熱情ソナタ

増田朋美

熱情ソナタ

今日も暑い日だった。そんな暑い日では、もうだめなんじゃないかと思われるくらい暑い日だった。それでも看病というものは、一年中やってるわけで、今日も杉ちゃんは水穂さんにご飯を食べさせようと奮戦力投しているところであった。のだが、

「こんにちは。ちょっと相談があって、こさせてもらったんだけど。」

と、浜島咲が、製鉄所にやってきた。

「こんな暑いときに、一体何の相談だよ。まあ暑いから、入れ。」

と、杉ちゃんが言うと、浜島咲は、ほら一緒に入って、と、一人の女性と一緒に部屋に入ってきた。

「誰ですかこの女性。」

杉ちゃんがそう聞いた。確かに今まで製鉄所にやってきた女性とはちょっと様子が違っている。容姿とか、そういうことではなくて、なんだか魂の抜け殻というか、そんなふうに呆然としている女性だった。

「えーと、名前は小宮山寿子さんです。家族は、息子さんの小宮山博くんと、娘さんの小宮山由美ちゃんと三人暮らし。」

と、咲は女性を紹介した。

「小宮山寿子ね。息子さんと娘さんはいくつなの?」

杉ちゃんが聞くと、

「ええ、息子は18歳で、娘は13歳。」

「一番難しいといわれる年頃ですね。」

と、水穂さんが言った。

「それで、今日は何を相談にいらしたんですか?」

「実は、息子が、大学受験に落ちてしまいまして、それから、力が抜けきった様な生活をするようになってしまいまして。私が、受験のときに舞い上がってしまったのが行けないなとは思うのですが、なんとかして立ち直っていただきたくて。」

小宮山寿子さんは申し訳無さそうに言った。

「そうですか。それはいけませんな。息子さんのことを受験で追い詰めて、結局呆然とさせてしまったんですか。それは、やっぱり、親の責任というか、なにか居場所を作ってあげるとか、そういう事をしてあげるのは、親の義務だぜ。」

杉ちゃんが言うと、彼女はわっと泣き出してしまった。

「お前さんが泣いちゃ困るでしょ。息子さんを助けてやれるのは、お前さんだけだぜ。それで、今の家の状態を教えてよ。」

「はい。博は、東大に行けると思われていたんですが、私が、舞い上がって、いろんな塾にいかせたり、家庭教師つけたりして、結局受験できなくて。それで、結局高校は卒業したんですけど、それ以降何もしない生活になってしまいして。娘は、そういう一部始終を全部見ていますから、お兄ちゃんとは、違う道を行くんだって言い出して、それまで習っていたピアノに精を出して、挙げ句の果てに音大を受験するんだって言い出して。もう家はめちゃくちゃで、どうしようもなくなっていて。」

小宮山寿子さんは、涙をこぼしていった。

「お前さんがそんなことでどうするんだ。なにか、息子の博くんに居場所を作ってあげないとね。」

杉ちゃんが言うと、

「妹さんが、ピアノを習っているというと、音楽のお好きな家庭だったんですか?」

と、水穂さんが言った。

「ええ。昔は、博も由美も、二人でピアノを習いに行ったものです。もちろん、受験があるからと言って、やめさせましたけど。」

小宮山寿子さんは、小さな声で言った。

「それなら、音楽をまた習わせてみるのも立ち直る一つの手段なのかもしれないですよ。僕は、身分を無視して音楽をというのはあまり好きではありませんが、今回は家以外の居場所を作ることが必要だと思いますので、音楽習わせてあげることは、良い手段だと思います。」

水穂さんが優しく彼女に言うと、

「でも、ピアノを習わせるとなると、由美が楽器を譲らないでしょうし、それにピアノを習うというのはお金もかかると思いますし。」

小宮山さんは不安そうに言った。

「そうですね。それなら古筝を習わせたらいいじゃないか。あれなら普及していない楽器だし、演る人も少ないし、楽器も中古で安く買えるよ。」

「古筝ですか?」

小宮山さんは、急いで言った。

「それはどういう楽器でしょうか?」

「ええ。いわゆる琴の先祖に当たる、古楽器ですよね。奈良時代に成立したとされる楽器です。演奏もさほど難しくありませんし、杉ちゃんの言う通り、ネットオークションで1000円とかで出品されていることもあります。絃数は21絃。金属でできていますので、琴とはまた違う明るい音色が得られると思います。もし、不安であれば、オークションの画面を出してみたらいかがですか?」

