第7話 輪廻転生

 最近は、そんな、

「善悪について」

 の小説が多かったりする、草薙だったが、最近は、善悪を考えていると、どこか宗教的なことを研究するようになってきた。

 そして、その宗教的な考えと、それまで自分で研究してきた、理論物理学や、天文学的なことに共通点が多いということに気づいてきた。

 急に、

「たとえば?」

 と言われると、ひと言で言いにくいこともあるが、ふと思いつくのである。

 最近、気になっているのが、輪廻転生というものと、

「生物地球科学的循環」

 と言われるものであった。

 何やら、堅苦しい言葉ではあるが、簡単に言えば、人間や動物の廃棄物であったり、あるいは動物の死体などは、肥料になって、植物の成長に欠かせないものになる。そして、その植物を動物は食して生き延びる。

 要するにそういう循環を、

「生物地球科学的循環」

 というのだ。

 他にうまくできていると考えられるのは、植物が行う、

「光合成」

 と呼ばれるものではないだろうか。

 人間や動物は、呼吸をしないと生きていけないので、

「酸素を摂って、二酸化炭素を放出する」

 というのが、呼吸のメカニズムであるが、酸素ばかりを摂って、二酸化炭素を放出していれば、

「いずれ、酸素がなくなり、二酸化炭素ばかりになるではないか?」

 ということが考えられるが、実際にはそんなことにはならない。

 空気中の酸素や二酸化炭素の割合は、誤差はあるかも知れないが、ずっと変わることはなかったのだ。

 なぜなら、そこに植物が行う光合成というものが出てくるのだ。

「光合成というのは、植物が、二酸化炭素を摂って、酸素を吐き出す」

 というものである。

 だから、動物の呼吸とは反対のものなので、自然の摂理がうまくいっているといってもいいだろう。

 これも、一種も

「循環」

 という考え方で、酸素がなくなって、二酸化炭素ばかりにならない一つの要因なのだろう。

 もちろん、それですべてが平衡感覚がとれているというわけではないだろうから、呼吸と光合成によって、酸素と二酸化炭素の量がいつも一定だということではないだろう。 

 少しこの説は強引かも知れないが、

「生物の循環」

 という考え方にのっとって考えれば、呼吸と光合成は、実にうまくできているということの説明には十分ではないだろうか。

 そのことを踏まえ、自然科学というものを考えると、ここから、生命の神秘であったり、化学反応としての、物理学に精通するものも見えてくる。

 それらの知識から、宗教を見てみると、小説の題材としては、実に興味深いものが出てきたということになるであろうか。

 オリンポスの神や、キリスト教における聖書などでは、普通に生活している人には、まったく理解できないような内容の話になっていたりする。例えば、

「神と人間がまぐわう」

 という話は、よくギリシャ神話などにはある。

 神が人間を誘惑して、人間の女が神の子を宿すなどという話である。

 そこで、その神の奥さんが嫉妬して、何か人間界によくないことが起こるなどという話も結構あり、それだけに、

「オリンポスの神々は、人間臭い」

 と言われるのだ。

 さらに気になっているのが、

「神の世界では、何千年、何万年と生きているといわれ、何かの罪を犯せば、その罰として、数千年、その苦しみから逃れられない」

 というような話も聞いたことがあったりした。

 つまり、神は人間の寿命が百年ほどであるにも関わらず、果てしない時間生きているということになるのだろう。

 たとえば、仏教でいうところの弥勒菩薩というのは、

「これから、如来となるために今は修行をしていて、いずれ、人間界に降臨する」

 というのだが、その未来というのが、

「56憶七千万年後」

 だというから、驚きである。

 なぜ、このような発想になるのだろうか?

