第9話

 帰宅するとまず学習デスクの引き出しを開けた。瀬尾からのファンレターが入っている。手を伸ばそうとすると、その脇に以前瀬尾からもらった自著があることに気づいた。本棚に片付けたつもりだったけど、適当にもファンレターと一緒に引き出しへ押し込んだらしい。

 本棚にしまうために紙袋から改めて取り出すと、文庫本が妙に膨らんでいることに気づいた。めくるとA4の紙が折り畳まれて挟まれている。

「何これ……」

 開けると、インタビューの記事らしきものが印刷されていた。冒頭に海野灯という言葉を見つけてどきっとする。ぐるっと頭をめぐらせ、デビュー作発売時にレーベルのサイトに掲載されたインタビューだと思い至った。

 インタビューの中心あたりに、ピンクの蛍光ペンでマークが引かれている。


 ――小説を書き始めたきっかけは何ですか?

 ――国語の授業で書いた短編を、先生に褒めてもらったことです。先生の言葉を支えに書き続けてきました。ぽんっとプレゼントされた先生の褒め言葉がどれほどうれしかったか、それにどれほどすがりついてしまったか、たぶん先生は想像していないだろうと思います。でも、なにげない先生の言葉が、おれの人生を変えたんです


 その横に、付箋が貼ってある。ファンレターで見慣れた瀬尾の文字によって、メモが書かれていた。

『赤染がおれをかばってくれたときの発言を聞いて、すぐにこの海野灯のインタビューを思い出した。似てない? きっと赤染は海野灯の本が好きになると思う。気に入ってもらえるとうれしい』

 インタビューのコピーを抱えたまま、その場にしゃがみこむ。涙があふれてきた。

 瀬尾に会いたい。瀬尾はいつも、赤染を助けてくれる。

 愛だとか恋心だとかファン心理だとか、すべてひっくるめて。どんな関係に落ち着くとしても、ただ、瀬尾の近くにいたい、それだけが唯一だ。

 しばらく整わない呼吸を繰り返し、ひっひっと泣いていると、スマホが振動しはじめた。瀬尾からの電話だった。

「……はい」

『いまどこ? 家、公園の近くって言ってたよな? ちゃんと話を聞かせてもらわないとやっぱり納得いかねえから、近くまで来たんだけど』

「いまから行きます」

 顔を拭いもせず、部屋を飛び出す。廊下でちょうど遊びに来ていたらしいヒデにばったりと出会し、「何だその顔?」と呆れられた。赤染の「おれが、」という言葉が情けなく震えた。

「おれが、瀬尾瑛一を本気の恋心で好きって言ったら、どう思う?」

 赤染の言葉ですべてを察したらしい。知るか、とヒデは不機嫌に言った。

「恋じゃない感情を恋にするって言われるよりは、本気の恋心って言われるほうがまだ健全だなとしか思わねーよ。どっちもどっちだけどな」

「ありがとう、ヒデ」

 お礼を言ってすぐに離れようとすると、ヒデに腕を掴まれた。赤染の頬が、ヒデのTシャツの裾で拭われる。

「……まぬけ面め」

 ヒデはがさつに拭くと、ふんっと鼻を鳴らして妹の部屋へと向かった。

 赤染は今度こそ家を飛び出した。瀬尾に会いたくてたまらない。

 何も問題は解決していない。これからどうするのかも決めていない。ただ、会いたいという衝動が何よりも大きくて、それ以外に目を向けることができない。

 瀬尾に指示された公園へ到着すると、瀬尾は砂場近くのブランコに座り込んでいた。

「瀬尾先輩!」

 瀬尾がぱっとこちらを振り向く。赤染は近寄って、瀬尾の隣のブランコに腰かけた。

 太陽がほとんど山の向こうへと沈んでいる。あたりはほんのすこしだけ夕焼けに照らされ、あとは薄暗い街灯だけが点いているのみだった。

「おれ、瀬尾先輩に言えないことがあるんです」

「何? 言え」

「言えません」

「言え!」

 瀬尾が立ち上がる。勢いづいて大きく揺れたブランコの鎖が、ギッと音を立てた。足元から砂が舞い上がる。

「おれはもうほとんどいけるなって確信があった! 告白したら急に海野灯を引き合いに出されて、キスされて、それで逃げられたおれの気持ちがわかるか!? 情けなさで死にそうだった! おれが嫌いならそう言え、そうじゃないのならおれと向き合え! お前の言う秘密とやらがおれと付き合う上で問題になるなら、なんで半端に匂わせるんだよ!」

