第5話

 参道の両脇に屋台が立ち並び、それぞれが吊り下げる電灯が蛍のように光る。地元の子どもにとっては大きなイベントらしい。さほど規模の大きくない祭りなのに、子どもらがあちこちで集団をつくっては、甲高い笑い声をあげる。

 もうすぐ二十一時になる時間だ。早々と店じまいを始めている屋台のおじさんから、「いまなら安くしとくよ」と声をかけられる。おじさんの売るたい焼きはおいしそうだったけれど、赤染はマイルールに従ってまずかき氷の屋台に近づいた。

「おれ、かき氷食べますけど、瀬尾さんは?」

「おれはいい」

「わかりました。すみません、ブルーハワイをひとつください」

 子どものころはいつもいちご味だったのに、先日青色が好きだと宣言してから、自分の趣向はまるっと変わったらしい。戸惑いと満足感が、均等に押し寄せる。

 受け取ったかき氷は小さかった。自分の手が大きくなったからそう感じるだけなのか、それとも数年前に増税したのに変わらず三百円だから? と脳内で疑問符が点滅する。

 屋台を離れ、行くあてもなくゆっくりと進む。靴裏を砂利がくすぐる感覚が神社っぽさを増しているようで、赤染はわざと足を引きずるようにして歩いた。

「ブルーハワイってどんな味なんだ?」

「シロップの味です。イチゴもレモンもメロンもほとんど味は変わんないみたいですよ。香りと色で脳の錯覚が起きてるだけって聞いたことあります」

「夢がないな……」

「おれらが大人になったからじゃないですか。子どものときにいちご味を疑ったことって、ありますか?」

 どうだろう……という瀬尾の相槌は、ほとんどかすれて夜闇に消えた。

「……兄弟が多いから、無駄遣いできなかったんだよな。あんまし間食させてもらえなかったし、いちご味の記憶がないな、そういえば。いまも余裕のある生活じゃないし」

「へえ……」

 学内では基本的に人付き合いのよい瀬尾が二次会に行かなかったのは、金銭的な問題なのかもしれない。学費や生活費の多くを自分で賄っているのだろう。そういえば初対面のときも、書店は時給が安いとぼやいていた。

 気の利いた言葉をかけられるほど器用な人間ではないので、沈黙を埋めるように、先の開いたストローで氷山をざくざく削る。シロップが浸透しはじめ、全体的に青くなる。

「兄弟、何人いるんですか?」

「弟ふたりと妹ひとり。お金のかかる遊びさせてもらえねーんだよ。で、いつもみんなで図書館に放り込まれてた」

「だから本が好きなんですね」

 男児数人が、もつれあいながら脇を駆け抜けていく。すこしずつ消灯が始まり、祭りがやがて終わることを示唆していた。

「本当は放課後に図書館じゃなくてゲーセンとかカラオケ行きたかったんだよ。貧乏は恥ずかしかった。で、反抗期に荒れて、でも海野灯の本がとめてくれたんだよな」

「え?」

「一作目の主人公が恵って言うんだけど、そいつが言うんだよ。『言葉にしなくても好きって気持ちが伝わるだなんて、ただの甘えだ!』って。おれ、反抗期は家族にうぜえとかばっか言ってた。あとから知ったんだけど、弟はおれに本気で嫌われてると思ってたらしい。おれのなかのどこかで、家族だし、当然大事だし、何言っても許してくれるだろって打算があったんだよな。――恵がとめてくれなかったら、いまどうなってたことか」

