01 - 02 手を引っ張られる

朝、智八は目を覚ます。悪夢を見るようなことはなかった。しかし、時計を見るといつもより遅い時間だった。眠りに入った時間が遅かったらかもしれない。

 リビングに顔を見せると、また家族がそろっていた。皆で朝食を取ることになった。もしかしたら、両親は気を使って、智八のために時間を合わせてくれたのかもしれない。そんな些細なことでも、智八にとっては嬉しかった。

 姉の透子もいつもより智八に優しく接してくれている気がする。少しでも、自分の嫌な思いを減らそうとしてくれているのかもしれない。

日常を保とうとする食卓に、亀裂を生んだのは、テレビだった。

 テレビから流れてくる速報の内容。それは昨日、智八自身が直面した事件だ。アナウンサーが緊張感のある声音で原稿を読み上げ、カメラが中継へと切り替わる。映された画面には警察による規制線が張られた、あの駅前。そこは見慣れた光景であるはずなのに、テレビを通して見る現場は、まるで知らない場所を映し出しているようだった。

 脳裏に昨晩の光景がよぎる。あの少年の絶望した表情、そして、充血した目。

「父さん……テレビ、消して」

 聞き慣れた落ち着きのある低め 声が、智八を現実に引き戻した。母の聡子だった。彼女はこちらを心配そうな顔で伺っている。視線を動かすと、姉の透子も同じように、こちらを見ている。見つめられ、智八は食事の手が止まっていたことに気づく。

「あぁ、そうだな」

 努は言われるまま、近くに置かれていたリモコンを手に取ると、スイッチを押して、テレビの電源を落とした。遠道家の食卓に静寂が訪れる。

 食事の場で、テレビから流れてくる情報は、遠い世界の話だったはずだ。それが今は肌で感じられるほど、近くなっている。あのとき感じた恐怖、焦り、心臓の高鳴り。僅かに感じた煙っぽさ。人々の悲鳴。サイレン音。名も知らぬ少年が歪んでいく様と捕らえられる一部始終。

 どれも明瞭に思い出せる。

 テレビやインターネット上の映像や音声なんかではない。自分の五感が記憶している。目を閉じると、すぐに記憶を映し出せる。

「大丈夫?」

 姉の声。智八はいつもこの声に安心感を抱く。辛いときはいつも透子が優しくしてくれた。怪我をしたときは手当をしてくれて、怖い思いをしたときは何も言わず抱きしめてくれた。声、肌の感触、伝わる匂いが智八を恐怖から引き離してくれた。

「大丈夫だよ、ありがとう」

 智八は笑顔を浮かべることができた。

 非日常的な体験をしても、こうして日常へと連れ戻してくれるのは姉だった。智八の中で透子の存在は大きく、自分の精神の拠り所となっている。過去を振り返っても、隣に寄り添う姉との思い出が大半を占めている。

 そうだ、姉にこれ以上心配をかけたくない。

 大切な家族のため、早く一人前にならなければ、と自分に言い聞かせる。

 智八は朝食を食べ終え、いつもどおり学校に行くことを決めたのだった。




 通学路を歩く智八。その表情は強張っている。歩く先を伺うように、視線を上げる。見えてきたのは駅前。そこは昨日とは違う、異様な光景が広がっていた。テレビで見た映像のまま、規制線が張られ、警察が見張りとして立っている。警察の目の前で、いくつものマスメディアが集まり、カメラやマイクを手にしている。そして、そんな記者たちのさらに後ろに、野次馬がまばらに集っている。スマートフォンを取り出し、撮影するものもいる。

 智八は思わず足を止めてしまう。

 ほんの数十時間前、智八はあの場所にいた。襲われそうになり、涙を流しそうになり、助けられた。テレビの映像だけで、記憶が呼び起こされた。実際の現場に訪れても、脳裏から様々なものが浮かび上がろうとしていた。