 ハッキリとしたことは、分からない。根拠もないので、あくまでも想像にしか過ぎないのだが、

「それぞれの世界」

 という考えに由来しているのではないだろうか。

 その世界というのは、

「今の生きている世界から、死後の世界を考えた時の発想」

 として考えられていることであるが、ほとんどの宗教では、

「死んだ人間は、肉体と魂が分離して、魂がそのあとどこに行くのか?」

 ということが問題になる。

 そこで考えられたのが、

「天界」

 という世界である。

 我々の生きている世界は、

「肉体世界」

 と言われるところらしい。

 その下には、暗黒の地獄が広がっていて、そして死んだあとには、最初に、誰もが、幽界というところに行くという。

 そして、その幽界から、上位には、霊界というところがあり、さらにその上に、神界というところがあるという。

 それらの世界は、広さという意味で、上位に行くほど広いところらしいので、逆ピラミッド型をしているのだという。

 地獄というところは、広い深い闇に包まれているので、底がないというイメージから、広いということになっているようだ。

 そして、幽界という世界から、上に行く人間というのは、まず霊界に行くには、生きている時に、ある程度の、

「精神的な修行を積んだ徳を得た人間」

 が行くことができる。

 さらに、神界ともなると、

「神の中のさらに神様」

 という、選ばれた神が存在するところである。

 人間の魂がそこに行くまでには、かなりの徳を積んで、しかも、神に選ばれる必要があるわけだ。今までの人間界に存在した人としては、イエス・キリストであったり、お釈迦様などがその例となるであろう。

 地獄というところは、魂のレベルが低い人間が行くところであるといわれている。魂が思いので、沈んでいくしかないことで、地獄に落ちるのだという。果てしない闇に包まれ、二度と這い上がることのない魂は。考える能力がなくなるほどに永遠に痛めつけられ、最後には、動物に生まれ変わるという。

 幽界に行った人間は、どんなに努力をしても、それ以上に上がることはできない。魂として、果てしない時間を、幽界で過ごすのだが、幽界にとどまると決まった人間には、上位に上がることはどんなに努力してもダメである。つまり、肉体社会というのが、修行の場であり、試される期間は、肉体世界ですでに終わっているということになる。

 だから、幽界にいる人間は、永遠ともいえるほど気が遠くなる時期、つまり、自分が何者なのか分からなくなった時点で、やっと人間として生まれ変わることができるのだという。

 生まれ変わった人間に、前世の記憶がないのは、それだけ長い間、幽界にとどまっていたからだと言えるのではないだろうか。

「人間は、地獄に落ちれば、生まれ変わるのは、動物であり、人間には生まれ変われない。逆に、幽界に行った人間だけが生まれ変わることができて、生まれ変われるのは人間だけである」

 ということだ。

 霊界や神界に行った人間は、そのまま神になったり、菩薩や如来のようなものとなるのだろう。

 そんな人間は、本当に少しだけしかいない。人類の歴史の中で、延べどれだけの人間が存在したのかは分からないが、もし人間が、幽界に行った人間だけの生まれ変わりだとすると、昔はもっともっと、たくさんの人がいたことになる。

 しかし、実際には、昔の方が、人口は少なかった。

 ということは、人間は生まれ変わる以外に、新たに生まれる生命もあるということだろうか。

 それとも、考えられることとして、

「人類は今までに、何度も死滅している」

 ということであろうか?

 聖書の中にある、

「ノアの箱舟伝説」

 や、

「ソドムとゴモラ」

 の伝説のように、神によって、死滅させられたと考えると、世の中は、

「浄化」

 されることで、バランスをとっているといえるのではないだろうか?

 この世で、何度も死滅していると、また種族を増やすところから始めることになる。幽界には、一気にたくさんの人が来たのだから、徐々に生まれ変われば、それは自然なことであろう。

 そうやって考えると。聖書の話というのは、よく考えられているといえるだろう。

 もっとも、この天界の発想があっての、聖書の話なのか、聖書あっての、天界の創造ということになるのか、それは、

「タマゴが先か、ニワトリが先か」

 という禅問答のようである。

 つまり、

「肉体世界での人間には限界があるということであろうか」

 それだけ、人間の顔や身体のパターンには限界があり、同じ顔や肉体を作ることができないという掟のようなものがあるため、この世の人口の上限は決まっているという考えであった。

 そういう意味で、まったく同じ人間が存在するという発想の、ドッペルゲンガーというのが、本当に違う時空の人間で、そこにパラレルワールドが存在しているというのであれば、別の肉体世界も存在しているということであろうか?

