【番外編】青い鳥(瀬尾視点)

 自分の好きな色を意識したのは、おそらく小学生のときが最後だ。

 クラスの女子にプロフィール帳なるものを書かされ、その中に当然のように「すきないろ」という項目が存在した。

 好きな色というのは難しい。好きな食べ物なら口にしておいしいと感じるものが基準になるし、好きなスポーツならいちばんやりこんでいるものを挙げられる。でも好きな色って? 見ていてときめく色? なんとなく選んじゃう色? 色を選ぶときの基準に、きちんと好意が最優先されるのだろうか、自分に似合うかどうかは横に置いておいて?

 たしかあのときは、とりあえず無難に、赤だか黒だかを「すきないろ」に書き込んだはずだ。


 十月の半ばになってもまだ残暑は厳しい。紅葉はまだすこし先だろう。

 夏に見る赤染の青色の服はずいぶんと景色に溶け込んでいたけれど、秋にはどうなるのだろう。風景が黄色や赤色に染まる中の、鮮やかな青色。想像すると少しアンバランスで、しかしそれがどうにも赤染に似合っている気もして、瀬尾はうっすらと笑った。

「……あ」

 横を歩いていた赤染がちいさく呟く。まさか笑い声が聞こえてしまっただろうかと瀬尾が焦った矢先、赤染は思いがけないことを言った。

「来週、おれの誕生日なんです」

「え!」

 恋人になっておよそ三ヶ月。真っ先に確認すべき事項を、すっかり忘れていた。

「え、来週! どうしよう、間に合うかな。何日? バイトのシフト確認しねえと」

「いいですよ、別に」

「そんなわけにはいかねーだろ。何かおいしいもの食べに行こう。何がいい?」

「いいですって。でもおれ、ほしいものがあるんです」

「なになに?」

 瀬尾は意気込んで尋ねた。正直、ほっとしていた。誰かのためにプレゼントを選ぶのは瀬尾にとって楽しい行為ではあるけれど、あと一週間でリサーチするのは少々きつい。付き合い始めの恋人へのプレゼントをはずしたくないから、余計に。

「手紙がほしい」

 赤染はぽんっと言葉をそこに置くような独特の口調で、そう言った。

「手紙?」

「はい。瀬尾先輩からの手紙がほしいです。他には何もいりません。あ、これ、フリとかじゃなくって本当に。いま特にほしいものないんで」

 やがてそれぞれの家までの分かれ道にたどり着く。赤染はあっさりと「じゃあここで」と離れて行った。

 背中を見送りながら困惑した。手紙? 手紙って、そんなのーー難しすぎる。それならば洋服だの日用品だのをねだられたほうが、ずっと楽だ。


 そこからはドタバタの一週間だった。

 受け取っている奨学金の件でトラブルが発生したのだ。なんとか解決したものの、精神的にどっと疲れた。そのかたわらで赤染の誕プレを探すのは骨が折れた。

「おたおめ、赤染!」

 瀬尾が祝うと、赤染は頬を紅潮させた。

 ささやかな誕生日パーティーは瀬尾のアパートで開かれた。

 瀬尾は外食しようと提案したが、赤染に「外では気が休まらないから」と却下されたのだ。おそらく瀬尾の懐事情を慮ってくれたのだろう赤染の申し出は、ありがたく、もどかしかった。

「ありがとうございます。このローストビーフ、分厚いですね」

「手作りなんだよ」

「え、すごい」

 赤染が目を細める。その笑顔を見ると、せめてと奮発して牛肉を買った甲斐があったと嬉しくなった。

 ふたりで手を合わせて食べ始めた。赤染は口数が多いほうではない。基本的に瀬尾がしゃべっているものの、ときどき沈黙すると、テレビがないのもあいまってとても静かだった。

「では、プレゼントを渡します!」

 食事後、瀬尾が姿勢を正して宣言すると、赤染はおかしそうに口元を綻ばせた。

「どうして敬語になってるんですか?」

「緊張して……」

「どうして?」

「恋人に贈るプレゼント、喜んでもらいたいだろ」

「ふふ」

 ああもう、かわいい。今から渡すプレゼントが、赤染の笑顔をよりいっそう輝かせるものだといいのだけれど。どきどきしてきた。好きなひとの反応を予想しながらプレゼントを渡すというのは、ひどく特別な行為らしい。