 あのときの体験が五感に染み付いていて、それらがいくつもの断片となり、大きな渦を描き、智八の体にまとわりついた。

 動けない。

 かつて少年だった存在に見つめられたときと同じように、体が動かなくなっていた。喉が渇きを覚え、自然とつばを飲み込む。視界が揺れ、視点が定まらない。規制線の奥を覗き、警察を見て、メディアの腕章に書かれた文字を読み、野次馬たちを観察する。だが、目で確認した情報は何1つ頭に入らない。

 考えるな、考えるな、考えるな。

 自分に言い聞かせても、体は従わない。恐怖か、人間の本能が感じる危険信号なのか。ぐちゃぐちゃになった感情が、智八を縛り付けている。息苦しさを感じる。呼吸が荒くなっているのがわかった。

 智八は誰かに見られていると感じていた。まるで、この空間において、異質なのは周りではなく、自分であるかのように、こちらを見つめるような感覚がある。その視線が1つなのか、複数あるのかわからない。だた、得体のしれない存在に、見定められているような気がしていた。視線やカメラを向けられているのは自分ではないかと思えてきてしまっていた。

 気のせいだ、学校に行かなくては。

 足がゆっくりと動く。早く歩きたいのに、まるで重りをつけられているかのうように感じた。鞄を強く握りしめ、奥歯を噛み締め、全身に力を込めていく。重量のある荷物を運ぶように、大袈裟に動こうとした。

 そこで気がつく。

 鞄の紐を握っている右手が異様に熱さを帯びていた。感覚も鈍く、違和があるほどの重みも感じる。自分が思っている以上に強く握りしめていたせいなのか。それとも何か別の病気か何かなのか。

 智八の想像が憶測を生み出す。

 テレビやインターネットで得た中途半端な知識、そして、実際に目の当たりにした経験、これらが智八の頭の中で妄想を作り出していた。

 自分が直面したから、まさか自分も発症するのか。いや、これは考えすぎで、単に緊張しているだけ。それでも、この痛みは異常だ。あれから時間も経っていないのに、こんな影響するのか。自分の心の弱さが見せているのか。

 智八は冷や汗をかいた。

 体が震えてきている。こんなにも寒気がしているのに、右手だけは熱さを帯びている。まるで自分の体はすでに死に体で、右手だけが生きているかのように思えた。右手を開き、見つめる。特に身体的な変化はない。いつもの右手だ。でも、今このときだけは自分の右手ではないと思い込んでしまう。

 体中を襲う、この理解できない症状はなんなのか。

 助けを求めて叫ぼうという思いに駆られる。心の奥底から、どこかの誰でもない、そこにいる人々に向けて、ただただ助けを求めたいと思い、喉が震えた。

 そのとき、宙を彷徨うように力なく伸ばされた自身の右手が掴まれた。

 びっくりして、掴んでいる人へ振り返ると、心配そうに眉を歪ませている透子だった。いつの間にか、彼女はそこにいた。姉の顔を見て、智八の心の奥に温かい光が灯ったような気がした。

「帰ろう、トモ」

 ただ一言、姉はそう言った。掴まれた右手の緊張が溶け、体中を襲っていた悪寒がなくなっていく。息苦しさも消え、呼吸が浅くなる。

 柔らかく、姉のこちらを掴む手から伝わる温もりが、智八の心を包もうとしていた。

「……うん」

 智八もただ頷き、姉の手に引っ張られる形で、歩いてきた道を戻りだした。

 引っ張られながら気づく。自分を見ている人間など誰一人いなかった。遠巻きに現場を見る人、メディア、警察。視線のほとんどは駅前へと注がれていた。悪寒や緊張だけでなく、右手にあった熱さも消え失せていた。

 結局すべて杞憂に過ぎなかった。

 ただ危険な目にあった経験が、自分の中に残り続け、それが浮かび上がっていただけ。あの光景は自分の中のトラウマとなって、今後も同じようなことになるかもしれないと、智八は自覚していくのだった。




