第3話

 瀬尾に促され、教室の隅に腰をかけた。向き合うようにして瀬尾と美馬が座る。

 新入生捕獲期間中のボランティアサークルはまだ本格的な活動をしていないようで、教室のあちこちで新入生が上級生に囲まれているらしかった。

 本当に彼がファンレターを送ってくれたのだろうか。瀬尾をじろじろ観察する。耳にたくさんピアス穴が空いていて、手錠みたいなピアスが連なっていた。どうしたって読書好きには見えない、ましてやファンレターなんて書きそうにもない、と偏見まじりに思う。

 美馬が両手で頬杖をつくようにして言った。

「瀬尾ってば外見とのギャップがすごいんだよ! うちのサークルに入ってるのは保育園に絵本を読み聞かせしに行くボランティアに参加したいからだし」

「おれが子ども好きだったら悪いのかよ」

「あと瀬尾の前で海野灯の話しちゃだめだよ、とまんなくなるんだから」

「うるせーよ、美馬!」

 美馬と瀬尾のやりとりに、赤染は曖昧に頷いた。

 赤染は瀬尾に、自分が海野灯だと打ち明ける気はない。ストーカーじみた行為をした自覚はある。海野灯の話題は深入りせず、そっと流すのが無難だろうと思った。

「海野灯にファンレター送ったこともあるんだって! 熱心すぎでしょ。ねえ、赤染くん?」

「え?」

 急に話が赤染にとっての核心に入り、心臓がどきりと跳ねた。

 美馬はファンレターについてからかう気満々らしく、意地悪そうな笑顔を見せる。会話を弾ませようとしてくれているのだろう。瀬尾も「うっせー」と口先では言うものの笑っているので、コミュニケーションの一環に過ぎないのだとはわかる。

 でも、自分はそのファンレターにすがりついた作家だ。瀬尾のファンレターに救われて、支えられた。軽口だとしても瀬尾の行為を笑ったりなどしたくなかった。

 美馬に楯突くような発言はしないほうがいい、とわかってはいるのに、口からは瀬尾をかばう言葉がこぼれた。

「あ、えと、……瀬尾先輩のファンレターに、きっとその作家は支えられたと思います。なにげない好意がどれだけうれしいかだなんて、それにどれだけすがりついてしまうかだなんて、好きだって言う側のひとにはきっとわからないでしょうけど。でも、なにげない一言ほど、相手の人生を揺るがせてしまうものだって思うので……」

 どんどん言葉が尻すぼみになり、最後に「おれの考えですけど」と付け足した。

 美馬がほんの一瞬しらけた視線をこちらに向ける。ひやりとした。やはり軽く同意しておくべき場面だったのだとからだを丸めた瞬間、瀬尾が赤染の肩を力強く掴んだ。まるで自分自身の心臓を握られたかのように感じた。

「え?」

 赤染の戸惑いを聞いた瀬尾が、「あ、悪い!」と慌てて手をはなす。

「痛かったか?」

「いえ、痛くは……」

「赤染お前、海野灯の本、読んだことあるのか?」

 真剣な瀬尾の瞳が赤染を射抜く。どうして急に、と疑問を挟めないほど、瀬尾の表情は切実だった。

 再びどうしようと焦る。未読だと言えば、今後気を付けねば話に齟齬が生じるかもしれない。しかし適切な距離感で海野灯について話せず、下手に知識が豊富だと思われても厄介だ。

「……ありません」

「そ、……そう」

 納得いかなさそうに瀬尾は何度も瞬きをしたあと、笑った。泣きそうにも見えた。

 瀬尾がついっと視線を逸らす。逆光気味で顔がよく見えなくなった。なのにふしぎなことに、瀬尾の抱く海野灯へのファン心理が、空気を通じてはっきりと伝わってくる。

 ――本当に、海野灯が好きなんだ……

 ファンレターを待ちわびた日々を思い出す。おれも瀬尾瑛一が好きだ。ようやく会えた、会いに来てよかった。

 美馬はやる気を削がれたとでもいうように、「入部希望なら書類だけ書いてね」と書類を用意し、他のメンバーのもとへと行ってしまった。後悔が湧き上がる。瀬尾が所属しているからボランティアサークルに入るつもりだったのに、美馬に嫌われてしまっただろうか。