「じゃあまず、これ。どうぞ」

「開けていいですか?」

「もちろん」

「……ニットだ」

 冬のはじめに着られる、薄手のニットだ。青色ではあるものの、普段赤染の好む空のような色ではなく、どちらかといえば美しい海のようなこっくりと深い色味だ。

「お前、いつも青ばっか着てるから青がいいのかなって思ったけど、あんまりにも同じような色だとつまんねーだろ。ちょっとだけ違うニュアンスの青色な」

「同じ色ばっかりでいいんですよ、好きな色なんですから。でも、ありがとうございます。嬉しい」

 赤染の口にする「好きな色」という言葉のニュアンスに、瀬尾は改めてどきっとした。自分に似合うだとか流行だとか、そういうものにとらわれていないとわかる、赤染の「好きな色」。それほど純粋に青色が好きだと言える赤染が、なぜだかうらやましかった。

「そしてこれ。お望みの手紙です。……あー恥ずかしいから、家で読んでくれよ!」

 封筒を差し出すと、赤染は一瞬目を見開いたあと、さっと表情を曇らせた。空気が変わったのがわかった。

「手紙……」

「そう、手紙。え、手紙ほしいって言ったよな?」

 あれ? てっきりひどく喜んでくれるものだとばかり思っていたのに、反応が予想とは異なる。

 赤染は手紙をそっと受け取ると、「青じゃない……」と呆然と呟いた。

「青? あー、もしかして封筒の色? 悪ぃ、便箋をじっくり選ぶほど余裕なくって、とりあえず大学生協にあったやつ買った。けど、中はちゃんと心こめて書いたから」

「……」

 ーーえ? 何、何がだめなの?

 赤染の表情はみるみると萎れていく。瀬尾は困惑した。

「お前が青色が好きなのはわかってるよ、だからちゃんと青い服選んだだろ?」

「はい……」

 ーーなんだよ、その態度……

 正直、少しだけむっとした。

 この一週間、学業とアルバイトと奨学金トラブルの合間を縫って、プレゼントに値する青い服を探して歩いたのだ。服はそこそこ値が張ったのでしばらく食費を切り詰めるしかない。それでも喜んでもらえるなら十分だと思った。笑顔を見たかった。勝手だとはわかっているものの、時間とお金をかけて選んだプレゼントに思うような反応が返ってこないのは悲しい。

 ーーそもそも、嘘でも喜んでみせろよ、それが礼儀だろ

 どうにも不愉快だ。だというのに、じっとこちらを見つめる赤染のやたら大きい角膜が潤んでいるのに気づき、何も言えなかった。

 そうだ、と瀬尾は思い出す。

 赤染のこの、湿度を孕んだ瞳に惚れたのだ。涼しげな表情と態度をとるわりに、瞳だけが何かを訴えるように湿っぽく燃えているギャップにやられたのだ。

 とたんに、罪悪感と悲しみ苛立ちで気分が沈む。

 疲労が蓄積していたのもあって、投げやりな気持ちで赤染を責めてやりたくなった。

「青い便箋より、青い服のほうがいいだろ、外に着ていけるんだから。手紙なんてしょせん、一度読んだらもう引き出しにしまっておくだけだろ?」

 赤染はただ、静かに頷く。

「あのさ、手紙にそこまで期待されても困るからな。驚くような美麗美句が並んでいるわけじゃねーから」

「……ふふ」

 ようやく赤染が微笑んだ。不満を感じていたわりに、大好きな恋人の笑顔にほっとした。惚れた立場なのでどうしたってこちらが弱い。

「そんなのいいんです。美麗美句なんていらない」

 なんだか胃の裏がひっそりと苦しい。


 どうにも気まずい空気が漂ったものの、健全な男子大学生の性欲をもって、ちゃっかりと性行為には至った。

 赤染の太ももを大きく開き、その中心にからだを沈める。瀬尾の動きと連動するように、赤染がかわいらしい声を漏らす。ああもう、かわいいったらない。

 深く息を吸うと甘い香りがした。赤染の体臭はこれほど甘やかだっただろうかと頭の片隅で考え、すぐにそうではないと思い当たった。食べさしのケーキが、ベッド脇のテーブルの上に置かれたままなのだ。

