夏が来る夏に終わる

草森ゆき

夏が来る夏に終わる

 あたしに雲母きららっていう雑魚い少女漫画の効果音みたいな名前をつけたのはお母さんらしくて可愛いから別にええやんってミチおばさんは笑うけどあたしは笑えないしそもそもお母さんという存在をこの目で見たことが一度もない。あたしは親戚であるミチおばさんの家にずっと住んでいて、それは気がついた時(あたしの記憶が始まっているあたり)からずっとそう。お父さんのことは更にわからない。ミチおばさんは時々お母さんの話はするけれどお父さんについては何も教えてくれないからあたしもなんか空気読んで聞かないし、同時にお母さんよりもお父さんって気にならない。ミチおばさんが話さないからかもしれないけれど何はともあれお母さんの話がしたい。

 お母さん。ああお母さん。あたしはずっとミチおばさんに育ててもらって、おばさんは結婚してないから二人暮らしで、前はおじいちゃんとおばあちゃんが住んでたらしい田舎のボロ屋で暮らしている。二人は家から車で三十分行ったところにある霊園で一生寝ていてあたしは仏壇でしか顔を見たことはない。違うお母さんの話。ミチおばさんがあたしを育ててくれているのは他でもないお母さんが赤ちゃんだったあたしをミチおばさんに預けてどこかに行っちゃったかららしい。五歳の頃に聞いた。むしろよく五歳で踏み切ったなって思う。理解できるか微妙だし死ぬまで黙ってるとかでも全然良かった気がするんだけどミチおばさんはそうしなかったし五歳の雲母ちゃんはあっそうなんやーって普通に納得してしまった。なんせまあミチおばさんとあたしって別に似てないからね。

 で、お母さんていう生き物が別にいるってあたしは五歳でわかってしまって、今は十六歳だ。十六歳。女子高生。まあまあ頭も働くようになってきたと自画自賛しているセーラー服の十六歳。

 十六歳で、夏で、高校は一ヶ月半くらい休みになって、暇と時間をあたしは手に入れてしまう。

 あーお母さん探せるかなってあたしは思う。思ってからすぐに動く。ミチおばさんっていうのは優しくって甘くって大体のものを食糧庫のクッキー缶の中に放り込んでどこにやったか忘れている杜撰な人で、あたしは十個くらいあったクッキー缶を開いて物色して目当ての情報を直ちに抜き取り家を出た。お母さんからの手紙だ。名前を教えてもらっていたから見つけるのは簡単だった、ありがとうミチおばさん! ありがとう記憶力のいいあたし!


 かんかん照りの夏の中を歩き回って、あたしはお母さんの居場所を見つける。お母さんは生きている。ボロボロの築三十年はありそうな汚いアパートの一室に住んでいる。ミチおばさんの家からは遠くない。でも暑い。あたしはアパートの裏手に回って影の中に滑り込んで、一階にあるお母さんの部屋を覗き込む。お母さんは大体予想通りの生活をしている。部屋の中は狭くて汚くて荒れている。昼間の今はお母さんの姿はない。染みのついたシャツが部屋の中に干してある。そのシャツがゆらゆらと揺れる。びっくりしてさっと隠れる。いないと思ったけどやっぱりいたのかな。確かめておこう。ていうかいるなら普通に訪問して普通にわけを話して普通に部屋に入れて貰えばいいのかって思ってもう一回窓の中を覗き込む。

 あたしと目が合ったのは黒色だった。いや黄色、金色? 黒い毛並みの、金の目の動物。

 黒猫。赤い首輪をした、可愛い猫。にゃあ、と高い声で鳴きながらあたしのことをじっと見上げてそこにいる。あたしは返事する。あんたお母さんに買われてるの。黒猫は首を傾けて、にゃあ。そうなんだ。にゃあ。いつからいるの。にゃあー。お母さんのこと、好き?

