第6話

 気温はそこまで高くないはずなのに、湿度が高いせいかすこし歩くと汗ばむ。もうすぐ梅雨かと考えると憂鬱だ。ボランティアサークルの教室に入るとクーラーが効いていて、ほっと肩から力が抜けた。

 赤染に気づいたらしい瀬尾が近寄ってきた。

「よっ、赤染。これこないだの礼な」

 宝物を差し出すようなしぐさで、紙袋を手渡される。紙袋には大学近くの書店のロゴが入っていた。

「え、っと……?」

「飲み会から抜け出すの、手伝ってくれたから」

 手伝ったというよりは余計なお世話をしたに過ぎない。瀬尾の耳に光るラピスラズリのピアスを見ながら、赤染は「えっと……」と言葉を濁した。

「お礼をされることのほどでは、ないんですけど」

「ん、ってか読んでほしいだけ! おれの好きな本だし。布教ってやつ?」

 どんな本なのだろう――単純な疑問と一緒に、もやっとした気持ちが一瞬胸をはみ出す。瀬尾が他人に贈るほど好きな本を、あまり知りたくない気がする。

「……こういうの、いやか?」

「え?」

「自分の選んだ本だけを読みたいタイプなら――」

 受け取った紙袋をぼさっと眺めていたので誤解されたらしい。慌てて首を振って、セロテープの端をつまんだ。すこし力を加えると、紙袋の茶色を付着させてテープが剥がれる。右手を袋内に差し込むと紙袋の切れ端がちくちくと手の甲を刺激した。 

 出てきたのは、見覚えのある文庫本だった。

「…………これ、」

 左上と右下に男女の高校生が配置され、真ん中には学習机や黒板など学校特有の小物が描かれている。右上にタイトル、そして左下には――海野灯という名前。

「海野灯のデビュー作」

 瀬尾が声を弾ませる。表紙に並ぶ『那加川高校雑用部』というタイトルが、まるで知らない生き物に見えた。

「読んだことないって言ってたよな。いまはあんま有名な作家じゃねーけど、いつかきっと大きな賞をとる」

 海野灯の幸福な未来を無邪気に思い描く瀬尾に、どう声をかければいいかわからない。うれしい。瀬尾は、赤染よりずっと海野灯に夢を抱いてくれている。もちろんありがたくうれしい話ではあった。

 一方で冷静な自分が、そんな日は訪れないのに、と哀れみを感じる。海野灯のもう書かないという堅い決意を、瀬尾は知らない。多くの作家と同じように何も言わずに消えたから、瀬尾は新刊まですこし間が空いているだけとでも思っているのかもしれない。

 うれしい。みじめだ。

 自分はなんて、残酷なことをしているのだろう。自分を助けてくれた、ものすごく大切なファンに対して。

「……こういうの、好きな系統の話じゃないか?」

 瀬尾の少々不安そうな声を受けて、家に複数冊ある本をまじまじと眺めた。何度も見たことのある表紙なのに、昼間の大学という場所で見るからか、献本として自宅にあるものとはずいぶん異なった印象を受ける。

「読んでみます。瀬尾先輩が好きだというなら、おれも好きになりたいので」

「ほんとか!?」

 太陽がぽんっと弾けたような笑顔を瀬尾が見せる。心が軋む。瀬尾の好きなものを好きになりたいというのは、嘘じゃない、でも。

 本を紙袋ごと胸に抱える。かさりと耳にやさしい音がした。

 と、「そこー!」と急に騒がしい声が、赤染と瀬尾の間を割って入った。美馬だ。

「ふたりで本の世界に浸らない! ほら、夏休みのボランティアの計画立てるから、プリント見て!」

 美馬はプリントを押し付けると、赤染の持つ本に目ざとく気づいた。あれ、と眉を上げる。

「また海野灯じゃん。好きだねー、瀬尾。一年の女の子ズ、海野灯には敵わないって言ってるよ。恋人なんていらないんだろうなーって」

「ま、好きなひとならいるけど」

 美馬はただの軽口の気分だっただろうに、瀬尾の思いもよらぬ返事に、赤染と美馬は揃って「へっ」と情けない声をあげた。

 瀬尾がゆっくり首を動かす。その視線が、赤染に固定された。目が合う。瀬尾が、珍しく穏やかに微笑む。

「好きなひとなら、いる」

 空気が湿り気を帯びる。瀬尾の瞳のなかにちらりと覗く欲望は、たしかにこちらに向けられたものだった。瀬尾のそばで、美馬が呆然としている。

 ――そうなのか……

 赤染は驚きはしたけれど、嫌悪感は抱かなかった。ただ、どうしよう、という困惑ばかりが大きい。

 瀬尾はその日、サークルが終わるまでずっと赤染の隣にいた。

 自分に寄せられる好意に気づかない恋愛ストーリーなんて嘘っぱちなのでは、とすら思う。

 こちらを見る視線が、第三者の見えない角度で手の甲を触れていく指先が、顔を逸らすときに感情を隠しきれていない耳たぶが。言葉なんかよりずっと雄弁に思いを伝えてくる。一度気づくと、友情だと思っていた行為と好意に性欲が含まれていることを、嗅ぎ分けてしまう。