 姉に手を引かれ、しばらく歩いていた。

 すでに自宅近くまでに戻ってきていたが、透子はなにか思い出したかのように頷くと、こちらを振り返り、優しい声音で話す。

「ちょっとだけ、寄り道」

 こちらを誘うのような感触で、智八の腕を引く。腕を引かれながら、智八は懐かしさを感じた。

 思い起こせば、幼いときはこうして姉に引っ張られることが多かった。家族との旅行、二人で近場への冒険、いつも智八は姉に付いていった。智八は泣き虫で、人前に出るのが苦手だった。だから、姉に頼るように、傍にいて離れなかった。

 そこまで思い出して、智八は過去の自分と今の自分を見比べて、頭を振った。何を言っている。今も大して変わってない。怯えて、姉に支えられ、引っ張られている。何も成長していない。

 自虐の笑みを浮かべていると、姉が歩みを止めた。智八も顔を上げて、見回した。

 そこは幼い頃に何度か遊びに来たことがあった公園だ。遊具はブランコしかなく、あとは小さな砂場が大人しく隅っこにあるだけのもの。学生になってから、遊びに来ることはなくなった。ここに来たのは、何年ぶりだろうか。

「トモ、覚えてる? あそこの砂場が好きだったよね?」

 透子が公園の隅を指差す。小さな長方形の砂色な平場、長い間誰も遊んでなかったのか、跡一つない。その小さな空間で、自分だけの砂を形作るのが好きだった。そして、手や顔を汚しながら作ったものを姉に見せて、褒められるのも好きだった。

 しかし、なぜ突然姉はこの懐かしい場所へ連れてきたのだろう。

「昔、あそこの砂場を占拠して、誰にも使わせないって、いじわるな子達がいたよね。トモはあそこで遊びたいけど、いじわるだから使わせてもらえない。だから、私が代わりに使わせてってお願いしに行ったの」

 話を聞いて、だんだんと思い出す。引っ込み思案な性格が災いしてか、少しでも強引な態度をする人が苦手だった。そのいじわるな子達は、子供用のおもちゃのスコップやバケツを、あたかも最新の武器であるかのように振りかざして、智八を威嚇してきた。

 見かねた姉が、そのいじわるな子達に話しかけに行ったのだ。

「その時、いじわるな子達は私相手にもすごく血気盛んだったよね」

 透子の言う通り、いじわるな子達は年上である透子にも食らいつこうとした。そのうちの一人が砂を水で固めて作った、団子を透子に向かって投げたのだ。

 ふと、その時に抱いた感情が、時を隔て、再び智八の胸中に湧いてきたような気がした。

 智八は、団子を投げつけられた姉とゲラゲラと笑う子供達という光景を見て、怒りにも似た感情が抱いた。涙を流し、泣き叫びながら、そのいじわるな子達に向かって、殴りかかったのだ。自分の感情と同じぐらい熱くなった右手を振りかざして。

 思わず、自分の右手を見下ろす。熱くなっているような感触はまったくない。

「トモは、ちゃんと勇気ある子だったよ」

 顔を上げて、姉の顔を見る。そこに浮かんだ暖かな笑みを、智八は昔から知っていた。

 姉の顔を見つめて気づく。視線が同じだ。昔は見上げるばかりだった姉の表情は、いつの間にか智八と同じ高さになっていた。いや、僅かにだが智八が見下ろしているかもしれない。自分はこんなにも背が伸びたのか。

 透子が告げたいことがなんとなくわかってきた。

 励ますと同時に、昔話をして、智八の成長を振り返ろうとしてくれたのだ。身長が伸びたこと、テストの点数が上がったこと、ちょっと早く走れるようになったこと。どんなに些細なことでも透子は褒めてくれた。それが嬉しくて、智八はいつも姉にいろんなことを報告した。

