01 - 04 打つ手なしか

 智八が消えた後、透子と聡子は特殊部隊の車両によって、自宅へ戻った。自宅で勤務先で連絡を受け、戻っていた父の努が二人を迎える。

「智八はどうした?」

 透子は質問に答えられず、早々に2階へと引き上げていく。

 その背中を見送った聡子が代わりに答える。

「説明するから、リビングに」

 リビングのテーブルに改まって座った努に、聡子は起こったことをすべてくまなく説明する。

 聡子は、自身が脅迫電話を受け取る前の出来事について、予め透子から聞き出していた。だから、そこの時系列も含めて、努に伝えることができた。脅迫電話で呼び出されたこと、呼び出した相手は『発症者』だったこと、最終的に一人息子の智八が『発症』し、脅迫してきた発症者を手にかけたこと。

 たった一日、数年分の経験をした気がする、と聡子は説明しながら感じていた。

 話を聞き終わった努は、しばらく頭を抱え、考え込んでしまう。

「智八は……生きているんだな?」

「えぇ。それは希望ね」

「どこが希望なんだ」

 努は怒りとも悲しみとも言えない、暗い表情を浮かべている。

「あいつがいつ暴走するかわからない。発症者とはいえ、すでに一つの命を奪っている。今のあいつにはそれができるっていうことだ。暴走すれば、何人の犠牲が出るか……。そんな存在、この国の公的機関が見過ごすと思うか? 例え、理性が保っているとしても、放っておくわけがない」

 口から大きな息を吐くと、天井を見上げ、瞼を閉じる。

「発症の原因がわからない以上、俺たちも同じになるかもしれない」

「SaOTの車両で検査を受けたわ。私たちは大丈夫」

「……君には釈迦に説法かもしれないが、あれは簡易的なものなのだろう? それに智八だって、発症に遭遇して、おそらく同じ検査を受けたはずだ。あいつの結果はどうだった? そして、今日、あいつはどうなった?」

 努は話しながら大きく腕を振り上げて、拳を強く握っていた。しかし、その拳を何処かに当てるということなく、諦めたように拳を開き、両膝の上に下ろす。開かれた目は天井に組み込まれている電灯に向けられている。その目に光は宿っていない。

「なぁ、やっぱり遺伝性なんじゃないか?」

「ない」

 聡子は即座に大きめの声で答える。

 その反応に努は思わず目を見開く。

「それに関しては、絶対にない」

「しかし、なぁ、母さん。あいつの親も」

「偶然よ。……ねぇ、昨日、智八が遭遇したOBR発症者についてなんだけど……」

「駅前で発症した子か」

「これはいろいろな伝手で聞いた話。あの子の両親は、別にOBR発症者ではなかったそうよ」

「そうか………………そうか」

 努は聡子の顔を眺める。長年連れ添った関係だから、微細な表情の変化に気付ける。彼女を一見すると冷たい感情を表に出している。しかし、眉間や口の端に、僅かに力が入っている。息子を案じている。そんな聡子が相手だから、努は感情を爆発させずに済んでいる。もしも、この話を一人で聞いていたら、今頃暴れて家具や壁などに当たっていたかもしれない。

「なぁ、母さんの開発している薬は完成するのか?」

「理論的には正しい、と思う。でも、治験が圧倒的に足りない。完成させたいけど……データが欲しい」

 聡子が研究者として、日ごろ着手していること、それはとある薬の開発だ。

 それはOBRに発症した者を元に戻す薬。

 その薬を完成させるためのデータが集まれば、発症原因を突き止める可能性に繋がる、と聡子は考えている。しかし、この研究は困難を極めている。なぜなら発症は、その患者によって症状が違う。智八が駅前で遭遇した少年、脅迫してきたクサマ、そして智八自身。すべて違う形だ。強いて共通点を挙げるならば、すべて人体が歪に変化しているというものだろう。だが、すべて違う症状ということは、それぞれで回収できるデータも違ってくる。多少の共通項を見いだせるかもしれないが、少なくとも聡子は絶望的だろうと思っている。

 OBR症を戻すということは、各々に適用された薬になるということなのだ。

 もし、開発できても大量生産が叶わない。さらに、一人の患者に対して、掛かる費用が高い。当然、適用に当たって、選別が行われるだろう。誰を優先して治すべきか、という選択が迫られる。

 だから、聡子は誰にも適用できる薬の開発を目指している。

 それゆえ、その道は何よりも険しいものとなっている。

「あいつを戻したい。……理性があるなら、なおさら」

「……わかっている。でも、すぐには無理よ」

 厳しいが、それが現実だった。可能なら、とっくのとうに自分は薬を用意している。そして、今すぐにでも息子を抱きしめてあげたいと願う。

「透子は大丈夫なのか?」

 努は娘の背中を思い起こすように、階段の奥へ視線を動かす。

「わからない。今回の件、一番ショックを受けているのはあの子だから」

 透子はSaOTからいろいろ手当などしてもらっているときも、どこか上の空であった。自分の問いかけに対しても、空返事が多かった。彼女は家族の中でも一番、弟である智八を思いやってきた。それは彼を家族として迎えたときからだ。彼女はずっと弟が欲しかったと言って、まだ幼い智八を抱きしめた。まだ状況を理解するに至ってない、無垢な智八の顔を愛おしく撫でていた。

 それが今日、彼女は自身よりも大事な存在を失った。

 彼女の大事な姉弟はその姿を変えて、他者の命さえ奪ってしまった。

 もはや彼女の愛していた弟の姿は、そこになかった。

「ねぇ、現場を見てて、思ったことがあるんだけど」

 聡子は自身が目撃したことを思い起こす。その光景の中に、気になるところがあった。

「最後ね。あの子、智八は手を伸ばしたの。手といっても……その……発症した手をね」

「どこに?」

「透子に」

 二人はそのまま何も言わず見つめ合った。透子と智八の心境に思いを馳せながら。


 透子は智八の部屋にいた。

 つい数時間前には彼がいた痕跡が残っている。わずかに感じる彼の匂い。ベッドに腰かけると、まだ温もりがあるような気がする。

 目を閉じると、彼の声が聞こえてくるように思う。控えめで、どこか恥ずかしさがある声で、「姉さん」と呼ぶ声が。もしかしたら、さきほどまで見たものは壮大な悪夢で、目を開けると、部屋の扉のところに智八が立っていて、こちらを心配そうに見つめている、そう思い込みたかった。

 しかし、目を開けても、そこは電気のつかない部屋で、自分一人しかいない。

 自分の両手を見下ろす。それは普通の人間の手だ。五本の指があり、変わらぬ肌を維持していて、今まで通りの動きをする。

 あの子の手は変わってしまった。もう元に戻らないかもしれない。

 変わったのは右手だけだろうか。自分の目の前から消える直前まで、彼には理性があるように見えた。思い出すのは彼の顔だ。あの悲しげな表情を、透子は何度も見てきた。あの時の彼が浮かべた感情は、透子の記憶の中にある弟のものとまったく同じだった。

 姿が変貌しても、そこにはあの子がいた。

 それをわかっていた。それなのに、透子はあの子の気持ちに答えることができなかった。

 最後に彼は手を伸ばした。触手状になっていたけれども、その動作は自分に助けを求めるときのものだった。

 その手を握り返すことができなかった。

 自然と透子の目から涙が零れてくる。手の甲に落ち、床に流れていく。

 どうして答えることができなかったのか。

 出口のない後悔の渦から、ずっと抜け出せずにいた。



 ――続く

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