第2話
双子は同じレベルで産まれる仕組みだったらいいのに、という空想をするのが中学生時代の赤染の日常だった。
「汐、お前、まだ怒ってんの?」
学校から帰宅すると幼馴染のヒデがいた。学ランを着崩したヒデは、赤染家のリビングで我が家のようにくつろいでいる。
「怒ってない」
赤染は端的に答え、脱いだ学ランをハンガーにかけた。軽くブラシもかけておく。
「おい、こっち向け。ちゃんと話せよ!」
「だってー……!」
つい先日、赤染の双子の妹と、幼馴染のヒデが付き合い始めた。自分の大事な幼馴染すら妹にとられたのかと思うと、嫉妬と悔しさと劣等感でどうにかなりそうだ。
教師も同級生も、自分より出来のいい妹ばかりに注目する。両親は自分たちを平等に扱ってくれようとするけど、妹にだけ向ける隠しきれない期待があった。ヒデだけは違った。遊ぶのも勉強するのも怒られるのも、真っ先に赤染を巻き込んでくれた。これからもそう付き合っていけると思っていた、のに。
「大事な妹がとられたからってそんな拗ねんなよ。それとも三人で遊べなくなるのが寂しいのか? ちゃんとこれからも誘うって」
「そうじゃない」
ヒデはわかっていない。だからといって赤染にも赤裸々に告げる気はなかった。ヒデまでもが妹を特別扱いしたということが気に入らないだなんて、あまりにも幼稚だ。
ヒデの腕を振り払い、自室に引っ込む。かばんから取り出した小テストの答案用紙をゴミ箱に捨てた。あと数点で妹に及ばなかった答案には価値がない。部屋の全身鏡に写る、妹によく似た顔にうんざりした。どこか幸の薄そうな美人顔は、女である妹にとっては儚げというプラス価値がつくのに、赤染にとっては頼りなさそうな印象を与えるだけのものに過ぎない。
数日後、赤染は学校で珍しく教師に呼び止められた。
「赤染ー! そうそう、兄の方! こないだの授業で提出した短編小説あったろ、あれずいぶんよかったぞ」
「え? 小説が?」
「そうそう。描写も丁寧だし、書きたいことがきちんと伝わってきた。意外な才能だな、兄の方は地味なのに。あ、じゃあ次の授業、遅れんなよ、もうすぐ予鈴鳴るぞ」
さりげなくディスられたが、そんなこと気にならなかった。経費削減だかで数メートルおきにしか蛍光灯の点けられていない廊下で、赤染はしばらく呆けた。
教師に褒められた一分間を、何度も脳内で反芻する。
――おれが、褒められた……おれ自身が……
妹を差し置いて褒められるのは、記憶にある限り初めてだった。もっと自分を見てほしい。もっと注目してほしい。小説を書けば、この欲は満たされるかもしれない――。
そんな些細なことをきっかけに、小説の執筆にのめりこむようになった。
もちろん甘い世界ではない。高校生になり、なんとかちいさな新人賞に引っかかりデビュー作が発売されたものの、ちっとも評判にならなかった。がむしゃらに泥沼に立てた爪が、ぴっと反り返り剥がれそうになる日々だ。
妹が憔悴する赤染を見ていられなくなったらしく、「やめなよ」とスマホを取りあげた。
「もうこれ以上エゴサすんのやめなよ。私が感想探しておくから。見つけたら教えてあげる」
作家としてデビューしたことは両親にも伝えたけれど、執筆の苦悩やデビュー作発売後の憂鬱まであらいざらい話しているのは妹とヒデだけだ。なんだかんだ言って彼らには何でも打ち明けられる。
「……うん。そうだね……」
「お兄の小説、おもしろかったよ」
心からの言葉だとわかるのに、素直に受け取れない。何でも赤染よりよくできる妹に褒められても、と劣等感が邪魔をする。そんな自分にもうんざりした。
「売れ行きはまあまあだって、担当さん言ってたんだろ? そのうち感想も増えるんじゃないのか?」
ヒデが言う。ヒデのこのどうでもよさそうな態度は、心配の裏返しだ。
「感想がほしい。悪口でもいい。読んでもらえてるって、実感がほしい――……」
赤染は言いながら、机上に置いてあったデビュー作『那加川高校雑用部』に手を重ねた。帯には“現役高校生、デビュー!”と印字されている。つやつやした質感の紙に蛍光灯が反射してまぶしい。
恥ずかしい。現役高校生という肩書きを使ってもなお話題にならない自著に、小説を書けば誰かが自分に注目してくれるだろうと思っていた自分の甘さに。