 猫はぷいと顔を背けて部屋の奥に歩いていってしまう。鈴の音が真っ黒な影を追い掛けるようにチリチリ鳴る。あたしは身を乗り出して覗くけど暗がりに行ってしまった黒猫の姿はもう見えない。杜撰な、ミチおばさんと姉妹なんだなって納得できるくらい杜撰な部屋を、あたしは汗を垂らしながらしばらくじっと見つめていた。そこにある生活の匂いに憧れてしまっていた。


 お母さんのアパートに行くのが日課になった。夏休みだし時間あるし暇だし歩いていけるし、通い詰めた。黒猫はいつもいた。窓から覗くあたしの相手をする時もあれば、畳んでいない洗濯物の上でゴロゴロしている時もあった。お母さんは大体いない。仕事のお休みとかないのかな? って思ってたけど、どうも夜勤の仕事をしていて、職場はそこそこ遠くて、あたしが行く時間帯は職場から帰ってきている途中とかで、まあなんせタイミングが良くなかったみたい。

 一週間経って気が付いた。畳んでいない洗濯物だと思っていた衣類の山はお母さんの寝ている布団で、黒猫は洗濯物じゃなくてお母さんの上に乗っかってゴロゴロ甘えているんだってことに気が付いた。

 気が付いた瞬間に影を飛び出して玄関に回り込んでインターホンを押した。はじめは全然出てこなくて諦めればいいんだけどそんなことしたくないしできないし何回も何回も鳴らした。そうしたらお母さんが出てきた。めちゃくちゃ眠そうな顔で髪の毛はぼさぼさで目の下に隈があって焦点があってなくてあたしのことまともに見てなくて、チリチリって鈴の音がしたから足元を見ると黒猫がよお来たのかって顔でにゃあんって鳴いて、お母さんもそっちを見てあかんよ外出たら〜って夏もびっくりの湿度の高い声で言って、あたしはお母さんの頭を殴った。植木鉢で。玄関の近くに鈍器にしていい具合に置いてあったから掴んで振り上げて殴った。お母さんは倒れて、黒猫は部屋の奥に走って引っ込んでいって、あたしは倒れたお母さんを部屋の中に引き摺り込んで扉を閉めた。

 あーめちゃくちゃやっちゃったなとあたしは思う。お母さんは一応死んでないみたいで、なにかしら呻いていたからもう一回殴る。ぐげ、って悲鳴をあげる。ほんとにそんな悲鳴存在するんだってあたしは感心してからお母さん、お母さんさあ、あたしのことは産んだあとすぐ捨てたのにあの黒猫のことはどろどろに可愛がってここで仲良く暮らしてあたしに会いに来たりもしないんだって恨み言を言ってみるけどお母さんはもう動かない。どこかで鈴の音がする。立ち上がって歩いていくと黒猫がどこからともなく現れて、捕まえようとするとぴょんと飛んで机の上に乗り上げる。机にはノートがあった。食べ物の汚れっぽい黄色いシミがついていて汚かった。ていうかこのアパートってペットとか飼っていいわけ? あたしは多分もう一生動かないお母さんに向けて聞きながら、なんとなくノートに手を伸ばして適当なところをぱらりと開く。それは日記だった。お母さんの書いた文字はものすごく汚かった。でもひらがなのさ行があたしの書く文字にちょっと似ていた。こんなところ似ててどうすんだよ。あたしは誰かに──猫に? 話し掛けながら更にページを捲った。ミチ。こどもに会わせてくれない。家に行ったら殴られた。あの子はもう高校生。せめて近くに住みたい。偶にこっそり見に行ってる。セーラー服がかわいい。顔はわたしを強姦した男に似ているけどそれでもわたしのたったひとりのこどもだからいつか一緒に住みたい。うつ病もよくなった。ミチにもそう言っているのにどうして、どうして……。

 ここでノートを閉じようとした。でもあたしの目は黒猫という単語を拾い上げてあたしの指先はページを開いた。

 黒猫を飼い始めた。名前はあの子と同じ名前にした。毎日名前を呼んで大事に育てている。

 いつか雲母と暮らすためにもっと頑張らなきゃ。


 鈴の音がする。顔を上げると猫の雲母が寄って来る。部屋の中は蒸し暑い。お母さんは動かない。あたしは雲母を抱き上げて、うずくまりながらどうしようってどうしようもないことを呻いてこれからどうしようって話し掛けるけどにゃあんとしか言われない。

 猫の声がするんですけどって怒った声が外から聞こえて、扉がガンガン叩かれるけどうずくまったまま動けない。



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