第7話

 瀬尾がアルバイト先でムビチケをもらったとかで、映画に誘われた。映画なんてずいぶん久しぶりだ。映画は好きだったはずなのに、自分が創作する側だった頃、純粋に物語が楽しめなくなったことに嫌気が差して映画館から足が遠のいたきりだった。

 平日の夕方だというのにそこそこ混み合っている。インターネット発の恋愛小説が原作らしく、観客はカップルや女性グループが多い。ロビーにポップコーンやチュロスの甘い香りが充満していた。

 赤染は瀬尾とロビーのスタンディングテーブルにもたれかかった。入場開始まであと十分ある。

「カップルばかりですね」

「そうだな」

「そういえば、どんな話なんですか?」

 瀬尾は観賞前にあらすじだけはチェックする派らしい。赤染は事前に情報を収集しない派だが、暇だったし、興味のまったくない映画だというのもあり瀬尾に尋ねた。

「男ふたりと女ひとりの三角関係ものらしい。一人の男は女が好きで、もう片方の男はその男が好きなんだと」

「へえー……」

「そういうの、平気か?」

 瀬尾の言う“そういう”が同性愛を指すことはすぐわかった。瀬尾の声音がわずかに真剣みを帯びたことで、ただ映画について話しているだけではないらしいことまで察する。

 瀬尾はいま、同性と恋愛ができるか、と暗に聞いているのだ。ここで頷けば一気に詰められることまで予想がついた。

 ここ最近やたら距離が近かったのだ。隣に座るとき肩と肩が触れ合っていたり、邪魔でもない横髪をわざわざ耳にかけられたり。男女だったら、周囲に付き合っているだろうと囃し立てられていたに違いない。男同士だから、サークル仲間からは仲がよすぎる、と呆れられるだけで済んでいる。

 瀬尾は赤染に無理強いをしないだろう。すこしでも戸惑うそぶりを見せれば、すぐにただの友人の距離感に戻ってくれるという確信がある。

 自分たちの関係が友人に落ち着いたら、瀬尾は他に好きなひとをつくるのだろうか。赤染のことはいまみたいに熱心に見てくれなくなるのだろうか。耐えられない。

 瀬尾と恋仲になる想像をしてみても、抵抗感はない。――大丈夫だ、これは恋だ。

「…………全然、抵抗はありません」

 瀬尾が不安げな表情から一転、大きな口をにぱーっと開き、満面の笑みを浮かべた。その笑顔を見れば、これが正解なのだと安堵した。

 ――近くにいるためにこの気持ちを恋にしようって、まじでおかしいからな?

 脳裏に浮かぶヒデの言葉を、軽く頭を振る動作で忘れようと努める。

「瀬尾先輩は、同性愛は……?」

「おれ、ゲイ寄りのバイだから」

 なんでもないことのように瀬尾が言う。瀬尾が平等に女性と接し、一定の距離を保ち続けるのはゲイだからかと納得した。モテるのをわかりきっていて、誤解させないよう慎重に振る舞っているのだろう。

 でも、赤染のことは特別扱いしてくれる。うれしい。

 ふたりの間に漂う空気は、入場開始時間を知らせる事務的なアナウンスで打ち消された。連れ立って、ゆっくりと劇場に入る。

「映画、すげー久しぶりだ。赤染は?」

「おれもです。特に恋愛ものはほとんど観ません」

「おれも。……やばい」

 薄暗い劇場のなかでも、瀬尾の焦りは伝わってきた。

「おれらふたり楽しめる映画じゃねーかも、恋愛ものなんて。悪いな」

「なんで瀬尾先輩が謝るんですか」

 映画の予告編が流れている。視線をスクリーンに固定したまま、隣に座る瀬尾に声が聞こえるよう、すこしだけ顔を寄せる。

「おもしろいかどうかなんて、おれが決めることなんだからおれが観ないと。もしかしたらおれ、恋愛ものが好きって気づいてないだけでどハマりするかもしれませんし。誰かの評価なんてあてにしません」

 と、大きな口を叩くのは正直気まずい。瀬尾が黒だと言えば白も黒だと思いこんでしまう自分を自覚していたからだ。瀬尾はそんな赤染に気づいたそぶりもなく、ぐうっと顔を寄せてくる。頬と頬が触れあいそうな距離だ。

「そういうとこ、いいな」

 言葉にはされない、声音に混ぜられたほのかな照れ具合のニュアンスで、たしかな好意が伝わってくる。

 海野灯を語るときには見せない、瀬尾の男としての顔だった。


 映画はつまらなかった。隣にいたカップルもつまんなーと愚痴っていたからおそらく多くの観客がそう思っているのだろうけれど、誘ってもらった以上「not for meでした」と赤染が言葉を濁すと、瀬尾は苦笑した。

