第4話
指定された居酒屋は、大学から目と鼻の先にあった。入り口に「三百円均一!」と黄色いのぼりが立てられている。学生御用達の居酒屋なのだろう。
ボランティアサークルの新入生歓迎会だ。瀬尾が参加すると言うので、赤染も出席を決めた。
予約名を店員に告げると、最奥の座敷へと案内される。座敷にはすでに二十人以上集まっていた。ほとんど女性だ。
「お疲れさまです」
赤染が靴を脱いであがると、美馬に「こっちおいでよー!」と声をかけられる。初対面のときにすこし気まずくなった相手だったが、瀬尾の言うとおりすっぱりなかったことにしてくれているらしい。
「美馬先輩、こんにちは。瀬尾先輩は……?」
「あっち」
指されたほうへ視線をやると、瀬尾が座っている。
「瀬尾先輩」
近づくと、さも当然といったように瀬尾はすこしからだをずらし、赤染が座れるだけのスペースを空けてくれる。たったそれだけのことが、赤染には天にものぼりそうなほどうれしかった。
「失礼します」
すぐに美馬が飛んできて、「まったふたりで仲良くしてる!」と騒ぐ。瀬尾と赤染が顔を合わせるごとにどんどん仲良くなるのがふしぎでたまらないらしい。
「赤染くん、どうして瀬尾と一緒にいるの? タイプ違うじゃん!」
美馬がぐいぐいからだを寄せてくる。反対側から瀬尾が腕を伸ばし、おい、と諫めてくれた。
「おれらは本好きっていう共通点があんだよ。というか美馬、もしかしてもう呑んでんの? まだ十九だろ」
「誕生日四月なんで、成人しましたー! きょうはここ来る前に、みやっちたちとゼロ次会してきた」
そうこうしているうちに部長と幹事のあいさつがあり、乾杯の音頭がとられた。
瀬尾がさっそく多くの女性に囲まれる。赤染は瀬尾の隣というポジションを半ば強引に追い出され、しぶしぶ長テーブルの対に座った。ここならば瀬尾はなんとか視界に収められる。
赤染自身も新入生ということであちこちから声をかけられたが、グラスを合わせて一言二言話す程度で切り上げ、あとはずっと瀬尾に集中していた。
女性が明らかな意図をもってボディタッチすると、瀬尾は事務的なしぐさで相手と距離を置いた。
どうしたって見え隠れしてしまいそうな、女性に対する下心や下世話を、一切匂わせない男だった。美女も巨乳も不器量も、全員に対して同一の姿勢を崩さない。誰も特別ではない、という絶対の意思が伝わってくるようだった。女性たちもそれをわかっていて、安心してからかったり、言い寄ったりしているように見える。飲み会中のたわむれに過ぎないのだろう。もちろん本気で瀬尾を好きなひとも少なからずいるのだろうが。
常に会話の中心にいる瀬尾だが、ときおりふと状況を俯瞰しているような目をする。それが妙に色っぽい一方で、騒ぎきれず、妙な冷静さが残っていることを感じさせた。
「赤染くん、楽しんでるー?」
顔を真っ赤にしたいかにも酔っ払いの美馬が、へろへろと歩いて来た。右手にはビールジョッキを持っている。
「楽しんでます」
「瀬尾のことばっかり見てるじゃん!」
少々動揺したが、「モテるんだなって……」と笑えば、美馬は大きく頷いた。
「瀬尾はたしかに、モテる! でも本人は海野灯しか見えてないからさぁー。だめなんだよぉ」
一瞬肩が強張った。突然海野灯の話が始まるのには全然慣れそうにもない。
「海野灯って……作家じゃないですか。恋愛とは関係ないですよね?」
いくら海野灯が好きだといったところで、恋心とファン心理はまったく別物だろう。
「そうなんだけどぉー、でも、瀬尾は海野灯しか見てないんだもん。あいつ、恋愛なんてできないよ」
赤染は上手いこと相槌が打てず、味の薄いウーロン茶を口に含んだ。
海野灯は瀬尾の特別なのだと思いながら飲むウーロン茶は、幸福の味がする。ずっとずっと祈り続けた、自分を見てほしいという願望が、飽和するまで与えられている。
「あいつ、海野灯のこと神様か何かだと思ってるんじゃない?」
ほとほと呆れた美馬の言葉は、もう聞こえなかった。瀬尾が「ちょっとトイレに」と立ち上がるのが見えたからだ。
赤染は瀬尾から視線をはずして、目の前の焼き鳥を夢中で食べるふりをした。ガン見していたのがばれたら恥ずかしい。口のなかに強すぎるタレの味がいっぱいに広がった。
トイレへ行くために隣を通りがかった瀬尾が、赤染を見て「あ、」と声をあげる。すぐ隣にひょいっとしゃがみこまれる。
「え?」
急に顔を覗き込まれて動揺したら、瀬尾が赤染を見てくすっと笑った。
「どんだけ必死に食ってんだよ。髪の毛、美味いか?」
口に入り込んでしまっていたらしい数本の横髪を、瀬尾の指先が掻きあげる。すこし乾燥した人差し指の感触が頬にくすぐったかった。
それから何もなかったかのように、瀬尾はトイレへ歩いて行ってしまう。
サークルメンバーの誰をも特別扱いしようとしない瀬尾の、りんと伸びた背中を見送る。きょうこの居酒屋へ入ってから、瀬尾が自らの意思で誰かに触れたのは、自分が初めてだと赤染にはわかる。ずっと見ていたのだ。
