんじゃなかったの」
ニカフは足を交差させて微笑んでみせる。都織の知らなかった表情が、メディアの中で見たパテを盛った人形のような頬が、もはや都織一個人をまなざしていない瞳がそこにある。
「私はどこまでも危ない存在になる。そのほうが燃え上がるもんね?」
「火種があればね」
その言葉の底に沈ませた意味から、そして都織の顔からも背けた目を、ニカフは都織のすぐ横に向ける。
「いい黒猫でしょ。私も仕込むのを手伝った。これを一滴与えてね」
ゴン、と重く鈍い音。知りたくもない何かを、きっと可能な限り仕込んだコートを脱ぎ捨てて、黒いワンピース一枚になったニカフは、胸元のペンダントをそっと摘まんで見せた。それは本物の銀で封をした細いボトルだ。閉じこめた水の色はルビの瞳と同じほど澄んでいる。今度は、ルビも都織から目を背けた。
「でもキミに振り向いてほしかったのはなにも色恋の相手としてじゃない」
都織の目を見ないニカフが見ているのは都織の胸元だ。そこに未だ揺れる同じボトルを―その奥にある心臓を見透かして、指を突き付けた。
「ねえ、今私が指を鳴らせば、キミはまたあのときのように破壊される。ただ、違う方向に向けることだって簡単。だけど、その指揮権を任せられるのは結局キミだけだと、私は思ってるんだ。」
つくづくろくな女じゃない、と都織は思った。見覚えのある顔がちらほらいる、自分とお揃いの格好の「同志」を差し置いて、まるきりラフな格好の元カノに正気でこう言ってのけるのだから。
「もう戦争をやってみる気はない?」
そんな気は最初から毛頭ない、という代わりに、都織は話を逸らすことにした。こんな問いを投げられて、相手と同じ場所にへらへら行くこと自体が間違っている。
「当てがあるの? 火種の当てが」
都織の言葉にニカフは夢を見るように腕を開いた。
「体験したでしょ。現在進行形でいくつかのワールドが閉じられている。メーカーズユニオンは自分たちが開いたワールドをまるで自由主義時代の復権かのように見せていたけれど、それが実のところモルモットを買うケージだったんだ」
その言葉とは裏腹に、ニカフは解き放たれたように自由に見えた。大きく開いた瞳孔深く、都織をルビごと/ルビを都織ごと吸い込もうとするほど、望むままに。
また脳が収縮するような音がして、都織は目をぐるりと回す。跳ねのけるように、押し返すように、一周回り切ってしまうように。
「そう解釈するのが都合がよかったのね。……いや、それもあなたにとっては真実か。本当はケージなんて誰もが持っているのに。あなたも、わたしも」
都織は目の体操を終え、強くニカフを見た。彼女がわずかに狼狽えるのが分かった。懐かしい感覚だ。いつも彼女の前では、自分は振りかざす側だった。いつでも二人でいたけれど、ふと一人になった時にはいつだって、後ろめたい気持ちがついて回った。
「まず私たちの結託は人を決して傷付けないというところにあった。実際、それは正しかった。私は既に決定的に傷付いて、それでも世界は変わらなかった。それに、例えあの頃みたいに、『少しは身構えておいた方がいいんじゃない?』なんて、力じゃ、……とても抑止にはならない。メーカーズユニオンが連携してる警備会社はいくつかある。その条件は、表の顔は綺麗だけど、国外でも活動してるってこと」
ニカフはそれを聞いてさも意外そうに目を見開いた。都織が情勢を把握していることそれ自体が意外なのだろうか。既に社会からログアウトしているから? それともトピックスのせいだろうか。いずれにせよ、その少女のようだった表情は、彼女が目を細め、口を開くにつれて緩やかに、しかし光の速度で失われていく。
「だからね、使い方を任せたいんだ。キミなら人を殺さない運用ができるよね。私はどうもけんかっ早くてダメで、キミといた時間を塗りつぶしてしまいそうになる……私よりきみの方がずっと頭がいいから、キミになら任せられるんだ」
都織は、もはやニカフには自分の意図するところが通じないと察していた。あえて話がずらされていくのも感じながら、それでも乗ってしまう。