「とりあえず二作目のプロット書けって。そう言われてんだろ? えっと、担当さん? とやらに」
「お兄〜、そうだよ、とりあえず書くしかないよ」
PCに向かいながら、手の甲を掻き毟る癖ができた。赤いミミズ腫れみたいな痕が数本、ときには十本近くでき、これではまずいと薄手の手袋をして執筆するようになった。
ひたすらもがき続ける苦しみのなかで、初めて、ファンレターが届けられた。気温が三十度を超えた五月の終わりの、ある日だった。
端正な佇まいの、濃紺の封筒。すでに担当編集が中を確認したのだろう、封は開けられている。
ポストの前でしばらく封筒を握りしめ呆然としていたから、てのひらの汗で封筒の端がふやけてしまった。
「海野灯先生」という宛名を見て、自分のなかの海野灯が命を灯すのを感じる。
震えそうになる指で便箋をつまみ上げた。
海野灯先生
拝啓 こんにちは。こないだ『那加川高校雑用部』を読みました。とてもおもしろかったです。
衝動買いした本がとてもおもしろかったというだけで幸せなのに、まさかのデビュー作。1作目からリアタイで海野先生を応援できるのだと思うと、うれしく思います。普段は作家読みばかりなのに、どうしてこの本を買ったのか、おれ自身もよくわかりません。運命の出会いなのかな(笑)
思えばこれがすべての始まりだった。
海野灯が生まれたのは、デビュー作発売日ではなくて、このファンレターを受け取った日なのだ。見つけてもらえた、という安堵で心がぐしゃぐしゃになる。たまらずぎゅっとつむった目尻に、涙が浮かぶ。
手紙を読みながらいつの間にか口で呼吸をしていたようで、ふいに吸い込んだ空気で空咳が出た。
三度本文に目を通し、リターンアドレスをチェックした。赤染の自宅から比較的近い住所と、瀬尾瑛一という名前。
――せお、えいいち……
どんなひとなのだろう。文字や文体の雰囲気からすると、あまり年齢を重ねているようには感じない。拝啓と形式ばった始まり方をするわりに、季節のあいさつもなく砕けた文体の本文が続く手紙を書くひとだ。
文学青年か、もしくはラノベやキャラ文芸が好きな若いオタクだろう、と当たりをつけた。
その後は、執筆が苦しくなるたびに瀬尾瑛一を思った。想像上の瀬尾瑛一は、メガネで黒髪で生真面目で、ファンレターを出し慣れている。多数のうちの、一通。それでも十分だ。正解が存在するはずなのに知るすべもない瀬尾瑛一の想像は、楽しく、虚しかった。
クラスメートから、推薦入試で大学の決まった生徒がちらほら出るような秋の終わり。二作目の発売日を迎えた。赤染の受験勉強は遅れていたけれど、執筆があまりにも苦しくてそれどころではなかった。
例年よりずっと早い初雪の降る日に、はたして瀬尾瑛一からの二通目のファンレターは届けられた。配達中に綿雪に触れたのか、編集部で転送されるときに入れられたらしい茶封筒はすこし湿っている。そのなかに収められた、薄い水色から青色へのグラデーションを基調に、金色のラインが入った封筒。
「海野灯先生」という宛名と、リターンアドレスに書かれた「瀬尾瑛一」という名前がどれほど赤染を幸福にするか、きっと瀬尾にはわからない。
封筒と揃いのデザインの便箋には、やはり「拝啓」で始まる手紙が記されていた。
58ページ目のさちのセリフが沁みました! おれも同じようなことを悩んでいたので、さちに背中を押されたみたいです。自分が悩んでいるとき、海野先生の作品に助けてもらっています。海野先生、どうしておれの悩みがわかるんだろってふしぎです。ただの偶然だとわかっているんですが(笑)
自分の小説が瀬尾にすこしでも寄り添えたならば、これほどうれしいことはない。
けして上手ではないけれど、丁寧に書かれた文字から、自分に寄せられる好意が痛いほど伝わってくる。ふしぎだ。たった二枚の便箋が、これほど感情豊かだなんて。だとしたら自分の数百ページに及ぶ文章は、どれほどたくさんの表情を見せているのだろう。
さちに片思いをしていた、藤井のその後が気になります。すごくいい奴だったから、絶対に幸せになってほしいです。藤井、友達にいたら楽しそうだなと思います。
瀬尾が気になるというならば、書かなければいけない。