水穂さんがそう言ったので、彼女は、タブレットを出して、ネットオークションの画面を開いた。そして、検索欄に古筝と出してみる。

「あ、ホントだ。千円で買えるんですね。本当にこれ使えるのでしょうか?」

「まあ、絃さえ切れていないで、柱があれば、音はなるでしょう。それとあと、爪と爪を貼る医療用の紙テープがあれば古筝は弾けますよ。問題は、教室ですけど、確か、楽器屋さんに、古筝教室があったはずです。それを聞いてみたらいかがですか?」

水穂さんは、話を続けたが、杉ちゃんが割り込んで、

「いや。こういうときは人づてのほうが速い。確かね、カールさんのお客さんで、古筝教室やっている男が居るから、そいつに申し込ませよう。」

と言った。

「そんなところあるんですか?」

水穂さんがそう言うと、

「ああ。もし可能であればカールさんの店に行って見たら?」

杉ちゃんは即答した。多分杉ちゃんの言うことだから、文字を書いて記録することができない分、正確に覚えていられるのだろう。

「それならそうしたほうがいいわ。杉ちゃんぜひ、カールさんの店に行って、聞いてきてよ。彼女が、このままじゃ可哀想よ。息子さんどころか、娘さんにも罵倒されているんですってよ。」

咲は、杉ちゃんの話にすぐわって入った。

「あたしがタクシーの予約するわ。だからタクシーの番号を。」

そう言って浜島咲は、スマートフォンでカールさんの店に電話した。電話に出たカールおじさんに、古筝教室をやっているお客さんはいるかと聞くと、カールさんは、店にチラシが置いてあるので、それを画像として送ってくれると言った。最近は、店まで取りに行かなくてもいいから、本当にそれは便利である。数分後に咲のスマートフォンに、画像付きのメールが送られてきた。その画像にはちゃんと、岡部古筝教室と書いてあるのだった。レッスン可能時間は、午前でも午後でもいいという。住所は、富士市の厚原というところにあるらしい。申込みは電話でと書いてあったので、小宮山寿子は、電話をして見ると言った。

それから数日が経って、杉ちゃんのもとに、メールが届いた。水穂さんが代読すると、小宮山博くんは、古筝を習い始めたという。その明るい音色が、博くんの感性にあったらしく、ずっと博くんは古筝の練習をしているということだった。それが将来の何になるのかということはまだ分からないが、博くんにとって居場所ができたということは、まず第一関門を突破したことになる。杉ちゃんも水穂さんも、良かった良かったと笑いあった。

それから更に何日か経って、杉ちゃんたちは、また水穂さんの世話をしていた。水穂さんに一生懸命ご飯をあげようとしていると、玄関先でジョチさんが、

「あなたはその風貌から見ると、富士中学校ですね。こんな時間なら、まだ学校に行っている時間だと思うのですが、一体どうしたんですか。何かあったんでしょうか?」

と、言っている声が聞こえてくる。

「こんな暑いのに、一体ここで何をしていらっしゃるんですか。あなた、こちらになにか御用でしょうか?」

ジョチさんがそう言うと、

「はい。こちらに右城水穂先生はいらっしゃるでしょうか?」

と、女性がそう言っているのが聞こえてきた。

「水穂さんに何のようだ?」

と、杉ちゃんは言った。

「とりあえず、外でずっといたら間違いなく熱射病になってしまうでしょう。中に入りなさい。水穂さんなら確かに中にいますから。」

ジョチさんはそう言って、玄関の引き戸を開けた。

「ありがとうございます。お邪魔します。」

と言って女性というか、もしかしたら少女という方がいいのかもしれないが、彼女は製鉄所の中に入った。

「なんか、古民家みたいな作りですね。段差は何も無いけど、本当に古い昔の良き時代の、和風の建物のように見える。こんなにたくさん部屋があるなんて、利用者さんはいっぱいいるのですか?」

と言いながら、彼女は、長い廊下を歩いて四畳半にやってきた。

「はじめまして。私、小宮山由美と申します。右城水穂先生ですね。ぜひ、私にレッスンしていただけないでしょうか?よろしくお願いします。」

そういう彼女は何処か自分を売り込もうとしている雰囲気があった。よく女を武器に、芸能関係の偉い人を陥れることで、芸能人としてデビューした人が居るが、それと同じ様な感じだった。