「そんなことない、わたしのスロットは……」
結局、都織は乗り越えられずにいる。ニカフと向き合うと引き戻される。ただしそれは一方的なものではなく、お互いに性質付けられた類のものだ。だからニカフも言い放つ。
「スロットじゃ人間は測れない。そう言われたから、キミのことを初めて見つめたんだよ」
そのときどうと風が吹いた。パレードの旗がひらめいた。青みピンクのガーベラは、ニカフの好きな花だ。彼女の長い髪がなびき、かすかにパレードの人々に彼女のうなじを露わにした。十二開けられた鉄の穴はそれぞれ、視点と、指令と、諮問と、思案のためにオーダーメイドのカセットで埋められている。その風はまた、都織のたった二つの鉄の穴をも露わにする。同じ風と人々の声に洗われながら、都織はかつて過ごした日々を思い出していた。
長机に二人で掛けていたあの頃。理想ばかり話していると敬遠されて、いつか現実を知ってくたびれると笑われて、しかしニカフはそのまま大人になってみせた。敗北感がないと言えば嘘になる。
「わたしとあなたが同じ教室にいたとき、私の関心は既にあなたと違うところにあった。それを知っていて、転科までの半年間をあなたに預けることになった。あなたのためにいくらでも言葉を書いた。あなたに認められるのがうれしかった。あなたはわたしを引っ張り出して、他のひとにも認めさせようとしたけれど……結局、わたしはそれをする意味を全く感じていなかった。」
夜更けまで膝を詰めて話したあの頃。より良いものばかりを見るニカフと、よりくだらないものばかりを聞いてくる都織は、お互いを交差させて、何か一人では到底辿り着けないような場所へ行こうとしていた。自分自身を評価するより先に、相手を評価していたから、熱心になればなるだけ共に燃え上がった。
「キミが実質いちばん求心力を持っていたのだから、それがきちんと事実って認識されるべきだと思っていたんだ。それは今でも変わらない」
「わたしはずいぶん昔から―あなたがまだ対連合自由戦線に直接参加していなかったころから―あなたを見てきたけど、あなたが戦線に認められてからというもの、要求される言葉はより熱く誰かを喚起させる過激なものになっていって、でもそれをどうしても避けようとした私を、だからこそ頼ったのでしょう。
でもあなたは貴かった。表に立つことのできる若い存在だった。わたしは傍から見れば完全に枷だった。認められるわけないじゃない。見ているものが違うとか、目指したものがズレたとか、それ以前にわたしは、あなたが求められる役割にとって邪魔だった。……だからずっと離れる時を探していた。そんなときにあなたを熱烈に支持する誰かによって、わたしは『ピンク色の銃』で撃たれた。結局、わたしは離れざるを得なかった。これはそういうお話だと、もうすでに納得したでしょう」
互いが互いの半身のように抱き合って眠ったあの頃。なにより見つめるものの形が合うことが相性にとって一番重要だと信じてやまなかった。若く、すべてがひとつに帰結する関係しか知らなかった。だからニカフのことを考えるとき、確かに同じ場所が痛む気がするのだ。
そして都織は唇を震わせる。かねてから抱いていた疑問の端に着火する。
「例えば、わたしたちをスパイに仕立て上げたり……解体をもくろむ、ユニオン側の工作員にしたり? あのとき、きっと何色にも染めてしまえたのに、それをしなかったのはどうして? そもそもなんで、銃はわたしたちを、」
自分から訪ねておいた癖、その答えを知るのは怖い。ルビはそれを口にさせたこと自体を咎めるように、ニカフを低い声で威嚇した。黒く鋭い爪が光る。あくまでルビは都織の側に立つ気でいるのだ。シャワールームから? チョーカーを外した時から? 橋の下で眠った時? そのはっきりとしたきっかけは、たぶんルビ自身にもついていない。しかし、ルビの噛みつくような視線は、確かにニカフを強く押した。