 めまいがするほど興奮した。満たされた、と深く思った。同じだけの充足感を赤染に与えてやりたい、とも。


 なんだかんだで三度も射精してしまった。

 瀬尾は解放されたかのようにからだが軽いが、さすがに赤染はぐったりしている。

 赤染はベッドにぐったり横たわったまま、テーブルに手を伸ばして崩れたケーキに指をつっこんだ。生クリームを指の腹に掬う。

「行儀悪いぞ」

 瀬尾は一応嗜めたが、本気でとめる気はなかった。

 赤染は指先の生クリームを舌で舐めながら、「おいしー……」とうっとり呟く。

「疲労のあとの甘いものって最高ですね」

「おれにもくれ」

「ふふ。……どうぞ」

 生クリームのついた赤染の指先を、瀬尾は口に含む。人工的な甘さが脳にしびれわたった。

「そういえば、瀬尾先輩って誕生日いつなんですか?」

「十二月二十五日」

「クリスマスだ。……似合うような、似合わないような」

「どっちだよ」

 赤染の軽やかな笑い声が響く。

 まだまだ暑い日が多いので冬なんて到底先に思えるが、カレンダーで言えばあと二ヶ月ちょっとだ。あっという間に訪れるだろう。

「先輩は何がほしいですか?」

「んー……海野灯の新刊かな」

 と口にしたのは、ただのたわむれだった。

 赤染はどうやら海野灯があまり好きではないようだが、瀬尾にとって赤染とのなれそめのそこここに海野灯はいた。だから、本当に軽い冗談でねだっただけだ。

「……どうしてそんな、おれにあげられないものを言うんですか」

「え、本気にしたのか? え、かーわいいな。もちろんむりだってわかってるよ、冗談だろ冗談」

「先輩の冗談はおもしろくありません」

「や、誕生日に新刊ほしいってのは冗談だけど、夢みたいな話ではねーだろ。海野灯の本出してるあのレーベルさ、発売日が毎月二十五日じゃん。だからさ、いつか発売日とおれの誕生日が重なる可能性だってあるわけで」

「夢ですよ」

「手厳しいな」

 ぷいっとわざとらしく顔を背けた赤染の、その斜め後ろから見る彼の表情がいやにこわばっていることに瀬尾は気づいた。

「どうした?」

「悔しいんです」

「何が?」

「瀬尾先輩の望むものをあげられないことが」

 瀬尾は思わず吹き出した。赤染が真剣に言っていることはわかっていたけれど、いじらしさがかわいくてたまらなかった。

「いいよ、何だって嬉しい。別にプレゼントがなくたっていい。赤染がいれば、それで」

「よくありません。おれは先輩の望むものをあげたいんです。何だってあげたい、何だって叶えてあげたい。……どうしておれは、海野灯の新刊を先輩にあげられないんだろう。あげられるかもしれないのにーー……」

「いいっていいって、冗談にそんなに本気になられても困る」

 瀬尾は赤染のからだに腕を伸ばし、抱き寄せた。先ほどまで汗に濡れていた赤染の肌が、いつの間にか乾いている。首筋に顔を埋めて深く呼吸を繰り返すと、跳ね返ってくる自分の呼気がしっとりと頬に温かかった。

「じゃあ青い何かがほしい」

 瀬尾がねだると、赤染は空気だけで笑った。

「青色の何か? サムシングブルーみたいですね」

「『青い鳥』の青でもあるだろ。幸せの象徴だ」

「モーリス・メーテルリンクの?」

「そう」

 チルチルとミチルという兄妹が、幸せを呼ぶという青い鳥を探しに冒険に出る。いくつかの国をまわるものの、結局青い鳥は捕まえられない。帰宅すると、家の白い鳥が青い鳥に変わっているーーという話だ。

「瀬尾先輩は『青い鳥』を読んだことありますか? どう思いました?」

「昔はわかんなかったなー。身近にある幸せの話なんてしてねーよこっちは、みたいな。でも最近はわかるようになった。生活はちょっと金銭的に苦しいけど、好きなことを勉強できて、好きな場所でアルバイトできて、好きなひとが隣にいてくれる。幸せだろ?」

 途中からは自分に言い聞かせるような口調になった。幸せ。そうだ、幸せなはずなのだ。いま与えられている生活で、きちんと満足しないと。生活は苦しいけれど絶望するほどではない。

「そうでしょうか」

 唾棄するような口調で、赤染は言う。

「おれは逆です。小さいころは『青い鳥』を読んで、いま手元にあるものをちゃんと大事にしようと思ってました。でもいまは違う。いまおれの中にある幸福は近くにあったものなんかじゃありません。おれが力づくで、がむしゃらに掴んだものです」

