わたしとかえるとカニと

押田桧凪

第1話

 お母さんがカニになってしまったのは、わたしのせいらしい。角のとれたスポンジからぷくぷくと食器用洗剤で泡を吹かしながらシンクで洗い物を手伝っていたわたしは二階からの悲鳴を聞いた。お父さんの悲鳴だった。お母さんがカニになった。先週、じゃんけんで冷蔵庫のプリン(賞味期限切れでも、「食い意地に勝るものはない」がお母さんの口癖だった)最後の1個を決めようとしていつも土壇場でお母さんがチョキを出すようになっていたことを知っていたので、わたしはグーを出して勝ったことを思い出した。お母さんを勝たせなかったせいかもしれなかった。


 お父さんは甲殻類アレルギーだった。お母さんも実は甲殻類アレルギーだった。けど、それはつい先日の血液検査の結果で陽性か陰性かは出ないが、「その可能性が高い」と判明したことで「アレルギー検査を受けてみようかしら」「うん、そうしなよ」と言ったわたしのせいらしかった。そういう言い方を、お父さんはした。


「本物のカニが食べたい!」とわたしが言い出したのも良くなかったらしい。いつも遠足のお弁当に入っているカニカマは本当のカニではないらしくて、「カニおいしいよねっ」とお箸でカニカマをつかみながらわたしが同意を求めると、レジャーシートの隣に座っていたにかちゃんから「それはカニじゃないよ」と冷たい声で言われたときになんだか負けた気がしたからだった。わたしがカニだと信じていたものがカニでなかったことがとても信じられなくて、悔しかった。それは、単なる幼さゆえの知識の欠落というよりは、みんなが持っている自分の「信じる」という聖域を他人に踏みにじられたような、そういう痛みだった。


 それと同時期に友だちの、にかちゃんがかえるになった。そういえば、「にか」ってひっくり返したら「かに」だね。でも、にかちゃんは漢字で「仁夏」って書くから別にそんなことは関係なくて、俗に言う「かえる化現象」の一種らしかった。にかちゃんの好きな人は隣のクラスの颯良そらくんで、理由はかっこいいとか足が速いとかそんなのじゃなかった。


「お父さんに似てるから。眼鏡の色がお父さんと同じで、歩き方が似てて、肩が凝ったときに首の回す方向とかスピードとかがそっくり!」と訳の分からないことをにかちゃんは言っていた。


「それにね、わたしのお父さんの名前も『そら』なんだけど、颯良くんの『颯』って字は昔は使えなかったんだって。だから、わたしのお父さんの漢字は『空』。空よりもっと素敵な颯良。それがうらやましくて、好き」


 結局中身が好きなのかその上っ面が好きなのかどっちつかずなところがあって、だけど、にかちゃんの気持ちは本気らしかった。だから、にかちゃんは颯良くんの追っかけみたいなところがあって、いつものようににかちゃんが颯良くんを観察していたら、見たんだって。颯良くんが手洗い場で痰を吐くところ。


「お医者さんに診てもらったら喉が赤く腫れていて、授業中も咳ばっかりしていた時だったから風邪の症状だろうっていうのは分かってたけどね。でもかえるみたいな黄緑色の痰って、なんだか気持ち悪かった。あんなのが同じ人間から吐き出されてて、しかもそれが好きな人の体から。だから、なんか、なんかね……」


 それが原因で好きじゃなくなったらしい。にかちゃんはすっと胸に風が吹き抜けていくような感じで冷めたんだって。その次の日に、にかちゃんはかえるになった。


 にかちゃんはかえるになっても学校に行きたいらしかった。そう望むように毎日、学校に行く時間になるとお母さんの目の前でぴょんぴょん跳んで何らかの合図をするらしい。だから、にかちゃんの家から近いわたしは、毎日にかちゃんの家に行って、にかちゃんの学校の送り迎えをすることになった。でも、にかちゃんは軽いから全然苦じゃなかった。てのりかえる。「のーり、のーり、のりかえる〜」とわたしは歌いながら、にかちゃんはその間、肩からぶら下げた水筒が左右に振動するのを避けるようにわたしの両手をぴょんぴょん跳んで乗り変わった。て、のりかえる。


