あなたが言うなら青色が好き

@hien_s

第1話

 海野灯うみのあかり先生

 拝啓 こんにちは。こないだ『那加川高校雑用部』を読みました。とてもおもしろかったです。

 衝動買いした本がとてもおもしろかったというだけで幸せなのに、まさかのデビュー作。1作目からリアタイで海野先生を応援できるのだと思うと、うれしく思います。普段は作家読みばかりなのに、どうしてこの本を買ったのか、おれ自身もよくわかりません。運命の出会いなのかな(笑)

 中盤のシーンで主人公の恵が、――


「せお、えいいち……」

 赤染汐あかそめうみは、うっとりと呟いた。声にぷつぷつと気泡みたいに期待が滲む。

 彼の名前を口にするだけで、頬いっぱいにマシュマロを詰め込んだみたいに幸せになる。心臓がとくんと心地よく震えるし、大きな翼で守られたかのような安心感がある。

 瀬尾瑛一せおえいいち――彼は自分の味方だ、だから何も怖くない。なんて自分を幸福にしてくれる名前なのだろう。

 すこし湿った土の上をスニーカーでさくさくと踏みしめながら、赤染は大学キャンパスの奥へと進む。足元に散らばる桜の花びらがレッドカーペットみたいだ。

 事前に集めた情報によると、この先の教室で活動しているボランティアサークルに、瀬尾瑛一は所属しているそうだ。

 ようやく会える。瀬尾と会うためにわざわざ一張羅を着てきた。すこし緑がかった薄い水色に、フードから垂らされた金色のアグレットがアクセントのパーカーと、こっくりとした紺色に近い色味のスラックス。いつか瀬尾に会うことができるならば、青色の服で会うと決めていた。

 どんなひとなのだろう。赤染が瀬尾について知っているのはほんのわずかに過ぎない。彼の名前と、赤染と同い年であること(赤染は留年しているので学年はひとつ異なる)、おそらく読書が好きなこと。

 それ以外、見た目も性格も何もわからない。でもとある理由から、瀬尾瑛一は赤染にとって恩人なのだ。

 本当はほんのすこしだけ瀬尾に会うのが怖い。自分のなかで大きな存在になりすぎた。

「でも、やっと会える……」

 自分に言い聞かせるように口にする。そうだ、ここまで来たのだ。いまさら引き返すことはできない。

 キャンパス奥にある、授業ではあまり使われない校舎の二階へ。北側に位置する薄暗い廊下を進むと、一箇所だけ教室内から蛍光灯の光が漏れ出していた。清潔とは言い難い廊下の、空中に漂うほこりが光を浴びて蛍のように舞う。

 教室の引き戸に手をかける。建て付けが悪い。引っかかるドアをむりやりにスライドさせると、思いのほか勢いよく開いた。

 中で雑談に興じていた複数の視線が、一斉にこちらを見る。

「ボランティアサークルへようこそー! 新入生? 入部希望?」

 手前に座っていたポニーテールの女子が話しかけてくれた。返事をする余裕がない。緊張で呼吸がどんどん早くなる。

 ここまで来てようやく、赤染はどう瀬尾に接触するか考えていなかったことに気づいた。うわ、ばかだ、おれ。

 どうしよう。いきなり「瀬尾瑛一さんはいますか?」だなんて聞くのは不自然だろうし。

 暴れ回る左胸に手を当てながら、ゆっくりと教室内を見渡す。永遠にも思える十秒だった。

 はたして、教室内に男性は、ひとりしかいなかった。

 座っていてもわかるほどの長身。肩幅はがっしりとしていて、Tシャツの上からでも筋肉がほどよくついているのが見てとれた。

 その男がいる周りだけやけに明るく見える。有無を言わさず他人の目を吸い寄せる魅力――単に言えば、華がある。とても目立つ、しかし。

 ――あのひとが瀬尾瑛一なわけがないよね……?

 教室に窓から差し込む太陽光が、彼のかなり明るい茶髪をいっそうきらきらと照らす。彼は前髪を掻き分けて流し、長めの横髪と編み込みにし、ピンでとめていた。

 一言でいうならば、チャラい。

 クラスメートだったら絶対にかかわりたくないタイプの人種だ。

 彼が瀬尾瑛一であるはずがない。だって瀬尾は、読書が好きで、作家にファンレターを送るような人間なのだ。耳に連なるじゃらじゃらとしたピアスを指先で弄びながらしゃべっている彼が、本を片手にファンレターを書いている姿を想像する。――何かの間違いだ。