 透子が公園のベンチに座る。いつもそこに座って、砂場で遊ぶ自分を見守っていた。

 智八も姉の隣に腰を下ろした。そして、右手の感触をゆっくり確かめながら、口を開いた。

 昔からそうだったように。ちゃんと伝えるために。

「昨日、見たのはね。...僕と同じぐらいの子だった」

 口から出るのは昨日体験した、あの凄惨な現場のこと。だが、事実については、すでに両親含めて話している。

 これから話すのは、その時抱いた智八自身の感情だ。

「辛そうだった。かけている眼鏡が傷だらけで、鞄も持ってなくて、それで、ずっと泣きそうな顔をしてて...」

 話しながら脳裏に浮かぶ。あの少年は何かに救いを求めているような気がした。

「本当はあんな風になりたくないのに、自分自身を抑えられないような感じで、苦しんでて...」

 透子は黙って聞いている。それが自分の役割であると理解しているようだ。だから、智八は安心して言葉を紡げる。

「あの子と目が合ったんだ。真っ赤に充血した目が……それが、忘れられなくて。ずっと、頭の中に焼き付いて、て」

 あの目。彼は、きっと。

「まるで……助けを求めているみたいだった」

 智八は襲われなかった。特殊部隊が到着するまでの間、襲うタイミングならいくらでもあったはずだ。だが、あの時の少年は、ただ智八を見つめるだけで、襲おうとはしなかった。彼の目的が、無差別に人を傷つけるだけだったならば、智八も無事では済まなかった。

 彼が映画などでも見られるように、わかりやすく"怪物"であったならば、智八も気持ちの整理ができていたかもしれない。だが、彼は智八と同年代で、同じように学校で授業を受け、友達と談笑し、遊んでいたかもしれない少年だった。

 だから、あの時初めて会ったはずの、あの少年を他人事のように考えることができなかった。

 智八はあの少年を通して、鏡を見ているかのような恐怖を覚えていた。

 鏡に映る自分を見つめるかのように、あの少年の瞳が智八を捉えていた。彼が涙を流せば、智八も泣く。彼が笑みを浮かべれば、智八も笑う。

 そして、彼が発症すれば……。

「ボク……ボクは大丈夫なのかな。ボクは……あの子みたいに……」

 すると、いつもより力強く抱き寄せられた。智八も抵抗することなく、身を寄せる。

 透子が智八の頭を胸に抱き寄せていた。頭の上に掌を乗せ、撫でていく。幼いころから幾度となくやってきた動作。

「大丈夫。きっと大丈夫。その子はきっと良くなっているはずよ」

「本当に?」

「うん。今もいろんな人が研究しているの。お医者さんや薬を作る人。だから、きっと良くなるよ」

 透子の声。優しく触れてくれる手。ほんのりとした体温。

 それらが智八を包み込んでいく。抱かれながら、智八はこの感触にずっと沈んでいたいと思う。今だけは理性なんてものは捨てて、心を落ち着かせるために、甘えてしまってもいいかもしれない。昔から変わらない関係性だ。ずっとこうして育ってきた。

 智八は姉に抱かれながら想像する。

 心のどこかで、自分も発症し、あの子のように怪物となってしまうのではないかと恐れていた。

 例えば、あの時出会っていたのが、自分と違って年配の人だったり、女性だったりしたら、智八はここまで戸惑うことはなかったかもしれない。だが、智八と同年代で、自分とほとんど同じような平凡な人生を歩んできたであろう子が、変わり果てていく様を目撃してしまった。

 それが何よりも衝撃であった。

 発症に至る原因などはいまだ解明されていない。ゆえに、あの少年があのようになってしまった理由を、智八は知る由もない。何かまだ人類が見つけられていない驚異的な病原体がいるのかもしれない。それは遺伝性があること、あるいは他者に感染すること、などそうした危険性もあり得ることだ。あの少年の身内に発症者が出ていたのかもしれない。それに近いきっかけがあの少年の身近で起こっていた、とか。

 智八は間近で見てしまったがため、自分に伝播するのでは、という恐怖に駆られていた。

 しかし、今その恐怖は心の奥底から取り除かれている。

 肌から直接伝わる姉の体温は、智八に落ち着いた心を取り戻すのに十分であった。

 ずっとこうしていたい。

 仮に、周りから非力な存在に見られるようなことがあったのだとしても、この温もりは何物にも代えがたいと思う。

 それが、智八の本心だった。

 

 