 どうしよう。立入禁止の看板の、その向こうにしか欲しいものがないと気づいたときのような動揺だった。


 帰宅してしばらくすると、玄関から「ただいまー!」と聞き慣れた声がした。ヒデが我が家のように上がりこんできたらしい。まっすぐ妹の部屋へと向かう足音の気配に、赤染は廊下に飛び出しヒデを捕まえた。

「うわ、びびった。なに、汐?」

「ちょっと」

 自室に連れ込む。不満そうなヒデをベッドに座らせて、自分は床に座り、「実は、」と切り出した。

「瀬尾先輩、おれのことが恋心で好きっぽいんだ」

「はあ?」

 あらましを説明するうちに、どんどんヒデの眉が顰められる。最後には呆れ果てた表情を隠そうともせず、ベッドサイドのテーブルに頬杖をつき、「で?」とめんどうそうに声を出した。

「どうすんだよ? 汐は別に恋心ってわけじゃないんだろ?」

「うん」

「いまだにわかんねーんだけど、汐の瀬尾瑛一に対する願望って結局なんなわけ?」

「おれを見ていてほしい」

 即答した。正確に伝わったかどうかはわからない。ヒデは舌を出してゲーッとした顔をしただけで、何のコメントも寄せなかった。

 瀬尾からもらった、自著の入った書店の紙袋が、勉強机の上で存在感を放っている。

「おれを見ていてほしいし、近くにいたい。おれの気持ちは恋じゃないけど、瀬尾先輩が恋だっていうなら、そんでもし付き合おうって言われたらー……おれの気持ちも、恋ってことにするよ。疎遠になるくらいなら、他に何だってする」

「ばっかじゃねえの!?」

 突如としてヒデがベッドから立ち上がり、家中に響くような大声を出した。隣の部屋にいる妹には確実に聞こえただろう。

「お前、おかしい。ファンに近づきたいって気持ちはわかんなくもねーから放っておいた。けど、近くにいるためにこの気持ちを恋にしようって、まじでおかしいからな?」

 ヒデが大きなため息を吐く。落ち着こうとしているのか、何度か深呼吸を繰り返した。

「…………そんなことして、汐、お前、みじめにならねーのかよ?」

 荒々しさから一転した、気遣いの多分に含まれた声音に、心配してくれているのだと察した。赤染は膝でヒデににじり寄る。

「ヒデ、いつも心配かけてごめん」

「……うるせえ」

「いまのみじめさなんて、あの頃に比べたらなんてことないんだ。瀬尾瑛一からファンレターをもらう前、おれはもっとみじめだった」

 知るか、とヒデはわざとらしく足音を立てて部屋を出て行った。すぐ隣の部屋のドアが開く音がする。けんかしてたの?という、妹の心配そうな声が壁ごしに聞こえた。

 引き出しから瀬尾のファンレターを取り出し、お守りのように胸に抱える。ベッドに寝転がって肺から息がなくなるまで吐き出すと、情けなさがしんしんとからだの内側から刺激してくるようだった。

 最初に自分が海野灯だと言ってしまえばよかったのだろうか――何度も考える。それでいて初対面の日に戻れるなら打ち明けるかと自問すると、否という答えが導きだされるのだった。どうしようもない。

 もし、自分を見る目ががらりと変わったら? 遠い存在として応援していた相手が身近にいる動揺を飲み込めず、瀬尾が海野灯の話をしなくなったら? 逆に、偶像の前で手を合わせるように、赤染汐の存在をありがたがるようになったら? 

 そもそも、瀬尾瑛一を追いかけて興文大学に進学したことは絶対言えない。ストーカーだと嫌われたくない。海野灯だと明かしながらも核心を隠すような、辻褄を合わせてしゃべる器用さが、自分にあると赤染は思えなかった。

 やはり海野灯だと打ち明けるのはリスキーだ。

 万一瀬尾が、いつか赤染に好きだと告げるとしたら。自分が拒否して疎遠になるくらいなら、恋人になったほうがいい。それが恋心として正しいのかはわからないけれど、愛情なら間違いなくある。

 瀬尾の恋心に合わせるために感情をチューニングするだけだ。何も悪いことではない。クッションに顔をうずめる。大丈夫だ、と自分に言い聞かせる。

 

「海野灯の本、どうだった?」

 瀬尾に真剣な瞳を向けられてようやく、そうか本をプレゼントされたということは、感想を伝えるのが暗黙の了解なのかと間抜けにも思い至った。

 もらった自著はもちろん開いていない。献本を含めて複数冊ある『那加川大学雑用部』を、読み直す予定はまったくない。

「おもしろかっただろ?」

 当然のように言い切る瀬尾を見て、なぜかむっとした。どうしてだろう。海野灯に向けられる好意を見るのは、あれほどうれしかったのに。

 赤染汐に明らかな恋心を見せているわりに、同じ口で海野灯を褒めているのが気に食わないのかもしれない。どちらも自分だし、作家としてはもちろんうれしい。でももうちょっと上手くやってくれないかなあ、と、不倫を見て見ぬふりしたがる女のような気持ちにもなる。

