第8話 大団円
草薙は、いろいろな小説を書いてきたが、最初の頃は、物語性のあるものを結構書いていて、自分でも、
「俺って、結構かけるんじゃないか?」
と、勝手な思い込みのようなものをしていた。
実際に、無料投稿サイトなどで、批評もできるような仕掛けになっていたので、自分の作品に対して、意見も寄せられていた。
中には辛辣なものもあったが、結構、小説のプレビューもこちらが目的とした、
「分かってもらいたい部分」
が伝わっていると分かると嬉しかった。
しかし、そのうちに、
「読者が何を求めているか?」
という考えが、少しずつ消えていったような気がする。
「人がどう思うか? 何を期待しているか? などということを考えながら書いていると、行き着く先は、読者への媚を売るということではないか」
と思うようになったのだ。
そうなると、自分が何を書きたいのかということを忘れてしまい、本来の、
「自分の書きたいこと、訴えたいことと、読者の見たいものが一致した時の感動を求めるのが小説執筆だ」
という本来の目的であったり、楽しみが、元々を忘れてしまっていることを、意識できなくなってしまうのだった。
それはきっと、ハウツー本ばかりを見ていたことで、我を忘れてしまったからなのかも知れない。
ハウツー本というのは、いかに読者のために書くかということを中心に、その作法について書かれている。読みながら、
「なるほど」
と思える部分もあるにはあるが、そう思えば思うほど、違和感があるのだった。
その違和感は、次第に苛立ちに代わっていく。
「なぜ、小説の書き方のハウツー本で、怒りを覚えなければいけないのか?」
と感じる。
せっかく書けるようになったことで、執筆に喜びを感じてたはずなのに、いったいどうしたというのだろう?
それは、小説を書いている時の自分が、
「本来の自分だ」
ということを感じたいはずなのに、なぜ、人のために書くというような、歩み寄りをしないといけないのか? ということであった。
つまりは、ハウツー本というものが、
「本来の文章の書き方という純粋な意味から、小説家になるということ、投稿して新人賞を狙うという、一歩先の目的までを網羅した本だ」
ということだからである。
確かに、文章を書けるようになると、小説家になりたいという人がほとんどであろう。
小説の世界では、まず一番最初で、ひょっとすると一番大きなという意味での難関が、この、
「最後まで書き切る」
ということであった。
それができないから、ほとんどの人が挫折するのだ。そのことは、ハウツー本にも書かれているし、この本を読んでいる本人が一番よく分かっていることだろう。
だから、ハウツー本を読んでいる人は、小説家になるという含みのあるこの本を、違和感なく読むことができるのだろう。
しかし、草薙は、他の連中のように、作家になりたいという気持ちはほとんどなかった。しかも、自費出版社系の末路を見てしまった以上、さらに深みに嵌るようなことはしたくないのだった。
だから、本に違和感を感じたことで、もう途中から読むのをやめてしまった。それからであろうか、草薙の小説は、小説というよりも、論文に近いものができてきたのだ。
論文との違いは、論文の場合は一つのテーマに特化して、研究を進め、そこに正解を導き出そうとして書くものだと思っている。
しかし、小説の場合は、論文とは似ているが、一つのテーマではなく、一つの結論を得るために、複数の論文でテーマになるような話を折りまぜ、一つの話に作り上げるという手法だった。
だから、正解を導き出すのが論文であれば、小説は、
「自分を納得させるものを書きたい」
というのが、テーマである。
前述の、
「読者に感動を与えるような」
という、ハウツー本ではなく、あくまでも中心は自分であり、その自分が納得できるかどうかというのが、最終目的だということであった。
そんな怒りがこみあげてくる本を読んでいると、なぜ、自費出版の会社がダメになっていったのかが分かる気もしてきた。
「出版界全体が、読者のためということに終始してきたにも関わらず、やっていることは、自分のことだけしか考えていない。しかも、著者を騙しているという認識があったのかどうか、出版社はおろか、本を出そうとする人間たちもまったく疑問に思っていなかった。あるいは、思っていたかも知れないが、それを口に出すことが恐ろしいと感じたのか、そのあたりの気持ちの中の矛盾が引き起こした社会問題だったのではないか?」