 美馬の冗談がファンレター以外だったら、きっともっと上手く立ち回れたと思う。ファンレターだけは笑い話にしたくない。あれは自分のすべてだった。

 赤染は気まずさに耐えられず、タイミングを見計らって「そろそろ」と立ち上がる。

「きょうは見学のつもりだったので、そろそろ失礼します」

「もう帰んの? 正門まで送るわ」

「え? あ、いえ、大丈夫です」

「新入生をこっから帰らせたら、ぜってー正門までの道で迷子になっから」

 瀬尾がさっさと教室を出て歩き出す。入り組んだキャンパスにはまだ自信がなく、入学時に配られたキャンパスマップをときどき広げて歩いていたのは事実なので、ありがたく甘えることにした。意外と面倒見がいいのかもしれない。

 中庭に差し込んだところで、瀬尾がすこし歩を緩めた。

「……さっきは助かった。おれがファンレターを送ったってこと、なんだか持ちネタみたいになってんだよな。かばってもらえて、思いのほかうれしかった」

「え」

 これを言うためにわざわざ送ると声をかけてくれたのだろうか。

 毎回ファンレターを送ってくれる律儀さが垣間見えたようで、赤染は薄く笑った。

「いえ。おれこそ下手に口出ししてすみません……。瀬尾先輩は、持ちネタみたいにされることいやじゃないんですか?」

「まあファンレター出しそうにないタイプなのはおれがいちばんわかってっし。……でも、お前の言葉はうれしかった。ちゃんと気持ちが海野灯に伝わってればいいけど」

「届いてますよ!」

 思わず食い気味の返事となってしまった。

「届いてるし、伝わってるに決まってます。たしかにちゃんと伝わらないことのほうが多い、けど、」

 売れないという前置きがつくにしたって元小説家だというのに、伝えたいことを順序立てて言葉にできない不器用さが悔しく、もどかしい。なんて構成力がないのだろう。

「瀬尾先輩の気持ちは、絶対に伝わってます! ……たぶん」

「絶対にたぶん? どっちなんだよ」

 くっくっ、と喉奥で瀬尾が笑う。太陽が翳り、だんだんと忍び寄る闇が、瀬尾の目鼻立ちの美しさを際立たせる。

 遠くに見える山と空の境界が一筋、絵筆で引いたように赤い。

「あの、おれ、入部したいんですけど、美馬先輩に反論したみたいになっちゃって……」

「さっぱりした奴だからいいだろ。次にはきっと忘れてる」

 それを聞いて胸を撫で下ろした。じゃあ入部しますと言うと、瀬尾がああと頷く。

「その服、……ずいぶんと青いんだな」

 瀬尾が赤染の全身をまじまじと見つめる。

 瀬尾から送られてきたファンレターは、いつも青色を基調にしていた。海野というペンネームから連想したものなのか、デビュー作が真っ青の表紙だったからか、ただの偶然か。

 セレクトショップで買い求めたこのパーカーとスラックスは、赤染の好みではない。ただ、二作目刊行後に瀬尾が送ってくれた、青色のグラデーションと金色の箔押しのレターセットにとても似ていた。瀬尾があのレターセットを、自分のために選んでくれたのだったら――大学入学直前に一縷の望みにかけて、けして安くはないこの服をなけなしの印税で買った。瀬尾がイメージする海野灯像にすこしでも近づきたかった。

 瀬尾はこの服を見ても、自分が使った便箋のことなど思い出しはしないらしい。それはそうだ。がっかりはしなかった。

「瀬尾先輩は、おしゃれな服装ですね」

「一応古着屋でバイトしてっから」

「本屋さんじゃないんですね?」

「本屋は時給が安いだろ」

 ばっさりと切り捨てられる。すこし不機嫌そうだ。赤染が一瞬戸惑うと、瀬尾は「あー、悪い」と自分の頭を掻きまわした。何を謝られたのかわからなかったけれど、赤染は首を横に振った。

 学校の裏話や授業の単位のことなど、何でもない会話をしながら歩く。風が吹くたびに桜の花びらが舞い上がる。赤染は桜があまり好きではない。雨や風に飛ばされ地面に散ったあとの汚れ具合を見ると、咲き誇っていたときの華やかさとのギャップに困惑させられるからだ。