表面に水滴のついたグラスを手にする。ウーロン茶は、やはり味がひどく薄い。こういうときにアルコールを飲みたくなるのか、と十九歳の赤染は大人の階段の前で立ち尽くす気分だった。酔っ払ってしまいたい。正気でいるにはなんだかそわそわする空間だ。
いったんお開きに、となったのは、二十時半をまわったころだった。幹事が会計を済ませ、ぞろぞろと連れ立って店を出る。
居酒屋のせせこましい空間から解放されると、反射的に深呼吸してしまうものらしい。お酒を飲んだわけでもないのに外の空気がやたらおいしかった。
どこからか二次会行くひとー、と声があがる。瀬尾はどうするのだろうと視線をめぐらせると、ばっちり目があってしまった。
「瀬尾先輩、行きますか?」
「やめとく」
瀬尾が首を振ったとたん、女性陣からブーイングが上がる。
「えー、行こうよ瀬尾!」
「そうそう。カラオケとかどう?」
瀬尾は周囲とテンションを合わせて笑ってはいるものの、口端の上がり具合がいつもと違うような気がした。本気で帰りたいのに、水を差すようなことはできないのだろう。瀬尾は言葉遣いは少々乱暴だが、気遣いが細やかで、場を乱すようなことは言わない。
信号がぱっと青になる。「信号変わったよ」という美馬の声がする。青信号に変わった横断歩道は、雰囲気に逆らえなくなりそうな強さを孕んでいた。瀬尾が強引に連れて行かれそうになっている。
赤染は、頭に手を当てて大げさに声をあげてみせた。
「っ、とと……」
よろけたふりをして近くのガードレールに手をつく。演技力皆無の体調不良に、それでも半数以上が酔っ払っている集団は疑いもしないようだった。
「気分、悪いの?」
誰かの問いかけに、ちょっと……と濁して答える。
「あ、じゃああたしが送って――」
ちいさく挙手した名前を覚えていない先輩に、計画を台無しにしてくれるなと内心むっとして、慌てて瀬尾の服をすがりつくように掴む。
「瀬尾先輩! 送ってもらえませんか?」
「は? 大丈夫なんかよ?」
「ちょっと空気に酔っちゃっただけです」
咄嗟に言ってから、空気に酔っちゃっただけって、なに?と、頭のなかで冷静な自分がつっこむ。
「仕方ないな。腕、まわせ」
背中から脇に瀬尾の右手が差し込まれ、からだをぐっと支えられた。瀬尾の筋肉は見せ物ではないらしく、ずいぶんと安定感がある。
体調の優れないふりで、瀬尾の右肩に擦り寄る。温かい。瀬尾の耳たぶに連なるシルバーのピアスが目の前にある。
少々女性陣にうらめしげな視線を向けられている気もするが、それくらいは想定範囲内だ。ざんねーん、と口々に言われながら、カラオケへと向かう集団を見送った。
「家まで送るか?」
「え、いや大丈夫です、えっと……そこらへんのベンチとかで」
「じゃあどっか座るか」
擬似体調不良はなかなか難しい。どのくらい体重を預けていいかわからず、なるべく自分で歩こうとするのに、瀬尾に「気にしないで体重かけろ」と声をかけられる。
歩くテンポも揃わない。運動会の二人三脚だったらきっとドベだ。
数十メートルも歩くといよいよ面倒になって、振り返ってもう誰もいないことをたしかめると、赤染は瀬尾の手をはなした。
「……え? 大丈夫なのか?」
「はい。すっかりよくなりました。ちょっとアルコールの匂いにやられてただけだと思います、もう大丈夫です」
瀬尾はしばらく沈黙してから、助かった、とごくごく小さな声で言う。体調不良がエセだと早々にばれたらしい。
「お前って、どうして毎回おれを助けてくれんの?」
「瀬尾先輩が先に、おれを助けてくれたので」
「は? いつ? 身に覚えがないんだけど」
瀬尾は困惑した表情を隠そうともしない。
「秘密です」
「言えよ。もやもやすんだろ」
「秘密です。でもおれは、瀬尾先輩に助けられたことがあるんです。だから瀬尾先輩が困っていたら助けます」
顔をあげると、瀬尾が不躾なまでにこちらを凝視していた。遠くで青に変わった信号が点滅し、また赤に戻るまでの時間を、見つめあって過ごした。甘い空間というよりかは、互いの距離感をはかる動物同士のしぐさだった。
「……こわ」
どんどん湿り気を帯びる雰囲気をごまかすように、瀬尾は軽口を叩いた。風船が弾けたように空気が解ける。赤染は笑った。
どこからか、夜の物悲しさを演出するような音が聞こえてくる。ぴゅ〜ひゅるひゅる…と間抜けな笛の音に、揃って視線を空にあげた。天を仰げば答えがあるみたいに。
「……なんの音だ?」
「たしか川向こうの八幡さんのお祭りが、この季節だった気がします」
「祭り……」
瀬尾の表情を見れば、わずかに興味を抱いたのがわかった。
「見に行きましょう」
赤染が歩きだすと、瀬尾も後ろをついて来る。信号がちょうど青に変わる。
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