身勝手な失望と狂気

海沈生物

第1話

「失望したぞ、直人なおとくん……っ!」


 遅刻ギリギリの時間に学校へ着くと、校門の前でうちの生徒会長である高瀬涼たかせすずが立ち塞がってきた。顔面偏差値も高くて女子人気が高く、将来の夢は医者。テストは全教科満点近いし、スポーツまでできる。まさに「天才」という概念を具現化したような人間である。


 そんな黒髪ロン毛の高瀬が、どうして出席日数ギリギリで金髪ピアスのヤンキーである俺の前に立ち塞がってくるのか。「失望」とかなんとか理由はよく分からなかったが、今の俺には余裕も時間もなかった。俺はギュッと拳を握ると、彼の鳩尾に拳を喰らわせ、この場から抜け出そうとした。だが運悪く、視界の端に生徒指導部のハゲの教師が見えてしまった。「悪運の強い奴め……」と思いながら、俺は拳を引き下げる。


「……それで? うちの高校の生徒会長は俺に一体何の用なんだよ。さっさとチャイムがなる前に教室へ行かないと、出席日数不足で留年しそうなんだが」


「だから言っているだろ? 僕は直人なおとくんに"失望"したんだ。だから今、直人なおとくんの前に立ち塞がっている」


「だからその"失望"って何なんだよ。俺たち、そもそも今話すのが始めてだよな? それなのに”失望”なんて言われても、訳分からないが?」


「いーや、直人なおとくんになら分かるはずだ。ちゃんと心に手を当てるんだ。そうすれば、僕が君に対して何を失望しているのか分かるはずだ。そうだろ? 分かるだろ!?」


 高瀬は俺の両肩を掴むと、赤ちゃんなら「揺さぶられ症候群」で大変なことになりそうなぐらい身体を揺らしてきた。揺らせば記憶が蘇ると思っているのだろうか、怖すぎる。叩いたら直るテレビじゃないんだぞ。


 あまりにも激しく揺さぶられすぎて軽い吐き気を感じてくると、さすがに彼の手を「ギブギブ!」と言いながら振り払った。喉の下までやってきていたゲロを胃の底に戻すと、ふぅと息を漏らす。しかし次の瞬間、バランスを崩した高瀬は黒色のロン毛をふわっと揺らし、頭から地面に倒れ込んでしまう。そんな強い力で振り払ったつもりはなかったのだが、タンポポの綿毛レベルの体幹が弱かったらしい。


 俺は「おいおい……これで俺のせいにされたら、溜まったもんじゃないぞ」と思いながらも、高瀬を倒れさせてしまったのは事実なので、仕方なく手を差し伸べた。


「ほら、手ぇ貸してやるから起き上がれよ」


 俺の伸ばした手の存在に気付くと、高瀬はパッと目に火を灯し、手を掴んできた。その目はとろりんと蕩けていて、優等生の生徒会長が見せてはいけない目をしているように見えた。あまりの恐怖から手を離すと、彼はまた地面にお尻をつける。


「す、すまねぇ……あの―――――」


「―――――ふ、フハハハハ! やっぱり最高だね、これは。この痛みだ。破滅を持たないで停滞を求める奴隷どもには持ちえぬ権利だ。社会的な悪であることを良しとした人間だけができる、最善にして最高の行為ではないか! そう思わないか、直人なおとくん!?」


 高瀬は触手みたいに俺の脚に絡まり付いてくると、目を激しく上下に揺らしながら同意を求めてきた。俺は思わず「ひっ」と声を漏らしかける。


「そ、そんな意味不明なことよりも、そろそろ教室に行っても良いか? 優等生の生徒会長さんと違って、学校サボりまくりの俺は出席日数がやべぇからさ。その……な?」


「それはダメだ」


「な、なんでだよ!?」


「直人くんはまだ、僕の"失望"を理解してくれないからだ。僕の失望を、伽藍洞の心を、満たしてくれていないだろ? なぁ!?」


 彼の見上げてくる目に宿る狂気に、思わず身体が竦んだ。今すぐ俺の脚から離れてほしい。しかし、高瀬は離れてくれる気配はない。それどころか、俺の脚を伝って、段々と上半身へと上ってきていた。ペタ、ペタと少しずつ距離が詰められていく。狂気が段々と俺に迫ってくる。そのことに対する恐怖が、もう喉の奥まで出てきていた。