 そうなると、幽界から生まれ変われる世界は一つではないともいえる。ただ、パラレルワールドというものが、肉体世界だと仮定した場合のことであって、考え方を変えると、

「パラレルワールドというのは、幽界を垣間見た」

 といえるのではないだろうか。

 見てはいけない幽界を見てしまった。そこにいる、死後の自分を見てしまったと考えると、パラレルワールドと言われている世界は、同じ時間軸に存在している必要はないといえるだろう。

 つまり、

「死んでしまった自分の行き着く先を、垣間見てしまった」

 ということであり、それは、

「ドッペルゲンガーを見たから死ぬ」

 というわけではなく、

「死ぬ運命にある自分の死後の世界を覗いてしまった」

 ということで、預言者になってしまったのではないだろうか。

 自分が死んでいるのを見たのだから、

「俺はもうすぐ死ぬ」

 というのを言い残す代わりに、

「ドッペりゲンガーを見た」

 ということで、

「ドッペルゲンガーを見ると、近い将来死んでしまう」

 という伝説が出来上がったのだろう。

 それともう一つ、この天界という話を聞いて、何か違和感はないだろうか?

 もっとも、人間がこの発想について違和感を感じる方が、違和感なのかも知れないが、話が大きければ大きいほど、感じる違和感である。

 つまり、この話は、

「あまりにも人間に特化した目線での話だ」

 ということだ。

 あくまでも、人間と天界という構図だけのことで、他の生物、動物、昆虫、植物の関係までは書かれていない。

 宗教の言葉の中に、

「輪廻転生」

 というものがあるが、これは、

「生あるものが死んだら、何度も生き返る」

 というもので、

「人だけではなく、動物も含めたものだ」

 といえるだろう。

 そういう意味で、天界という考え方は、あくまでも人間に特化した考え方であり、人間至上主義という考えに結びついてくるのではないだろうか。

「輪廻転生」

 という考えは、いくつかの宗教で謳われているが、微妙に内容も解釈も違っている。

 それでもしっかりと理解されている考え方であり、仏教の基本的な考え方であったりもする。

 仏教においての、輪廻転生は、

「単なる物質には存在しない、認識の移転」

 だという考えに基づいている。

 そして、死によって、認識のエネルギーが消滅したならば、別の世界で、類似の認識のエネルギーが生まれることで、持続する。それを、輪廻という発想だというのだ。

 人間の場合はこの認識に、意識が入り、考える力が備わっている。だから、死後の世界を認識することができない。なぜなら、転生した時、前世の記憶を残さないように、果てしない間、輪廻するまで、魂は、死後の世界でただ、意識のない認識だけという形で生きている。

 そして、前世の記憶がなくなったことで、生まれ変わることができる権利を得るのではないだろうか。

 しかし、輪廻というものを、一つの魂だけだと考えるのではなく、世界全体で考えるとすると、

「一つの死があった瞬間に、別の生が起こる。同じ魂によるものではないが、それによって、生命は回っていく。それを輪廻転生だというのだとすれば、天界についての考えは、輪廻転生という考えに、近いといってもいいのではないだろうか?」

 天界の考え方が、人の死や、生まれるという現象とのつながりを考え合わせると、その理屈の説明には、十分になっているように思える。

 生死に対しての疑問であったり、理屈を解釈するうえで、天界の考え方や、輪廻転生の発想は、理にかなったものだといえるのではないだろうか。

 世の中には、理屈を考えるということを、否定するような考えを持っている連中がいる。

 それは、自分に都合のいい理屈を並べたいという人間がほとんどだといえるのではないだろうか?

