木曜日のごはん、推しのあなた

前編

 炊飯器の蓋を開ける。眼前にぶわっと湯気が広がり、鶏肉の匂いに気道が満たされる。追いかけるようにして、油揚げ、こんにゃく、ごぼうの匂い。

 和、洋、中、それからエスニック。何でも作れるし、何でも好きだ。でも、キッチンに充満する香り、という点で考えると和食が一番だと思っている。洋食や中華料理を作った後の(とりわけあまり計画性を持たずに作った後の)、どことなく脂ぎった、雑然とした匂いが私はあまり好きでない。

 茶碗に炊き込みごはんを盛り付けていると、キッチンとリビングを隔てるドアが開き、花耶かやが顔を出した。花耶はいつの間にか着替えていて、タンクトップにショートパンツというリラックススタイルだ。オレンジと水色と白。派手なマルチボーダーがよく似合っている。

「おー、おいしそう。持って行っていい?」

 ハスキーな低めの声は、雑多な音の充満するキッチンの中では頼りない。しかし、私はその声が好きだ。そして、そうでない声を出す花耶なんて見たくないと思う。他人に聞こえるように声を張る花耶なんて見たくないのだ。

 ちゃぶ台の上に料理を並べ終えると、「いただきまーす」と間延びした声を出した花耶が箸を動かし始めた。一人暮らしのワンルームには大き過ぎるちゃぶ台は、花耶が一目惚れで買ったものらしい。本当に気に入ったものしか使わない主義の花耶の部屋にはいくつもの不便があって、心許ない裸電球に頼った照明もそうだ。間接照明のようで雰囲気があると言えば聞こえはいいが、実生活としては光量が明らかに足りていない。

 健康診断では「痩せすぎ」と言われてしまうであろう花耶は、そんな照明の下ではなおさら肉が足りなく見える。陰影のせいだ。花耶は繊細な身体に見合わない大きな一口で炊き込みごはんを頬張り、時々、うんうんと納得したように頷く。

「夏なんだから、もっとさっぱりしたものにしたらよかったね。冷やし中華とか」

「いや、これ乗っけたら夏っぽいから平気。でも来週は冷やし中華食べたい」

 花耶は、薬味用に刻んだミョウガと大葉をひょいひょい茶碗に移す。少しでも爽やかな風味にするための工夫に気づいてもらえて、私は微笑んだ。

 来週は冷やし中華。私はメモを残した。

 毎週木曜日、私は花耶に夕飯を作ってあげる。

 

 葉桜の並ぶキャンパスで一目見た時から、花耶は私の推しになった。とはいっても、私も推しなんて言葉を使い始めたのは花耶に出会ってからで、どういう感覚なのかをまだうまく言葉にはできない。「カジュアルな神聖視」というのが一番しっくりくるだろうか。

 まずは見た目だった。お世辞にも健康的とは言えない瘦せ細った身体は夏でも真っ白。肩につかない長さのばさついたボブカット。吊り上がるようにメイクされたアイライン。耳、手首、指に光るシルバーアクセ。今までに好きなタイプを聞かれて、これらの特徴を挙げたことはない。そもそも、私は異性愛者、最近知った言葉で言えばヘテロセクシャルであったので、好きな女性のタイプなんて考えたこともなかった。

 あの、目を離せなくなる感覚をどう説明したらよいか。それは理想の絵を見つけた時のような感覚に近いのかもしれない。細部まで緻密に描き込まれた指先に驚嘆したかと思えば、驚くほど簡素に描かれた風景に心を動かされる。どんな青もどんな灰色も、どんな対象も、「そうあるべきだ」と私が思うような形になっている。それから私は、花耶の姿を見つけると、朝の占いで一位をとったような気分を何倍かに増幅したような心持ちになったのだ。

 推しに対する感情は、「できるだけ近くで見ていたい」と「触れて何かを変えることはしたくない」が混じっている。だから私は、そんな一方的な感情を向けながらも、花耶と友人になりたいとは思っていなかった。


「同じ大学だよね?」

 飲み会の帰り、駅の改札前で声をかけられた。花耶だった。返事ができずにいると、「あれ、違う?」と花耶は形のいい眉を顰めた。私が初めて花耶の声を聞いたのは、その時だ。雑踏の中でかき消されそうな薄い声だった。戸惑いを抑え込んで頷くと、花耶は「よかった」と笑った。 