編集部に許可をとり、本編後の藤井のショートストーリーを書いた。小説投稿サイトにアップする。
宣伝用のツイッターアカウントで、URLを添え「藤井の話を書きました」とだけ呟いた。フォロワーは数十人しかいない。このなかに瀬尾がいる保証はない。きっとこの話はインターネットの大海に埋もれる。それでよかった。
しかし赤染の自己満足小話に、ある日ブックマークが付けられた。「藤井が幸せになって嬉しいです」という短い感想とともに。
「S……?」
そのアカウントに記されたSというハンドルネームに、瀬尾のイニシャルなのではないかという期待が胸をよぎった。
感想を寄せてくれたアカウントの、個人ページに飛ぶ。何かしら手がかりがほしかった。Sイコール瀬尾だと裏付けるための証拠が。
自己紹介欄は何も書かれていない。アカウント作成日は、きょうの日付。ブックマークページをチェックすると、赤染のあげたショートストーリーだけが収められている。
「エス……瀬尾瑛一……」
このショートストーリーをお気に入り登録し、感想をくれるだけに作られたとしか思えないアカウントが、瀬尾瑛一以外であるはずがなかった。
どこかで、自分を見てくれている。自分を応援してくれている、期待してくれている。
瀬尾瑛一――名前しか知らない相手への気持ちがどんどん膨れ上がる。この感情を何と名付ければいいのだろう。愛と呼ぶには相手を知らなさすぎる、でも彼の存在は自分の中で絶対になっている。
二通のファンレターの、リターンアドレスにある「瀬尾瑛一」という名前をうっとりと見ていると、部屋のドアがノックされた。応答する間もなく妹が飛び込んでくる。
「お兄、留年するってほんと!?」
「母さんから聞いたの? うん、本当。成績が上手く……伸びなくて」
「お兄の作家業は応援してるけど、生活を疎かにしないで。ちゃんと自分と、自分の将来を大切にしてよ」
「……うん、そうだね」
赤染はすこし笑った。妹はいつも正しく、その正しさにときどき息が詰まりそうになる。妹は心底自分を案じてくれているだけなのに。
自分の浅ましさを嫌に思いながら、赤染は執筆を続けた。瀬尾瑛一以外からもファンレターは何通か届いたが、瀬尾瑛一ほど特別な存在にはならなかった。
第三作目は、雑誌に掲載してもらえることになった。
瀬尾はわざわざ雑誌までチェックしてくれるだろうかという不安を、ツイッターまで見てくれているのだからという自信が上回る。
今週末の雨で桜が散るというニュースが流れた日が、雑誌の発売日だった。
普段ならば発売から数週間で手紙が届く。毎日ポストをチェックする。まだ届かない。さりげなく担当編集に手紙を転送し忘れていないか探りを入れたが、特に編集部にも届いていないようだった。
二ヶ月経っても、ファンレターは届かない。だんだん、不安に呑み込まれそうになる。心にぽっかりと空いた穴が、日に日に大きくなっていくようだ。
――怖い……
瀬尾瑛一がファンレターを寄せなければ終わる関係なのだと、思い知らされた。ずっと応援したいだなんてリップサービスだったのかもしれない。これからも推され続ける保証なんてどこにもない。
何がだめだったのだろう。おもしろくなかったのなら、そう言ってほしい。そうすれば次は瀬尾のおもしろいと感じる話を書く――そう考えて、愕然とした。
いつの間にこれほど依存していたのだろう。読者イコール瀬尾瑛一という図式が、赤染のなかでは出来上がっている。
こんな気持ちのままでは、執筆は続けられない。それで通用するほど甘い世界でないことは、身に染みてわかっていた。
勉強も執筆も力が入らず、憔悴していた初夏、ぽんっと幸福は届けられた。
「……よかった…………」
ポストに手紙を見つけた瞬間、安堵の声が漏れた。放心のあまり立っていられないほどで、慌てて玄関へ入った。上がり框に崩れるようにしてしゃがみこむ。
白と水色のうねうねした、おそらく海がイメージになっているのであろうレターセットだ。部屋へ戻るのももどかしく、玄関に座り込んだまま封を開いた。
拝啓 こんにちは。この春に大学生になるにあたって引越しをしてたので、読むのが遅くなりました。
見捨てられたわけではなかった。引越しという正当な理由に、赤染は改めて安心した。それにしても。
――この春、大学生……?