「大学生協行ったか? あそこ、けっこう文庫が揃ってんだよ」

「そうなんですか」

「ああ。そんで先日出た新刊が――」

 楽しそうな笑顔を向けられ、ああきれいだな、と思った。瀬尾の明るい髪の上に、薄ぼんやりした桜の花びらが載っている。

 この気持ちは何だろう。瀬尾と会えてうれしい。うれしいのに、何かを忘れているような焦燥感もある。

 ただただ、もうファンと作家という関係には戻れないのだという事実だけが、心に重く横たわっていた。


 四月も下旬になると、キャンパス内の光景にでこぼこ感がなくなってくる。入学当初はそれぞれ一張羅を着込んでいたのだろう新入生が、慣れに従ってユニクロと無印良品を日替わりで着るようになったからかもしれない。シンプルで機能的な服たちは、景色によく馴染んだ。

 大教室の座席は、後ろに行くにつれ学生たちがかたまっていた。赤染は前方へと進み、適当なところへ座った。

 木曜二限目、「統計学」の授業だ。

「赤染もこの授業とってんのか?」

 上から花びらのように声が降ってきた。反射的に振り返ると、瀬尾が笑っている。

「あ、え、瀬尾先輩」

 当然のように瀬尾が隣に座る。

 何度かサークルに顔を出したが、瀬尾とふたりきりになるのは初対面のとき以来だった。仲良しとはまだ言えない人物の隣に躊躇なく座る瀬尾に、距離の詰め方が陽キャだな、と赤染は内心戸惑う。

「すっげー、ひと多い」

 瀬尾がうんざりした声を出した。

 教室内を見渡す瀬尾に合わせて視線を動かすと、たしかに数百人は入るであろう教室がみちみちになっている。

「本当だ。人気の授業なんですね。よくこのなかでおれを見つけましたね」

「はあ〜? ばかにしてんのか? 気付くだろ、そんなん。あ、てか青い服じゃねーのな」

「え? あ、ああ、きょうはちょっと……」

 瀬尾に自分の存在を印象づけるための青い服に過ぎないので、基本的にサークルの日しか着ないのだ。だけど、青い服じゃなくても、瀬尾は赤染に気づいてくれた。この大勢のなかで。

 瀬尾が教科書とルーズリーフを広げる。買ったばかりなのだろう、まだ手に馴染んでいない教科書はよそよそしさが残っている。

「あの、よければ授業中、教科書見せてもらえませんか?」

「まだ買ってねーの?」

「まだこの授業をとるか悩んでいて、買ってないんです。本授業までいろいろ授業受けてみるつもりで」

 四月いっぱいは、新入生は試用授業期間ということで、一般教養の授業はあれこれ見てまわっていいことになっていた。とりあえず気になる授業はすべて履修登録をしておき、授業に出席しながら自分に合っていそうかじっくり考える。四月末までに、本登録するつもりのない授業の履修登録ははずす、というシステムだ。

「般教、悩み中? 単位とりやすい授業教えるか?」

「いえ」

 ありがたい申し出ではあったが、赤染は首を振った。

「勉強したいことを勉強したいので。いまはスケジュールが合うかぎり授業に出てるんです」

 ちょうどかたわらに開いていたスケジュール帳を、瀬尾のほうへ差し出してみせる。月曜から金曜、一限から四限までほとんど埋まった状況に、瀬尾は驚いたようだった。

「これ、ぜんぶ出席してんの?」

「試用期間だけです。単位がとりやすいとか、スケジュール的に都合がいいとかの理由で選びたくないんです。ちゃんとおれが納得いく授業を選びたい」

 瀬尾がこちらを見る。黒瞳が大きいからか、その瞳が潤んでいるように見えるからか、瀬尾の視線には迫力がある。

「やっぱ似てんだよな」

「誰にですか?」

「海野灯。名前も似てると思ったけど、いまの発言もすこし似てる」

 身に覚えはなかったが、自分が書いている以上、自分の思考が文章に滲み出ていたのかもしれない。

 戸惑いながら曖昧に頷いたタイミングで、教授が入室してきた。会話が途切れたことにほっとした。


 授業に集中しきれなかったので、チャイムが鳴った瞬間の開放感といったらなかった。

「授業どうだった? 本登録するか?」

「いえ。おれ、そういえば数字があまり得意じゃないんでした」

「じゃあなんで統計学試してみようと思ったんだよ……」

 連れ立って教室から廊下に出るまでの数分で、瀬尾は五人ほどに声をかけられていた。どれもが軽いあいさつに過ぎないけれど、ずいぶん顔が広いのだと赤染は感心する。しかもほとんど女性だ。たいそうおモテになるらしい。

 混雑したエレベーターを横目に、雑談を続けながら階段をくだる。グレーのスニーカーの底がきゅっきゅっと音をたてる。せっかくだから青色の服を着てこればよかったと、少々後悔した。

