虹色の遺伝子

kanimaru。

第1話

「荒井君。きみには才能がある」


ごめんなさい。嘘だったんです。


蘇った先輩の言葉に俺は思わずそう返していた。


治そうとしても治らなかったんです。


誰に向ける物でもなくみっともなく言い訳した。そんな自分が情けなかった。


でも先輩のその絵の前では、後ろめたい気持ちを隠すことができなかったのだ。


絵のことなどよくわからない。

それでも先輩の絵がどれだけ圧倒的なのかよくわかる。


200号の大きなキャンバスの上で鮮やかに踊る群青と、その美しさに魅せられた純白、そして独立の中明るく振る舞う金糸雀カナリアが、俺を魅せてやまなかった。


初めて完成作を目にした時の衝撃を体は忘れてくれない。

鮮烈で、それでいて痛かった。

その絵は俺を無視しているようで嘲るようで、それでいて温かく包み込むようだった。

一種の感覚麻痺に陥っているみたいで、ないはずの体のしびれを覚えた。

そこで初めて自分の嘘の残酷さに、愚かさに気づいたのだ。



「荒井君、もう来ていたのか」


背中に降り注いだ声に思わず肩をびくつかせた。


「あ、先輩。お疲れ様です」

振り返り会釈をする。


だが先輩の視線はすでに俺から外れていた。

先輩は肩にかけたカバンを下ろし、キャンバスに向かい合う。

俺はいつものそれに少しうんざりしていた。

外では蝉が鳴き始めていた。その大嫌いな音への不快感と不満が相まって、俺は心の中で毒を吐いた。


これでは俺のいる意味がまるっきりないではないか。


誘われたから入部したのに、先輩はすぐに自分の世界に浸ってしまう。

自らの絵に、そこにある没頭に意識を飛ばす。


こうでもしないと描けないんだろうな、こんな絵。


非難と同時に、素直にそう感じていた。

怒りの中でも褒めてしまうほど、先輩の作品は素晴らしかった。


それに比べて所詮俺はこじらせてしまった承認欲求をどうしても捨てきれずに、つまらない嘘で体をがちがちに固めた男だ。


「俺のお父さん、社長なんだぜ」


始まりはそんな、今考えれば冗談にしか聞こえない嘘だった。

何をしても中途半端な自分を認めて欲しくて、見栄を張ったのだ。


「すごいね」


一言、そう言われたのをよく覚えている。それが嬉しくてたまらなかった。

そこから、止まらなくなってしまった。

自分を誤魔化すためのくだらない嘘をいくつも重ねた。

そのたびに手に入れることができる称賛は徐々に少なくなってゆき、ついになくなった時に残っていたのは「ホラ井」などという不名誉なあだ名だけになってしまった。

そんな自分を変えようと、誰も知り合いのいない高校へと進学した。


そこで出会ったのが先輩だった。部活勧誘の時にたまたま絵を描いている先輩を見つけたのだ。絵にひかれて、俺は美術室を覗き込んだ。

しばらく見ていると先輩は急に手をとめ、振り返りもせず声をよこした。


「名前は?」

「え、あ、荒井です」


急なことに戸惑う俺が名乗ると、先輩は椅子から立って何も言わずにペンと紙を渡してきた。

そしてすぐに自分の絵に視線を戻してしまった。

描け、ということらしい。


何をどう描けばいいかわからず、俺はとりあえず校庭の絵を描いた。何も考えずに見たままを描いた。


「描き終わりました」

そんなに時間をかけずに描き終えると先輩にそう告げた。


先輩はひったくるようにして紙を取ると、俺の絵をじっと見つめた。


「…きれいだな」

「まぁ、昔賞も取ってるんで」


嘘だった。自分を変えようとしたはずなのに、また嘘を重ねた。思わず青ざめた。泣きそうだった。

今すぐ言うんだ、冗談だと。そう自らに言い聞かせた。


だが俺は先輩の「本当か」という言葉にうなずくことしかできなかった。


自分の矮小さに腹が立つ。その苛立ちさえも、自分を正当化するための物のような気がした。


そして先輩はゆっくりと目をあげると、上目遣いに言い放った。


「荒井君。きみには才能がある」


その言葉に認められた気になって俺は美術部に入った。

どこまでもお気楽なバカ野郎だ。

先輩は俺が賞を取ったというからそう言ったまでだ。俺の絵を見てそう言ったんじゃない。

それに本当に才能を持っているのは先輩の方だ。

きっと先輩はたくさんの人に認められてきた。

それだけの絵を描いているのだ。

嘘と見栄ばかりの俺とは違うのだ。


「何か悩んでいるのか」


先輩は背中を見せたまま言葉を放った。先輩の手が頬に触れているのが見えた。それは先輩の人の考えを読むときの癖だった。


「まぁ、はい」

「ならば絵を描いてみるといい。きっと落ち着く」


まるでそれが世の中の唯一絶対の真理であるかのような言い方だった。

しかしとてもそんな気分にはなれなかった。そもそも入部してから今まで一度も絵を描いていない。嘘を見破られるのが怖くて、ペンも筆も握る気になれなかった。


「…先輩はいいっすよね」

どう返すべきか迷って、そんな言葉が漏れていた。先輩が俺に目をやる。大きな瞳が不思議そうに俺を見つめていた。

言うつもりはなかった言葉だ。だが撤回する気にもなれなかった。


「どういう意味だ?」

「先輩には才能があっていいですよね」