「あれは……私の知る限りでは、本当に事故だった。ただ、キミたちに銃を向けた彼女も、結局自分から脱退していったから、真実は何一つわからない。皮肉なものだよね、私たちって、『すべてをつまびらかにせよ!』なんて言っておきながら、身内の事件の一つも真相解明ができないんだ」
そう言って小石を蹴ってみせる。慕う者が何百居るまえでのぞかせるそのいじらしさがあれば、都織のカンニングペーパーなどもはや必要ないだろうに、心底気付かないでいるのが、彼女が人前に立っていられる才なのだろうか。
「……あの事件を何かに利用しなかったのは、ただ、キミのことを本当に失いたくなかったから。キミならそれをなるべく小さく収めると思ったから。だからぷっつり縁が切れてしまった時には焦った。キミとのパスが全て絶たれるなんて思わなかった。事故というのは建前だと思われたのか、そう思って会いに行った病室に、キミはいなかった。他の二人の説明も、要領を得なかった。結局のところすべての痕跡がもうなくなっていた。報われることのないままに」
相変わらずバカの一つ覚えのように拡声器を介して話し続ける。だから視線は注がれ続ける。個人の感傷に籠ってゆくニカフに―否、むしろ彼女が見つめる都織に。耐えきれず都織は、情けなくすら見えるこのスポークスマンのほうを強く掴んで引き上げた。
「わたしたちは必死に生きれば生きるほどに、わたしたちの言葉では説明がつかなかった部分を、残滓を無視することができなくなるの。わたしたちは恣意を排した完璧な社会の実現を考えていたでしょう。それが不可能だとわかってしまうの。最後に残るのは意思、祈り、願望。それがないと生きていくことができないのに、これがあるせいでわたしたちは完璧に辿り着くことができないでいる。そして、それらはいつかエラーになる。報われるとか報われないの話じゃないの。誰がその役割を担うのか、そういう話。わたしというカセットは撃ち壊されたとき、もういらなくなった。あなたとはそれでおしまいだったの」
「それならまた結びなおせばいい」
ニカフはそれを可能にするために、猫たちにチョーカーを贈ったのだろうか。それが相手を縛ることに思いもよらないままに。都織はつくづく呆れて意地悪を言う。ルビがそっと手を繋いでくる。
「わたしとあなたはなぜ相性が良かったのか知ってる? わたしたちはさざ波を集めて世界を変えようとしていたんだと思ってたから。でも今のあなたはとても強い言葉で、傷つける人間も厭わない。誰もが『ピンク色の銃』を持っているね。そして今やその唇も銃になった。」
「私がキミから最初に受けた弾丸は私の中でまだ咲き続けている。ターンオーバーが崩壊した幾重にも渡る私の肌に触れ、『あなたという王は放置主義ね、善意をどこまでも信じているの?』なんて言ってのけたのはキミだけだった。スロットの数以外で輪郭を定義してもらったことがなかったから。それは単に関心がなかっただけなのかもしれないけど、あるがままを認めてもらって、私は初めて自分の輪郭を存在を認知することができたから」
もはやお互いにばらばらのことを話している。それだけがそろった視線絵だった。記憶している通りなら、もっと違う言葉を選んだはずだった。もっとも都織の頭にはとっくに花が咲いて、頼りになる記憶なんてロクに残されていなかったけれど、王だの主義だのを初対面の人間に言うような気障さも、スロットの数に竦まずにいられる自尊心も、あの頃持ち合わせてはいなかったはずだ。何重にもかけられた補正はまるで凪のように都織の郷愁の上に横たわり、ついていける気がまるでしなかった。
「微細にこそわたしは関心があって、あなたもそうだと思っていたんだけどな」
誰にともなくつぶやくと、それをルビの瞳が受け止める。「行こう、都織」と裾を引かれて、都織はあたりを見回した。そして何を優先させるべきなのか、ようやく思い出した。ルビだ。今はルビとふたりでいることが何よりも重要なのだ。躍起になって話し込んでいるうちに、どんどん輪が小さく縮まっていたのに気付かなかった。
「行こう、都織」
ルビはもう一度言った。今度は、都織も深く頷いた。