 映画館はショッピングモールに入っていたので、劇場を出ると、自然な流れでウィンドウショッピングをすることになった。

 とは言っても、赤染はたいして服に興味はない。瀬尾はバイト先の古着屋でかなりお値打ちに買わせてもらっているようだった。一応ぶらりと歩いてみたけれどたいして時間はかからず、当然のように最終的には本屋へ吸い込まれた。

 瀬尾はまず文庫本コーナーへと直進していく。赤染は店先の新刊コーナーをまずチェックしたかったが、ひとまず瀬尾のあとを追った。

「……ない」

「何がですか?」

「海野灯の本」

 文庫本棚の「う行」のあたりを、視線を何度となく滑らせ、瀬尾は言った。

「海野灯の本がほしいんですか?」

「ぜんぶ持ってる。本棚にあるのを見るのが好きなんだよ。どんなひとに買われてくんだろってわくわくするだろ」

 そんな考え方はしたことなかった。赤染自身は本棚にあったら、売れていないのだろうなとへこんでしまう。瀬尾は本棚に挿さっている一冊に希望を見出してくれているのかと思うと、胸がくすぐったい。

「なるほど、そんなふうに考えればいいんですね。誰か、必要としてくれるひとに届けばいいな……」

「……ふしぎなんだよな。お前、やっぱりときどき海野灯に似てるよ。発言が重なることがある。全然似てないのに――……ってか海野灯がどんなひとなのかわかんねーのに、お前を見てると、きっとこんなひとなんだろうって納得することがある」

「……」

「あ、悪い、不快だったか?!」

 赤染の沈黙を勘違いしたのか瀬尾が慌てるので、赤染は首を振った。

「そんなに好きな海野灯に重ねられて、どう反応すればいいかわからなかっただけです。おれ、海野灯じゃないですよ」

「わかってる、全然別人だよ。お前は海野灯を売れない作家とか言う奴だしさあ」

 根に持っているらしい。

「でもおれは、海野灯を好きなのと同じくらい、お前が――」

 瀬尾は不自然に言葉を切ると、頭を軽く振った。瀬尾がときどきする、この話はここまで、という合図だった。

 苦しい。

 自分が海野灯だと打ち明けない限り、瀬尾は赤染汐と海野灯を同じように愛していくのだろうか。恋心とファン心理はもちろん違う。でもどちらも、たしかな愛だ。瀬尾の愛をひとりじめできないのが苦しい。いや、これはひとりじめと言ってもいいのだろうか?

 気になった本があるふりで、すこしからだを乗り出す。はずみのように手の甲を軽く瀬尾の腕に滑らせると、瀬尾のからだが一瞬緊張するのがわかる。内心でふふんと笑って、満足感に浸った。

 と、そのときだった。

「海野灯の本、ないねー」

 隣の高校生らしき女子二人組の片方が、本棚の「う」行のあたりを指している。

 ふいに耳にした自分のペンネームに、赤染は動揺した。自分がどこかで誰かの話題にあがるという体験にまったく慣れていなかったからだ。

 何を言われるのだろう、と胃の下がきゅっと痛んだ。

 もう片方の高校生が制服のリボンをいじりながら答える。

「隣町の大きな本屋さんしかないって!」

「えー、週末にしか行けないよ。取り寄せしてもらうのとどっちが早いかな?」

 ――え?

 まさか自著を探してくれているとは。しかも取り寄せ、という能動的な行動までしてくれようとしているらしい会話に、目を白黒させる。いったい何が起きているのだろう。海野灯はほぼ忘れられた作家だというのに。

 思わず瀬尾と目を合わせる。瀬尾もずいぶん驚いたようで、ちらちらと何度も二人組の背中に視線をやっていた。瀬尾は海野灯が好きだというのに、海野灯が売れることには動揺するらしいとわかって、薄く笑ってしまう。わかるわかる、売れない作家だもんな。

 あまり立ち聞きしているわけにもいかず、もどかしく思いながら高校生から離れた。

 書店をぐるりとまわってから出ると、赤染はようやく楽に呼吸ができるようになった。いつの間にか無意識に息を詰めていたらしい。

「あの子ら、海野灯、探してたな」

「……どこで海野灯を知ったんでしょうか」

「どっかでおすすめされたんじゃないのか?」

 誰に? 疑問が拭いきれない。

 メシでも食おうと瀬尾に誘われたとき、スラックスのポケットに入れていたスマホが震えはじめた。着信らしい。タップすると長いこと連絡をとっていなかった担当編集の名前が表示され、驚いてしまった。

 瀬尾と一緒にいるときに電話に出たくはなかったが、そうすると一体担当さんから何の用事なのだろうと悶々とすることが目に見えている。ちょっと母から電話が……、と赤染は瀬尾から離れた。