 公園中に瀬尾の大きな声が響く。

 普段けして声を荒げる怒り方はしない瀬尾がこれほど激しく感情をあらわにするのは、やはり自分が特別な存在だからだろうか。それならばなおさら言えない、と赤染は思う。

 ずっと瀬尾の特別でいたい。尊敬ではなく恋心が欲しい。

「言えません。でも、おれは瀬尾先輩が好きです。これは嘘じゃない。本当です」

「…………言えないことって、海野灯のことか?」

「え?」

「お前、海野灯の話になると様子おかしいことあるもんな」

「……あ、……」

 まさかそこまで勘づかれるとは思いもよらなかった。内心で冷や汗を垂らしながら、「そうでしょうか」と嘯く。

 ブランコに座ったままの赤染の前に、瀬尾はしゃがみこんだ。こちらを見上げてくる瀬尾の、眉毛の一本一本までよく見えるほどに近かった。

「お前、実は海野灯が大嫌いだとか」

「ぷっ」

「なんで笑うんだよ!」

「だってー……!」

 一気に緊張がほぐれる。あまりにも微笑ましい想像がかわいらしかった。

 しばらくくすくす笑っていると、瀬尾はため息を吐いて「かわいいな」と立ち上がる。

「……お前、かわいいよ。おれが赤染を好きなんだから、敵うわけがない」

「何がですか?」

「無理に聞き出せないってこと。無理強いして嫌われるのが怖い。……ずるい」

 瀬尾の頬が一瞬きらりと光った気がした。まさか泣いたのかと慌てたが、光の反射でそう見えたらしかった。瀬尾がすこしからだを動かしたことで逆光となり、それ以上瀬尾の表情は確認できない。

「どうしても言えないのか?」

「はい」

「……じゃあ上手く美しく、おれを騙せ」

「え?」

 瀬尾が振り返る。眉を下げて、寂しそうな笑顔を見せる。

「言いたくないなら無理に聞かない。その代わり、おれをきちんと騙せ。いつか、万一その秘密をおれが知ることがあったら、赤染がそんなことするはずがないっておれが本気で取り乱してしまうくらいに。秀逸なミステリー小説並みに騙せよ」

 顎をすこし上げる不遜な態度で言う瀬尾の、頬の筋肉がいびつに盛り上がるのを見逃さなかった。聞きだしたくてたまらないに違いないのに、それをぐっと呑み込んでなお笑いかけてくれる瀬尾を、好きだと思う。

 ――覚悟を決めよう。

 海野灯の話題になっただけで動揺など見せない、と強く誓う。上手く騙せるならそれで見逃してあげると、瀬尾が言うのだ。それならば赤染汐としての顔だけでこれからは生きていく。瀬尾が海野灯に向ける好意は、こっそり心のうちだけで自分のものだと楽しむ。きちんと、騙してみせる。

 瀬尾と恋人でいられるなら、そのくらい何でもないことのように思えた。

「瀬尾先輩……!」

 瀬尾の胸に飛び込んだ。反射的な反応なのか、瀬尾の腕が赤染の背中にまわされる。

 おれの好きなひと。おれを好きなひと。おれをずっと、見ていてくれるひと。

「……好きです、瀬尾先輩」

「ああ、おれも好きだ」

 瀬尾の右てのひらが、赤染の後頭部をぐっと掴む。瀬尾の首あたりに顔を埋める形になった。瀬尾の耳には、本物か定かでないラピスラズリのピアスが付けられている。


 一人暮らしをしている瀬尾の自室に連れ込まれた。ワンルームのアパートだ。安価な家賃と引き換えにあちこち建て付けが悪いのだと、瀬尾は笑った。

 壁にはちいさな本棚がある。生活が苦しいから図書館派なのだとしょげる瀬尾の本棚には、大学のテキストに混じって、きちんと海野灯の著作が並べられていた。

「お前、ここまでのこのこついて来て、わかってんのか?」

「はい?」

「セックスしようと思って連れ込んだんだぞ」

「のこのこついて来たのは、暗黙のうちの了解の……つもりだったのですが……」

 まじめに話すのがだんだん恥ずかしくなってきて、赤染の言葉は途中であやふやに消えた。瀬尾がぐうっと眉を吊り上げる。ああ食われるのだな、と本能で察した。

「キス、するぞ」

「はい」

「泣くなよ。キスして泣かれたら、たまんなくなるから」

「はい」

 そっと唇が合わせられた。最初は軽いキスだったのが、すこしずつ長くなる。互いの唇の感触を堪能しあって、瀬尾に甘噛みされて、うなじに指先を立てる。

 泣くなと言われたばかりなのに、目の奥がつーんと痛くなってくる。瀬尾とこうしていられることが信じられない。涙がこぼれないように目をつぶり、必死に瀬尾にしがみついた。