ニカフが思い出の中にいるうち、そのスロットで拡張された思考回路が、現実のふたりを発見しないうちに、早急に立ち去る必要がある。蹴飛ばしてみたボードはもはやうんともすんとも言わなかった。さよならの言葉を口にする隙もなく、再び降りてきたルビとの世界では拍動が速い。膝の高いルビの足が歯車のように回る。都織もまた噛み合う一つの歯車だ。ふたりは人ごみの中を紛れるように走った。もみくちゃになるほど追いつきがたくなるはずだ。それでも決してお互いを見失わずにそこにいた。
だが、道はやがて向こうから開かれる。それは考えうる中で最も厄介な相手だった。モーセのように人を割り、やってくるのはテクストファンドの丸い戦車。マップビューイング用の撮影レンズは一つ目小僧のようで、白くて小さい、せいぜい二人しか乗れない車体に、それでもちゃんと機関銃を備え付けている。後ろからは蓄光するオフホワイトのテックスーツに身を包んだ隊列が追ってくる。そのさまはまるで軍隊のようだ。ニカフたちが断固拒否するメーカーズユニオンよりもよっぽど、統率が取れていた。腰に据えた銃剣は「ピンク色の銃」のようなおもちゃではない。各々の銃身に違う傷を負っている。
ふたりは両開きのジッパーのようにゾウと一つ目小僧の間に挟まれた。道脇に逸れようと向いた方向が真逆だったのがいけなかった。離れまいと手を取って―そのまま二、三度回されているうち、ポツン、とそこに残されてしまったのだ。一つ目小僧の後ろから、退屈な顔をしたまぶたの厚い男性がやってくる。
「我々は基本的に個々人の裁量に任せているが、さすがに提供した情報が痴話喧嘩に使われる安さだと思われては困ります、ニカフ・ノーマンド」
彼の名前は、ニカフ・ノーマンドほどは知られていないだろう。個人の裁量が強く、アメーバのように不定形なテクストファンドは、表に立つひとも折々で異なる。その時引っ張ってきた者がその情報をどう扱うか決めるのが筋だというのがテクストファンドの基本的な方針だ。それでもうまく収まりのつかない時がある。圧倒的な実績と寡黙さ、慎重さによって天秤の座を押し付けられているのがこの男―シライ・カンだった。都織は実際にシライに会うのは初めてだ。こういう湧き上がる雲を背負って歩いてきそうなタイプの男とは、もう八年は会話をしていない。……もっとも、今日もできれば避けたいところだが。
ニカフはシライに向けてピンク色の拡声器を持ち直す。一瞬苦い顔が見えたのはきっと気のせいではない。ああいうタイプって苦手なんだと言い合うベン図がぴったり重なっていたあの頃。
「お得意の文書で言ってきなよ。そんなに焦ってどうしたの? 」
シライは眠たげな印象に反し、舞台俳優のように響く声で言い放った。
「白昼堂々こういうことをやられると困るんですよ。狂った組織と手をつないでいると思われるのは大きな打撃。わたしたちの権威にも影響します」
ニカフはゆらりと言葉尻を掴みにかかる。こういう時に見せる彼女のとことんまでの獰猛さ、残酷さはきっと、一度惹きつけた者のことをさぞや奮い立たせるのだろう。
「権威という言葉が出たね。アンタたちは砂のようにどこまでも広がるのが自分だと話していたのにその一粒一粒が権威を得ようとし出したらおしまいでしょう」
「砂の一粒が権威を求めるならば―わたしたちはそれをも受け入れますが―今この場に百三十四人を引き連れていないでしょう。便宜上、ここに立つのは私と決められているだけで、いつ変わったってかまいません。ただ、そちらと関係を持っているうえで、この騒ぎを咎めようと思うものがこれだけいるのです」
ニカフは頭を掻きむしって感情的に叩きつける。
「それにアンタが出てくるのはいつもいつも私が都織を探しているときだった。狙ったように電話会談を申し込んできたり、KYTでの茶話会を設けたりして来てもううんざり。私たちってライバルだったの?」
