第8話
自著が大きく話題にされ、売れているという事実に、うれしさと同じ分だけ心許なさを覚えた。
自分自身の小説が、勝手に歩いていってしまうみたいだ。ひとりぼっちみたいにされたみたいだ。
書店へ寄ると、『那加川高校雑用部』が平積みされていた。それだけでも驚きなのに、書店スタッフの手書きらしいポップまで飾られている。
『SNSで大注目!』『読書系youtuberオレンジ推薦!』という煽りに、「読んでいてとても温かな気持ちになれる一冊です!」というありがちなコメントが付けられている。それをぼけっと眺めている間にも、若い女性二人組が近くで「あ、海野灯。話題だよねー」と雑談をしていた。
初版分の帯には「現役高校生作家、デビュー!」と書かれていたはずだ。現役高校生作家という若さと今後の伸び代のアピールよりも、人気の動画配信者が推しているという事実のほうが、購買意欲をそそるのか。
うれしい、と言い聞かせるように感情を小さく声にのせる。売れるのはうれしい。心のもって行き場がないし、折り合いはつけられないけれど、もちろんうれしい。
新作を打診してくれていた担当編集には、いまは書く気になれないと丁寧に伝えた。ではその気になったら、とありがたくも言ってもらえたが、一生書かないだろう。
ここ数日、ときどきへんな夢を見る。
夢の中で赤染は、自分のデビュー作と対話している。自分が「おれの作品でいてほしい」と乞うと、「育ててくれたのは瀬尾瑛一だ」と返される――そんな夢だ。
何もかもがおかしいのに、目覚めると一瞬息ができなくなったように追い詰められている自分に気づく。
「疲れてんのか? 元気ないな?」
瀬尾の労りに、はっと意識が引き戻された。
大学の、空き教室だ。二限が終わってから集合し、一緒に昼食を摂っているところだった。瀬尾と赤染以外には誰もいない。
コンビニで買った麻婆豆腐丼は、スプーンで何度かかき混ぜたきり、口にしていなかった。
「ちょっと夏バテ気味なだけです、暑くなってきたから……」
気の早い蝉が、窓の向こうで必死に求愛している。蝉の鳴き声までもが自分を責めている気がした。
「そうか?」
瀬尾の左手が向かいから伸びてきて、そっと赤染の頬をさすっていく。
「こないだ美馬が、図書館で赤染見たっつってたぞ。閉館まで勉強してたとかって。お前、努力家だから……むりしすぎんなよ」
「……」
がんばっているわけではない。何かしていないと心がどうにかなりそうで、とにかく教科書を読み込んでいるだけだ。けして効率のいい勉強法とは言えなかった。
麻婆豆腐丼をスプーンにのせ、口に運ぶ。ピリッとした辛さが、一時だけ気を紛らわせてくれる。
「ずいぶん暑いな」
瀬尾がよそよそしさを払拭するような慎重さで、いまさら口にするほどでもない感想を言葉にした。曖昧に頷く。クーラーは付けているけれど、機種が古いからかもったりと湿度の高い空気が拭いきれていなかった。
赤染はなんだかうんざりして、最近青い服を着ていない。窓の外に広がるかんっと突き抜けて青い空が瞳に映る。久しぶりに青色をまじまじと見た気がした。
「……ほんと、いい天気ですね」
「な」
青空の下の、その暑さをクーラーの下で想像していると、斜めから影が差した。窓の向こうに大きな鳥でも飛んでいるのかと視線をあげたら、向かいに座っている瀬尾が、ぐっとからだを乗り出して顔を近づけてきたところだった。
「赤染、おれら、付き合うか」
瀬尾が言った。告白というよりかは、宣言に近かった。言葉にされたのは初めてだけれどわかってはいたので、驚きはなかった。
「ひとつ、聞いてもいいですか?」
「何?」
「おれの、どこが好きなんですか?」
「どこって……んー。まず、外見が好み。それは正直大きいな。あとはなんか、初めて会ったときに吸い込まれた、みたいな? 雰囲気や喋り方? ……どこが好きかって、んなもん上手く言葉にできるかよ」
そうだろうか。だって瀬尾は、海野灯へ書くファンレターはもっと具体的に好きなところを列挙してくれていた。
何ページのこのシーンが、こういう理由で好きです、とか。モノローグが痛いほどに感情を伝えてきて、胸が痛くなります、とか。
そういうピンポイントな好意を、自分には向けてくれないのだろうか。
「瀬尾先輩、海野灯はいつも具体的に好きなところをあげるのに」
重い口調にならないよう気をつけたつもりだったのに、少々責めるようなニュアンスが混じってしまった。
「そうか?」
「そうですよ」
好きなところを具体的に列挙できる整然とした愛と、好きなところを具体的に挙げられないけれど好きだという本能的な愛は、どちらのほうが重いのだろうか。
海野灯に向けられた愛を、赤染汐は猛烈にほしがっている。赤染汐を好きである理由を聞きたくてたまらない。不安や寂しさからの衝動ではなく、どうして自分への愛情を言語化してくれないのだという嫉妬ともどかしさだった。