 教室内を見渡すが、やはり男性は彼しかいない。もともと男性のすくないサークルなのだろう。

 きょうは瀬尾瑛一は来ていないのかもしれない。

 がっくりとした気持ちで、視線を一周させてやはりあのチャラ男に戻すと、彼が視線に気づいたようにふとこちらを見た。目が合う。

 彼はゆるく首を傾げると、立ち上がって歩いてくる。内心でひっ、と思う。パリピとウェイするノリを赤染は持ち合わせていない。彼が口を開く。

「新入生?」

 空気をそっと揺らすやわらかな声。

 彼が目の前に立つと、赤染より頭ひとつ分背が高い。見上げる鼻の穴の形まできれいで、イケメンはすごいな、と赤染はへんに感心した。

 彼は大きな二重の瞳をぱちぱちと瞬かせた。

「なんだよ、おれのことじっと見て? 入部希望?」

 物言いは乱暴な印象で、赤染が勝手に予想していた瀬尾瑛一像とはここでも一致しない。

 長いまつげに二重まぶた、すこし厚めの唇はおおらかそうな印象と派手な印象を同じだけ与えてくる。顔立ちの端正すぎるがゆえに、軽薄さのなかに妙な迫力があった。

「あ……。え、と……」

 赤染はどもった。上手く言葉が出てこない。

 目の前のチャラ男が、「おら、」と最初に声をかけてくれた女性に手を振った。

「新入生びびってんだろ、お前のせいで」

「あたしのせいじゃないでしょ!」

 そのときになってようやく、最初に声をかけてくれた彼女を無視した形になっていることに気づいた。

 赤染が慌てて謝ると、「いいよいいよー!」と笑われる。

「ひとりでのサークル見学って勇気いるよね。あたしは経済学部二年の、美馬です」

 美馬と名乗る女性の言葉は、耳から耳へと抜けて行った。儀礼程度に会釈をして、すぐさま視線を彼に移す。

 名前を知りたいような知りたくないような。断罪される罪人のような気持ちで、一度ぎゅうっと目をつむった。一思いにやってくれ。

 彼が美馬の隣で、にっかと笑った。顔じゅうで笑うと口が動物のように大きい。

「おれは理学部情報学科の、瀬尾瑛一。二年生な」

「せお――……」

 やはり瀬尾瑛一なのか――。瀬尾はすこし顎を突き上げるような、不遜にも見える態度で笑顔を見せる。それがまた、なんとも似合っている。なんとも似合ってはいるが、瀬尾瑛一はそんな笑い方しないと思ってたと、赤染はちっとも知らない瀬尾のイメージががらがら崩れていくのを感じた。

 なんとなく、そっと、肩透かしだ。自分の思い描いていた瀬尾と違う、そんなわがまますぎる理由で。

「あ、……」

 そもそも、自分は瀬尾と会って何がしたかったのだろう。瀬尾という存在だけを追いかけてここまで来てしまった。

 何か言わなければという焦りが募る。中途半端に開かれた唇の隙間から、息がかふっと音を立てた。言いたいことは山ほどあるはずなのに、上手く言葉として発せられない。

 沈黙が長すぎて失礼に当たる前に、赤染はなんとか呼吸を整えて、口を開いた。

「……えっと、はじめまして」

 あくまで初対面ということを強調する。実際に、初対面では、ある。一方的に瀬尾を知っているだけで。

「赤染汐といいます」

 赤染が名乗ると、「おっ」と瀬尾の顔がほころぶ。今度はやさしい笑顔だ。目尻に笑い皺ができる。

「おれの、推し作家の名前にちょっと似てる。海野灯って作家。知ってる?」

 内緒話をするようにひそやかな声に、子どもみたいな無邪気さをまじえ、瀬尾が言った。

 心臓が跳ねる。ドミノが倒れていくスピードで、赤染の感情が塗り替えられていく。間違いなく彼は瀬尾瑛一だ。海野灯の話をさらっと挙げてくれるような熱烈なファンは、瀬尾以外にいない。現金なことに外見なんてどうでもいいじゃないかと、つい先ほどまでの我を忘れて思った。

 海野灯は、赤染のかつてのペンネームだ。売れない作家だった。瀬尾は赤染が海野灯だと知らないはずだけれど、こうして海野灯を話題にしてくれることがうれしくてうれしくて、興奮と充足感に脳を締め付けられる。

 一方で、どう受け答えするべきかの判断に戸惑った。あれほど瀬尾としゃべりたいと思っていたはずなのに、何を話題にするかは一切考えていなかったのだ。もともと口下手なので、焦燥で指先を震えさせているうちにどんどん時間が経ってしまう。

 どうしよう。何か、何か言わなきゃ。何を――。

「……あ、あの、売れない作家ですね」

 反射のようにこぼれたのは、過去の自分を嘲る言葉だった。

 それが失言だったと気づいたのは、「あ?」と凄んだ瀬尾の顔面に威圧感があったからだ。

 空気がぴっしりととげを含む。

 もう一度言ってみろと言わんばかりに、瀬尾が顎をしゃくる。イケメンが怒りをあらわにすると独特の迫力があった。

「売れない、作家だと?」

 瀬尾の言葉に内心びびりながらも、おそるおそる頷く。

 瀬尾にすこしでも海野灯を卑下されたら、きっと自分は立ち直れない。それなら先に自分で自分の価値を下げることで、自分を守るしかなかった。それに売れないというのは事実だ。

「……けして、売れてはないじゃないですか……」

 小声で抵抗を試みると、ふんっと鼻を鳴らされた。

「売れてないんじゃなくて、まだ世間に見つかってないだけだっつーの。世間が気づいてねーの、海野灯の魅力に! おれはちゃんと見つけたんだよ」

 瀬尾が、きちんと手入れされている眉毛を吊り上げる。

「見つけた……?」

「そう、見つけたんだよ。おれが。海野灯を」

 思いもよらぬ言葉に全身が震えた。たしかにそうだ。瀬尾瑛一は海野灯を、見つけてくれた。

 押し寄せる歓喜の波が、心のうちにある樹木をすべて薙ぎ払っていく。自分にこれほど熱烈なファンがいてくれたことがうれしい。瀬尾瑛一がこの世に存在することがうれしい。瀬尾を追いかけて来てよかった。

 瀬尾と会うためにストーカーじみた行為をしてしまったけれど、常識や倫理観なんてどうでもいいと思う。体内で血潮が存在を主張する、指先の血管の存在だってしみじみと感じるほどに全身が震える。

「そんなに、海野灯好きなんですね」

「好きだよ」

 瀬尾の返事には躊躇いがなかった。このてらいのない好意に触れれば、やはりこの男はあの手紙を書いた瀬尾瑛一なのだと実感する。わかってしまう。

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