と思うようになってきた。
小説というのは、何も、テレビ化や映像化するために書くものではない。そして、読者をターゲットにするというのは悪いことではないのだが、それが、
「金儲けのため」
ということがハッキリしている以上、読者を金としてしか思っていないことを、詭弁を使って、正当化しようとしているのだと思うと、
「読者のため」
という小説に、何の意味があるのかと考えるのだった。
「自己満足でもいいではないか」
それが、草薙の場合は、論文のような小説である。
ただ、彼だって、物語風の小説に醍醐味を感じたことで小説を書きたいと思ったのは、間違いのないことで、今でもそれは変わっていない。
だから、完全な論文ではなく、
「論文風作文」
というイメージになっていた。
途中に、自分の意見を取り入れる形で論文となるだけで、それは、別に悪ういことではない。
どうしても、
「読者に読んでもらう小説が、いい小説だ」
という当たり前の考えが出てくる。
箸にも棒にもかからない小説というのは、読者にも読もうという気が起こらないものではないだろうか。
草薙は、そのあたりにジレンマを感じていた。
「俺の書いている小説は、どう見ても、読者には受け入れられない小説なので、箸にも棒にもかからないということになるのだろうか?」
という疑問というか、ジレンマであった。
それでも、
「自分で満足できないものを、他の人に見てもらおうなどというのは、おこがましいことであり、失礼に当たるのではないか?」
と思うようになっていた。
あくまでも、自分が書いている小説は、
「草薙風小説」
というジャンルでもいいのではないかと思うようになっていた。
「これだったら、論文を書いている方が、楽だったりするかも知れないな」
と思った、
論文と小説とでは、まったく違う。いくら自分が、、
「論文風小説」
を書いているからといって、論文ではなく、小説なのだ。
そこには大きな結界が存在し、その結界は決して飛び越えるものではない。
同じ人間が書いているとしても、それはあくまでも、書いている時は、
「自分であって自分ではない」
といえるのではないか。
小説を書いている時の自分が、まるであの世にでもいるかのように感じることで、小説を書くことを苦にすることはないように思う。だとすると、あの世というのは、霊界なのではないかと思った、唯一上に上がれることのできる発展途上の場所というのが、霊界だからである。
パラレルワールドというものが、
「タイムパラドックスの証明になる」
と言われている。
つまり、タイムパラドックスというのが、並行世界ということなので、タイムトラベルで過去に行ったとして、その時には、パラレルワールドにしかいかない。だから、パラレルワールドなので、未来を変えたとしても、こちらの世界には影響を及ぼさないということである。
そうなれば、
「パラレルワールド側で、パラドックスが起きるのではないか?」
と思われるかも知れないが、起こした原因が、別の時空の人間なので、完全に外的な要因であることから、別にその時代の人間が、歴史を変えたわけではないので、別にパラレルワールドにおける、
「過去、現在、未来」
には何ら影響はないといえるだろう。
そんなことを考えてみると、天界の話にしても、宇宙の外の世界を、死後の世界と捉えることも、何かしらの、
「証明」
というものになっているのかも知れない。
時刻が、時系列になって、等間隔で刻まれていくことで、そこで出来上がる歴史というものは、そのひとつ前の世界がすべて証明してくれているのではないだろうか。
確かにパラレルワールドというものが存在しているとしても、それも、時間の積み重ねによって作られる、
「歴史の証明」
だといえるのではないだろうか。
それを考えると、小説家を目指す人たちが、自費出版社に引っかかったというのも、ある意味、
「歴史が証明していた」
ということなのかも知れない。
「ちょっと考えれば。詐欺だと、どうして誰も気づかないんだ?」
と思うんだが、これも、もし、気づく人が少しでもいて、その人たちは引っかからないだけだとすれば、どうなるだろう?
