01 - 03 脅迫と手詰まり

 また、夢を見ている。

 見覚えのある景色の中、少年は走っていた。

 何処に向かって、何のために走っているのか、覚えていない。ただ、がむしゃらに走らなくてはならないと思っている。おぼろげな世界は残影を描き、走る少年の横を通り過ぎていく。

 しばらくして、目前にぼんやりとした影が見えてきた。影は二つ。それぞれが寄り添って一つの形になっていた。

 思い出す。あそこを目指していた。

 影を呼ぼうとして、口を大きく開ける。しかし、思ったように声が出ない。あの影に近づきたい。だから、とにかく呼ばなければと強く思っていた。思いに反して、体を動かせない。

 徐々に影に近づく。その影は少年よりもはるかに大きい。まるで、こちらを見下ろすかのよう。

 少年は手を伸ばす。ずっと手を繋いでほしかった。温もりを感じたかった。この小さな体を抱きしめてほしい。

 どれだけ伸ばしても、手が届かない。実体のない影に触れることが叶わない。

 それでも懸命に掴もうと、声を出そうとする。

 影が離れていく。こんなに追いかけているのに、どんどんと影との距離が開いていく。

 どうして。どうして。

 少年の目から涙がこぼれる。悔しくて、悲しくて、歯を食いしばる。足に力を込めて、前に進ませようとする。

 届かない。体を強く動かそうとしても、その思いは叶わない。

 離れていく影の背に向かって、少年は泣き叫ぶ。声が出ない喉を震わせる。

 置いていかないで。



 

 智八は目を覚ますと同時に、体中が汗をかいていることに気づく。

 体調を崩したときに出るような、嫌な汗だ。ぬるくて体温を奪われる。若干寒気を覚える。

 思わず、体がブルッと震えた。そして、自分に言い聞かせる。

 大丈夫、自分は病気ではない。布団もかけずに寝ていたから、少し体温が落ちているだけだ。頭も少しボーっとしている気がするが、徐々に元に戻るはずだ。そういえば、寝ているときに、また嫌な夢を見ていた気がする。悪夢を見ていたから、こうして冷や汗が出ていたのかもしれない。

 とりあえず起きることにする。このまま寝ていても変わらない。

 ベッド脇に置いていたスマートフォンを手に取って、時間を確認する。もう正午を回っていた。お腹も空いているかもしれない。リビングに降りて、昼食は何にしようかと考える。

 その時、手に持ったスマートフォンが震えだした。

 画面を見ると、電話帳に登録された「姉」の文字。透子から電話がかかってきたようだ。

 学校を休むことにした智八を心配して、大学から電話をかけてきたのか。それとも、もうすでに心配をよそに、夕食の買い出しをお願いする連絡かもしれない。

 智八は画面を操作して、電話に出る。

「もしもし」

 しばし、耳に押し当てているスマートフォンから無音が流れる。不審に思い、もう一度声をかける。

「もしもし、姉さん?」

 心臓の鼓動が早くなる。なんだか嫌な予感がする。なぜだ、なぜ姉から無言電話がかかってくる。そんな悪戯をするような人ではない。画面を再度見る。画面には「姉」の文字。間違っていないし、操作ミスでもない。

「……もしもし、聞こえる?」

『聞こえてるよ、"おぼっちゃん"』

 聞いたことがない男の声。智八の体の中を、悪寒が駆け抜けていく。

「……誰です、か?」

『おぼっちゃんのお姉さんは無事だよ。今は、ね。これから言うことを聞かないとわからないよ。ビデオ通話に切り替えるけど、画面、見れる?』

 男の脅迫を受け、智八の頭の中は真っ白だった。何が起きているのか、現状を理解したくても、受け付けたくない思いがあった。しかし、それでも体は勝手に動く。

 智八は恐る恐るスマートフォンの画面を向かせた。ビデオ通話に切り替えた相手の映像が流れる。どこか廃墟のような空間で、後ろ手を縛られ、目隠しと猿轡をされた姉の姿が映し出される。両足首には太いロープが巻かれている。

 その光景を目にし、智八は己の感情がかつてないほど乱れるのを自覚した。怒り、悲しみ、悔しさ、焦り。あまりにも現実を受け入れがたくて、画面に映っているのは精巧な人形ではないかと疑う。

 しかし、現実は違う。今、姉は命の危機にさらされている。自分の目の前で。

『よく聞け。これから俺の指示に従え。従わなければ、お前の姉の命はないぞ』

 無慈悲な命令に、智八を奥歯を噛みしめて、悔しさに耐えようとした。わずかに目尻から涙がこぼれそうになる。

『いいかい、おぼっちゃん。君はまだ子供だから、丁寧に説明する。君の姉を殺したいだけだったら、こうして電話しない。わかるね? 俺にはある目的があるから、こうして君に電話する必要があった。……裏を返すなら、俺自身の目的さえ果たせるならば、君のお姉さんはちゃんと解放する』

「……信じられない」

『そう泣きそうな声で言うなよ。……いいか、これから君宛にメッセージを送る。位置情報付きだから、そこに行け。警察はもちろんだが、パパやママに連絡するのも無しだ。わかる?』

 智八は答えない。画面に映る姉の姿を見ながら、どうやったら助けられるかを必死に考える。

 だが、どう考えても今の智八一人の力では無理だ。何とか、この男を欺く形で警察に連絡する方法を考えなくてはならない。一体どうすればいいのか。

 沈黙する智八に対して、電話越しの男が動きを見せた。

 画面に映る映像が少し傾いたかと思えば、突然画面の下から長い足が伸びて、透子の顎を直撃した。

『ゥンンンーー!』

 口を塞がれた姉の悲鳴が、電話越しの智八の耳奥へ貫いた。

「やめて!」

 叫びながら、体の震えを実感する。

『じゃあ、返事は?』

 男はわざと見せつけるように、足をプラプラと揺らしている。もう一度やるぞと暗に伝えている。

「……わかり、ました」

『いい子だ。じゃあ、これからメッセージを送る。いいか、しつこいようだが、警察とかに相談しても無駄だからな。もし、そんなことをしたら、怒り狂った俺は、君の大切なお姉さんを殺してしまうかもしれないよ』

 明確な殺意を告げられ、智八を喉奥が閉まるように感じた。

 画面が消え、通話が切れられたことがわかった。即座に通知が表示される。姉の電話番号からテキストメッセージを受信したことの通知だ。しかし、実際は姉を人質に取る、正体不明の男の操作によるもの。