「才能?それなら荒井君にもあるじゃあないか」

違うんだよ、違うんだ。賞なんて取ってないんだ。

「賞を取ったっていうのは、嘘なんです」


反射だった。隠しておけばよかったのに、こんなにも美術と向き合う先輩に嘘をついたままではいられなかった。

先輩は俺の目を見つめて離さない。

放課後の二人しかいない美術室に沈黙が訪れる。それを気まずいと思えるような余裕はなかった。


「知ってるよ、そんなこと」

しばらくして、先輩はあっけらかんとした口調で、さも当然のように言った。

俺は呆気にとられて何も言えなかった。


「あんなこぎれいなだけの絵が、賞を取れるはずなかろう」


ひどいいいようだったが、俺は安心していた。そして困惑していた。


ならば俺の才能とやらはお世辞で、嘘だったのか。


「大丈夫、君の才能は確かにあるよ」

またもや頬に手を当てていた。

「俺にはそれがわかりません」

「じゃあ、きちんと説明しよう」


先輩は腰を上げて、座っていた椅子の向きを直して俺を見つめた。


「荒井君は私に才能があるといったね。何を見てそう思った?」


何を言っているんだ、決まってるだろう。

絵に決まっている。それ以外何があるというのだ。


「絵です」

全て嚙み潰して絞り出した声は何故だか震えてしまった。


「確かに良い絵だ」

先輩は少しだけ目を絵に移して、文字通り自画自賛した。

冗談なのか本気なのかはわからない。言葉には何の淀みも揺らぎもなかった。


「でもこの絵はね、どこまで行ってもつまらないんだ」

悔しそうに、自らに言い聞かせるように先輩はそう言った。

一度切って、先輩は続ける。


「私には願望がないんだ。ただ絵を描きたいから描くだけ。そこにそれ以外、何もない」


俺は先輩が何を言っているのか理解できなかった。それの何が悪いというのか。


「それの何が悪いんだって顔だね。荒井君、君は芸術とはなんだと思う?」


口を開こうとしたが、形にならない。何を言うべきかわからなかった。

先輩はそんな俺にかまわず言葉を継いだ。


「芸術とはね、性欲なんだよ」

「は?」

声を出さずにはいられなかった。ますます訳が分からない。


「ますます訳が分からないか。でもね、これは正しいんだ」

先輩は怖いくらいに俺の考えを読んでくる。いつもそうだった。それが気味悪くて、俺は考えが読まれるたびにぞっとしていた。


「人の性欲の目的は何だか知っているかい?」

「子孫を残すため、ですかね」

突拍子もない問いなのに、俺は答えをすぐに導き出していた。


「そう。じゃあ子孫を残すっていう行為が、何の意味を持つかはわかるかな?」

今度は答えられなかった。しかし先輩はそれを特に気することなく続けた。


「その意味はね、自分がこの世にいたという証なんだよ。それを証明するために子孫を残すんだ」

そこで先輩は一息置いた。窓の外から流れ込むそよ風が先輩の髪を揺らした。その匂いが夏を告げていた。


「でもセックスなんてしなくとも、人は自らの生きた証を残すことができたんだよ。それが芸術で、美術なんだ」

今の世の中では承認欲求とも呼ぶね、と先輩は付け加えた。

承認欲求。思わず胸が苦しくなる。


「自分の作品を世の中の人に知らしめたい。その願いが、想いが芸術なんだ。私にはその気持ちが欠落している。有名になどならなくていい。ただ絵を描いていたいだけ。そんなものは美術じゃあない」


先輩はそう言い切った。自分の素晴らしい作品を美術じゃないといってしまった。


そんなことない。立派な芸術で美術だと否定したかった。

しかし言葉は俺の中に飲み込まれて、音もたてずに消えた。



「君の嘘は、自分を認めて欲しいゆえのものだろう?芸術においてそれは大きな強みとなり得るんだよ」


先輩は今までになく強く俺を見据えてくる。今までの試すような目ではない。一人の人間として俺と向き合っているのだと感じた。


「噓も見栄も、芸術においては評価される。自分の生きた証を伝えたいという強い思いの表れなのだから」


先輩の言葉に含まれる独特な響きに俺は何も言えなくなっていた。

それでも、自分の中に高ぶる何かを感じていた。


「君ならきっとできるはずだ。自分を苦しめてきたその欲で、自分を証明しろ。それが君の嘘という才能の最良の使い道だ」


言葉の残像が鼓膜をしばらく支配していた。その間、俺達は互いに何も言わない。

外では蝉がまたもや鳴いていた。

きっとこの蝉も音という芸術で、自分の生きた証を残そうとしているのだ。

そう思うと何だかその音は美しい響きを備えているように思えた。


最初に嘘をついた日から今までで初めて自分を許せたような気がした。

嘘は嘘でいい。その中でどうするべきか、不思議と見えていた。


すると先輩が不敵な笑みを浮かべた。自らの白く細やかな頬を撫でながら。


「描きたくて仕方ないって顔だね」

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虹色の遺伝子 kanimaru。 @arumaterus

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