 結局、智八は学校を休むことにした。

 電話で担任の先生に伝えたところ、先生も事情を察してか、あまり深堀してこなかった。もしかしたら、クラスの中でちょっとした話題になるかもしれない。けれど、それより今は智八自身の心を休ませることが重要だ。――という考え方は、透子の受け売りである。もはや姉の言うがままとなっている智八だった。

 透子とは公園で別れ、彼女はそのまま大学へと向かった。

 智八が家に戻ると、玄関に両親の靴が残されていることに気づく。まだ出勤していないのだろうか。なんとなく声を出さずにリビングの扉を開けようとした。

「……タイミングが悪いの」

 母の声が聞こえてきた。両親がそろって自宅に残っているという珍しい状況と、その厳しい声音から、智八は緊迫した空気を感じ取る。

 思わず扉の前で立ち止まり、耳をそばだてた。

「じゃあ、いつ話すんだ? そろそろ話すと決めたじゃないか」

「そのつもりだったのよ。でも、こんな……こんなことに巻き込まれるなんて……。お父さんは適切だと思うの?」

「……俺は大丈夫だと思う。あいつは成長している。もう大人になったと判断していいだろう」

「大人に成長したかどうかなんて関係ないの。今が適切な時ではないという話よ」

「いつでも大丈夫だと思う、それが俺の意見だ」

「なら、もう少し後でもいいわね?」

「……母さん……では、いつ話すんだ?」

 どうも智八のことについて話をしている様子だ。父と母の会話は堂々巡りしているように感じる。何か伝えたいことがあるらしいのだが、見当がつかない。

 智八は扉を開ける機会を逃し、どうも開けづらくなってしまったと感じていた。

「あいつを迎え入れたとき、高校生ぐらいの年齢になったら伝えようと決めたじゃないか。本当は入学時にって話だったが……それも母さんが渋った。いろいろと新しい体験をして大変な時だからって……だから、せめて夏休み前までには話しておこうって」

「夏休み前までには話すわ。けど、今じゃないの。わかって。もう少し、あの子を休ませてあげて」

 智八の心の奥底で鈍い痛みが走る。今の会話は聞いてはいけない内容だ。

「後に引きずるほうが問題だ。それに話したところで、我々の関係が一変するわけではないだろう。いつも通りだ。家族だろう」

「……そうだけど……そうかもしれないけど」

 なぜ、家族という関係が重要になるのか。迎え入れるとは何のことか。

 ――ボクはいったい……。

「血縁の有無なんて関係ない。あいつは俺達の子供で、家族だ。それを信頼しよう、母さん」

 そして、なぜか、智八はそのタイミングで扉を開けてしまった。取っ手にかけた右手がいつもより熱く感じる。

「……トモ」

 二人はリビングと直接つながるダイニングにいた。食卓に向かい合って座り、話し合っていたようだ。

 智八から見て手前の椅子に父がいて、その奥に母が座っていた。

 自然と母と先に顔を合わせる形になる。母が驚きと悲しみを混ぜ合わせた表情でこちらを見つめていた。その目に見つめられると、こちらまで悲しく感じてきてしまう。

 父がこちらを振り返る。

「聞いていたのか、今の話」

 父は表情を変えない。いつも通りを演じようとしていると見て取ったほうがいいかもしれない。

 智八は父の問いかけにゆっくりと頷いた。

「そうか……いや、ちょうどよかったのかもしれない。座ってくれ。ちゃんと話す」

 父はそう言うと、自分の隣の椅子を指さした。

 父に従い、指定された場所に座りながらも、智八はひどく衝撃を受け、まともな思考ができない状態であった。先ほどまでの両親の会話がまるでくぐもった声で、頭の中で再生される。まるで現実の出来事ではなかったかのように。

 しかし、同時に、この場の空気や両親の表情から、これが現実であることを疑いようがなかった。

「すまない。本当はちゃんとした形で伝えたかった」

 父が話を切り出した。

「丁寧に説明するぞ。……まず、トモ。お前は俺と母さんの養子だ。直接血はつながっていない。……でも、親戚な関係でもある。正確には、お前は父さんの従兄の子供なんだ。お前が小さいとき……お前は覚えていないかもしれないが、その従兄家族は……不慮の事故で亡くなってしまって、な。お前を誰かが引き取る必要があった。施設に預けるわけにもいかなくて。それで、当時父さんは母さんと相談して、お前を引き取ることにした。透子もいたから、もしかしたら、あの子もお前の面倒を見てくれるかもしれないと思ってな」