「私、ドタキャンされちゃったんだけど、もしよかったらちょっと付き合ってくれない?」

 触れて何かを変えることはしたくない。でも、言葉を交わすことなんてないだろうと思っていた女性に誘われて、断れる程理性的ではなかった。

 花耶に連れられて入ったのは、雑居ビルの三階にあるバーだった。カウンター席が六席とテーブル席が三組。私達は一番端の席に座った。花耶が何をオーダーしていたかは思い出せないが、私は聞きかじった知識でジントニックを注文した。

「私のこと、いつも見てくれてるでしょ」

 頭から冷水をかけられたような感覚に襲われる私に、花耶がスマホを渡した。彼女のSNSアカウントが表示されていた。

「私のつまんない投稿にいっつもハートマークつけてくれるから、さすがに気になっちゃって。そしたら同じ大学だったから」

 SNSのことだとわかり、私はほっとした。そして、確かに面白いとは言えない花耶のSNS投稿を思い浮かべた。おしゃれなカフェの写真が挙がるでも、友達と仲良く撮った写真が挙がるでもなく、思い出したように時々、月やら植物の写真が投稿されるのだ。

 花耶は私のアカウントの投稿も時々見てくれていたらしく、料理の出来をプロ並みだと褒めてくれた。普段、無表情にキャンパスを歩く姿しか知らなかった私は、花耶が微笑んだり、私を褒めたりする姿を見て、孤高だと思ってた野良猫が商店街で餌をもらっているところを見たような気持ちになっていた。

「彼氏の写真も見たよ」

 浮遊感にも似た感情が、僅かに損なわれるのがわかった。花耶が言っているのは、彼を喜ばせるために一日だけ公開して、すぐに消した投稿のことだろう。どこか気まずくて、「恥ずかしいからやめて」と笑った。花耶はやや考え込むようにして、私の目を覗き込んだ。

「別れそう」

 花耶は笑っているというより、唇の端を持ち上げているだけのような顔で言った。

「そう思う?」

「男に満足してないコはだいたいそういう顔してる」

 なにそれ、とまた笑った。図星だった。大学一年生の夏に告白されて付き合い始め、特段の不満もなく付き合い続けていた。ただ、特段の不満もない、というだけだった。でもそれは、相手も同じだったのではないだろうか、と思う。偏見かもしれないが、男性の性欲というのは、長く一人の女性を愛することに向いていないのではないか。ただ、私に特別な不満がないから、手放すのが惜しくて別れずにいるのではないか。

「花耶は彼氏いないの?」

 私は話題を逸らすように尋ねた。

「いないよ。私、レズだから。彩都は結構タイプ」

 すぐには言葉が出てこなかった。でも、男性の隣を歩く花耶よりも、女性と腕を組んでいる花耶の方が、私の理想の絵にはすんなりと馴染んでいた。背の低い、幼げな女の子の手を引く花耶も素敵だ。花耶と同じようなスレンダーな女性と二人並んで歩いているのも良い。

 私だったらどうだろうか。私がその絵に入っていたら。

 花耶の吊り上がった目が、私を見ている。

彩都さとも私のこと結構タイプでしょ」

 何も言えなかった。気が付いたら花耶の顔がすぐそばにあって、唇に柔らかい感触が伝わっていた。花耶との初めてのキスは、蒸留酒らしい味がして、冷たかった。

「明日の朝ごはん、作ってよ」 

 

 その後のことは、実はよく覚えていない。「緊張するから」と言って飲み過ぎてしまい、記憶があやふやなところもあった。確実なのは、私を初めて絶頂に導いたのは、花耶だったということだ。自分の制御を失ったような感覚も、朝起きても体の中心から気怠さが引かない感覚も、全てが初めてだった。

 翌朝の朝食は、具なしの味噌汁と、卵焼きだけだった。冷蔵庫はほとんどからっぽだったのだ。それでも、花耶は「夢の朝食」と言って食べていた。

「また作ってあげる」

「じゃあ、毎週木曜日にしよう」

 帰り際の玄関で、花耶に抱きしめられた。背中の上を服越しに指が通り抜けて、身体の中がぞわっと沸き立った。「おいしいごはんと最高の夜の日ね」と花耶は笑っていた。


 ベッドの中に横たわり、壁を見つめる。あの日も、この時間が落ち着かなかったことを思い出す。脳が背後の気配を常に探っている。

 キィと中途半端な音程の音が鳴った。部屋のドアが立てる音。タバコの煙を吐き出すときに似た、花耶の細長い吐息の音。ベッドが軋む音がして、背中を包み込むように抱きしめられる。風呂上がりのままタオルドライしかされていない髪が、首筋に触れて少し冷たい。 

 

 毎週木曜日、花耶は私を抱いてくれる。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る