 だから、理屈っぽい人間を毛嫌いしてみたり、人間の感情が左右される場面において、理屈をこねようとすると、あからさまに、嫌な顔をされるのは、人間がそれだけ、

「感情というものは、理屈を凌駕する」

 と考えられているからではないだろうか。

 天界の考え方も理屈としては、十分であり、輪廻転生と結び付ければ、その共通点はかなりのものであろう、

 この二つを、一つの時系列と考えず、それこそ、

「肉体に対しての魂のようなものだ」

 と考えたならば、今まで及びもつかなかったようなことが思いついてくるかも知れない。

 そもそも、いろいろな宗教が、あるにも関わらず、その根本は似ているというのは、宗教自体、すべては元が一つであり、その派生型だったといえるかも知れない。

 今の人間が、宗教に対して懐疑的であり、あまりありがたい存在ではないと思うのも、ひょっとすると、そのあたりに問題があるのかも知れない。

 俗世を捨て、宗教に走る人間を、世間はあまりいい目で見ない。それは作者も同じであるが、どこまでが、正と、どこからが、幻なのかと考える。この場合、悪というものではなく、幻だと考えているのだった。

 輪廻というものを、いかに考えるかであるが、

「人間が人間に生まれ変わると考える」

 と、生まれ変わったところで、かつての記憶はなのだから、実際に生まれ変わったとは言えないだろう。

「なぜ、記憶がないのか?」

 ということを考えると、どうしても、わざと記憶を消したとしか思えない。

 そこには、神のような存在のものによって、魂は、別の身体で生まれ変わるわけなので、天界の考え方から行くと、

「気が遠くなるほどの長い間、幽界にいて、自分がどこにいるのか分からないくらいになったところでやっと、人間に生まれ変わる」

 という理屈であった。

 つまり、記憶がないということを、

「自分がどこにいるのか分からなくなるほど、長い時間、肉体から離れていた」

 ということで理由付けしようとしているのだ。

 もっとも、これは、

「生まれ変わる」

 ということを前提に考えてのことであり、そんなに長い間、あの世にいると、この世では、数百年、いや、数千年に一度ということになるのではないだろうか?