「レッスンて何をだよ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「はい。もちろんピアノのレッスンです。ちゃんと練習もしてきましたし、指定テンポで弾けるようになってます。私、高校出たら、音楽大学を受験しようと考えていて。そうするためには音大の先生に習うことが必要でしょう。だから、ぜひ、先生にレッスンを受けたいんです。」

由美さんはそう言ってベートーベンのソナタ集をちらりと見せた。

「で、レッスンの曲は何にするつもりなんだ?」

と杉ちゃんが聞くと、

「はい。熱情ソナタです。一応、弾けるようにしてきましたから、あとは音楽的なこととか、そういう事を、ちゃんと見てください。だめなことはどんどん指摘してください。私はいつも学校の先生に怒鳴られているから、そういう事は平気です。」

と由美さんは言った。

「そうですね。確かに授業をやっている時間に抜け出してこっちに来るっていうのが、ホントにやる気があるんだなと思うけど、でもねえ。そういう人にレッスンするわけには。ちゃんと、学校にいかなくちゃ。中学校は、義務教育でもあるわけだからねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「だったら、兄はどういうことでしょうか。学校にも、仕事にもいかないでずっと古筝ばかり弾いて。だったら私も、学校にいかなくてもいいですよね。だって私も、音楽を勉強したいという意思がありますしね。」

由美さんは言った。

「うーんそうですね。確かにお兄さんは特別だと言うことはできません。そういうことなら、一度熱情ソナタを聞いてみましょうか。」

と、水穂さんはそう言って、彼女に椅子に座るように言った。わかりましたと言って、由美さんは、ピアノを弾き始めた。確かに、ベートベンらしい激しい音楽ではあり、なんだか弾いているというより叩きつけている様なそんな演奏であった。もちろん若いということもあると思うけど、それだけでは無いような気がする。

「そうですね。」

と、水穂さんは第三楽章が終わると、静かに言った。

「確かに正確に弾けてはいますけど、生活に余裕が無いということが、感じられます。もう少し弾く側が余裕があったほうが、聴衆は安心して聞くことができるはずです。」

「そうですか。そのためにはどうすれば?」

由美さんは、そう聞いた。

「あたし、なんでもしますから、仰ってください。コンクールに出て見ろ言うんだったら出ます。新しいピアノを買ってくれというのなら、親に反抗して要求を押し通します。」

「由美さん、そういうことではありません。まず初めに、由美さんが、精神状態が不安定で有ることをちゃんと、伝えなければなりません。この演奏では、とても聴衆には聞かせられない。それくらい、酷いです。だから、もう少し、あなたの精神状態を、穏やかにすることが一番なんです。それをご両親に打ち明けることはできませんか?」

水穂さんは、優しく由美さんに言った。

「そんな事、うちの家族にできるようなことではありませんよ。家族は、みんな疲弊してしまっていて、疲れてしまっている状態なんです。それでは、もう私が私の意思で、やっていくしか無いじゃありませんか。」

由美さんは、そういうのであるが、

「でも、学生さんというのは、ご家族の庇護が無いと、生きていけませんよね。それではある程度家庭環境とか、そういうものを受け入れる必要があると思いますよ。それを認めるのもまた大人になることへのステップなんじゃないかな。もちろん自分の夢もあるんでしょうけど、生きていくということは、自分の意志を押し通すよりも、周りの人に妥協して、こうなんだと受け入れなければいけないことのほうが圧倒的に多いですよ。」

ジョチさんは若い彼女に言った。

「それでも、あたしは、あたしの夢というか、目標を追いかけていきたいです。兄のように、母にベタベタに可愛がられて、もう受験のために、何でもしようと言う態度を取られるとは、私は、嫌なんです。だったら、自分の意志で自分の歩く道を作りたいと思いました。それはいけませんか?」

由美さんは、小さな声で言った。

「そうですねえ。そこまで意志の強いことは立派です。ですが、強すぎる意志は返って体に異常をきたすこともあります。それは、いけないことではないですけれど、体を壊してしまったら何もなりません。そこは覚えておかないと。」

水穂さんが優しく言うと、

「でも私は、兄のようにはなりたくない。私は、私の意志で音楽学校に行きたいと思っているのに、なんで、今さら体を壊すなんてそんな事。年寄りじゃないんですし、私は、そんなに病弱な人間でもありませんし、虚弱体質でもありませんよ。」