「それはそれで、かっけーじゃん」

 瀬尾が笑うと、赤染は肩の力を抜いたようだった。

 何がおもしろいのか赤染は喉奥でちいさく笑い、振動でベッドが小刻みに揺れる。その揺らぎを瀬尾は全身で感じながら、おもしろいな、と思った。

「赤染って普段は浮き草みたいなのに、ときどきやたら頑固な言動することがあるよな」

「そうでしょうか」

「そうだよ。ほら、秋の履修登録のときも」

 定員オーバーで抽選になったとある講義を、赤染は絶対に受講したいからと教授のところまで直談判に行ったのだ。瀬尾はかなり驚いた覚えがある。赤染がそれほど情熱的な性格だとは思ってもみなかったころの話だ。

「おれ、ほしいものはそれほど多くないんです。代わりにほしいものは絶対に手に入れるし、放しません」

「おれのことも?」

 瀬尾が軽口を飛ばすと、赤染は「あはは!」と大声を出した。びっくりした。手放しに赤染が笑うところなど見たことがなかった。純粋な笑い声というよりかは、ちょっとヒステリー気味にも聞こえた。

「そうですよ」

 赤染は目尻に涙が浮かぶまで笑いころげたあと、神妙に頷く。

「それに先輩にも先輩が本当にほしいものをプレゼントしたいです」

「や、そんな気負わなくていいぞ?」

「いえ。期待していてください」

 期待されたいので、と赤染は付け足した。

「そういえば先輩、再来週の週末って暇ですか? 図書館で作家の講演会があるんですって」

「あー悪い、バイトだ」

 申し訳なく思った。バイトさえなければもっと赤染と過ごす時間がとれるのに。ふと、考えてしまう。いまの生活ははたして自分の思い描いた大学生活なのだろうか?


 瞬きする間に瀬尾の誕生日を迎えた。

 当日はちょっとお高いデリをテイクアウトし、瀬尾のアパートで食事をともにすることにした。

 旺盛に飲み食いし、調子に乗って買ってしまった七号のホールケーキを半分も食べないうちに持て余したころ、赤染がさて、と居住まいを正した。

「プレゼントの時間です」

「お!」

 瀬尾は期待に身を乗り出す。何だろう。洋服だろうか、日用品だろうか。青い何か。何をもらってもきっとすごく嬉しい。プレゼントそのものではなく、恋人からの贈り物という付加価値が大事だから。

 はたして、差し出されたのは平たい茶封筒だった。

「開けてください」

 促されるままに中を見る。そこには手作りらしき本のようなものが入っていた。本ーーしかも、絵本だ。予想外すぎる。絵本? どうして?

 表紙をめくる。最初のページには青色の服を着た小さな子供が描かれていた。

「え? これ……」

「読んでください」

 促されるままに読み進めた。クレヨンと色鉛筆なのかやさしいタッチの絵と、ひらがなだけの文章で構成されていた。短い文章ばかりなのであっという間に読み終わった。

 青色が好きな『ちいちゃん』は、家族や友達からいろいろな青色の贈り物をもらう。青色のお手玉、青色の鉛筆、青色のシールーーどれもこれも素敵だとは思いつつ、どうしても満足できない。ある日、橋の向こうに青色の花を見つけた。『ちいちゃん』は必死に橋を渡り、ついにその花を摘むことができる。すると、誰かからもらった青色よりも、自分で見つけて掴んだその花がいちばん素敵な青色をしていると気づく。

 最後のページには『ちいちゃん』の大きな笑顔と青色の花とともに、「わたしのつかんだ あおいろが いちばん わたしのすきな あおいろだね」と書かれていた。

「これ……?」

 困惑しきって赤染を見ると、赤染は眉を下げて笑った。それから、「童話って難しい〜!」と照れたような声をあげた。

「おれ、初めて童話書いたんですけど、難しいですね」

「え? これを、赤染が?」

「はい。あ、でも絵はさすがに描けなくて外注したんですけど。文と構成はおれです」

 どうにも赤染の意図が読めなかった。

「どうして童話なんて……」

 かろうじて言葉を絞り出すと、赤染のあの、何かを訴えるような黒曜石がこちらに向けられる。瞳の中の湿度。

 その表情を見れば、赤染は何かのーー何だろう、とにかく何かしらの覚悟を決めたのだと、察することができた。

 ゆっくりと赤染が口を開く。

「おれが、第二の海野灯になります」

 一瞬、驚きで息がとまるかと思った。赤染のその大言壮語は、しかしまったく冗談ではなさそうなのだ。

「うみの、あかりーーに……?」

「はい。あなたにとって、第二の海野灯になりたい。創作したのが小説ではなくて童話だったのは、初手で海野灯と比べられたくなくて……あえてまったく違うジャンルにしてみました。でもあなたが望むなら、小説だってエッセイだって何だって書きます。読みたいものを教えてください」