「それはあなたに原因があります。都織・シノミヤの行動を把握するためにわたしたちがあなたに流したカセットの希少性を知っているでしょう。何の結果が得られないのは到底認められません。テクストファンドは情報の信ぴょう性や価値を前提に運営されています。それを担保するのは結局、どのように使用されるか、ということでしかありません。あなたのような立場の人間がどのように情報を活用するのか―それが完全にプライベートになることはもはやあり得ない。それくらい、了解していることだと思いましたが」
いつの間にやら巻き込まれていたらしい都織は、もはや笑うしかなかった。思えばニカフはこの間だってカメラに向かって告白してみせたのだ―「私たちには言葉が必要だ。そのために必要なキミを必ず引っ張り出して見せよう」―駄々の垂れ流し以外のやり方も持ち合わせないまま! 平日の昼間からの大騒ぎで、メディアの大きなカメラやマイクがいくつも見える。傍から見ればテクストファンドと対連合自由戦線の対峙に見えるだろう。場違いにも間に挟まった自分こそ砂粒という形容がふさわしい。
今、現在進行形で起こり、ドローンを通して全世界向けに中継されていることは、本来その価値のないやりとりだ。これが続く限り、対話という方法は結局無意味であるとの証明にすらなりそうな、鼻で笑うべきやりとりだ。こうやって言葉を叩きつけ打ち消し合うことは、ピンク色の銃と同じくらい、強い衝撃を放つくせに何も生まないものだ。
ルビはキョロキョロと喧嘩している二人の後頭部を見ていた。ニカフの長い髪は激論に揺れ、十二あるスロットが露出している。あれでは横を向いたってうまく眠れないだろう。一方のシライは四つのスロットだ。自分のところで開発した、情報収集と整理に特化したカセットを嵌めているにちがいない。しかし、数の差も使われ方の違いも、あらかじめスロットを持たず、そのまま生きてきたルビにとってはどうでもいいことだった。なにか偉いふうな人間の、その地位に価値を裏打ちされたくだらないやりとりについて、素直にただくだらないと感じていた。
「全部失くしちゃえばいいのにね」ルビは都織に耳打ちした。「なくなったって生きていけるとルビは知っているよ。こんなくだらないことが止められなくなるならなくたっていいのに」
都織は一度頷きかけて、目を見開いた。
「それ、もしかして……わたしもそう? 今ここで固まってるわたしにも同じことが言える?」
ルビは全くそんなつもりはなかったが、少し考えた末、首を傾げたまま頷いた。都織にだってスロットはある。「そうかもしれない。そうだって言ったら?」
何度となく口を開いては躊躇い、どうにか都織が吐き出した言葉は、お互いに予想もしないものだった。
「わた、し、が証明に、なる……?」
「どうして?」
今度こそ飛び上がってルビは訊いた。自分の言ったことの意味を確かめるように、それが自分の思考を通ってきたものだと証明するように、都織は言葉を選んでいく。
「わたしは、カセットなんて付けたり外したりできるって、足りなくたって平気だって知っているから」
そうでなければこのリュックサックの重みはなんだというのだ。これまで都織のしてきたことは、自分の脳を自分でハンドリングすることだった。他の誰より気楽に、くだらない、当たり前のこととしてそれをしてきたのだ。
「自分の頭の中をどう押し広げるかなんて融通の利くもので、それよりは何を表に出すか、相手に差し出す価値を見出すか、そういうことのほうがずっと大事だって」
いらなくなったカセットはおしまい、都織は自分でそう言ったばかりだった。必要なく外に放出された言葉たちも、きっとまた同じようにあるべきだ。
ルビは都織の思考をトレースして、完璧に把握することはしなかった。それは都織の成すべき役割で、自分が今出来ることではない。今、自分が起こすべき行動の判断は、迅速になるように、ずっと訓練を受けてきた。
ルビは都織を俵抱きにして―そのうなじから、エメラルドブルーに輝くカセットを引き抜いて、遠くに放り投げた。ニカフが息をのむ音が、覚醒され、反復し、ハウリングする。見覚えがないはずがないのだ。二人がかつてともに迎えた泥のような夜、それを抜き出してやったのは誰か―考えればすぐにわかることだ。