ということは、瀬尾瑛一が留年を経ているわけではない限り、おそらく自分と同い年だ。何度も想像した瀬尾瑛一像との答え合わせを急に示され、動揺した。
実は興文大学に入りました。恵も同じ大学かもしれないな、と想像しています。
「えっ、興文大学……?」
赤染家の最寄りの大学名を出され、心臓がうるさいほど脈打つ。
興文大学なら、たしかに恵――デビュー作の主人公の進学先としてもおかしくはない。恵の通う高校は興文大学の系列である興文高校をモデルにしたことを、一作目のあとがきに書いたっけ。
――瀬尾瑛一が、興文大学に……
急に明るくなった気がする未来に、慌てて首を振った。いま、自分は、何を考えた? 瀬尾を追いかけて興文大学に入る未来を思い描かなかったか?
すりガラスの窓からぼんやり光が入り込んでくる。風で木が揺れているのか、ぼやんとした影が形を変える様子を、しばらく眺めた。胸がざわついた。
「もう、書けない……」
ここ数週間抱えていた不安を言葉に載せると、心臓がぎゅうっと縮みあがる。両手で握りしめたファンレターに、汗が一滴ぽつんと落ちた。いつもと変わらない「瀬尾瑛一」と記されたリターンアドレス。なのにどうして、これほど落ち着かなくなるのだろう。
「書けない、書けない、書けない……っ!」
一度言語化してしまうと認めるしかなかった。もう書けない。
これ以上、この業界で生きていけるとは思えなかった。神経をすり減らしながら執筆するのも苦しかったし、何よりいまの自分は瀬尾瑛一しか見ていない。たった一人のファンのために書くのが悪いこととは言い切れないけれど、自分のこの依存は、いつかマイナスに作用するだろうという予感があった。
それは恐怖でしかなかった。
「うわっ! ……びっくりしたー」
いきなり流れ込んできた夏特有の熱風とヒデの声に、赤染は顔をあげた。ヒデが玄関に立っていた。妹を訪ねて来たのだろう。
「汐、お前、こんなとこで座りこんで何やってんだよ」
「……ヒデ、」
立ったままのヒデを見上げた。言葉は考えるよりも早く、つるりと口から滑り落ちた。
「おれ、興文大学に入る」
「はあ? なんだいきなり。……まあ家から近いし、お前の興味のある学科もあるしいいんじゃね」
「うん。それで――……それで、瀬尾瑛一に会いに行く」
言ったとたんにヒデが眉を吊り上げるのがわかった。赤染が瀬尾瑛一のファンレターを過度に待ちわびることを、ヒデはもともと心よく思っていなかった。
「どういうことだよ、きちんと説明しろ」
「瀬尾瑛一が、興文大学の学生らしいから……。もともとおれの志望校のうちのひとつだし、ちょうどいいし」
「ちょうどいいって何だ? そんな曖昧な言葉でごまかすな」
「瀬尾瑛一の近くにいたいんだ」
祈るような声が出た。
もうこれ以上小説は書けない。だからといって瀬尾との関係をここで終わらせたくはなかった。海野灯という作家としての自分ではなく、赤染汐として、瀬尾瑛一に関わってみたかった。
大量に並ぶ本のなかから、赤染の著作を見つけてくれたひとだ。ずっと応援したいと言ってくれたひとだ。きっと、素敵なひとだ。
「お前がばかなのは知ってたけど、そんなにばかだなんて思わなかった!」
「おれは瀬尾瑛一に救われたんだよ。どうしても瀬尾瑛一の近くにいたい」
「瀬尾瑛一だって、ただのファンに過ぎないんだぞ。そもそも近づいてどうするんだ? ファンと作家の関係とはまた違うんだぞ、わかってるか?」
「わかってる。それでも、瀬尾はおれにとって特別だ」
「何もわかってないじゃねえか! お前の行動はファンへのひどい裏切りだ!」
ヒデにどれだけ怒られても、赤染の決意は覆らなかった。
海野灯という人物は、いま、ここに置いていく。自分を支えてくれた、とても大切なひとからのファンレターと共に、ここに置いていくのだ。
十九歳の春、現役生より一年遅れで興文大学へ入学した。規模の大きな大学だから心配していたけれど、周囲に聞いてみれば瀬尾瑛一はあっさり見つかった。
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