「話の中盤のシーンが好きなんだよ、おれ。恵が――」

「よくある話だと思いました」

 瀬尾が語り出そうとするのを見たとたん胃の中で苛立ちが小さく爆発して、その爆風で思いもよらぬ言葉がぽんっと飛び出た。一度飛び出ると、とまらなかった。

「よくある設定によくある話運び。恋心の一切ない男女の幼馴染が、周囲からあれこれ言われて傷つく……もう何度だって書かれた題材です。何も真新しいものはないと思います。新人賞を受賞しているとはいえ佳作だし――」

 自分の小説だと何もかも粗く感じる。他人の小説を読むときは王道だと思える話が、自分の小説だとありきたりになってしまう。他人の作品だと個性で済ませられるひっかかりが、自分の作品だと稚拙さに見えてしまう。

 こんなこと、本当は言いたくない。瀬尾が応援してくれた海野灯の悪口を、言いたいわけじゃないのだ。

「……本気でそう感じたのか?」

 普段から低い瀬尾の声が、一段と低くなった。目尻が上がり、雰囲気すべてでこちらを責めようとしている。

「よくある話の、何がいけないんだよ? よくある話を魅力的に書けるのが海野灯なんだよ!」

 先日押し付けた青いピアスまでもが、責めるようににぶく光る。

「よくある話を読んだら、よくある話だと思って終わるんだ、お前?」

「……だって、」

 ただでさえきりっと整った眉毛を吊り上げられる迫力に、内心で慄く。いつも明るく騒がしい瀬尾の、本気の怒りだった。

「海野灯は、そんな……瀬尾先輩がそんなに一生懸命推すほどの作家じゃありません」

 嘘だ。推してほしい。でも、海野灯ばかり褒めないでほしい。

「……赤染お前、海野灯の本読んだことあるんじゃねーのか?」

「え? ど、どうしてですか?」

「お前の感想、Amazonにある星三レビューに似てるわ。お前があのレビューを書いたんじゃないの?」

 普段は根拠なく他人を責めない瀬尾が、どんどん疑いを深くする。瀬尾は本当に海野灯が好きらしい――わかっていたことなのに、心にじわっと黒い影が広がった。

 瀬尾が自身の唇を何度も指でなぞっている。それが苛立ちをまぎらわすための瀬尾の癖なのだと気づいた。

「…………ごめんなさい」

 心から反省したわけではなかったが、瀬尾に嫌われたくなくてとりあえず謝る。

「すみません。海野灯のファンの前で悪口を言うのは、たしかにおとなげなかったです。でも、Amazonのレビュー書いたのはおれじゃありません。それだけは信じてください」

「……ああ」

 瀬尾が苦笑する。

「おれもすこし、言いすぎた。わかった、お前じゃない」

「Amazonの星三レビューに似てるって、よく気付きましたね」

「そのレビュー見たときに、よくある話の何が悪いんだって腹が立ったんだよ。おれはこんなに好きなのにって。ま、何を感じてもそいつの自由なのはわかってんだけどな」

 瀬尾がわざと冗談めかしてくれるのに合わせ、赤染は軽く笑った。

「レビューまで確認してるなんて」

「好きだからな」

 笑おうとしているのに頬の筋肉が盛り上がらない瀬尾の表情を見て、傷ついているのだとわかった。好きなものをおすすめしたら、批判的な感想を寄越された――それによって瀬尾の傷ついたぶんだけ、瀬尾が海野灯に向ける感情なのだと思うと、たまらなく悔しかった。

 瀬尾が目を伏せる。海野灯のことを考えているのだとわかる、表情をしている。

 どうしてこちらを見てくれないのだろう。いま、瀬尾の目の前にいるのは、赤染汐なのに。こちらを見て会話をしてほしい。

「……海野灯のこと、そんなに好きなんですか」

「ああ。好き」

 軽い口調で宣言する瀬尾の瞳に、暗い光が一筋差した。明かりの加減なのか、涙袋の下の影がいささか濃く見える。

「大好き。ずっと応援する」

 瀬尾の無邪気な好意が肌を突き刺すように、痛い。

 瀬尾が海野灯を好きだというのは、本気でうれしかった。なのにいま、ぐらつかないその愛を見て恐怖に近いものを覚えている。ホラー映画を見ているみたいだった。目の前にある扉を開いたら何かが襲ってくるだろう、でも開かなければいけないとき。

 ファンからの――瀬尾瑛一からの絶対的な愛情に答えられるような作家に、海野灯はなれなかった。

 瀬尾からもらったファンレターにどんどん心を奪われて、ついに筆を折ってしまうという作家にあるまじき行為をした海野灯。自分自身ですら情けないと思う。瀬尾が知ったら、海野灯に失望するのだろうか。その程度の作家だったのだと、呆れるのだろうか。

 事実を知られるわけには、いかない。

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