由美さんは一生懸命言った。

「そうかも知れないけれど、水穂さんを見てくれれば、大変だと言う事もわかると思うけどね。確かに、お兄さんは、受験をすることで、たいへんだったと思うが、それと同時に、心が不安定になって、今はつらい状態でもあるんでしょ。いいか、人の幸せなんてね、意外に単純なことでもあるんだよ。こうやって、ご飯を食べられないで、げっそり痩せてしまっているやつも居るんだからさ。それは本当に、つらいことでもあるんだぜ。今は御飯食べることができるから、そうやって、夢もできるし、願望も持てるわけだ。それが、どれだけ贅沢なことか、お前さんにわかるか?」

杉ちゃんは、でかい声で言った。

「まあ確かに、誰か人生に失敗した人が居ると、そのようにはなりたくないって言うことで、自分の夢にはしる人は多いですけどね。特に女性はそうなりやすいでしょう。」

ジョチさんは、大きなため息を付いた。

「まあ、それはしょうがないとは思いますが、きっと何処かで自分の意志を貫こうとすることはできないってことはわかると思います。それがわかったときのショックに耐えられるかということはまた別問題ですが、そうなったらそうなったで、前の話をせずに、治療に持っていけるかが鍵ですね。ご家族は本当に難しいと思いますけどね。そこで、彼女をどうやって、止められるかが鍵だと思います。」

ジョチさんは、しっかりと言った。

「まあ彼女は、そういう事になってしまうと思いますが、でも彼女の意志を僕たちが止める権限も無いということもありますからね。とりあえず今日は、レッスンしてあげましょう。とりあえず、まずは、タッチが荒々しすぎますからそこをなおしましょうね。じゃあ、もう一度第1楽章から、弾いてみてください。」

水穂さんは、静かに言って、もう一度彼女に弾くように促した。彼女、小宮山由美さんは、わかりましたと言って、ピアノを弾き始めた。やはり叩きつけるような、そんな演奏であることは間違いなかったけど、彼女は一生懸命ピアノを弾いていた。

「あーあ、相変わらず、汚い音だし、なんか音大へ行けそうな感じではなさそうだけどねえ。」

と、杉ちゃんが言うと、

「そうかも知れませんが、今は、彼女のそばに居ることにしてあげましょう。そうしてあげたほうが、彼女も安定するのではないかと思います。」

ジョチさんはそういった。相変わらず、彼女はけたたましい音でソナタ熱情を弾いているけれど、なんだかピアノが壊れてしまいそうな演奏でもあった。

「おいおい、グロトリアンのピアノを壊さないでくれよ。ピアノは、サンドバックじゃないんだぞ。」

と、杉ちゃんが言うのであるが、そんな事、全然無視して彼女は弾き続けるのである。

「本当にこれで大丈夫なんだろうか?」

と杉ちゃんはきくが、水穂さんは、何も言わなかった。

「ええ。そうですね。まず初めに、音のバランスを考えましょう。右手の小指の音をしっかり考えてください。それから、左手の音は、もう少し、音量を落としてください。それでもう一度第1楽章を弾いてみてくれますか。」

と、水穂さんはすぐに言った。しかし、小宮山由美さんはひこうとしないで泣き出してしまうのだった。

「どうしたんだよ。またなにかあったのか?」

と、杉ちゃんが言うと、

「だって私は、こんな事をしてもらうような身分じゃないってことは、わかってたから。すぐに追い出されるかなと思っていたんですけど。先生の様な高名な人が、私にレッスンしてくれるなんてありえないじゃないですか。右城先生は、そういう人じゃないって、ちゃんとわかってたから。」

と、小宮山由美さんは言った。

「でも、あなたは言ったじゃないですか。自分の意志をお兄さんに負けないように貫いてみたいって。それを、僕はお手伝いしているだけです。それでは、いけないんですか?」

水穂さんは、そういったのであった。

「じゃあそのまま、第1楽章を続けましょう。けたたましい音色では、曲になりません。それをもう少し、音楽として、やっていけるようにしなければね。」

水穂さんがそう言うと、小宮山さんはにこやかに笑ってピアノを弾き始めたのであった。それが、本当にきれいな音では無いが、それでも、彼女はピアノを引き続けるのだった。

外はすごく暑かった。太陽がギラギラしていて、正しく夏というべきだった。でも、夏の暑さよりも、人の心というものは更に暑くなるのだろうなと思った。そういう事は、いつの時代も変わらないのであった。

夏の日差しは、いつまでも地面を照りつけていた。



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熱情ソナタ 増田朋美 @masubuchi4996

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