「昼休みはどうすんの?」

「ちょっと図書館へ行きます。勉強したくて」

「勉強?」

 瀬尾がちいさく目を見開く。

「テスト前でもないのに?」

「ちょくちょく勉強するほうが楽じゃないですか」

 妹への劣等感で押し潰されそうだった日々にがむしゃらに勉強した名残で、いまでも予習復習を欠かさないと気が済まない。焦燥感に駆り立てられないためには、努力しているという実感がまず有効なのだ。

 図書館へ向かって歩いていると、後ろから黙ってついて来ていた瀬尾に首元をくんっとつままれた。からだがちいさくつんのめる。

「うわっ! な、なんですか急に!」

「……これ、安物だ」

 どうやら襟についた服のタグをチェックしたらしい。

「え?」

「こないだの青い服、すげー高いやつだったろ。駅前のショップの。きょうのは量販店の、たぶん二千円もしない服だ。振れ幅すごくね?」

「よくそんなの気づきますね」

「古着屋の店員だっつっただろ」

 瀬尾がふふんと笑う。

「こないだの青い服は、特別です。おれは別に着道楽じゃないし、あんなに高い服をひょいひょい買えるような身分でもありません」

「あれ、自分で買ったのか?」

「? 自分で買わなかったら、誰が買うんですか」

「…………それは、そうだよな……?」

 はあ〜、と瀬尾は大きくため息を吐いた。気まずげに視線を動かしてから、「あー…」と口を開く。

「誤解してた、おれ。あんなに高い服、てっきり親に買ってもらったんだと思って、嫉妬してた。いいとこのぼんぼんなんだろなって。お前、自分で高い服買うような奴には見えないし。海野灯の悪口も言うし」

「……」

「あの日、奨学金の申請に手間取って苛立ってたんだよ。で、あんな高い服見て、金持ちはいいなーと思って。ただの八つ当たり。恥ずかしいな。……悪かった」

「いえ、別に」

 だから初対面のあの日、服の話になってから少々不機嫌そうに見えたのかと納得がいった。謎は解けたが、謝られるほどのことではなかった。

「あの服、やっぱいいよな。あのショップの服はラインがきれいなんだよ。お前顔はきれいだから、すげー似合ってた」

「へ?」

 てらいのない褒め言葉に、虚をつかれる。

 遅れてうれしさの波が襲って来た。やはりあのファンレターを書いたひとなのだと実感する。好意の表現がストレートだ。

「赤染、青色が好きなの?」

「好きです」

 赤染は躊躇いなく頷いた。自分がどんな色を好きだったかなんて、どうでもいいと思った。瀬尾が褒めてくれるならば、青色が好きなのだ。

「あなたが言うなら、青色が好きです」

「なんだそれ……」

 瀬尾が眉を下げて呆れかえる。なまじ顔が整っているので真顔だと怖いほどなのに、喜怒哀楽を表現するときは少年のような表情をする。

「言っとくけど、海野灯を売れない作家って言ったことは許してねーからな」

「はい!」

 うれしさいっぱいで返事をすると、瀬尾は「へんな奴」と呟いた。

 結局、瀬尾は図書館まで着いて来た。文芸作品の棚に行きあれこれ探っている。赤染もなんとなく隣に並び、本のおすすめをしあった。

「お前、どんなジャンルが好きなの?」

「ミステリーや歴史ものが好きです」

「おれも! おれもミステリー好きなんだよ」

 知ってる、と甘い気持ちが胸を灼いた。二通目のファンレターに、ミステリーが好きなのだと書いてあった。事前にファンレターで得た知識を、瀬尾の口から細かに補強されていく。心がでろりと溶けそうになる。

 もちろん初めて聞いたふりで、会話を続ける。

「謎が解けていくの、気持ちいいですよね」

「驚かされれば驚かされるほど得した気分になるよな。美しく上手く騙されるのが好きなんだよなー」

「なるほど」

 瀬尾と別れ、図書館で勉強を続けているとスマホが震えた。ヒデからのラインだった。

 ――何もしてないだろうな?

 ときおりこうして連絡がくる。赤染が瀬尾と知り合ったことでいよいよ何かしでかさないかと心配しているらしい。

 ――大丈夫。ミステリーが好きらしい

 メッセージを送るとすぐに既読がついたが、もう返信はなかった。呆れ返っているのだろうという想像は容易かった。

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