 半歩前を行く瀬尾の表情は、しっかりと見えなかった。じゃっじゃっと、砂利がこすれる音がやけに響く。

「そんなに珍しいセリフじゃないのかもしんないけど、タイミングがよかったんだな。出会うべくして出会ったのかもしれない。おれは、海野灯に救われたんだ」

 胸に大砲でも撃ち込まれた気分だった。意識的に呼吸を繰り返さなければ、酸素が足りなくなりそうだ。幸福に脳が締め付けられる。

 うれしい。本気で、心底、うれしい。

 しゃがみこんで、砂利を手でひっつかんでわめきたくなるような衝動だ。どんな言葉を尽くしても、どれほどうれしいかだなんてきっと誰にも伝わらない。

「あのとき、一生応援しようと思った。新刊を毎回買うくらいしかできないけど」

「十分です」

 心からそう思った。

「瀬尾先輩が海野灯に救われたと思っていることが、絶対に海野灯を救っています。そんなこと思ってもらえたら、作家冥利に尽きる。それで十分です」

 断定系で話を切り上げようとしてから、慌てて「たぶん、ですけど」と付け足した。

 隣で瀬尾の笑う気配が、夜のやわらかな空気を通じて伝わってくる。なんだか耳にくすぐったい笑い声だ。

「なんでお前は、そんななんだろ。なんか自分語りしちまって恥ずかしいなって思ってたところに、つるっとやさしくされるとほだされちまう」

 あー恥ずかし、と瀬尾がわざとらしく、手でつくった扇で顔を仰ぐしぐさをする。赤染は視線を慎重にはずし、かき氷に集中するべくストローを握りなおした。

 ほとんど液体になったかき氷をすする。シロップの味が強烈すぎる。甘過ぎて食べられたものではなかった。きちんと混ぜて食べ始めればよかったと、ポリスチレンカップの底を海のように彩るシロップを眺めて後悔した。

「あれ、」

 後ろで唐突に歩みをとめた瀬尾が、声をあげた。

「パワーストーンの出店なんてあるんだな」

 つられて視線をやると、パワーストーンというのれんのかけられた屋台の下に、色とりどりの石がずらりと並んでいる。アクアマリン、タイガーアイ、瑪瑙……名前だけは知っているような石に、「一律三百円」というポップが掲げられていた。本物かどうかもわからないが、祭りで買い求めるようなパワーストーンには誰も効能を求めていないのかもしれない。

「あ」

 瀬尾が声をあげた。こっくりと濃い青色のピアスを、瀬尾の節ばった指先が指し示す。

「これ、こないだのお前の服の色と、一緒」

「……そうですか?」

 服よりずっと濃い青のラピスラズリのピアスだ。やはり三百円という値札の下に鎮座していた。

 思わず指先でつまみあげる。石の価値なんてちっともわからないけど、いま瀬尾が指したこれは、特別なものにしか見えなくなった。欲しいという衝動はとめられなかった。

「……おじさん、これください」

「え、ほしいのか?」

 隣で瀬尾が驚く。それはそうだ、自分だって驚いている。

 かき氷のカップを一時的に瀬尾の手に避難させ、財布から三百円を取り出した。小銭の代わりに自分のものになった、本物か定かでないラピスラズリは、暗闇で光る猫の瞳みたいに、夜闇を受け止めていっそう魅力を放っていた。

 手に収めたラピスラズリを、歩きながらずっと眺めていたら、瀬尾に「危ないからどこかに座るぞ」と腕を掴まれた。

 神社の隅の大きな石に、浅く腰をかける。昼間は暑かったのにずいぶんと冷え込んでいて、スラックス越しに体温が石に奪われていく。

「そんなに気に入ったのか?」

 遠くの屋台のぼやんとした灯りが、瀬尾の笑顔をいっそう少年じみて見せた。ばか、と思わず心のなかで詰る。どうしてこれほど無防備なのだろう。いま瀬尾の隣に座っているのは、あなたの好きな作家本人なんだぞ、とすべてをぶちまけてやりたかった。

