約束と二百億年
私とサリはいつもの喫茶店で、サイクリック宇宙論の弱点について話し合っていた。店主はもうおじいちゃんになっていた。
「ミャハは難しい話ばかりするようになったねぇ」
「私にはもうさっぱりだよ」
店主はそう言って、皿を片付けていた。そのときだった。「あっ」と言うと、店主は皿を落とした。皿は床で粉々に砕けた。店主はシュンと肩を落とした。私たちは店主と協力して、その破片を片付け始めた。
やがて、店主は破片をほうきで掃きながら、ボソボソと話しだした。
「人生には取り返しのつかないことがいくつもある」
「この割れた皿もそうだ」
「あのとき私が、手術を受けるかどうかはあくまで当人が決めることだ、なんて言わなかったら」
「ノェルは死なずに済んだのかもしれない」
店主はこちらを振り向いた。その顔には、店主が長年をかけて育ててきた悲哀が、何本もの皺になって刻まれていた。
「おじいちゃんが負い目に感じることはないよ」
そう言いつつも、私はノェルのことを思い出して悲しくなった。一方、サリはどこかうわの空だった。
「取り返しのつかないこと……。時間……」
「もし宇宙が収縮するときに、時間が逆戻りしたら……」
サリは破片をゴミ箱に捨てながら、ぼそっと呟いた。サリの頭の中で、突拍子もないアイデアが芽吹き始めていた。
******
やがて、サリは10年の歳月をかけてエントロピー増大の法則が成立しなくなる条件を理論化した。そして、この宇宙が収縮するときにその条件が満たされることを証明した。それは、宇宙が収縮するときには時間が逆戻りすることを意味していた。これで、サイクリック宇宙論の穴は埋まった。そのころにはサリも博士になっていた。けれどもサリは、私を博士と呼び続けた。
ある日、私はサリに呼び出された。
「私、研究所をやめることにしました」
「いままでずっと物理だけの人生だったから、今度は別の生き方をしてみたいなって」
サリはそう言った。私はサリを引き止めたかったが、何とかこらえた。一瞬、サリのまつ毛が震えて光ったように見えた。
「河川敷に行かない?」
私は誘った。サリは黙ってついてきた。今までずっと私についてきたみたいに。
私たちは、河川敷に並んで座って話をした。街はどんどん変わっていったが、川の流れは昔のままだった。まだ冷たい春風が、川面に映る夕日を細切れにしていった。もうすぐ桜の季節だった。
「サリ、ありがとう。サリの研究のおかげで、量子重力理論に専念できるよ」
サリはそれを聞いて、嬉しそうに微笑んだ。その笑顔はノェルに似ていたけれど、やっぱりノェルとは別人だった。サリはサリなんだ、と私は思った。サリはしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「私は博士の研究に貢献できて幸せでした」
「博士はノェルの想いを確かめてあげてください」
「うん、絶対。約束する」
私はサリと指切りをした。数日後、サリは私の元を去った。サリが私に好意を打ち明けることはついになかった。
こうしてお膳立ては整った。私は量子重力理論の研究に専念した。
******
それから飛ぶように時間は過ぎ、40年が経った。私はもうお婆ちゃんになっていた。そのころ世間では、私が構築した量子重力理論を実験的に証明するためのハドロン衝突型加速器の建設が進んでいた。私の理論が正しければ、宇宙は永遠に輪廻転生を繰り返すはずだった。私が生涯をかけたサイクリック宇宙論と量子重力理論は、ついに試されようとしていた。
******
私は病室のテレビで実験結果のニュースを観ていた。実験結果は私の理論が正しいことを証明していた。私はもう力の入らなくなった手でリモコンのボタンを押し、テレビを消した。静寂が辺りを包んだ。ノェルの顔が頭に浮かんだ。その顔はいつまで経っても少女のままだった。
ノェル、やっぱり神様は要らなかったよ。神様なんていなくても、私は宇宙の成り立ちを理解できたよ。きっと魂も死後もないんだよ。私は心の中でそう呟いた。暖かな夕日が病室を照らしていた。
そのときふと私は思った。私の理論では、宇宙は永遠に繰り返す。今の宇宙は90億歳で、あと110億年で宇宙は収縮し、もう一度ビッグバンが起こる。そのとき新しく生まれる宇宙はどんなものなんだろう。案外今と変わらない宇宙なのかもしれない。そうすれば、そこで私とノェルは再び出会うのかもしれない。
いや、宇宙は永遠に繰り返す。次の宇宙じゃなかったとしても、いつかどこかの宇宙で、私たちは必ず出会うはずだ。あるいは、もうすでに何度も出会っていたのかもしれない。私はそう考えながら、サナトリウムでの日々を思い出した。そしてそっと目を閉じた。私は満たされた気持ちで死んでいった。
再び出会うまでの二百億年 星宮獏 @hoshimiya_baku
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