 メッセージを開くと、言われた通り位置情報が添付されていた。位置情報を押して、マップを開くと、自宅からの経路が示された。場所は同じ町の一角を示しているが、行ったことがない。歩いて20分ほど。バスを使っても15分と、わずかに遠い距離だ。

 また画面に通知が出る。再びテキストが送られてきたようだ。

『10分以内に来い。時間を測る。よーい...』と、文章の最後に爆弾の絵文字が付けられている。

 それを見た智八は反射的に走り出してしまう。適当に靴を履き、玄関の鍵も閉めずに飛び出す。時折画面を見て、経路を確認しながら、必死に走る。

 男がからかっていることは明らかだ。だが、時間制限を設けることで、智八が警察などに連絡する手段を考えさせないようにする強かな考えでもあった。

 智八は男の意図などまったく理解できなかった。それどころではない。姉の命を天秤に乗せられたとき、冷静でいられない。走りながら、頭の中は姉の安否のことで一杯だ。

 透子は智八と血が繋がっていないとわかっていながらも、家族として、姉として接してくれた。あの優しい笑顔を浮かべ、支えとなって、ずっとそばにいてくれた。

 姉の命を救うことができなかったのならば、智八は自分自身を許すことができないだろう。

 例え自分がどれだけ傷つくことになろうと、透子の身代わりになる強い覚悟があった。姉を苦しめることだけは許さない。もし、自分が強い存在だったのならば、相手を襲うことだって厭わない。

 だが、悲しいことに智八は非力であった。こうして全力を出して走っているが、その速さは同級生の中でも下位だ。体力もないから、すぐに息切れを起こす。肺が熱く感じ、まるで吐血するのではないかと錯覚する。

 画面を見る。時間は3分経っている。

 休んでなどいられない。周りから不思議に思われてもかまわない。いっそのこと、これが悪戯であってほしいとさえ思う。歯を食いしばり、腕を大きく振りながら走る。精神も大きく疲弊してくる。少しでも油断すれば、大泣きして周りに助けを求めてしまいそうだった。そんな風に挫けそうになる度に、頭の中で縛られた透子の映像を思い返す。蹴られた時の悲鳴を思い出す。

 負けるな、と自分に言い聞かせる。

 泣きそうになる度に、走り続けろと自身を叱咤する。

 体中の筋肉が悲鳴を上げ、休息を求めてくる。少しでも気を抜くと、二度と走れなくなるくらいに、体が言うことを聞かなくなるような気がした。だから、決して止まらなかった。

 5分経つ。まだ、道のりは半分も行っていない。

 マップを見て、近道がないか考える。他人の敷地に入って、塀などを越えていけばできそうな気がする。だが、今の智八の体力では、それを行える余裕などない。そんなことをしても余計に時間を食うことは明白だ。智八には決められた経路を、ただ闇雲に走り続けることしかできない。

 もう時間はみないことにした。マップだけを頼りに走る。途中の信号も無視する。車のクラクションを鳴らされた気がしたが、振り返らない。自分よりも大切な人の命の危機なのだ。

 涙やよだれなど、体中からありとあらゆる液体が出そうになっても気にしない。悲鳴を上げる足が、今日で使い物にならなくなったとしても構わない。


 時間を見なくなってから、どれくらい経っただろうか。

 全速力で走り続けてきて、肺が痛みを感じるほど苦しい。足は痛みを通り越して、何も感じなくなり、ただ重い。まるで鉄の鎖が巻き付いているかのようだ。だが、まだ休めない。奥歯を噛みしめ、顔を上げる。

 マップと周りの景色を照らし合わせる。表通りから外れ、奥に進んだ先のようだ。細い曲がりくねった道を進むと、やがて小さな廃ビルが見えてきた。2階建てで、壁一面をツタが多い。外側に取り付けられた非常階段は錆びて、今にもボロボロと崩れ落ちそうだ。

 智八はもう一度マップを見る。ここで間違いない。

 昔は何かの施設だったのだろう、ガラス付きの両開きな扉が正面に据えられている。しかし、片方のガラスは割れ、扉はスプレーでアルファベットを象ったような落書きが描かれていた。扉のノブに触れると、少し硬く回しづらい。開くとそこは何もない空間が広がっている。建物を支える柱が一定間隔に並び、その足元にビニール袋にまとめられたゴミや使えなくなった家具や家電などが山となった積まれていた。不法投棄されたゴミの山だろう。入口のすぐ右手に階段がある。この部屋の奥を見ようとしても、ゴミが見えるだけで、姉の姿は見えない。もしかしたら2階かもしれない。

 智八は階段へ足を進める。不気味なほど静かだ。思わず足音を立てないように、慎重な足取りになる。不幸中の幸いか、むしろ今は軽快な動きをできそうにない。2階は1階と同じ間取りだ。だが、ゴミはそれほど見られない。柱の裏を見るように、階段の向かいにある窓側に近づく。

 柱の1つ、その陰に姉の姿を見つけた。両手を後ろに縛られ、目と口を塞がれている。縛られた足を延ばして、体を柱に預けるような格好だ。送られてきた映像の通りだ。

「姉さん!!」

 智八はすぐに駆け寄り姉の拘束を解こうとする。透子も智八の存在に気付いたのか、こちらに顔を向ける。

 塞がれている口から何かを、こちらに向かって叫んだ。だが、智八はそれよりも姉の安全を優先する。拘束に使われている道具を見ると、両手は結束バンドによって縛られている。これを力だけで、解くのは難しい。

 智八は優先順位を変え、透子の目隠しと猿轡を外した。

「トモ、逃げて!!!!」

 猿轡を外された姉は開口一番その言葉を叫んだ。

 そのことを理解するよりも先に、智八の頭部を強い衝撃が襲った。吹き飛ばされ、体ごと床を滑る。強い痛みと共に、眩暈が襲う。歯を食いしばって、顔を上げると、スマートフォンを手にした男が立っていた。

