第十話 呪いは解けて
――手記を読み終えた後、スチュアートはただただ沈黙し、溢れそうになる涙を堪えていた。
これは手記などではない。オリヴィアという少女が自分に充てた恋文だった。
なんと言ったらいいのか、もはや彼にはわからない。
この恋文にはあまりにも多くのことが記され過ぎていた。オリヴィア・プラウズの十度の人生、彼女の想い、悲しみ、喜び、そして呪いの全て――。
もちろんこれを悪女の巧妙な罠だと断じることもできる。
そうやって己の存在をさらに深くスチュアートの心に焼き付け、忘れなくさせるため。悪女らしい嗜虐的な遊び。愛など欠片もなく、人生を繰り返したというのも虚言である可能性はどうやっても論理的には否定し切れない。
だが、オリヴィアに恋し、誰よりも彼女の傍にいたスチュアートにはわかる。これが、紛れもない真実だということくらい。
「……あぁ」
これで何もかも、すとんと納得が行った。行き過ぎた。
ふと、視線に気づいて顔を上げ、すぐ隣を見る。そこにはオフィーリアの――真にオリヴィアの生まれ変わりであった少女が佇んでいた。
彼女が浮かべているのは、聖母のごとき静かな微笑みだった。そしてあの夜のようにスチュアートを呼ぶのだ。
「ねえ、スチュアート様」
しかしそれはほんの束の間。
すぐにいつもの明るい笑顔になった。
「呪いを解く手がかりは見つかりまして? 少しはお役に立ったと思うのですけれど!」
「……そう、だな」
少しどころではない。
スチュアートはこの手記一冊で、長年片想いをし続けていた少女の心の内を知れたのだ。
知りたいことの答えがこうもあっさり得られるなんて、思ってもみなかった。
あの夜の口付けの意味も、彼女が愛しげに「スチュアート」と呼んでくれた
転生というのは宗教上の考えの中には存在するが、まさか実在するとは思わなかった。――それがたとえ、呪いの類だったとしても。
いいや、最初から呪いなんてなかった。あったのはスチュアートの知らない、もはやこの世界のどこにも存在していない恐ろしい過去の数々。そして誰一人として知られぬままにオリヴィアが一人きりで切り開いた運命だけだったのかも知れない。
『あなたをお守りするためですよ。私は婚約者として、スチュアート様を最後までお支えしたい。いいえ、お支えしなければならないのです』
彼女の声が脳裏に蘇る。
自らが悪女に身を落としてさえ、守りたいと思われていたなんて。
気づかなかった。気づけるわけがなかったけれど、それでも彼女の言葉の意味を深く理解していれば何か変えられたのではないかとも思う。
でも、もう後悔するのはやめよう。
十五年以上に渡ってスチュアートの心を縛り続けていた呪いが、音も立てず静かに消え去っていった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆
その夜、スチュアートはブラッドリー伯爵邸にまだ滞在していた。
帰るのにはかなりの時間がかかるので一泊させてもらうことになったのだ。あてがわれた寝室で一人、窓の外の夜空で輝く月をぼんやりと眺め、二人の少女を想う。
美しく気高き『氷の令嬢』にして悪女、そして陰ながら誰よりもスチュアートを愛してくれていたオリヴィア・プラウズ。
明るく奔放でまっすぐな、スチュアートの心を掴んで離さないオフィーリア・ブラッドリー。
もしも本当に二人が同一人物なのだとすれば、スチュアートは恋するべくして恋をしたことになるのだろうか。
全てはオリヴィアの掌の上だったということだ。
こうなればもう、最後まで掌の上で踊り続けるしかないだろう。
そんな風に考えていた時だった。
「スチュアート様、起きていらっしゃるかしら!」
夜に似合わぬ溌剌とした声と共に、ドアのノック音が響いた。
――オフィーリアだ。
音もなく忍び込むようにしてやって来たオリヴィアとはまるで違うというのに、あの夜のことをまた思い出した。
「ああ」
「なら、入らせていただきますわね!」
そうして現れるのは薄紅の寝間着を纏った美しい金髪の少女。
色気が匂い立ち、可憐さというよりは美貌が際立つ。やはりそういうところは変わらないのだなと、スチュアートは思った。
真実を知ってもなお、オフィーリアにオリヴィアの面影を見てしまう。二人はあまりにも似過ぎているので連想せずにはいられないのだ。
悪い癖だ。しかしそれもオフィーリアと過ごす時間が長くなれば変わるかも知れない。
「スチュアート様、私が何を言いにきたか、わかりますわよね!」
スチュアートは迷いなく頷いた。
まさか今やって来るとは思っていなかったが、彼女の意図することくらいはわかった。
だが、ベッドに腰掛け、オフィーリアをすぐ横に座らせると、スチュアートの中に少々の躊躇いが生まれる。
……もうすぐ三十歳になろうという自分と、十五歳のオフィーリア。まだどうにか青年と呼べる年頃とはいえ、スチュアートは歳上過ぎるのではあるまいか?