「……あ、あーもう! おおお、お前の失望なんてなぁ、俺にとってはどうでもいいんだよ! い、い今の俺にとって重要なのは、進級するために教室に行くことだ! い、いいい、今まで話したこともない生徒会長の失望のことなんて、どうでもいいんだよ! わ、分かったか!?」


 言い終わってから、あまりに勢い良く言いすぎてむせてしまった。ゲホゲホと肺に手を当てながら咳をすると、脚を掴んでいた高瀬の手が離れた。ついに分かってくれたのか。そう思ってホッと溜息をついていると、突然高瀬は立ち上がり、俺の顔面に彼の顔面を迫ってきた。美男子という概念をそのまま出力したような顔面。それが迫ってきたのには、さすがのヘテロ異性好きの俺もドキッとしてしまった。


 しかし次の瞬間、そんな心を吹き飛ばすようにして、高瀬は俺の右頬を殴ってきた。彼の拳は握りが甘く、大して痛くはなかった。ただ、ピリピリと痛む右頬だけが、高瀬の行為が現実のことであったことを示していた。


「……あ?」


「じ、じゃあ、僕を殴れよ!」


「……は、はぁ?」


直人なおとくんはヤンキーなんだろ? 僕の”失望”を理解してくれないんだろ? だったら、僕を殴り倒して教室に行けよ! ほら、ほら、ほら!」


 高瀬の目に宿る狂気は輝きを増し、いつしか彼の瞳には俺のこと以外が映らなくなっていた。その気味の悪い狂気に、恐怖から、俺の方が腰を抜かしかける。


「お、お前……なんなんだよ……な、なんでそんなに殴られることを求めるんだよ……」


「暴力、振るわないのか? いつもヤンキー相手に振るっているんだろ? ほら見ろ。今なら向こうにいた生徒指導部の教師もいないし、殴っても真相を知るのは僕と直人なおとくんだけだぞ! さぁ、出席日数が必要なんだろ? 時間もあと三分しかないぞ? ほらほらほらほら!」


 目は虚ろ、口からはよだれと共に呪詛のように「ほらほらほらほら!」という言葉が捻り出され続ける。黒い髪は寝起きの山姥のように乱れていて、口角はキュッと上がり、貼り付けたような笑みを浮かべている。


「う、うわぁ!」


 迫ってきた顔の狂気に負けて、つい高瀬の右頬を殴ってしまった。容赦ない力で殴ったので、彼は後頭部を勢いよく地面にぶつけ、真っ赤な血を流した。これは……やってしまったのかもしれない。校門前のコンクリートの地面に垂れ流される血に「おい、大丈夫か!?」「しっかりしろ!」と慌てふためく。持っていたハンカチで出血部を抑えてなんとか血を止めようとする。しかし、動揺する俺の一方で高瀬の表情は変わらなかった。なんなら、異常なぐらいの笑みを浮かべていた。


「この痛み! この痛みだ! この痛みこそが僕が直人なおとくんに求めていたアヴァロンなのだ! 失望を満たす充足なのだ! 安定を求めるがあまりに停滞した社会から排除された、首縄の付いていない暴力! 僕の窮屈な現実に混沌と破滅を与える、世界を改革する力なのだ!」


 「ハハハハハ!」と喉が裂けそうなほどの大声で笑い続ける生徒会長たかせすず。その狂気に飲み込まれた高瀬の姿を見ながら、俺は理解できない恐怖に身を震わせていた。いつの間にか鳴り始めた不協和音のチャイムだけが、俺たちの間に怪しく響き続けていた。

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