 おそらくこの男が透子を襲った犯人。

 見たことがない男だ。黒いパーカーにジーンズパンツ。形だけなら、どこでも見かけるようなものだ。男はおもむろにかぶっていたパーカーのフードを外した。

 顔つきはどこか爬虫類を連想させるものだ。目が大きく、頬は瘦せていて、顎先は鋭い。オールバックに髪を固めて、顔と同じくらい長い耳にはピアスがついている。

「約束通り来てくれたじゃーん。ちょっと遅刻だけど」

 観察して気付く。男が手にしているスマートフォンは透子のものだ。お揃いで買ったスマートフォンケース。落としても大丈夫なように、見た目よりも機能性で選んだものだ。

「よし、おぼっちゃん。名前はトモって言うのかな。これから俺の言うことに従ってもらう」

「この子を巻き込まないで!!」

 透子は叫びながら、男を睨む。その目には少し涙が浮かんでいるのが伺える。

 男は聞き分けの利かない子供に言い聞かせるように、首を振りながら答える。

「ちがうなぁ。本命はこっちなんだよね。こちらとしてはようやく準備が整ったと言える」

 男は足をゆっくりと上げると、透子の横顔に足裏を押し当てる。そして、ゆっくりと、じわじわと痛みを味わわせるように、透子の顔が床に付くまで踏み下ろしていく。

「やめろ! 姉さんを傷つけるな!」 

 智八は強い言葉を口に出すが、その声は震えていた。そこでようやく自覚する。体中は恐怖で震え、心臓はバクバクと音を立てている。喉奥は絞められているようで、耐えきれず涙がこぼれる。

「そう泣くな、トモ。俺の言うことに従えば、君の姉さんを傷つけないさ」

「トモ、駄目! 耳を貸しちゃ駄目!」

「うるさいなぁ、もう一度口を塞ぐか? ……いや、こうしよう」

 男は透子の顔から足を退けると、智八に近づいてきた。智八の目の前まで来ると、突然智八の頭を蹴り飛ばした。横からこめかみ辺りを蹴られ、視界が揺らぐ。

「やめて!!」

 姉の叫び声が遠くから聞こえるような気がする。痛みのせいで、頭を持ち上げられそうにない。グルグルと頭の中で痛みが走り回っているようだ。

「やめてほしかったら、お姉さんのほうも黙ってろ。いいか、言うことに従え。どっちも、だ」

 衝撃のせいなのか、智八の蹴られた左目付近が痙攣している。ぼんやりと視界の奥には、こちらを涙を流しながら、心配そうに見つめる透子の顔がある。姉のこのような表情を見たくなかった。

「言うことを……」

 自分が傷つくよりも、姉が傷つく姿を見たくない。智八は祈るように言う。

「言うことを、聞きますから……姉さんには手を出さないでください」

 男は満足そうに笑みを浮かべる。

「トモ。君のスマートフォンを出すんだ」

 言われた通り、スマートフォンを差し出した。

「いや待て。まずは君が操作しろ。いいか……遠道聡子に電話しろ」

 それは母の名前だ。一瞬、男の言っていることが理解できず、智八は男の顔を見たまま固まってしまう。

「言うことを聞け。疑問を持つな」

「はい……」

 従うまま、連絡帳に登録された母の番号にかける。画面には発信中の文字。発信音が続く。ちらりと姉を見ると、彼女も困惑した顔を浮かべている。男の狙いは何なのか。

 電話が繋がり、母の声が聞こえる。

『あら、トモ。どうしたの?』

 智八が答えるより先に、男は智八のスマートフォンを奪った。画面を操作してから、相手をからかうような声音で答える。

「こんにちは、こちらは遠道聡子のお電話かなぁ?」

『……誰?』

「口で説明するより、見てもらったほうがいい。今テレビ電話にしますから、画面を見てもらえます?」

 男はそう言いながら、スマートフォンのカメラを透子に向ける。顔には邪な笑みを浮かべている。黄ばんだ歯列。歯の間から舌が伸び、唇をなめる。だが、その舌は唇をなめるだけに留まらず、鼻先、そして眉間までに伸びると、チュルチュルと宙で渦を描き出した。明らかに人の舌の長さではない。

 その光景に智八は思わず息をのんだ。

 脳内にあの時の光景がフラッシュバックする。駅前で遭遇したあの少年。顔の下半分を裂けるように広がった口。

 男はその舌を出したまま、カメラを智八に向ける。そこで、智八の表情から、自分の舌の存在に気付いたようだ。

「おっと、気を抜くとすぐ出ちゃうな」

 そして、舌は男の喉奥へ引っ込んだ。

『……何が望み?』

 スマートフォンから母の厳しい声音が響く。男はスピーカー状態にして、こちらにも通話音声を聞こえるようにしていたようだ。

「話が早いねぇ。あんたの研究資料をすべて持って、指定する場所まで来い」

『私の研究を奪っても意味はない。記録は残るし、引き継いで完成させる人もいる』

「本当にそうかな? 記録はそうかもしれないけど、人は違う。聞いてるぜ、今のところ、この手の分野ではあんたはトップを走っているってね。もしかしたら、世界で一番かもしれないな」

 男の口から語られる母の情報に、智八は少し驚く。世界で一番と評される聡子の力を本人の口から聞いたことがない。知らない母の姿だ。

『買いかぶりすぎじゃないかしら。私よりも優秀な人間はいるわよ』

「他にも優秀な人材がいることと、あんたが優秀であることは相反しないですぜ、先生。あんたの言うように、他にも優れた人がいるかもしれない。……だが、今非常に厄介なのはあんただ」

 男が向けるカメラレンズが、智八の悲痛な表情を捉えている。智八には徐々にそのレンズが凶器のように思えてきた。

「さて、先生。さっき言ったように、研究資料を持って、こちらに来てもらおうか。間違っても警察に通報はするなよ。そしたら、かわいいお子さんがどうなっても知らないよ~」

『……わかった。従うわ。ただし、あなたもその子達には手を出さないで』

「…………」

 男は眉間にしわを寄せ、何か考えるような仕草をする。すると、カメラを向けたまま智八に近づき、その胸板を蹴り上げた。肺に衝撃が走り、息が詰まる。瞬間、呼吸ができなくなり、その後詰まった息を吐きだすように咳き込む。

「手は出してないですよ、足が出ちゃった」

『……地獄に落ちろ』

「望むところですよ、先生」

 言い終え、口元に笑みを浮かびながら男はスマートフォンを操作して、通話を切った。そのままスマートフォン上で何かを操作する。操作を終えた後、スマートフォンを智八に返さず、そのままポケットにしまい込む。