「かわいい」「かわいいねぇ」と登校中に黄色いランドセルカバーをした数人の一年生の子から言われながらわたしは少し誇らしい気分だった。それから同時に、少しごめんねとも思った。サーカスみたいに動物を調教して利用してるみたいだったから。ごめんねと話しかけると一瞬キョトンとした顔でにかちゃんは目を見開くと、うんと言うようにしてぺたっと音を立てて首を振った。許してくれた。そんな気がした。


「意外な一面を見て気持ちが冷めてしまうっていうのは別によくあることで、それを『かえる化』って言うらしいのよ」


 穏やかな表情で、でも必死に意識を繋ぎ止めようとしているかのように額に汗を滲ませながら遠くを眺めるようにして、にかちゃんのお母さんは(かえるになって)初の登校日にわたしにその旨を説明した。


「よろしく、お願いしますね」


 大人のひとがこんな風に子どもの前で深く頭を下げる姿を見るのは初めてな気がした。


「そんな、そんなの……当たり前だよ」と照れを隠すようにしてわたしは学校を目指して全速力で走った。まだ一時間目まで十分に時間はあった。それでも、わたしは走った。高まる体温と手のひらの中でくるまったにかちゃんを振り落とさないように。


 昨日はにかちゃんと学校の帰りに公園に寄って、ブランコをした。天にも届くくらい大きく揺れたタイミングで、にかちゃんがわたしの肩から飛び降りた時、パシャンと昨日の雨でできた水たまりに着地した。泥水がはねて、それがスカートに付いた。「もうっ!!」と大きく叫んだ時、怒りをぶつける相手がいないことにわたしは気づいた。水を得たかえるは、それこそ水たまりはかえるが帰るべき場所だったはずで、わたしが「かえる」であるにかちゃんを罰したり、咎めたり、いや許すなんてのも傲慢で、怒ることもできないんだと思い至ったからだった。


「ごめんね、にかちゃん」


 にかちゃんはそれを聞いてペロっと舌を出し、「いいよ」と言った気がした。


 それから、わたしは「みんな、優しいな」と思った。普通、かえるになっても学校に行くなんておかしいし、わたしだったら絶対に行かない。勉強しなくちゃいけないし、宿題も出るし。早く夏休みが来ないかなーって、毎日考えているようなわたしの方がかえるになりたかった。かえるになりたいと思った人がなれなくて、なりたいと思ってなかった人がいつもなれてしまうこの世界は意地悪なことだらけだと思った。お母さんだって、そう。そんな、にかちゃんをみんな普通に受け入れている。そういう優しさだった。



 市役所から派遣された民生委員の嘉手かてさんという人が、カニになったお母さんの代わりを務めることになった。お母さん同様に嘉手さんは料理や洗濯といった家事をこなし、「トモエさん、レシートここに入れておきますね」と言ってクッキー缶に請求書とか電気・ガス・水道料金の明細書を入れる。そして、それらのレシートのお釣りが833はさみ円に調整(あるいは偶然?)されているのも含めてわたしは好きだった。


 でもカニになったお母さんにそれが聞こえているのか、聞いていたとしても理解しているのかも分からないのに律儀に報告するなんて、嘉手さんはなんだか頼もしくて、不思議だった。それはエコーで確認したときの赤ちゃんであってもそこにちゃんと命があって、存在を認める広さに共通している気がした。だから、わたしの家にはちゃんと「お母さん」がいた。かたちを変えても、お母さんがいたから「寂しくないよ」って声に出してみた。カニになったお母さんが横歩きをしながら、笑ったように見えた。それは正しい姿だった。


 それから、嘉手さんの料理はお母さんの味にとても似ていて、びっくりした。一緒に食卓についたお父さんも「トモエ……?」と呟いた。「んもうっ! 違いますよぉ」と嘉手さんは笑いながら否定して、「わたしもカニだった分かるんです、そういうの」と言った。田舎のおばあちゃんみたいな安心感とカニだった頃の名残なのか接続があまりにも方言性を醸し出していて逆に良かった。だから、自然とそれを受け入れてしまっていたわたしもお父さんも嘉手さんの喋り方を笑わなかった。


「このお味噌汁に入ったニラはお母さんが切ったんですよ」とも言った。


 箸置きに体を預けるようにしていたお母さんはハサミを自慢するようにチョキン! と、ピアノの先生が指を鳴らしてリズムをとるように、小さく音を鳴らして見せた。軽やかだった。