誰もが耳をふさいだ瞬間に、ルビは走り出した。ひとを踏み倒すのもかまわない勢いで、坂を上り、区画を分けるフェンスを目指すルビを、視線が刺す。指がさす。そして青みピンクの長銃が指す―それでも賢明なものから気付いていく。猫にはスロットがないことを。スロットのない泥棒猫に、こんな遠距離から届く力はこの場にただ一つしかなかった。
都織はフェンスを軽快に上るルビの背中を叩く。
「待って、てっぺんで、一瞬だけ待って!」
ルビは「一瞬だけだよ」といい、いつか都織がAAVで見た、乾いた地を行くライオンの王者のように、一番上で首を伸ばした。抱き上げられた都織は、フードを脱ぎ捨てて頭蓋の空洞に響かせるように叫ぶ。
「言葉はわたしたちが協同するためにあるはずでしょう!」
その時、都織のリュックサックの底が弾けた。眼下に大量のカセットが撒き散らされる。何に使うのかわからないものも、もう二度と手に入ることのないようなものも。多くがばらまかれ、いくつもが割れて欠けていく。ルビは都織の表情を見られなかった。きっと、それでも痛むと思った。
都織の声と、おもちゃ箱を返したようなざらざらとした音に触発されたようにどこからか声がする。そうだ、言葉を奪われてはならない。機会を奪われてはならない。誰もの言葉に価値を。元々、それは彼らの言葉だった。
二つのかたまりの境目を引っかき壊す、唯一の現実の力を握っているシライは、ありのままで立っていた。スイッチもレバーも持たず、ただ意志を持って口をつぐんでいた。ルビはそれが伺いだと知れるように待った。それでもなお、男は動かなかった。
そのうちオフホワイトの団員がやってくる。私たちは情報を必要としている。武器を降ろせ、銃剣を捨てろ。そして一つ目小僧は無理矢理押されどこかへ連れていかれた。結局、誰も今更誰かの血を見たいなんて考えていないのだ。
ふたりは声を背にしてフェンスを飛び降りた。
「なんてことをしたんだろう、わたしは」
混乱する都織にルビは笑って話しかける。もはや笑うしかない状況だった。
「偉そうなことを言って珍走して、今、頭が本当に空っぽ」
「やっぱりカセットは必要? でもまた新しいのを入れればいいでしょ」
またAKHに行って買い物をしようよ。ルビは駄々をこねる子ども相手のようにそう言ってやる。自分がいつかそういう風に話されたことを、かすかに思い出しながらなぞる。
「それに、なくても都織は変わらない気がするな。二本とも抜いてるところを見るのは初めてだけどさ、片っぽ外してるところなんていくらでも見たから、わかるよ」
「そうかも」
ふたりは去りながら笑い、人通りもない路地の裏、その行き止まりでブレーキを掛けた。激しい興奮が、少しずつ治まっていく。ルビは当たり前に、都織はなぜか、肩が上下するほど荒い息をしていた。それもだんだん、普通に戻っていく。
平常を割くように都織のスロットのパスチャットに直接の通信が来た。都織は非通知設定を見て顔をしかめながら―それでもどこか、どうしようもない愛着を滲ませるように受話する。
「声が聴こえる? 今もまだ……みんな、もう入り乱れてどっちがどっちかわからない。昔食べたお好み焼きみたい。そもそも彼らは言葉が通じない―そう決め打ったわたしたちを相手にとって、力を見せつけて上下をつける―そういう算段だったのに、キミの叫びを見せられちゃね。」
やっぱりキミの言葉には価値がある、と頓珍漢なことを言う相手の評価を、もう今更都織は跳ねのけたりしなかった。
「それを利用しようとした私の罪を、それでもやはり突き付けてくれるキミの誠実さを愛している。だから世間に見せたかった、世間から与えられる評価をキミにあげたかった。私では足りないと思った……」
代表するものとしてポツンと特異になってしまった彼女の性質は、この騒ぎで揉まれても変わらない。あるいは内心、何か動かされるものがあるのかもしれないが、それはもはや都織の知るよしもないことだった。