 智八は痛みに耐えながらも、男について考えていた。

 自分と姉を脅迫した目的は、どうやら母を誘い出すことのようだ。しかし、理由はわからない。なぜ、母を狙うのだろうか。そして、先ほど見えた男の舌の長さ。明らかに人ならざるものだ。智八は体験をしたからこそわかる。テレビやインターネットで得られた知識ではない、生きた光景を頭の中に持っている。あの時の恐怖感や違和感と同じだ。

「あなたは……一体……?」

 透子も信じられないものを見たような表情をしている。彼女も男の舌を見たのだろう。そういえば、彼女は体験したことがあるのだろうか。

「……そのうち、わかるさ」

 男はそれ以上は語りたくないという感じで、透子に近づくと、智八が一度外した目隠しと猿轡を再び姉に巻き付けた。そして、縛り付けている透子を引っ張り、柱の陰へと置いた。

「お姉さんはここ。おぼっちゃんはこっちに来な」

 男はポケットからいくつかの道具を取り出す。それらは透子を縛り付けるものと同じものだ。

「君らは大事な人質だ。傷つけるような真似はしないよ~」

 既に何度か蹴りつけてきたくせに、優しい声音をこちらにかける。この男の言葉に耳を傾けるべきではない。

 それよりも智八はあの舌について追及するべきだと考えた。

「あなたは……『OBR症』なの?」

 男は目つきが鋭くなる。智八の瞳を覗き込み、こちらの考えを探ろうとしているみたいだ。

「その言葉は好きじゃないね。病気みたいだ。それと、俺のことはクサマと呼べ」

 そう言ってクサマはゆっくりと笑みを作ると、その唇の間からまるで蛇が草の間を這うような動きで、長い舌を垂らす。形も動きも人のものとは思えない。智八の両手、両足を縛り付けながら話し続ける。

「不思議に思わないか? 俺は頭がおかしくなったわけでもない。日常生活を送れるし、会話だって普通だ。見た目はちょっと違って、変わった見た目から妙な力が出るぐらい。けど、それだけだ」

 智八の両手と両足の縛り付けを終えると、そのまま襟足を引っ張り、智八を引きずっていく。透子から距離を離す形だ。一緒にしないことで、心理的にも追い込もうとしているかもしれない。ボロボロに崩れかけた扉の前まで引っ張ると、男は扉に手をかけて開ける。扉は今にも外れそうで、欠けている個所もあり、扉として機能しているのかも不思議だ。

 扉の奥は外壁のツタが内部まで侵入して、半分が緑で覆われた狭い部屋だ。足が一本ない椅子、骨組みだけのベッド。もともとは何の部屋だったのかわからない。天井に穴が開いていて、3階の天井が見える。そこからツタが侵食してきている。

 クサマは智八をその部屋に置くと、しゃがんで智八の顔を見た。長い舌と吊り上がった目、まるで爬虫類だ。

「なぁ、トモ。俺は見てたぜ。お前は昨日、駅前で出会っただろ? 俺達と同じ存在に」

 智八は思わず身震いしそうになった。あの事件の時から、ずっと見られていたのか。もしかして、今日登校する直前の駅前で感じた視線は勘違いではなかったのか。

「お前は思ったはずだ。OBRに発症したのは自分と変わらない男の子だった。同年代で、おそらく同じように平凡な学生生活を送っていただろう子。あの子と自分、何が違う? どうして、あの子がああなった?」

 心臓を鷲掴みされているような感覚に陥る。この男は智八の心のうちまで見透かしているのか。

「答えはな……何も違わない。おかしいのは周りのほうさ。あの子はちょっとびっくりしただけ。少し落ち着かせれば、また普段通りの日常を送れるはずだった。だが、周りがあの子を『バケモノ』にした」

 智八の目に映る少年の顔。泣いている少年。

「そのせいであの子は捕まった。今頃何をされているのか。人権なんてものはない。だって人ならざるものになったのだから。檻の中に入れられ、飼育されているのかもしれない」

 智八の喉元に何か熱いものがこみ上げてきた。

「トモ、君は見たはずさ。あの少年が捕まる瞬間を。でも、その後のことは? 誰も知る由もない。特殊部隊の連中は何も発表しない。民間からの開示請求にだって応じない。人間じゃあないからな」

 彼は人間だ。智八は胸の内で言葉が浮かぶ。自分は見た。苦しそうにもがくあの少年を。同じ年齢、学生、自分と変わらないはずだ。

「さぁ、どう思う?」

 クサマはそう言って、智八に目隠しと猿轡を嵌めた。少し息苦しさを感じたが、智八の心境はそんな拘束を気にしていられなかった。頭の中は再びあの少年の悲痛な顔で埋め尽くされていた。

 クサマの言葉に明確な否定ができない。

 透子は語った。あの子はきっと良くなるはずだ、と。しかし、実例としてそんな話は聞いたことがない。そんな治療や研究は本当に進められているのだろうか。そもそもとして、治す必要があるものなのか。クサマのように、日常生活を送れているならば、そのままでいい。

 ふと思い出す。クサマは聡子に研究資料というものを要求していた。母親は発症者の治療に携わるような研究をしていると聞いたことがある。クサマの考えと聡子の研究は相反するものなのかもしれない。再び、智八の喉元に熱い何かがこみ上げる。クサマの言葉を明確に否定できなかったが、母親の仕事を否定されるのも違うと感じた。

 目隠しなどをされて気付くのが遅れたが、どうやらクサマはもう智八のもとから離れたようだ。気配を感じられなくなっていた。クサマはなぜ問いかけを残したのだろう。智八のような同情してくれる人を増やしたいのか。だが、こうして人を誘拐して、脅すような悪人がそんな優しい発想するとは思えない。あの問いかけも、何かの悪意を含んでいるに違いない。

 そんな思惑を感じながらも、智八は問いかけに対する答えを探すことを止められなかった。

 もしも、あの時の少年が無差別に自分を襲ってきたのであれば、智八も迷いなく敵意を向けられただろう。

 だが、実際は違う。襲われそうになったのは、最後のほうだけ、それまでは見つめ合っていた。理性を失っていたのであれば、智八は最初から襲われ、命はなかったかもしれない。

 智八は頭の中であの時のことをずっと思い起こしていた

 そして本人が気づかぬうちに、気を失うように眠りへと落ちていった。

 