 嘉手さんは髪を結うのと裁縫をするのが得意だった。それは前世、というか人間に戻る前に体得した能力のような気がしていて、特に細かい模様の入った刺繍が上手で、キティちゃんの手作りコースターをプレゼントしてもらったこともある。だから、お母さんが人間に戻ったときには嘉手さんみたいにいろんな家事の手際が良くなってたりするんじゃないかなって少しは期待してたりする。ほんの少しだけ。


 思えば、朝起きてから昨日のお弁当箱を洗いながら食事を作り、そしてわたしが学校に行くのを見送ってから出勤するという慌ただしい一連の流れが、嘉手さんがやって来てから大きく変わったのも事実だった。


 だけどその次の日、わたしが学校から帰ると嘉手さんが「出汁」をとっているのを目撃した。


「いや、これはその……」


 慌てたように青ざめた顔で嘉手さんはわたしを制する。カレーにローリエを入れるような手軽さで、お母さんが鍋の中にぷかぷか浮いていた。嘉手さんはお玉で汁を掬って味見をしている。ふんわりとつみれ汁のような香りが部屋中に漂う中、わたしは匂いで分かった。これは……。


「やめて! お母さんをいじめないで!!」


「私も昔は茹でてもらいました。だから、きずなさんには分からないかもしれませんが、これは一種の伝統で」


「昨日のお味噌汁もそうやって作ってたの? お父さんが『トモエ』って呼んだのはお母さんの味だったからなの? だから、おいしいと思ってしまったの?」


 わたしがそう何度尋ねても、お夕飯は六時頃には出来ますからね、と話を濁すだけで、嘉手さんはそれ以上何も言わなかった。


 ──もしお母さんじゃなかったら食べたいって思った?


 そう言われている気がした。けれど、わたしには分からなかった。お母さんがおいしいなら本当はそれで良いのかもしれなくて、でもそれは飼い殺すことに等しい気がして、わたしが食べたかった「カニ」はきっとこんなのではないことだけは確かだった。わたしも一緒に甲殻類アレルギーになりたかった。



 七月二週目の月曜日。その日は朝から雨が降っていて、そういう時はいつも「お散歩」と称して、傘を差しながら校庭に出てにかちゃんと遊んだりしている。けれど、わたしは今日の朝、にかちゃんをお母さんから受け取ってから、わたしの家に戻って家に置いてきた。大丈夫、お世話は嘉手さんに任せてある。だから、大丈夫。


 嘉手さんにそのことを伝えると、「まぁかわいいかえるさんですね! おともだちかに?」と聞いてきた。でもわたしには「おともだち」という言葉を使うことが苦しい気がして、だってそれはわたしが密かににかちゃんのことがずっと好きだったからだったし、にかちゃんにもわたしのことを好きでいて欲しくて、にかちゃんが好きな颯良くんを、にかちゃんから引き離すことがわたしの目的だったからだ。仲がいいっていうのとは違うんだよ、わたしたちは。わたしとにかちゃんはね、そういうのじゃないんだよ。心の中でいつも反発する、もう一人の自分の声がそこにあった。


 登校後、二時間目の国語の授業が終わってからわたしは休み時間に中庭に行った。紫陽花の葉っぱの陰で休んでいるかえるをそっと捕まえると、わたしは教室にそれを持っていった。色はにかちゃんに少し近いかもしれない。そして、いつものように筆箱の隣にかえるを載せると朝、にかちゃんが姿を見せなかったのでみんな暗に心配していたのか、わたしの机の周りに寄ってきて、「あっにかちゃんだ〜、おはよぉ〜」と変に間延びする声を作りながらみんなはにこやかに「かえる」を出迎える。


 今だ、とわたしは思った。わたしは優しく、「かえる」に口付けをする。みんなの言う、嘉手さんの言う「なかよし」とは違うって証明したくて、考え得る限り一番確実に分からせる方法はこれしかないと思ったからだった。


 にかちゃん。わたしの、にかちゃん。かえるになった王子様はお姫様によって……。小さい頃に何度も読み返したおとぎ話を思い返しながら、わたしはかえるにキスをした。クラスのみんなが見ている状態でするキスはとても贅沢で、そしてそれは、わたしのために用意されたかのような舞台だった。でも、それは偽物のキスだったけれど。


 その瞬間、「キャー!」とか「おえっ……」とかわざとらしくみんなが声を上げてわたしから距離を取るように後ずさった。先程までかえると人間を対等に接していたとは思えないくらい鋭い悲鳴と、みんなの態度の豹変ぶりにわたしは少し怖くなる。


