研究所での日々
ノェルの自殺から一週間後、私は信仰を持ったふりをしてサナトリウムを出た。私はやがて国で一番の大学に進み、大学院で物理学の博士号を取り、宇宙論の研究所に入った。その研究所には無神症者が多数集まっていた。
「博士、考え事ですか?」
助手のサリがそう聞いた。彼女も私やノェルと同じ無神症者だった。
「いや、死後の世界ってあるのかなって思って」
「博士らしくないですね。博士は神も魂も死後の世界も信じないって、前に言ってましたよね?」
「うん……」
「でも、自分が間違っててもいいから、死後にもう一度会いたい人がいるんだ」
私はサリにノェルのことを話した。私が他人にその話をするのは初めてのことだった。私はかつてのノェルを除いた他の誰よりも、サリに気を許していた。
「私の心はあれからずっと、あのサナトリウムにある気がする」
サリは私の話を少し切なそうに聞いていた。私は、サリが自分に好意を抱いていることに薄っすら気がついていた。
「私、そのサナトリウム見てみたいです」
サリがそう言った。サリは私の過去を知りたがっているみたいだった。
「でも、私がいたサナトリウムはノェルの自殺をきっかけに廃止されて、廃墟になってるらしい」
「それなら余計に好都合じゃないですか。こっそり入っちゃいましょうよ」
「……じゃあ行ってみるか」
私たちはサリの提案で、夜中にサナトリウムの廃墟へ向かった。廃墟は月光のスポットライトの中にぽつんと佇んでいた。それは遠目には昔と変わらないように見えたが、近づくと、20年という歳月が容赦なく建物を蝕んでいる様子が見てとれた。
私たちは廃墟に忍び込んだ。蜘蛛の巣を払って階段を登り、教室に入った。月光に照らされた机や椅子たちを見ていると、私は否応なく10代を思い出した。教師や親から否定され続けた暗い日々、それこそが私の青春だった。あの頃、私の隣にはノェルがいて、今はサリがいた。
「すみません。大丈夫ですか、博士」
「大丈夫。ありがとう、サリ」
やがて私たちはノェルの部屋にたどり着いた。その部屋はもぬけの殻だったが、私は壁の傷や床の窪みなどの随所に、ノェルの存在の痕跡を感じ取った。今にもノェルの甘い声が聞こえてきそうだった。月光が、ガラスの消えた窓枠から、倒れかけの柱のように部屋に入り込んでいた。私はそこで、ボロボロになったノェルの日記と遺書を開いた。私たちは二人でそれを読んだ。
「博士は愛されていたんですね」
サリは、私も同じように博士を愛しています、と告白したかった。しかし、何とかその言葉を飲み込んだ。それは決して言ってはいけない言葉だと、サリは何となくだが直観していた。
******
私は研究所で、昨晩読んだ遺書のことを思い出していた。
『神様なんて、いませんように。』
ノェルの遺書の最後に書かれていたその言葉は、いつしか私の人生のドグマになっていた。
私は神の存在の仮定が入る余地のない、完全に唯物的な宇宙論を追い求めることに人生を捧げていた。しかしその一方で、それが間違っていて、死後の世界でもう一度ノェルと会えたらいいな、とも強く思っていた。それら二つの感情は、私の中で炎と氷のように拮抗していた。私の心は、あるときは焼かれるように痛み、あるときは凍りつくように痛んだ。私はときどき、自分が分からなくなった。
「外の空気でも吸おっか」
私はサリを誘って、河川敷に向かった。私たちは芝生に並んで座って川を眺めた。川は相変わらずただゆっくりと流れ、広場では子どもたちがサッカーをしていた。その光景は平和そのものだった。私はサリの方を振り向いた。サリのまつ毛は、ノェルにそっくりな金色だった。私は一瞬、サリにキスをしたい衝動に駆られた。
「ねぇサリ、どうしたら宇宙から神を追い出せるのかな」
「博士はそればっかりですね」
「例えばこんなのはどうでしょう?これから先、この宇宙は重力で縮む。つまりビッグバンの逆です」
「そして宇宙は高温高密度状態に戻って、そこからもう一度ビッグバンが起こります」
「宇宙には始まりも終りもなくて、それを永遠に繰り返しているんです」
「だから神様による宇宙創造なんてなかった、なんて」
サリはかつてのノェルと全く同じことを言った。本当に二人は似ているな、と私は思った。
「サイクリック宇宙論というやつだな。私もそれはずっと考えていた」
「でも、どうやって実証するかが問題なんだ」
この時代、宇宙全体の質量の計測から、宇宙が今後収縮に向かうことは実証されていた。ただ、収縮して極めて小さくなった宇宙がどう振る舞うかを記述するには、量子重力理論を完成させなければならなかった。その理論が完成して実験的に証明されれば、小さくなった宇宙が再びビッグバンを起こすかどうかが分かるはずだ。私はそう思った。
ただ、私たちが追い求めるサイクリック宇宙論には欠点もあった。それは、永遠に繰り返す宇宙ではエントロピーが増大し続ける、すなわち、宇宙は放っておくと時間の経過とともに乱雑・無秩序な方向に向かい、勝手に元に戻ることがないという問題だった。もし無秩序に散らかった宇宙が秩序を取り戻すなら、それこそ神の御業によるとしか思えなかった。それを解決するのがサリの研究課題だった。
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