 どれほど眠りに落ちていただろうか。こちらに近づく足音に智八の意識が浮き上がる。目を開けたが、暗闇に包まれている。目隠しをしていることを思い出す。まだ、意識が覚醒していなかったが、突如襟足をつかまれ、力強く引っ張られ、体中を血が駆け巡り、一気に現実に戻された。

「待たせたね~、トモ。お母さんと対面だよ」

 クサマだ。クサマは智八の目隠しを取った。

 智八の視界が開けたが、そこまで明るくなかった。電灯1つない薄暗い部屋。窓の外を見ても、もうすでに日は落ちかけており、帯状に伸びた灰色の雲が天幕のように空を覆っていた。

 正面には同じように座らせた透子がいた。こちらも目隠しを外されていて、こちらを心配そうに見つめている。彼女と目が合って、悔しさと悲しさから智八は猿轡越しに奥歯を噛みしめた。彼女に心配かけさせただけでなく、こんな状況に何もできない自分が歯がゆい。無力な自分が情けなかった。

「さぁて、二人はここでじっとしているんだよ。俺は準備があるから、さ」

 クサマはそう言うと、智八達の視界の外へ消えた。足音が遠ざかる。どうやら建物の外に出たようだ。クサマの姿が消えたことで、ふと頭の中で考えがよぎった。もしかしたら、今しかないかもしれない。ただ情けない自分を嘆くだけなのは駄目だ、と決心する。

 智八は猿轡を嚙み千切ろうと、舌で引っ張り、奥歯で擦り合わせる。丈夫な布を使っているようで、硬い。簡単にはいかないが、何度も試みる。奥から透子が心配そうに声を上げていた。おそらく名前を呼んでいるのだろう。だが、その悲痛な喉の奥にしまわれた叫びを聞くたびに、智八はやらなければならないと自分を鼓舞する。舌で引っ張る。奥歯で噛む。頭を下げ、地面にこすり付ける。

 千切れる気配はないが、緩くなってきた感触があった。それでいい。少しでも緩んでくれればいい。

 周りの気配を伺い、何度も試すうちに、猿轡が上下にずれる感触が確かめた。地面に力強くこすり付ける。肌が剝がれそうになることも気にしない。あと少しだ。何度もこする。何度も、何度も。

 緩くなった猿轡は、智八の口から首元に零れ落ちた。これで口が使えるようになった。

 智八は尺取虫のように、両足でお尻を擦りながら透子に近づく。

「姉さん、足出してっ!」

 透子は一瞬身を固くした。本当にこれでいいのか、その表情はそう語っている。しかし、こちらの覚悟を読み取ってか、両足をゆっくりとこちらに差し出した。

 両足首に巻かれた太いロープ。ハサミでも切ることが難しいと思うほどだ。だが、智八は継ぎ目に嚙みついた。ガリガリと音が出るほど、削り取ろうとする。舌でも舐める。もしかしたら唾液で溶けるかもしれない。少しでも可能性のあることを試そうとする。歯が欠けるかもしれないが、気にしない。

 徐々に緩くなっていくのを感じる。透子も足を動かし、継ぎ目を広げようとする。何度も同じ動作を繰り返すうちに、ロープの繊維が千切れるようにロープも解ける。

 最後は両手だ。後ろ手に拘束している道具は結束バンド。これはロープよりも細い分、口で解こうとするのは難しい。だから、猿轡のほうを外すことにする。口だけしか使えないが、自分以外の猿轡を外すことはロープよりも簡単であった。

 猿轡を外された透子は咳き込みながら智八の顔を見る。

「トモ、こっちにっ――」

 しかし、物音が響く。何かが開くような音。

 二人は息を飲む。思わず動けなくなる。足音が聞こえる。下の階だ。あの男が戻ってきたのかもしれない。

「姉さんだけでも逃げてっ!」

「ダメッ! トモを置いていけない!」

 こうして会話している間にも、足音は近づいてくる。階段を上ってきている。もうすぐそこだ。

 透子は立ち上がると、智八の盾になるように、前へ出る。音の鳴るほうを睨み、智八を守ろうというを意志を見せる。

 まだ、両足が拘束されている状態の智八は、姉の背中を見て、待ち構えるしかできない。

 階段の下から、影がゆっくりと姿を現す。

「……二人とも!」

「お母さん!」

 母の聡子だった。彼女は二人の姿を見るや、すぐに駆け寄り二人を抱きしめた。

「良かった! 怪我はない?」

 聡子は二人の拘束を解き始める。ポケットからハサミを取り出し、結束バンドを切る。透子の拘束具をすべて外れたのを確認すると、智八のロープを切りにかかる。

 自分の拘束が解かれていくのを見ながら、智八は警戒していた。

 なぜ、あの男はいない?

 姿を消してから一度も帰ってきていない。彼の目的は家族を再会させることではない。むしろその逆かもしれない。母をここに呼び出したことは、あの男の目的の一部であるはず。視界を動かしても、影一つ見当たらない。気配すら感じない。どこかで見張っていてもおかしくない。

 家族との再会に、素直に安堵を抱けない。智八はあの男を見つけ出そうとした。

 ――その時、体の内から何か嫌な感じが駆け巡った。

 心臓の鼓動が早くなる。頭に血が上り、本能が危険を伝えようとしている。近づいてくる。あの男に間違いない。だが、どこから来るのか。視線を素早く動かしても、見当たらない。どこにいる。視界だけに頼らず、五感すべてを通して、見つけ出そうとする。母や姉の吐息や温もりが消えた。代わりに感じるのは風の流れ、そして、廃墟に充満する埃っぽい空気と湿っぽさ。智八が感じ取れるこの環境のどこかにあるはずの違和を探す。