 あなたのためだけに書くから、と赤染は言う。

 本気でわからなかった。どうして赤染はそこまで海野灯を意識するのだろう。海野灯を悪しく言う一方で、第二の海野灯になるという。ひどい矛盾だ。まったく理解できない。

「ねえ先輩。この童話の教訓、わかります?」

「え? 教訓? え? な、何だ……?」

 まだ頭の中が混乱しきりで、まともな返事ができなかった。

「自分でがむしゃらに手に入れたものがいちばん価値をもつってことです」

「自分で手に入れたものが、価値を……」

「おれ、あとひとつだけどうしても手に入れたいものがあるんです」

「何?」

 赤染は微笑んだ。

「瀬尾先輩の気持ちです」

 この期に及んで、どうしてそんなことを言うのだろう。混乱は深まるばかりだ。

 だって一応恋人という立場だ。気持ちというならとっくにあげている。本気で赤染のことが好きなのだ。まさか伝わっていない?

「……あげてる、つもりだけど」

「ううん。瀬尾先輩、まだ海野灯のことが好きだから。嫉妬しちゃうんです」

「や、だって海野灯は……そりゃ好きだけど、作家だぞ? お前とは立場が違うだろ」

「ふふ。……おれ、それ以外はいまの生活気に入ってるんですよ。おれが全力で手に入れたものなので。誰に何と言われようと、満足してます。先輩は? 大学に入ったこと、サークルに所属したこと、……特に、おれと恋人になったこと。先輩にとってちゃんと幸せなことになってます?」

 ーーそうか、と思った。

 自分自身の選択の結果でいまがあるという当たり前の事実を思い出したのだ。自分で手に入れた生活。

「……おれ、さ」

「はい」

「最近、ずっと悩んでたんだ。大学に合格したとき嬉しかった。奨学金の審査に通ったときはもっともっと嬉しかった。でも……でも、最近ちょっと、どんどん生活が厳しくなる一方でしんどかったんだ。物価は高いし」

 奨学金のトラブルが精神的な負担となり、以降、大学に入ったことがはたして正解だったのかと悩む日々だった。生活が苦しくアルバイトを詰めないといけないこと、勉学の時間を思うようにとれなくなってきたこと、実家に大きな負担をかけていること。もし高校卒業とともに就職していたらーーと考えたのは一度や二度では済まない。自分の選択は間違いだったのではないかと。

「おれ、大学生活と、……あと赤染のことも、おれが掴んだんだよな。……ほしかったものが、いま自分の手の中にあるんだよな」

 ずっと体内に横たわっていたもやもやとした感情が消えていく。

「……え、てかなんでおれの悩みに寄り添うような童話をちょうど書いてくんの!? 偶然!?」

「偶然ですよ。ほんとに」

「そっかー。すげー偶然だな。愛の力かな。それかおれが勝手に救われただけかな。物語ってそういう力があるよな」

 冗談っぽく笑い飛ばすと、なぜだか赤染は顔を歪ませた。喜びとも悲しみともとれない、不器用な表情だった。

「瀬尾先輩。おれが先輩の読みたいものを書くので、もう海野灯のことなんて忘れてください。ね、もう海野灯の新刊なんて待たないで」

「……そう、だな」

 それとこれとは話が違う。この先どれほど瀬尾が創作をしてくれたって、海野灯のことはまた別の心で待ち続けるだろう。だって海野灯は特別だ。

 しかし、あまりにも切実な赤染の声を聞くと、何も言えなかった。

 絵本を再度手にとって、じっくりと眺める。表紙いっぱいに塗られた、鮮やかな青。

「おれ、青色好きかも……」

 瀬尾がこぼすと、赤染は「もちろん!」と泣きそうな笑顔を見せた。

「おれも青色が好きです。ね、おれら、同じ色が好きですね」

「運命かもな」

「……ふふ。うれしいー……」

 ひどく満たされる。大好きなひとと好きな色で盛り上がるというささやかな日常は、指先をじんわり温めた。

 そうか、おれは、青色が好きなのか。

 他人から与えられた発見は、ふしぎとしっくり身の奥に落ち着いた。


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あなたが言うなら青色が好き @hien_s

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