「俺たちは、そんなくだらない詐欺には引っかからない」
というだけで、引っかかった人間を、鼻で笑っていることだろう。
それはそれで、別に悪いことではない。それこそ、当然ではないかと思うほどではないか。
ということになると、
「騙される方が悪い」
ということであり、下手にそこで、騙されなかった人が、
「あれは詐欺だ」
と、正当なことを言ってどうなるというのだ。
「皆、信じているのに、何てことをいうんだ」
と言って、余計なことを言ったとして、まわりから白い目で見られるのが関の山だ。
詐欺を見抜く力があるのだから、それくらいのこともすぐにわかって当然であり、多数が賛成すれば、それが正義だとでもいうような、まるで苛めすら正当化するような、悪しき民主主義を地でいっているようなことになるのっではないだろうか。
それを考えると、
「騙される方が悪い」
ということで、放っておくだろう。
そうなると、騙されている人間はどんどん増えてきて、遅かれ早かれ落ちぶれる、
「自費出版ブーム」
の崩壊に巻き込まれてしまうことになるのだ。
しかも、お金を出して本を作っても、売れるどころか、損をしてしまうのだ。
「まさか、そんなカラクリだったなんて」
と思っても、後の祭りなのである。
世の中には、今までの歴史の中に、それを証明することがあったはずだ。少なくとも、詐欺だということに気づいている人だってたくさんいたわけだし、ひょっとすると、出版した人の中には、
「詐欺かも知れない」
と感じた人もいたことだろう。
担当者の話術なのか、それとも、
「皆、本を出されていますよ」
と言われて、集団意識に騙されてしまったのか、歴史が何らかの警鐘を出してくれているのに、気づかないというのは、それだけ、
「歴史を甘く見ている」
ということではないだろうか。
歴史という学問を、苦手だと思っている人が結構いる。特に女性は多かった。今では、
「歴女」
と言われ、
「歴史に興味を持つ女性は、今の時代のトレンドだ」
と言われているが、きっと、
「男女雇用均等法」
などから、女性が興味のなかったものに興味を持つことで、女性も、自分の立場を男性と同じに持ち上げようと思っている人もいるかも知れない。
ひょっとすると、出版したいと思っている人に、女性が結構いたというが、そういう意識の人も結構いたのではないだろうか。主婦が子育てを終わって、趣味を探している。あるいは、最近、ライトノベルなどというジャンルもあったりして、女性作家も結構いることから、
「私にだって」
という思いを抱く人がかなりいたのも事実だろう。
やはり集団意識の表れなのかも知れない。皆がやっているから、自分にだってできるはずだという考えこそ、集団意識により、少数派の都合の悪いことを考える人を握りつぶすという悪しき考えが蔓延したことで、
「民主主義の悪い部分」
が見えたのだろう。
そういう意味で、民主主義などを勉強していれば、こんな簡単な詐欺に引っかかるわけもない。もっといえば、算数が出来さえすれば、引っかかるはずもないといえるだろう。
掛け算割り算の世界である。経済学など二の次の世界である。あの時の問題は、詐欺が問題なのではなく、そんな簡単なことが、こんなにたくさんいたということで社会問題になったということだ。
ひょっとして社会問題になっていなければ、今でも、自費出版社系は生き残っていたかも知れない。
「静かなブーム」
くらいであれば、ごまかせたのかも知れないが、何しろ、ドカンといって、一気に弾けたのだ。まるで、バブル崩壊ではないか、売れすぎたり、話題に上がりすぎるのも問題だったのだろう。そういう意味で、自転車操業だったことで、うまくやらないと資金調達ができなかったはずなので、やはり、いくら地味にやっても、今も生き残っているということはないかも知れない。いずれは潰れる運命なのであろう。
しかし、ブームは繰り返すという、また同じことにならないようにしなければいけないと、草壁は思い、自分の小説は、そういう時代を風刺するものであり、その証明に科学的な意見を入れるようにしている。
「歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ」
それが、草薙の小説の、モットーだったのだ。
( 完 )
歴史の証明と、オカルト、SF系とのコラボ 森本 晃次 @kakku
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