 、だ。

 智八は咄嗟の判断で、二人に体当たりするように突き飛ばす。

 その直後、天井が音を立てて割れ、瓦礫と共に奥からクサマが落ちてくる。右足の踵を伸ばして、何かを狙っている。その先は聡子の頭部だった。

 だが、智八が突き飛ばしたおかげで、その踵は二人と智八の間にある空間を切り、2階の床に突き、その床すらも粉々に砕き、クサマの姿は1階へと落ちていく。

 どう見ても人間の力ではない。

 クサマは驚いたように目を丸くして、1階からこちらを見上げる。智八と目が合う。

「お前、よく気が付いたな」

 クサマは飛び上がり、自分で開けた穴を経由して、2階まで到達した。これも人間の跳躍力では決してあり得ない。

「まぁいい。仕切り直しだ、先生。渡してもらおうか、あなたのすべてを」

 クサマは聡子に手を伸ばす。

 だが、聡子は首を振って、その要求を拒む。持っているハサミを武器に見立て、両手で握っている。

「あなたの望みは、私の研究ではない。私そのものよ。今の攻撃で確信したわ。あなたは私を殺したいのよ」

「そんな物騒な」

「いい? 子供たちの安全を約束するなら、望み通り私の命をあげる」

 智八は思わず母親の顔を見る。その顔には覚悟が表れている。今まで見たことがない、厳しい表情だ。

「でも、子供に危害を加えるなら、こちらにも考えがある」

「へぇ、言うじゃん? 何ができるんでしょう? そのハサミで俺を殺す?」

「もうSaOTを呼んでいる」

 その用語にクサマの顔が歪んだ。怒りに満ちている。

「呼ばねぇっていう話だろうが」

「あなたは警察に言うな、としか言っていない。それに、あなただって、研究資料ではなく私の命を狙った。イーブンよ」

 クサマは唸り声をあげながら、髪を荒々しくかきむしる。首を捻って考え事をしているようだ。どうやら聡子の行動が智八の思っている以上に、クサマにとって不利なものらしい。

 しかし、クサマはゆっくりとこちらを向いた。智八の顔をその瞳で捉える。智八はまだ両腕が塞がっている状態だ。

 瞬間、クサマの体が勢いよくこちらへ飛び出す。智八が息つく暇もなく、目の前に迫る。鈍痛がお腹に響いた。お腹に蹴りを入れられたようだ。衝撃で咳き込む。体中から力が抜け落ちていくように感じる。

 智八は耐えられず、ゆっくりと膝を折り、胃液を吐きかける。

「トモ!!」

 母と姉の悲痛な叫びが何もない空間に響く。家族のこんな悲しい声色、久しぶりに聞いた気がする。

 彼女らの思いを断ち切るように、クサマは智八の前に立ちはだかる。

「先生、勘違いしないでほしいなぁ! 俺は取引してるんじゃねぇ! 脅迫だ! 一方的にこちらが要求する! お前はそれを飲む! それだけなんだよ!」

 叫びながらクサマは智八の膝を踏みつける。膝から鈍痛が響く。踏みつけながら左右に捻って、痛みを与える。

 智八は痛みで涙が零れそうになるのをこらえる。唸り声を出しつつも歯を食いしばる。

「我慢するんじゃねぇ! 叫べ! ほら、大事なお子さんが耐えているぞ! このままでいいのか!? おとなしく従え! 家族の命が欲しくねぇのか!?」

 クサマは繰り返し膝を踏みつける。膝が軋むような音を立てる。

 智八は痛みに耐えながらクサマを見上げる。クサマの目は狂気を孕んでいる。縮小している瞳孔が透子と聡子を捉えている。奥歯を嚙みしめているのか、顎の筋肉が強張っているように見える。

 クサマはゆっくりと首を動かして、智八を見下ろす。

「それとも、血のつながりがないから、そこまで大切じゃないのか?」

 クサマの言葉に、透子と聡子の顔が歪んだ。

 智八も思わず呼吸を忘れてしまう。

「まさか、そこまで調べられているとは思っていなかった?」

「その子は私の子供よ。……間違いなく、私の家族よ」

 その声音は強くも、どこか優しさを感じさせるものだった。

 母の声に勇気づけられた智八は、こちらを見るクサマを睨み返そうとする。膝の痛みとクサマが持つ底知れない狂気性に怯みそうになる。喉の奥から、何か生温いものが染み出す。

「へぇ……素敵だな。じゃあ、こうしよう」

 クサマは智八の膝に足を添えながら、こちらの顔を覗き込もうとするように腰を下ろす。

「なぁ、トモ。君からも説得してくれ。さっき話したよな? 君は見たはずだ。君と同じような子供が『バケモノ』になる瞬間を。俺はな、ああいう存在をもう生み出したくないんだよ」

 クサマは手を伸ばし、智八の頭を撫でた。その仕草は不気味なぐらい、優しさを感じられた。

「君のお母さんはこれ以上バケモノを生み出さないための研究をしている。具体的に言えば、バケモノから人間に戻す術を探している」

 初めて聞く内容だった。両親の仕事はなんとなく程度の認識しかなく、母についても、何かの研究をしていて、それが世間で言われる『OBR』に対するものであるということは知っていた。だが、それ以上の話を聞いたことがない。

「でもな……子供の君にもわかりやすく説明するとな、それは多大な犠牲のもとに成り立つ仕事なんだよ」

 クサマの顔から怒りのようなものを見てとれる。

「バケモノから人間に戻す研究を完成させるにはどうしなければならないと思う? たくさんのテストが必要になる。そう"人体実験"がね」

 智八の頭でも、クサマが何を言おうとしているか理解できる。

「一体、何人の"俺たち"を犠牲にしたんですかねぇ!? そこまで犠牲を払って、何を得られたんですかねぇ!? 今すぐ、俺を人間に戻す薬を開発できたんですかぁ!? あるなら、渡してくださいよ!!」

 クサマは勢いよく立ち上がり、聡子に向かって叫ぶ。明らかな嫌悪と怒りを顔に浮かべている。

 聡子はクサマの声に表情を厳しくしたまま、おもむろに口を開く。

「トモ、その男の言うことに耳を傾けないで。男の言っていることはでたらめよ」

「違うんですかぁ!? じゃあ、何をしていらっしゃるんです!? ねぇ? ぜひ、お子さんに教えたらどうですか?」

「えぇ、教えるわ。あとでゆっくりとね」

「今、言えねぇんですかい?」

「別にあなたはいなくていいわ。これは親子の会話ですもの」

 クサマは舌打ちをすると、智八の膝から足を離し、智八から一歩離れる。しかし、直後、その足を力強く振り、智八の右腕を蹴り上げた。

 不快な音が内部から響く。

 右腕の感覚が消えたと思ったが、すぐに熱い何かが右腕全体に広がって、そして強烈な痛みが襲う。

「あぁあああああああああああ!!」

 今度は我慢できなかった。経験したことがない痛みに涙を流し、耐えるように叫び、左で感覚を確かめようとする。だが、触ると余計に痛みが響く。

 透子が悲痛な声で、智八の名前を叫んでいる。聡子はますます険しい顔つきとなって声を荒げる。

「子供に手を出さないで!」

「だったら、従えつってんだろうが!」

 その喧噪を聞きながら智八は激痛に抵抗しようとしている。涙で歪む視界の中、建物の外から窓を通して、赤い光が動くのを確認する。耳を澄ますと、遠くからサイレン音が響いている。特殊部隊が到着したのだ。この建物を取り囲もうとしているようだ。