 だが、そうなると、生まれ変わるまでにあまりにも時間がかかりすぎ、

「循環」

 という意味を呈していないことになる。

 そこで考えられるのが、

「天界と、この世とでは、想像を絶するほどに時間が経つのが違うのではないか?」

 という考え方である。

 これは、理論物理学でいうところの。

「相対性理論」

 と同じようなもので、

「光速で進行していると、地上よりも時間の進みがはるかに遅くなる」

 という考え方である。

 あの世では、あっという間に、過ぎてしまうようなことが、この世では、なかなか時間が経たない。

 そんな世界が、同じ宇宙のどこかに存在しているとすれば、相対性理論というのも、何となくわかる気がする。

 それを、昔の人は化学で証明というわけではなく、一つの宗教的な考えとして持っていたのではないだろうか。

 だから、その発想が、昔話で伝わっている、

「浦島太郎」

 の話となって、伝承されていると考えると、納得もいくのではないだろうか。

 つまり、浦島太郎の話は、相対性理論などという、科学者が考えたような、科学的な話ではなく、宗教に基づいた、

「天界」

 という世界のようなものを創造した人たちが、物語性を付けた形で、今の世に伝えてきたのではないだろうか。

 そう考えると、いろいろなおとぎ話があるが、それらも、どこかで宗教と結びついていて、形としてはおとぎ話の様相を呈しているが、実際には、キリスト教における、

「聖書」

 のようなものだったのかも知れない。

 室町時代になって、それを、

「おとぎ草子」

 として編纂したのも、宗教がらみだったのかも知れない。

 まだ学校などのない時代だったので、この本が、ひょっとすると、教科書のような役割を果たしていたのかも知れない。

 それを思うと、地方に伝わっていたものというのが古代からあって、

「ムラからクニ」

 へと発展していく中で、宗教的なニュアンスで結びついていたと考えられる。

 女王「卑弥呼」が君臨できたのも、預言者だったということがあるからであり、預言者が宗教を伝えるという話は古代からあったのかも知れない。

 古墳時代の巨大な陵墓も、

「宗教がらみではないか?」

 と考えると、納得のいくものではないだろうか。

 宇宙においても、一つ考えていたことがあった。

 それが、

「宇宙の外が、どうなっているか?」

 ということであった。

 きっと、このことについては、誰もが子供の頃に一度は考えたことがあるのではないかと思う。

 もちろん、考えていることが正しいなど思いはしない。見ることができないのだから、証明もできるはずもないので、それを正しいのか間違っているのかということを誰もはかり知ることはできない。

 しかし、発想というものが大切で、その考え方に説得力があれば、十分な世界だった。そういう意味で子供の頃に考えたことというのは、えてして、想像以上に考えられたことだといえるのではないだろうか。

 草薙もこのことを小学生の頃に考えて、今でもその意見は変わっていない。つまり最初に感じたことが、初志貫徹として、ずっと続いているのだった。

 その考えというのは、

「宇宙の外の宇宙には、死後の世界が広がっているのではないか?」

 ということである。

 つまり、

「天界というものが広がっている」

 という発想である。

 小学生の頃は、あくまでも、死後の世界というだけで、宗教でいうところの、天界という発想はなかったのだが、子供心に考えていた死後の世界が、のちに研究して得た知識としての、天界に結びついてくると、自分の想像もまんざらでもないと思うようになってきたのだ。

 天界というのは、

「逆ピラミッド型をしていることで、上位の世界にいくほど、世界が広がっている」

 ということであった。

 ただ、同じ死後の世界でも、宇宙の外に、地獄という世界があるのかどうかは分からない。ただ、存在しているとすれば、これはあくまでも、勝手な発想ということではあるが、

「地獄というのは、宇宙の果てにある」

 という考え方だ。

「では、宇宙の切れ目、その外というのは、どうやって見分けるのか?」

 ということであるが、

「宇宙の切れ目は、あくまでも、この世の世界か、あの世の世界かということで分かれているのではないか?」

 と思うのだ。

「では、地獄は、あの世ではないのか?」

 ということになるのだろうが、あくまでも、地獄というのは概念であり、実はこの世に存在しているものではないかと思う。

 この世において、あの世に行くことができない死後の世界。しかし、生存していた世界に戻ることは決してできない。戻ることができたとしても、それは、人間としてではなく、動物としてである。

 それが、一番の不幸であり、地獄に行くようなレベルの低い魂にしてしまったことへの、罪に対しての罰ではないかといえるのではないだろうか。

 つまり、宇宙の外に広がっている、あの世というのは、決して暗黒の世界ではなく、天界を照らす、眩しいまでの光が当たることで、二度と、元の下界、つまり、元の宇宙に戻ることはなく、天界で幸せな日々を永遠に過ごすことになる。

 霊界に進んだ人間も、いずれは、神界に召されることになる。それを待っていればいいのであるが、霊界に行った時点で、神になる素質は十分だということだろう。

 皆が神界に行ってもいいくらいに、広大な宇宙が広がっている。それが天界の頂点であり、人間が肉体世界の中で目指すものであるということなのだ。

 この世の春というものとは比べ物にならないほどの春が、あの世に待っているというのは、天界を創造した、宗教だといえるだろう。

 草薙は、決して宗教を信じているわけではないが、この天界という創造物、そして、宇宙の外に広がっている世界を、天界だと考えることに、まったくの疑問を感じることもなく。すべてに納得がいく気がしているのだ。

 科学で証明できるわけではないが、

「科学で証明できないことは起こりえないという考えは、それこそが、科学への冒涜になるのだ」

 という考えを生み出すのだった。

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