 父はそこで一息ついて、また口を開いた。

「本当はもっと前にちゃんと伝えるつもりだったんだ。母さんと相談して。……もしかしたら、お前が覚えているかもしれないことも考慮して。……本当はお前が高校生になったタイミングで伝えようと思ったんだが……その、いろいろと機会を逃してしまって、な。すまない。もう少しちゃんとした形で話すべきだった」

 そこで、改めてといった形で父は智八の顔を見つめてきた。

 母は少し曇った表情で、ずっとこちらを見ている。

「理解、してくれたか?」

 智八は理解できていた。ただ、受け止める余裕はない。

 話を聞いて、正直記憶はまったくなかった。自分の実の両親のこと、顔も名前も思い出せない。物心ついた時から、智八の両親はここにいる二人だった。だからこそ、今の話を聞いて、衝撃を隠せない。自分がそのような境遇にあることなど、思いつきようがない。母が心配していた理由がわかる。昨日、悲惨な現場に遭遇して、精神が疲弊しているときに、今のような事を告げられても、受け止められなかった。

 その時、ふと頭の中に姉の顔が浮かぶ。あの柔らかな、笑みを浮かべた、顔。

「姉さんは、知っているの?」

 智八の記憶は、常に姉と一緒にあった。前を歩く姉の後ろについて回ってばかりの思い出。

 一緒に笑った記憶。泣いたときに慰められた記憶。風邪をひいたときに看病してもらった記憶。勉強や料理を教えてもらった記憶。暖かな腕の中で、智八を抱きしめてもらった記憶。

 昔から、姉はそのことを知っていて、自分と一緒にいたのか。透子はわかったうえで、智八の面倒を見ようと思っていたのか。

 智八の問いに、父が答える。

「あぁ、知っている。それを理解したうえで、ずっとお前の面倒を見てもらっていた」

 瞬間、なぜか心の奥底で、冷たい何かが沈んでいくような感覚があった。この突き刺すような、寒いものはなんだろうか。

「そう……なんだ」

 頭では理解しているが、胸の内では拒みたい思いが募っていた。なぜ、そんな思いが湧き出ているのか、今の智八にはわからなかった。

 しばし、沈黙が流れる。両親は智八の答えを待っているようだ。

 智八は笑って答えようと思った。だが、なぜか顔が強張る。体うまく動かせないでいる。何を黙っている。笑って、受け入れればいい。父も普段通りでいいと言ってくれていた。理解できている。それなのに、体が動かない。心が重い。動きたくないと感じていた。

「ごめん……ちょっと部屋に戻るね。…………あと、言い忘れてたけど……今日、学校休むから」

 智八は重いものを持ち上げるかのように立ち上がると、自分の部屋に向かうことにした。足取りが重い。抱いた感情が重しのように体全体にのしかかっていた。リビングから出ると、背後に感じる二つの視線を断ち切るように、扉を閉めた。

 扉の奥から、誰かの唸るような声が聞こえた気がした。


 自室に入ると、智八はベッドに倒れ、黙って天井を見つめていた。

 どうして、素直に反応できなかったのだろう。体や心が重く、気持ちの整理がつかない。自分が家族と血がつながっていなかった事実がそんなに悲しかったのか。両親は自分に伝えるために、かなり悩んだはずだ。智八が覚えているかもしれないことも考えて、どのように伝えたらいいか、あらかじめセリフを用意するように、言葉を選んでいたに違いない。

 だから、智八が笑って受け止めなければならない。さっきの反応は父と母を傷つけてしまった。たとえ、血が繋がっていなくとも、否、繋がっていないからこそ、ここまで育ててくれた恩に答えなくてはならない。もう一度、笑って「お父さん」「お母さん」と呼べばいいのだ。