 智八以外も外の変化に気付く。

「くそっ、時間切れか。悪いが遠道聡子さん、あんたの命もここまでだ。研究資料を渡してくれないなら、あんた自体を狙うしかない」

 クサマはそう言って、聡子に近づこうとする。

 しかし、透子がその間に割って入り、両腕を大きく広げ、クサマの前に立ちはだかる。

「お母さんを傷つけさせない」

「透子、やめなさい。あなたまで怪我をしてほしくない」

「でも、この人、お母さんを殺そうとしてる! 黙って見てられない!」

 聡子は透子の肩に寄り添う。背後ではなく、隣り合う形だ。

「大丈夫よ。大丈夫」

「いいねぇ、親子愛だね。なら安心してくれ。二人ともあちら側に送ってやるよ」

 その言葉を聞いて、智八は力強く歯を食いしばる。顔を上げる。視界に映る姉と母。それぞれが肩を抱き、互いを守ろうとしている。あそこに行かなくてはならない。クサマに傷つけられた右腕と膝の痛みに耐え、床を這うように進む。クサマの足元までに到達すると、その足首に噛みつく。

「……邪魔をしないでくれるか、おぼっちゃん」

 クサマは智八の口を足の動きだけで振り払うと、そのまま床に踏みつける。頬からも嫌な衝撃が響き、口の中に鉄の味が広がる。

「トモ!!」

「ほら、お姉さんが心配してるだろ? だから、邪魔をするな」

 智八の口から情けない声が出る。それでも、智八はクサマをあきらめようとしない。

 母の顔を視界に収める。

 母親がやってきたことなど知らない。血のつながりもないのに、自分をここまで育ててくれた、そんな母親を特別意識するようなことをしてこなかった。今なら思い直せる。それは智八にとって恥じるべきものだった。もしかしたら母のやっている仕事は、世間から許されない行為といえるかもしれない。多くの犠牲を伴うものなのかもしれない。だが、それだけで母を見捨てるわけにはいかない。息子だからこそ、無償の愛を与えられてきたからこそ、真実と向かい合うべきなのだ。母の仕事はなんなのか、これまで何をしてきたのか、何を成し遂げようとしているのか。子供の自分でもできる範囲で支えたいと思う。親孝行をしなければならない。今度は智八が家族になろうと答えなくてはならない。

 だから、智八は歯を食いしばって、クサマの邪魔をする。

 震える膝を叱咤しながら立ち上がり、激痛でほとんど感覚がないにも関わらず、両腕に力を籠め、拘束を解こうとする。

 クサマは智八に向き直る。

「その根性を認めよう。なら、望み通りおぼっちゃんから始末してやるよ」

 子供の智八にもわかるほど、クサマから殺意を感じられる。

 クサマが動くまでの間、智八はどうにか抵抗することはできないか考える。怪我を負った自分のできるこどなど、たかが知れているかもしれない。しかし、少しでも抵抗して、一矢報いたいと思っている。母と姉、自分の家族を守るため、この体を捧げても構わないと思った。

 その時、一瞬だが過去の記憶が蘇る。公園の砂場で遊ぶ子供たち、自分に意地悪な態度を取って、砂場を独占する。姉の透子が彼らをなだめながら、自分の弟にも遊ばせてほしいとお願いをする。彼らの一人が大人ぶった態度で笑って泥団子を投げつける。それが姉の顔に当たり、泥が飛び散る。彼女の顔や服を汚す。智八は立ち向かわなくてはならないと思った。だから、右手を振りかぶった。幼い時の小さな拳を握って。

 そして、今、智八は右手を伸ばそうとする。震える体を必死に支える。膝が笑う。血の味が口から流れる。頬の痛みで、うまく口を動かせない。結束バンドを無理やり剥がそうとする。記憶に呼び起された感情が、体の中で暴れまわる。まるで、絵の具をごちゃ混ぜにするかのように、智八自身という存在を攪拌する。智八はその感情に従おうとする。

 痛みしかない、右腕を動かす。

 何かを掴むように。イメージする。

 ――なぜか、痛みが消えた。

 感覚が消えている。右手だけではない。視界が、音が、肌に伝わる空気や温度が、埃臭さがなくなった。

 誰かがこちらを見つめているように感じる。

 自分を見つめるのは誰だ?

 あの顔を覚えている。駅前で見たあの少年。

 悲しさを瞳に湛えて、こちらを見ている。

 あぁ、そうか。今わかった。なぜ、あの時の少年は悲しげな表情を浮かべていたのか。

 もう後戻りできないからだ。

 感覚が消えていたのは刹那であった。すべてが戻る。いや、逆にすべてが鋭くなっていく。この空間に存在するあらゆるものが自分の頭の中に流れ込んでくる。男が口の中で転がしている長い舌の動き、透子が感じる緊張と汗のにおい、聡子が唾を飲み込む音、付けている香水の香り。まさに、手に取るように理解できる。

 右腕に走る激痛が脳まで到達する。

 脳内に処理できないほどの情報が入り込む。まるで内側から火をつけられたように熱くなる。

 そして、突如思い出す。

 二つの影が合わさる。寄り添う影の間に入りたい。だから、その影に手を伸ばす。

 そのイメージに合わせて、智八は思い切り右手を伸ばす。痛みは感じない。結束バンドは外れている。右手は伸びる――クサマの胸を貫いて。

「は……?」

 智八にも理解できなかった。幻覚ではない。クサマの胸を確かに貫き、血が噴き出している。どす黒い返り血が智八の制服を汚していく。

 智八の右腕も黒く染まっている。しかし、それは返り血によるものではない。まるで、元からその色であるかのように、光を吸収して存在する。感覚は戻っている。だが、覚えている右手の感覚のそれとは違う。右手よりも長い、否、腕よりも長く感じられる。