 理不尽なじれったさを抑えるために深呼吸をする。ぎゅっと握り込んだてのひらを、ピアスホストの尖った先が刺激した。

「瀬尾先輩、このピアス、もらってくれませんか?」

「え?」

 返事を聞く前に手が伸びる。瀬尾の耳につけられているピアスを、許可もなく取り外した。

「待て待て、赤染」

 瀬尾の言葉が急にひやりとして、赤染は手をとめた。

「おれ、そんなに物欲しげな顔してたか?」

「え?」

「お金がないからって代わりに買ってくれたのか? たしかに全然余裕のない生活だけど、同情されるほどじゃない」

 何の話かわからず呆然としてしまったが、しばらく考えてからとんでもない誤解が生まれていることに気づいた。

 瀬尾はどうやら、瀬尾がほしがっているからと赤染が気を利かせたと思っているらしい。

「ち、あ、違います!」

 上手く言葉が出てこず、一瞬声がひっくり返った。

「おれがほしかったから買って、おれが瀬尾先輩の耳につけたいと思ったからそうしたいんです。瀬尾先輩は関係ありません。同情なんかじゃなくって……」

 だからといってどうして瀬尾につけたいのかと聞かれたら、うまく説明できる気がしない。困り果てた。

「このピアスは、絶対に瀬尾先輩に似合うと思ったから。瀬尾先輩が青色のものをつけているところを、見てみたいんです」

「はあ? ……そんなに青色が好き?」

「好きです」

 必死に頷いた。

「……悪い、早とちりした。だって誕生日でも何でもないときに、ピアスを贈ったりしないだろ、ふつう……」

「それはそうですね――……すみません」

「いや、こっちこそ悪い。……それ、もらえるか?」

 やわらかそうな耳たぶを、ひょいっと向けられる。

「あ、じゃあ…失礼します」

 ピアスのキャッチをいったん取り外し、ピアスポストをそっとあてがう。

「穴の位置、左右でだいぶずれがありますね」

「安全ピンで適当に開けたから」

「安全ピンで?」

「中二のとき。弟がまだちっちゃくて、その世話があって友達と遊ぶ時間がとれないのにむかついて、で、なんか母さんを困らせてやろうと思って、友達に誘われるままに安全ピンで穴空けたんだよ」

「いたぁー……。怒られましたか?」

「全然。あっそう、みたいな。なんかその反応にもムカついたな」

 なんてかわいいエピソードなのだろう。赤染のちいさな笑い声が夜を揺らす。

 片耳にピアスを付け、もう片方の耳にも同じようにねじこむ。両耳にこっくりと濃い青を宿した瀬尾を見て、説明しようのない興奮が湧き上がってきた。

 遠くの人の行き来に合わせて、光と影の形がゆらゆらと変化する。そのたびに瀬尾の顔がよく見えたり見えなかったりして、ただそれだけのことに泣きそうだった。

 もっとしっかり見たい。もっと近くにいたい。興奮と切なさでぐっとこみ上げてくるものを必死に呑み下す。

「鏡もってないか?」

 瀬尾の弾んだ声に、急に意識が引き戻された。

「鏡ですか?」

「ピアス、確かめたくて」

 スマホのインカメを見せてやると、瀬尾は「はあ〜」とため息ともつかない声をあげた。

「ひとからもらったピアスつけるのなんて初めてだよ。てか派手じゃないか?」

「普段から派手なものしてるじゃないですか。似合ってます」

「本当?」

 きりっとした眉毛と目つきの、隙のなさそうなイケメンに飾られた青色のピアスは、誇らしげに輝いている。チャラい印象は拭いきれないけど、ほどよい色気と柔和さもあった。

 右手を伸ばし、収まるべきところに収まったピアスを、軽く撫でる。

「んっ」

 瀬尾が妙に甘い声をあげたので、慌てて手を離した。

「…………いま、恥ずかしい声出ちまった。ははっ……」

 気まずさを拭うようにへらりと笑う瀬尾と、視線が合う。あ、と思った。なんか、だめだ。近くの屋台が店じまいを始めたから一気にあたりが暗くなり、表情はほとんど影となってよく見えなかった。それでもラピスラズリの存在だけがよく感じられる。

 赤染からは視線をはずさなかった。瀬尾が困ったように瞬きを繰り返し、「帰るか」と呟いた。青色のピアスの刺さった耳たぶが、赤く染まっている。

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