「あなたがわたしに評価をくれたいと思うのは、あなたの中にあるものが理由でしょう。わたしの言葉に響き合うものが、あなたの中にあったんだ。わたしたちは共鳴していた―それを、過去だと思っていたけど」
「まだキミの言葉が稀有だったよ、都織。反響して、渦の中にいるみたい」
「あなたの中の響きを誰かの基準にすることなんて、あなた自身が一番できない。それを知っているんでしょう。それなのに諦められないんでしょう」
「キミには本当に敵わない」
都織のほうがむしろ、そう言いたい気分だった。そのしつこさに勝てる日はきっと来ない―そう意地悪を言ってやるかわりに、一つだけ年上のひととして、年下の元カノをくるむ言葉を探した。
「あなたは……わたしより多くのものを抱きしめたいんだな」
彼女は長く長く溜めを作ってから、ようやく深呼吸をして、「そうだね」と受け入れた。都織は自分の作った評価が彼女に届いたことに安堵して、ようやくすこしだけ、相手をどうしても評価してやりたい気持ちが分かったような気がした。だから、今度は対等に、余計なことを一つだけ添える。
「あなたにしかできないことを。そしてわたしの営みと交差することを祈ってる。」
「祈ってくれるんだ」
彼女は鼻にかかるような諦めた笑い方をした。都織はいたって真剣に
「今、そう思った。これから少しはそうする。わたしのごみ漁りのような趣味と実益を兼ねた仕事に、あなたが評価してくれた言葉を添えるように」
そう言った。最新型の相手のマイクは吐息までやさしく拾い上げる。
「そう」
「うん」
そして、間もなく回線が切れる。ルビは初めのうち、あちらが誰なのか―は想像がつくとしても―何を話しているのか、自分が割り込めないことにいら立っているように見えた。ただ、話が終わってから覗き込んだその瞳には、何か後ろめたい色があった。だんだんと自分のしたことに押しつぶされそうになっているのだ。―取り返しのつかないことだったんじゃないかと。
しかし人生のすべてはそうなのだ。そして現に、都織は今さっぱりと明るい気分だった。
「もう会わないの?」
「わからない」
「もう会えないの?」
「そんなことはない」
もはやルビは「どうして」と訊かなかった。その代わり、
「……わたしは会ってはいけない?」
それを埒外から飛び込んでませた。都織は思わず目の下をこする。場面が、真意が、全くもって想像できない。あるいはルビ自身、よくわからないままに口にしているのかもしれない。
「えーっと、……嫌なことを何も思い出さない?」
「わからない。だとしても、なにか悲しいとおもった。辛いとおもったの。わたしが苦しかったの。」
少し、答えを考えた。これまでで一番、慎重に扱うべき「どうして」が後ろに滲んでいるのを感じた。その先に指を差すような答えになる。そこにはもちろん、ルビだけではなく、都織の『その先』も包含される。なぜなら、ふたりはともにいようと今願っているのだから。
「―そうしたら、あなたがそれを克服しなさい。その方法を、わたしが教える。いくらでもある。できるものを選べばいい」
ルビは急に信を失ったように首をカクンと下に向けた。穴のないうなじが黒くやわらかいくせ毛から覗く。
「わたしにはスロットがない。学ぶことができない」
それはごく今更だった。それでも、あるいは世間に解き放たれたその瞬間から、ルビはそう思ってぐらついた地面を歩いてきたのかもしれない。そしてそれを言える相手は、過去からこの先まで見通して、結局都織・シノミヤただ一人だった。
「わたしにもスロットは少ないけど……カセットを差し替えながら、それを頼りに教えるよ。わたしも学びたいことがあったのだと思い出した。皮肉にもニカフに会ったことによって」
もしかして、とルビは思う。思うだけで言葉にはしない。ルビを格子の外に放り出したのは―少し考えてみれば当然、ニカフに違いない。都織と同じように長い髪を持つ女は、あの場所にはニカフしかいないのだ。
『世界の複雑に耐えられるひとになりなさい。あなたならきっとできるから』
既にもやのかかった情景。ニカフは実のところ、ルビに何をさせたかったのだろうか?