 右手を戻そうとしてみる。その長い感覚は、智八の意思に従い、ゆっくりと縮小する。そして、クサマに開けた穴から抜ける。抜ける拍子に、血がドロリと流れ出る。

 戻した右手は長い二本の黒い触手と化している。

 その見た目、その力強さ、智八にも理解できる、明らかに人間ではない。

「ははっ……この、タイミングか」

 クサマが虚ろな目で、智八を見つめる。口元には笑みを浮かべている。

「ようこそ、同類よ」

 歓迎を示すように、力ない動きで両腕を広げる。

 最後に乾いた笑いを浮かべると、クサマは崩れるようにその場に倒れこむ。その両目から生気を感じられない。

 智八は恐る恐る自分の右手を見つめ直す。黒い二本の触手が緩やかに螺旋を描いている。五本指を持つ、元の形のものはない。

「なに、これ?」

 自分に起きた変化を飲み込めない。まだ、これは本当に自分の右手なのか、疑問に思う。左手で触ってみる。人肌ではない、分厚い肉を触っているかのようだ。

 智八は思い出したかのように家族の様子を見る。

 二人とも信じられないものを見るような眼だ。心なしか聡子の目には涙のようなものが浮かんでいる。

 静寂な空間を切り裂いて、無数の重い足音が響いてくる。

 階段の奥から重装備に身を包んだ集団が現れて列を成す。聡子が呼んだ特殊部隊『SaOT』だ。彼らが装備する銃にはフラッシュライトが装着されていて、それらの光が一斉に智八に向けられる。

「動くな」

 聞き覚えのある鋭く低い声。あの時駅前で聞いた声と同じかもしれない。智八を助けてくれた人の声。

 だが、今その言葉は智八に向けられている。

「待って、少し待って」

 聡子が絞り出すような声で、隊員たちに呼びかける。

「博士、下がってください。ご息女も一緒に」

「そうじゃないの、ちょっと聞いて」

 会話を聞きながら智八はゆっくりと後ずさる。

 どうしてこんなにもたくさんの敵意を向けられている?

 智八の背中が壁にぶつかる。気づけば端まで追い詰められていた。首を捻って後ろ見ると、窓ガラスがある。建物の外に並ぶ特殊部隊の車両やパトカーが見える。それらの景色の中央に見慣れない影が映っている。

 すぐに鏡写しの自分だと気づく。

 窓ガラスに映し出された自分自身の姿を見て、智八は愕然とする。右腕だけではなく、右肩から顎の右半分にかけても黒く変色している。鏡写しの自分を見ながら、左手でその箇所を触って確かめる。右腕を触った時と同じ感触だ。

「違う……」

 震える声で否定しながら智八は皆のほうへ振り返る。

「これはボクじゃない」

「驚いた、対象はまだ理性があります」

 部隊をまとめているだろう男に向かって、聡子が再び声をかける。

「お願い、聞いて。銃器の使用はやめて。あの子は……あの子は」

「しかし、通報では脅迫があったと伺っております。お子さんを人質に取られたと」

「それはあっちのほう」

 聡子は、崩れて動けなくなった、胸に穴の開いたクサマに指を伸ばす。

「えっ、では、あちらは……?」

 部隊から流れる困惑の空気をよそに、智八は姉の姿を探す。

 透子はその場から動いていなかった。

 姉と目が合う。

 智八はゆっくりと右手を伸ばす。黒い触手が意思に従って伸びる。

 あの温もりが欲しい。

 幼いころからずっと自分を守ってきたあの柔らかな抱擁。心の支えとなってくれた存在。いつだって味方だった。だから、それを求める。右手を出して、与えられるはずのものを掴もうとする。

 触手は彼女が手を伸ばせば届きそうな位置まで来る。

 だが、透子は手を伸ばさなかった。

 その顔をもう一度確かめる。

 見たことがない表情で、こちらを見つめていた。

 どうしてそんな顔をしているのか。なぜ、手を差し伸べてくれないのか。

 その顔はまるで『バケモノ』を見ているかのような――。

「うわぁああああああああ!!」

 自分の中で何かが音を立てて崩れた。心の拠り所を失い、何もかも否定されたような気持ちになる。現実の自分を受け入れられず、家族にも拒絶された。自分の居場所は、今失われてしまった。

 智八は大きく右腕を振るって、窓ガラスを叩き割る。痛みも反動も感じない。あまりにも脆く感じた。

「っ! 総員、撃て!」

「駄目! 撃たないで!!」

 銃声が響くより先に、叩き割った窓ガラスから身を投げた。

 しかし、下界にはさきほど窓越しに見たように、特殊部隊が待機して、こちらに向けて、銃を構えていた。

 隊員達の間で広がる緊張による汗の匂いが届く。引き金を強く握ろうとする音が聞こえる。

 無我夢中で右腕を空へ伸ばす。勢いよく伸びる触手が何かを掴んだ。体のほうを引き寄せる。屋上に設置されている、使われていない貯水槽だった。貯水槽の下に体を投げられる。火薬の臭いが鼻の奥に届く。直後、智八の背後で何かが空間を割いていく。発砲された銃弾だ。とにかく逃げなくてはならない。貯水槽のある屋上から、隣のさらに高い建物に向かって、触手を伸ばして体を引き寄せる。息つく暇もなく、次の建物に照準を絞って向かう。

 建物から建物へ。掴めるものは何でも掴み、体を引き寄せ、また触手を伸ばすという動作を繰り返す。まるで元からその動きを知っていたかのように、流れるような速さだ。どうしてこんなことができるのか智八にもわからない。だが、今は理屈を考える余裕はない。

 驚くほどあっという間に、元居た廃墟は見えなくなっていた。もう銃撃を食らうことはないだろう。少しの余裕が生まれたことで、改めて思い起こす。自分に起きた変化、そして、姉の表情。向けられる恐怖と敵意。自分は拒絶されたという事実。今、智八はひとりぼっちになった。

 視界が滲んだ。

 涙が溢れている。止めたくても止められない。こぼれる涙は風を受け、緩やかな軌跡を描き、落ちていく。

 声を出して泣く。

 すべてを失った智八は、ただ泣きながら逃げることしかできない。

 行く当てもない。どこにいけばいいかもわからない。ただ進む。自分を捨てた存在から目を逸らしたくて。

 智八の姿は、街の陰間に消えていくのだった。

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