「……はい。赤染です」

『海野先生? ご無沙汰しています。中山です』

「お久しぶりです」

『早速ですが、youtuberのオレンジさんってご存知ですか? 本の紹介動画をあげてみえる方です。オレンジさんが、海野先生のデビュー作を先日の動画で紹介してくださったんですよ!』

「――え?」

 思いもよらぬ事態に、呆けた声が出た。

『だからいま、問合せが急増しています。うちの在庫もだいぶ書店さんにお送りしましたし、電子の売り上げも伸びていますよ。海野先生、せっかくですし新作書きませんか?』

「……そんな、急に…………」

『考えてみてください』

 忙しいのか、用件のみで電話をあっさり切られる。通話時間四分という表示をしばらく呆然と眺めてから、慌てて動画を検索した。読書系youtuberのオレンジ、チャンネル登録者数は十五万人弱。数日前にアップされた「今週の読了本」という動画で、海野灯のデビュー作が取り上げられていた。

 二倍速で再生する。動画のなかで、『那加川高校雑用部』のあらすじを丁寧に紹介し、魅力を熱心に語ってくれている。

 もちろんうれしい。家だったら歓喜に跳んで喜んでいたかもしれない。

 ――でも、どうしていま……?

 するんと心の隙間に入り込んできたマイナス思考に、愕然とした。現役で書いてたころに話題になりたかった、と、ほんの一瞬考えてしまった。本気でうれしいのに、それは嘘じゃないのに。でも、だって、当時応援してくれたら――と思ってしまう自分は、本気で嫌な奴だ。

 寄りかかっていた壁からからだを起こす。重力が一気にのしかかってくる。自分のからだで自分の体重を支えなければいけないという当たり前のことが、ひどくつらかった。

 のろのろと瀬尾のもとへと戻る。

「ごめんなさい、お待たせしました。……瀬尾先輩?」

「あ、赤染! こ、これ、これ見ろ!」

 珍しく言葉がつかえるほど動揺している瀬尾に見せられたのは、ツイッターにはめこまれたyoutubeの動画らしかった。

『みなさん、こんにちは、オレンジです! 今週読んだ本を紹介していきます!』

 自分よりすこし年齢を重ねていそうな女性が、文庫本を数冊掲げて手を振っている。赤染も先ほどチェックした動画だった。

「これがきっかけで海野灯の本に注目集まってんだとさ! すげえ!」

「……へえ」

「これを機に、海野灯が人気になるといいよな!」

 瀬尾の言葉に、もどかしさが食道を逆流してくるようだった。――これを機に? 瀬尾は、海野灯が注目されるきっかけが瀬尾自身じゃなくても、許せるのだろうか。

 赤染は悔しかった。

 数えきれないほど出版されて、その大半が埋もれていくのであろう本のなかから、偶然海野灯を見つけ出してもらえたのに。日の光を当ててもらえたのに。きっと多くの作家が望んでいることなのに。

 星を掴むようなラッキーに見舞われて、それでも自分は、瀬尾瑛一にきっかけをつくってほしかったと思う。ずっと応援してくれた瀬尾の感想で世間に知られたら、どれほど幸せだっただろう。そもそも、せめて、自分の現役時代に話題にしてもらえたら――。そう考えてしまう自分がひどく恥ずかしいし、浅ましい。

「……瀬尾先輩は、寂しくないんですか? ずっと自分が応援してきた作家が急に話題になるって、遠くに行っちゃった気がしませんか?」

 喉を掻き毟りたくなる。寂しい。悲しい。悔しい。

 瀬尾に、自分こそが海野灯に最初から注目していたのだと言ってほしい。それだけで満たされる。瀬尾は、自分にとって特別なファンだ。瀬尾だけは、海野灯に知ったかぶりしても、周りのファンにマウントをとってもいいのだ。むしろ、そうしてほしくてたまらない。

「遠くに行っちゃったって、何? おれと海野灯が近かったことなんてない」

 瀬尾がゆるく首を傾げる。

「おれはおれのペースで応援してきただけだし」

 瀬尾は本気で何とも思っていないようだった。けろっとしている。赤染は、足場ががらがらと崩れ落ちて行く錯覚に襲われた。

 どうしてこんなことになっているのだろう。

 瀬尾瑛一は、海野灯のファンであるはずなのに。ファンこそが、海野灯を追いかける構図であるはずなのに。いつの間にか、赤染がファンにすがりついている。

 ――瀬尾瑛一だって、ただのファンに過ぎないんだぞ

 唐突にヒデの言葉を思い出す。そうだ、最初から忠告してくれていた。それでも瀬尾に近づこうとしたのは、自分だ。

 海野灯ということを隠し続けるということは、一生こうして翻弄されるということなのだろうか。これほどぐらぐらした心を、抱え続けていけるのだろうか。貧血を起こしたように、一瞬目の前が真っ暗になる。いっそのこと気を失ってしまいたい。

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