「服、脱がしていいか?」

「はい。……あの、いちいち聞かれると、恥ずかしいんですけど」

「泣かれると困るから」

 トラウマになっているらしい。そりゃ告白したらいきなり泣かれるだなんてショックが大きいだろうなと、赤染はちょっと反省した。

 不快感を覚えていないか確認しつつ、服を脱がせあった。全裸で抱きしめあう。肌と肌がぴっとりと密着し、そこから互いの感じる幸福が流れこんでくるようだった。

 頬と頬をこすりあわせたり、キスを繰り返したり、親愛表現を重ねる。

「あー、気持ちいい……」

「まだ肝心なことはしてないのに」

「こうやってくっついてるだけで気持ちいいじゃねーか」

「……そうですね」

 でも同じくらい、もどかしい。瀬尾の愛を一身に浴びせてほしかった。

 その気持ちが伝わったかのように、瀬尾の指先に力がこもる。溺れる者のような必死さで互いにしがみつきあった。


 瀬尾がシャワーを浴びる音が聞こえてくる。まぶたが重くて、うとうとする。

 何度か寝返りをうったが上手く眠れず、こんなことならシャワーを借りると言えばよかったと後悔した。

 寝転がったまま改めて瀬尾の部屋を見渡すと、たくさんの服とちいさな本棚以外の荷物はすくなく、よく片付けられていた。

「……ちゃんと、ある」

 青色の背表紙が、本棚の隅に鎮座している。しばらくその青を眺めた。背中からベッドに沈み込んでしまうような、重苦しい幸福だった。

 にぶく痛む腰に手をあてながら、なんとか上半身を起こし、ベッドからそっと足を下ろす。本棚に近寄って、自著を手に取る。

 透明ビニール製のブックカバーがかけられたそれは、大切に保管されているようで、折れやしみなどは見当たらない。

 自著を読み返すことなど一生ないだろうと思っていたのに、なんとなくページをぱらぱらとめくった。間違いなく自分の書いた文章なのに、どこか遠い感じがする。

 いまならすこし読み返せるかもしれないと思い、本を片手に学習デスクへ座った。

「わっ……とと、」

 肘をつこうとしたところにペンが置いてあり、ずるっとバランスを崩す。ころころと奥へ転がっていくペンを反射的に右手で抑えて、自分のなかで衝動がこみあげてくるのを感じた。

 ――サインを書いてみようか……

 人気作家ではなかったので、サインをしたことは一度しかない。デビュー作発売時に、出版社と結びつきが強い書店が小さなサイン色紙を飾ってくれるというので、慣れない手つきで名前を記したっきりだ。そういえばあの色紙はどうなったのだろう――処分されたのだろうか。

 折り目がつかないよう、慎重にビニールカバーをはずす。文庫本のカバーもはずすと、タイトルだけが記されたシンプルな表紙が出てきた。

 ベージュの表紙を何度か手で撫でて、ペンの蓋をはずす。もうひとりの自分が、やめておけと忠告するのを無視した。

 表紙にペンをそっと落とすと、すぐにインクの滲みが広がった。慌てて手を動かす。

「海野、灯……」

 サインというよりは、署名みたいになってしまった。かっこよくも何ともない「海野灯」を眺める。

 海野灯は、瀬尾瑛一によって作家にしてもらったのだ。ここに置いていくにふさわしい。

 浴室からぶおーんと唸り声が聞こえる。ドライヤーらしい。そろそろ出てくるかもしれないと、急いで本をもとの場所へ戻した。

 いつか気づくだろうか。気づいたらどうするのだろう。

 赤染は購入時から書かれていたのだと勘違いするだろうか。瀬尾にその話をされた自分は、そのときの関係次第では、自分が海野灯だと打ち明けるのだろうか。

 訪れるかわからない未来を思い描くのはすこし楽しかった。

「せお、えいいち……」

 なんて自分を幸福にしてくれる名前なのだろう。赤染はベッドに横たわり、瀬尾が戻ってくるのをいまかいまかと待ちわびた。

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