行き止まりを背にして二人は歩き始める。都織は俯くルビに気付かないふりをして、歌うように話し出す。
「まずは最初に、これはわたしの知ってること。ねえ、知ってる?昔の世界は石と土でできていたの」
「石と土⁉」
ルビがかつてつけられた訓練の中で何度となく通った風景だ。砂けぶる乾いた大地をさすらって、時々湧き出る澄み切った泉。「それって、わたしの見ていた世界」
「にも似ているかもしれない。けどもっとやわらかだった。粒子が大きいんだ。水と牛乳のような違い」
「それは……あんまりよくわからない」
あれほどミルクを飲んでいたのに、と内心笑ってしまいながら、それを抑えて都織はルビと手をつなぐ。
「……今度ゼリーを一緒に作ろうか」
「うん」
ルビは今、二人ですることなら、ほとんどなんでも楽しみだと思えた。
「そしてね、そこに、尖ったもので線を引いて物を教えたの」
「わたし、知ってる。色のつく石を拾ったことがある。それでものを教えたの?」
「そうらしいよ」
「それって変だし、途方もない……」
ルビは都織の指を強く握り、立ち止まる。都織は柔らかい声音で撫でるように言った。
「急にびっくりさせたかな」
「した……けど、この途方もなさを、これから触るんだ」
突如湧いてきた実感は、意志と土のビジョンから、強いイメージを喚起する。今踏みしめるアスファルトの下にも土があり、息づくものたちや水が存在する―そのことと同じくらい、突き上げるようで、力強く、新鮮だ。世界が開けていく、視界が自分の後ろまで広がっていくような心地がした。それを何かにしたいと思うのに、口を開けば出てくるのは違う言葉だった。
「わたしはそれをしてみたいかもしれない」
「あなたが口にしたことを寿ぐよ」
まるで何もかもが見えているような言葉だった。
「どうやらわたしはそれがすこしできるようだからね」
「うん、ありがとう」
そうして歩みは再開された。あるいは、ここからようやく始まったのかもしれなかった。風の強い日で、ルビは頬を叩く自分の髪が痛かった。
手を繋いでホームセンターに行き、ゼラチンを買う。レジゲートをくぐりながら「新しいカセットはいいの」とルビは問うた。『メディケイト』を含むポピュラーなカセットは、今じゃどこでも手に入る。光の当たる場所で買ったカセットなんてロクに持っていなかった都織でも、もし望めば今この場で装着することができる。
「いや、やめておく」
「必要だと思うときに買えばいい。今ルビとゼリーを作るのには必要がないから。」
ひとつの『非常用』袋をふたりで下げて、ルビと都織は、一番重要だったものだけが失われたアパートに帰る。多分、ボウルとエプロンくらいはあるはずだ。―かつて都織が誰かと使ったものが、追いやられて取ってあるはずだった。今は、それだけしか必要なものはなかった。
途中、すれ違ったのは小さな花屋のワゴンだ。「最新式の青い銃だよ―黄色い花が咲く、本物の平和の銃だ」その言葉にルビは振り返る。つぼみが込められた青く長い銃がバケツにたくさん挿さって売られていた。
ある黒猫との暮らし方 犬飼敬 @imasaland
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