「海野灯とお前は違うだろ。海野灯の本は何度も読み返してるし、読み返すたびにおれはこのシーンが好きなんだなって発見があるから。でもお前は違うじゃん、同じ会話を何度も繰り返すわけじゃないんだし、好きだなって気持ちが積み上がってきたことはわかるけど、どのタイミングでそう思ったかはよくわかんねーよ。もしタイムマシンがあって、初対面からまったく同じルートをやり直せるなら、気づくかもしんないけど」
「じゃあもし海野灯に、付き合おうって言われたら?」
「え? なんで?」
瀬尾がけげんそうに眉を顰める。
「おれ、海野灯の作品は好きだけど、どんなひとか知らねーぞ」
「じゃあもし、海野灯の見た目も性格も好みだったら? 付き合いますか?」
必死だった。どんな返答だったら満足するかもわからないのに、信じてもいない神に、助けてほしいと祈った。
長い沈黙が落ちる。クーラーのごうごうという音だけが、教室に響く。瀬尾は慎重に口を開いた。
「……あくまで尊敬だよ」
赤染の質問の意図が読めなくても、誠実に言葉を探してくれる瀬尾の優しさに、心の剥き出しのところをぱちぱちと刺激された。
――好きだ。
ことん、と納得が落ちてきた。それは目の前で風船が弾けたような衝撃だった。
そうだ、自分は瀬尾が好きなのだ。自分の感情を恋心にチューニングするんじゃない、自分の気持ちは間違いなく、いつからか恋心だったのだ。
「尊敬と恋心って違うだろ」
瀬尾が一言一言慎重に、必死に気持ちを伝えようとしてくれる。
ばかだ、おれ。どうしていま、瀬尾を好きだと気づいてしまったのだろう。気づかなかったほうが幸せだったかもしれないのに。
「もちろんイコールで結びつけるひともいるだろうけど、おれはそうじゃない。上手く言えないな。……好きだけど、性的な興奮ができないっていうか。そもそも海野灯とは生きてる世界が違うし」
「生きてる世界が違う……?」
ざわっと鳥肌が立つ。唐突に気づいた。
全身全霊で求めなくてはいけないのだと。がむしゃらに、みっともなく、地べたを掻き毟るみたいな必死さで、ひたむきに求めなければいけないのだと。
「違うだろ。おれと海野灯は、ただのファンと作家だよ。この関係から恋仲に発展するわけねーだろ」
正論がいちいち胸に痛かった。
瀬尾が望むなら恋仲になろうだなんて甘い考えでは、きっと何も手に入れられない。自分はいま、瀬尾と恋がしたいと心底願っているのに。
胸を衝く感情のままに顔を近づける。え、という瀬尾のまぬけな小声を吸い込むように、唇を合わせた。
触れたかどうかわからないほどにかすかな、キスだった。
あまりに一瞬のことで、唇の感触などほとんどわからなかった。ただ人間としての生々しさというか、温もりと呼ぶにはかすかな生温い吐息だけは、間違いなく感じた。
顔を離す。瀬尾が、きらきらして見える。イケメンだとは以前から思っていたけれど、これほど目が離せない存在だっただろうか。
視界が閉じていく。瀬尾瑛一にしか、焦点が合わなくなる。
「――え?」
疑問の声をあげたのは、瀬尾ではなく赤染だった。赤染自身が唇を奪ったというのに、赤染のほうが動揺をしている状況に、瀬尾は笑った。
「どうしたんだよ、赤染」
「だ、だってー……」
自ら落とし穴に嵌ってしまったみたいだった。
だってこんなの、聞いていない。キスをした瞬間にもっと好きになるだなんて、よくある物語みたいにできすぎた展開になるなど思いもよらなかった。
胸をかっさばいて、心臓を掻き毟りたい。苦しくてたまらない。
好きだ。瀬尾の近くにいたい。瀬尾のぜんぶがほしい。もっと瀬尾と唇を合わせて、瀬尾が吸いこむその空気を自分の吐息でいっぱいにしたい。
頬にかかる横髪をがっと掻き上げる。息ができない。好きだ。心がぐしゃぐしゃになる。
「……ごめんなさい」
なんとか言葉を絞り出した。それだけで額から汗が吹き出るような労力に襲われた。
瀬尾のぜんぶを、赤染汐は手に入れられるのだろうか。海野灯に向けられている好意をどうすればいいのだろう。あれも赤染汐のものだという計算でいいのだろうか。海野灯が自分だと打ち明けてようやく、瀬尾瑛一の好意はすべて赤染汐のものと言えるのだろうか。わからない。
海野灯には性的に興奮できない、という瀬尾の言葉が赤染の脳内をぐるぐる掻き混ぜる。海野灯だと打ち明けて、恋愛対象ではなくなるかもしれない自分を想像する。――むりだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい……!」
「なんで謝んだよ?」
「ごめんなさい。あの、きょうは、帰ります」
必死に我慢したけれど、涙が二粒ぽろりとこぼれた。教室から飛び出す。
後ろから瀬尾の声がする。聞こえないふりで、必死に足を進める。入道雲がいっぱいに広がり、青空がほとんど見えなくなっていた。
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