本当にいいのだろうかと考え、しかし、すぐに思い直す。この結末こそオリヴィアの望みだったのだから、細かいことを気にしてつまらないことを言うべきではないと。
「オフィーリア」
「はい!」
「君の求婚を受けたいと、考えている」
「まあ、嬉しいですわ! ここでもし断られたらどうしようかと思いましたもの! やっとスチュアート様に認めていただけましたのね!!」
安堵と歓喜が混ぜ合わさった笑顔を見せるオフィーリア。それだけで途端に可愛らしくなるものだから、落差が激しくて驚く。
「僕もオフィーリアが好きだ。いつの間にか、好きになってたよ」
「知っていましたわ! スチュアート様、すっかり私にベタ惚れでしたものね!」
隠していたつもりだったのだが、どうやらオフィーリアにはお見通しだったようだ。
だというのにスチュアートへの誘惑を続けていたあたり、彼女は意外とあざとい。オリヴィアにはなかった魅力の一つだ。
「ずっとオリヴィアのことを愛していた。あの手記……僕に宛てた彼女の手紙を読んで、さらにその気持ちは強くなったくらいだ。とんだ浮気者だと罵ってくれても構わない。
でも、だからと言って、オフィーリアに惹かれているこの気持ちはきっと確かだ。最初はオリヴィアの代わりを求めていたけど、今は違う」
「ええ、わかっておりますわ!
私、たとえスチュアート様が悪女さんを愛したままでもいいと思っておりますの! だって、私とあなたが出会って、恋をしている。私はその事実だけで充分ですもの!」
そう言いながら、グッと距離を詰めてくるオフィーリア。
彼女はスチュアートの銀髪にそっと指を差し入れたかと思うと、そのままぎゅっと抱きしめ、顔を寄せた。
澄み渡った青空のような彼女の瞳が彼を深く魅了し、虜にする。
「愛していますわ」
――ちゅっ。
艶やかな真紅の唇が――ずいぶん前から触れ合わせたくてたまらなかった柔らかなそれが、スチュアートへ吸い付いた。
ぶちゅ、ぶちゅ、という水音を響かせながら、その口付けはじんわりと、スチュアートの心身へと染み込んでいく。
しかしあの夜のファーストキスと違い、ただただ幸せで、愛しい味がした。
その後、何度も何度も貪り合うようにして口付けを交わした。
そうしながら強く心に誓う。二度とこの温もりを失ってなるものかと。
オリヴィアの自己犠牲でありながらどこまでも献身的な愛、そしてオフィーリアのまっすぐな愛によって得られた幸福。
しかし油断していればすぐに失われてしまいかねない儚いものだ。
だから、しっかりと守り抜かなければならない。それがこれからのスチュアートの役目となる。――それはある種の新しい呪いと言えるかも知れなかったが、決して嫌な気分はしなかった。
〜完〜
その口付けは呪いとなりて 柴野 @yabukawayuzu
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