後編
講義を入れていない火曜日の三限を、私は同じ時間割を組む友達三人で過ごす。学部棟には、どの時間もいくつか空き教室があるので、雑談する場所には困らない。
「そういえば最近、
まぁね、とだけ言って笑う。フルネームで呼ぶところに、他人、というニュアンスを感じた。半年前まで、私は事あるごとに花耶の話を仲の良い友達にしていた。周りがアイドルの話や、サークルにいるかっこいい先輩の話をするのと同じような感覚だったと思う。しかし、木曜日の関係が始まってからは、無意識にも意識的にも、花耶の話をする機会が減っている。彼氏と別れて、同性と身体の関係を持ち続けているなんてことは、知られたくない。
花耶と関係を持ってから、彼氏と破局するまではすぐだった。他人には言いにくいことだが、セックスの快楽を知ってしまうと、惰性で交際している男性との行為は苦痛でしかない。「こういうものなのだ」という諦めが消えてしまったのだ。
時々、花耶への感情は恋愛なのか、と考えることがある。これは、同性愛ということなのだろうか、と。でも、それは少し違うと思っている。いわば、推しの範囲が拡張されたのだ。花耶のことを推している気持ちに変わりはない。今はそこに、自分の存在が混じり込んでいる。彩都という異性愛者として生きてきた女子大生を、性の快楽に誘った花耶。性と食の交換関係。お互いに足りないものを提供し合う関係。その絵もまた、私にとっての理想の絵なのだ。
「そういえばあの人、レズらしいね」
「それ、私も聞いた。男の人といるの見たことないし、確かにそれっぽいよね」
以前、花耶にレズビアンであることを隠しているのかと尋ねたことがある。その時の花耶の答えは、「隠してもないけど、わざわざ話したりはしないよ」というものだった。やはり気付かれてしまうのだな、とぼんやりと思う。
「いや、私聞いたんだよね。サークルに同性愛公言してる女の子がいるんだけど、そのコと付き合ってるっぽい」
曰く、その女の子と花耶は一年前にいわゆるレズビアンバーで出会い、同じ大学という共通点から仲を深めるに至ったらしい。サークルの夏合宿で泥酔した際、本人がそう話したのだと言う。でもそれは、幸せ自慢というよりは不幸自慢、あるいは辛い恋の吐露だったようだ。
「火曜の晩しか会ってくんないんだってさ」
「それ、月曜のオンナとか、木曜のオンナもいるやつじゃないの」
二人が笑っている中、私だけが笑えない。木曜のオンナという名札を付けた女性型のマネキンが絵の中に入り込み、ホログラムのように見た目を変えていく。その姿が私になった時、私は堪え切れずにトイレに向かった。
火曜日の晩、花耶の部屋を訪ねてみようかと考えたが、結局しなかった。それを見てどうするのか、自分でもわからなかった。花耶という絵に、また一つ、塗りが重ねられる。曜日ごとに相手をとっかえひっかえしているかもしれない女。そうあるべきだ。その一筆はごく自然に溶け込んでいた。でもそれは、私達の絵には馴染まない。
花耶は麺類を食べるのが下手なのか、いつもとは違い、冷やし中華の麺を数本ずつ口に運んでいる。
「どうしたの、今日。なんか変じゃない?」
ごちそうさまと手を合わせると、花耶は私に尋ねた。いつも通りに振る舞おうとしても、相槌を打とうとしても、喉が全く開かなかった。花耶は不思議そうにしていたが、私の額にキスをして、食器を片付け始めた。花耶が洗い物を手伝うのは珍しいことだ。
あのさ、と切り出した声は思ったよりも大きく出た。
「木曜日以外って何してるの?」
「適当だよ。『いつも何してる?』って急に聞かれると、意外と答えるの難しいよね」
何も考えずに生きてるからなぁと笑う花耶の姿が、今はとてもわざとらしく見える。
「付き合ってる人がいるって聞いた」
「誰に?」
「花耶に」
「いないよ」
花耶の表情は変わらない。
「火曜日にしか会ってもらえないコがいるって」
返事がない。一瞬だけ目線を斜め上に向けると、皿を洗い始める。私も黙って、キッチンとリビングを隔てるドアの前に立ち尽くす。
「ていうかさ」
いつもより密度の高い声が花耶の口から出る。
「彩都とは付き合ってるわけじゃないでしょ。私と彩都は、木曜日の夜を楽しく過ごせたら、あとは何でもいいんじゃないの」
付き合っているわけじゃないという言葉が頭の中で反響する。そうだ、付き合っているわけじゃない。
「私は切り取られた時間が好きなの。一つ一つバラバラに完璧な時間を作りたいだけ。綺麗な一つのストーリーを作れるほど、器用じゃない」
言葉が出てこない。
「私達は木曜日の夜の世界が幸せ。外の世界のことはどうでもいいでしょ」
絵だ。直感的に思う。花耶も、この人も、私との世界を絵で見ているのだ。例えではなく、本当に、木曜日の夜を一枚の絵として見ている。何枚かあるうちの、一枚の絵。
「私はどうしたらいいの」
意味のない問いだと思った。でも、言わずにはいられなかった。
「嫌ならもう終わりでいいよ」
花耶がちゃぶ台を撫でる。歪んだ表面の電球に照らされて、冷やし中華のたれに張った油膜がテラテラと光っている。。
「私は悲しいけどね」
次の木曜日がやってきた。心の中は沸騰しているんだか、大津波なんだかわからないような状態なのに、当たり前のように花耶の部屋に来ていた。会ってくれないかもしれないと思ったが、「いらっしゃい」とすんなり迎え入れられた。
「この間はごめんね」
「なんだっけ?」
「怒っちゃったやつ」
「あー。全然いいよ。わかってくれてよかった」
先週のことは、たったそれだけのことで終わった。花耶の中で、私が謝ったということは、私が納得したということと同義なようだった。一定のペースで冷しゃぶをつまむ花耶は本当にそれ以上気にしていないようで、私は自分の感情をどんな風に評価したらよいのかわからなかった。でも私が推していたのは、他人に申し訳なさそうにするような人間でないことはわかっていた。
いつも通りの木曜日だ。花耶はいつもより深く、私を抱いた。あまりの快楽に私は涙をこぼし、初めて花耶に抱かれた日を思い出した。
花耶の方に身体を向ける。裸の背中が規則的に上下している。
推しに触れることで何かを変えてしまいたくないと思っていた。花耶の完全な均衡を崩したくない。でも、触れても花耶は何も変わらなかった。花耶に触れて変わったのは、私だった。花耶は理想の絵画であり続けているのに、私はそれを自分の部屋に飾りたくなってしまった。美術館に飾られていたら独占したくなるし、売りに出ても資金が足りなければ仕組みを恨んでしまう。今の花耶はもう、独立した存在ではなく、周囲のあらゆるものと結合し始めていた。そして花耶は完璧でも、それらは完璧でない。
「もう会うのやめようかな」
私は呟く。うっすら汗ばんだ背中は月の光を青白く、弱々しく跳ね返している。「寝入るとなかなか起きない」のと「面倒事は狸寝入りでごまかす」のと、どちらが解釈一致だろうか。どんな解釈の中でも、花耶は私を引き留めてくれない。
木曜日のごはん、推しのあなた ぬ @nu_sousaku
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