 そう頭では理解できていた。

 さきほどまでの両親の顔が浮かぶ。父は明るく、何でもないように振舞おうとしていた。一方、母はいつもよりも表情が重く、厳しい印象を受けた。彼女はどうやら智八に真実を伝えるタイミングは今ではないと考えていたようだ。

 智八は昨日の母の様子を思い出す。朝食の席の中、珍しく話しかけてきた。その声はいつもより優しさを感じられ、表情も柔らかかった。もしかして、すでに両親は真実を伝えることについて話し合いをしていて、そのことがきっかけで聡子はあのような感情を表に出したのだろうか。

 ふとかつて両親が喧嘩していた光景を思い出す。二人は滅多なことで喧嘩しなかった。口論さえもしない。だが、かつて二度、大きい口調で口論する二人を見たことがあった。そのタイミングは智八が小学生の時と中学生の時だ。もしかしたら、その時から自分の立場を伝えようと考えていて、それをきっかけとした話し合いに発展したのだろうか。二人がなんて言葉を交わしていたかは覚えていないが、自分が場に姿を見せると、二人とも喧嘩を止めて、お互いなかったことのようにふるまっていた。やはり自分のことに関連した喧嘩だったに違いない。

 智八の脳裏に姉の笑顔が浮かぶ。

 彼女もずっと智八のことを把握したうえで、姉として接してきてくれた。家に帰るその直前も、姉によって癒されてきたばかりだ。両親よりも、彼女と血が繋がっていないと聞いたとき、より心がざわついたかもしれない。彼女から与えられた温もりが、手の内からサラサラと流れ落ちていくような感じがする。

 自分はまた姉の前で笑えるだろうか。

 智八は思い返す。父が言っていたこと。自分の実の両親は事故で亡くなったのだそうだ。一体どんな事故だったのだろう。今の両親に聞けば、答えてくれるかもしれない。でも、それを聞いたところで、何を得られるのか。事故の詳細を知っても、現状が変わるわけではない。自身の心境も同じだろう。

 ふと、智八は想像してしまう。

 ――もしかして、OBR発症者に関わることなのでは?

 胸の内が急速に締め付けられるような感覚が起こる。体中が冷たくなり、変な汗が浮き上がる。頭の中が悲観的な考えで埋め尽くされようとしている。手先や喉元が震えているように感じてきた。

 ――もしも、実の両親がOBR発症者だとするならば?

 もし発症に遺伝性があったとしても、智八は両親と姉の姿を見て、安心することができていた。だが、今、彼女たちと血の繋がりがないと言われた。そして、自分の実の両親が、詳細が不明な不慮の事故で亡くなったと知らされた。

 発症は遺伝するのではないか。

 智八は未知の病原体に体を蝕まれているような恐怖を覚える。体温が奪われ、体の奥底に得体のしれない存在が潜んでいるかもしれないと、落ち着かなくなる。恐怖は外ではなく、体の内側にいる。誰にも解明されていない、不気味な存在。

 その恐怖はいつの日か、智八を異形のものへと変貌させる。

 あの少年の目。悲しそうな目。

 今の智八も彼と同じような目をしているだろうか。無意識に体中をさする。鳥肌が立っているぐらいで、どこか変化しているところはない。普通の人間の体をしている。しかし、それも今だけなのだろうか。思いもむなしく、いつか発症してしまい、ただ黙ってそれを待つだけしかできないのか。

 嫌だ。あの少年のようにはなりたくない。

 智八は深呼吸する。体中に血が巡っていることを確かめるように、息を吸う。そして、息を出しながら、肺や心臓といった内臓が正常に動作していることを感じ取ろうとする。それが人間である証だと信じるために。

 深呼吸を繰り返すうちに、眠たくなってきた。

 そういえば、発症者は夢を見るのだろうか。そもそも眠ることがあるのか。

 もしかしたら、眠気を感じ、夢を見ることがあるのならば、きっとそれも人間である証拠だろう。

 智八はそう自分に言い聞かせて、眠りへと落ちていった。

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