「にかちゃんとチューした!」「にかちゃんがかわいそう……」とすぐにみんなが非難する色を示し、騒ぎ始めた。幸い、会議があって先生は教室に居なかった。


「にかちゃんか、にかちゃんじゃないかの見分けが付かないみんなの方が失礼だよ。そっちの方が、にかちゃんがかわいそう」とわたしは言い放った。


「じゃあ、これはこれは本物のにかちゃんじゃないってこと?」

 困惑しながら一人の男子が訊いた。それを聞いて、みんながえっと絶句している。


「本物って何? にかちゃんは最初から一人しかいないよ」

 続けて、わたしは言ってあげた。


「それに、このかえるは全然にかちゃんに似てないよ。どこがにかちゃんなの? みんなが言ってる『にかちゃん』って誰? これは、ただの『かえる』だよ」


 教室が水を打ったように静まり返る。中休みが終わろうとしていた。どう、これで少しは分かってもらえた? 好きっていうのは、こういうことだよ。わたしは心の中でそう呟きながら、引き出しから静かに理科の教科書を取り出した。みんなはもうわたしと目を合わせなかった。


 それから、わたしは思った。みんながかえるになっちゃえば良かったんだ。わたしとにかちゃんだけはこの世界で人間のままでいて、わたしたち二人だけが人間であれば良くて、そしたら誰にも気づかないところでわたしたちは好きでいられる。もう、誰にもそれを拒絶されることはないから。嫌な思いをせずに済むから。それか、お母さんと一緒にカニになりたいなって思う。


 その日からわたしは、にかちゃんを家に匿うことにした。にかちゃんのお母さんには勿論、学校の中庭で拾ったかえるを差し出した。「いつも本当にありがとうね」と言いながら指先を震わせて、にかちゃんのお母さんは深いお辞儀をした。まだ、この人は慣れていないのだと思った。自分の娘がかえるになったことに。その湿った皮膚、粘膜、つぶらな瞳、斑点、粘っこい足。すべてを受け入れられずにいて、触ることさえ気持ち悪いって思ってるんだ。あぁダメだ。このままじゃ、にかちゃんのお母さんもいつか、かえるになってしまうんじゃないかってわたしは思ったから、その日は特別にハンカチに包んで「かえる」を返してあげた。


「別に洗って返してもらわなくて大丈夫です。かえるに触れたハンカチなんて汚いだろうし、一緒に洗濯するのも嫌だろうから。だから、捨ててもらっていいです」


 そう口早に言って、わたしは一目散に駆け出した。あれ……、どうして? なんでこんなにもすぐにここから逃げたかったんだろう? なんでこんなに怒ってるんだろう? とわたしは思い、数秒経って気づいた。家に戻ってきたかえるが、にかちゃんじゃないと気づかないにかちゃんのお母さんが嫌いだから。許せなかったから。そして、その怒りでいっぱいになった頭でも、理知的で優等生然とした配慮のある声をかけることができたのかわたしはとても不思議だった。わたしって偉いなあ、と他人事のように思った。


 仲が良いね、強固な絆だね、良いお友達だねなんて言われたくなかった。第一、わたしはわたしの名前が嫌いだった。絆? なにそれ? 図書館にあった漢字辞典で成り立ちを調べたら、『家畜をつなぐための綱』と書いてあった。なにこれ、どういう意味でつけたの。わたしは怖くて未だにわたしの名前の由来を両親に訊いていない。


 ねえ。聞いて、内緒話。にかちゃんが颯良くんのことを好きになる前まではわたしのことを好きって言ってくれたこと。わたしの名前も、好きだって言ってくれたこと。


「もし、わたしがかえるになっても好きでいてくれる?」


 ある日の帰り道に、にかちゃんからそう言われた時、わたしはすぐ頷くことができなかったことを思い出した。


「だって、恥ずかしいよ。かえるになるっていうのは、その姿は人間でいう裸ってことでしょ?」

「うん」


「だから、わたしはにかちゃんの裸を見ることになる」

「うん」


「それでも、見てほしい?」

「うん」


「だから、わたしだけを見て」

「わかった」


 そんな昔の会話を思い出しながら角を曲がるとわたしの家が、段々見えてきた。軽い足取りで石段を踏むと、わたしはドアノブに手をかけた。


 さようなら、その辺にいたかえる。ただいま、にかちゃん。もうすぐ夏休みだね。

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