手を伸ばして

白丸 アキラ

01 - 01 朝食は手作りで

 少年は夢を見ていた。

 鮮明ではない景色。どこかで見たことあるような気がするし、初めて目にする光景のように思える。そんなおぼろげな世界の中で、少年は立って、誰

かを探していた。誰を探しているのかはっきりしない。景色も、自分の心も曖昧に作られていた。

 少年は目の前に伸びる影を見た。

 少年を囲むような影を見て、少年は安堵している自身の気持ちを感じた。なぜこの気持ちが生まれるのかはわからない。

 きっとそれはあたたかい。少年はそう思い、おもむろに右手を伸ばした。

 しかし、少年の思いとは裏腹に、影はすっと少年から離れていく。輪郭がぼやけていくように、影が遠ざかる様は、ぼんやりとした景色の中に溶け込んでいくかのように思えた。

 少年は悲しさと寂しさが入り混じった感情を抱いた。心が締め付けられるような気がして、少年は影を追いかけようとした。だが、体に力を込めてい

るはずなのに、思うように前へ進まない。影との距離は詰まらない。そればかりか、影は一層と景色の中に消えていこうとしていた。

 嫌だ。

 少年は声を出して叫び、右手を伸ばす。しかし、声は出ない。夢の中で、少年は大きな口を開けて、喉を震わせても、声として発せられることはなか

った。ただ虚しく右手が宙へ伸ばされる。何も掴めないその右手を。

 腹の底から熱いものがこみ上げる。目元から涙が1つ伝った。

 何も掴めるはずのない、右手を影に伸ばして強く握りしめて、叫んだ。

 ひとりにしないで。




 光を感じて、遠道智八えんどうともやは目を開けた。

 視界の中、カーテンの僅かな隙間から、やわらかな朝日が差し込んでいた。窓越しに小鳥の囀りが聴こえる。まどろみの中、徐々に意識が冴えていく。

 智八はゆっくりと上体を起こしていく。

 見下ろして、右手強く握りしめられていることに気づく。指先がほのかに赤くなっている。その拳を見て、智八は直前まで見ていた夢を思い出そうとした。脳裏に浮かぶ景色がどれも不鮮明であった。この強く握りしめられた右手で、何かを必死に掴もうとしていた気がする。

 後味の悪い感情が喉元にこびりついたように思え、一つ唾を飲み込んだ。こんな重い気持ちを抱えて目覚めるほどに、悪夢を見ていたのだろう。

 小鳥の歌声はまだ響いている。こちらの気持ちなど知る由もない。

 智八はベッドから降りると、カーテンを全開にして、朝日を浴びた。太陽の光を受ければ、気持ちの悪い目覚めを癒やしてくれると思ったからだ。窓からの景色、軒先に小鳥が2匹止まっている。日差しを受けながら、しばらくその兄弟のような小鳥たちを眺めていると、先程まで智八の頭の中に漂っていた淀んだ空気は消えていった。陽の光が放つ力は偉大だ。

 一つ深呼吸をして、智八は自室から洗面所に向かう。顔にまとわりついていた眠気ごと洗い流す。鏡を見ると、自身の顔がそこにある。少し癖のある黒髪を見て、また伸びてきたかもしれないと考える。

 1階に降りると、台所からウインナーを焼く音が聞こえてきた。朝食を準備しているのは、智八の姉である透子とうこだ。彼女は長い栗色の髪を一本にまとめている。時間に限らず、食事当番は大体彼女だ。智八も多少手伝えるが、彼女には及ばない。

 智八は食卓越しに声をかける。

「おはよう、姉さん」

「おはよう、トモ。もう少しだから、待っててね」

「手伝うよ」

 智八は食器などを並べていく。こうして、姉と一緒に家事などをすることが好きだ。正確には、家事などを手伝ったときの姉の喜ぶ顔が見たい。彼女の笑顔を見て、彼女に褒められると、智八は心が満たされる気持ちになる。

「今日はお父さんもお母さんも一緒に食べるって」

「二人とも? 珍しいね」

 智八の両親は共働きで、二人とも不規則な生活リズムだった。父親が智八たちよりも先に家を出るときもあれば、母親はまだ就寝中ということもあった。彼らの仕事柄、予め決められた時間に出社しなくていいとは聞いているが、それにしても奇妙に思える。智八は父も母も何かを開発する職業であるというのは聞いたことがあった。

 姉の透子は智八と同じリズムで生活していた。大学生で智八と同じく学業に勤しむ立場である。智八と違って、講義がない日があり、そういったときは大抵アルバイトをしていた。学生同士の飲み会などに誘われることがあるそうだが、必ず日を跨ぐことなく帰宅していた。

 二人が食事の準備をしている間に、両親がそれぞれ別々のタイミングで食卓に顔を出す。父の気だるげな挨拶と、母の抑揚のない挨拶。これらはいつも通りだ。

 四人が座る食卓。彼らの間で特に会話が弾むといったことはない。ただ、テレビから流れる無機質なニュースの音声だけが流れる。家族だからこそ生まれる静寂が包んでいた。これが遠道家の日常だ。

 その日の会話のきっかけは、父親であるつとむのつぶやきだった。

「またか」

 彼の視線はテレビに注がれていた。テレビのニュース報道では赤字のテロップが表示され、その上で原稿を読み上げるアナウンサーの表情が緊張で固いものとなっていた。

『……OBR症による事件が跡を絶ちません。地方による対応では限界を……政府による対応が喫緊の課題……』

 報道されるニュースの内容から、一瞬食卓の合間を重い空気が流れた。


『OBR症』


 それが今、世界を蝕んでいるキーワードである。

 OBRとアルファベットだけで表現されたそれは病気として扱われている。実際に彼らを病人として取り扱い、対応に勤しんでいる人たちもいる。だが、連日報道される、OBRにり患した者が犯す事件のせいで、彼らが文字通り病人として扱われるケースは残念ながら少ない。

 その対応について、人々の間で意見や思想が別れていた。

 智八のいる食卓も例外ではなかった。

「鎮圧に向かった奴らは大丈夫なんだろうな」

 つぶやきを続ける努はOBRに侵された人への配慮を一欠片も持ち合わせていない。彼の心配はあくまで、その対応に当たった者たちに向けられている。

 そんな彼と違い、姉は人々の容態を気遣う。

「発症した人も……何らかの処罰の対象になるんだよね?」

 言葉を選ぶように質問した透子。母は無言で箸を進めている。何も言葉を発することはないが、彼女が透子と同じような疑問を思いついたであろうことを、智八はなんとなく察していた。

「状況によりけりだが……大半はそうだ。致し方ない」

 努はそっけなく答える。

「そっか……」

 会話はこれで終わった。智八もなにか口を挟もうとは思わなかった。

 母の聡子さとこは透子と同じ考え方を持つ人だが、こうした空間で口に出すことはなかった。智八もそうした母の姿を見た覚えがほとんどない。聡子自身、口数が少ないというのもあるが、彼女は努と議論することを避けているように思えた。思い返せば、智八は夫婦喧嘩をあまり見たことがない。はっきりと記憶しているのは二回で、智八が小学生になる前と中学生の時だ。

 もしかしたら、職場では違う一面を見せているのかもしれないが、両親の働く姿を見たことがない智八には、想像することしかできなかった。夫婦で考え方がここまで違うのは、職業によるものもあるかもしれない。

 具体的な仕事内容を智八は知らないが、父親は「発症者に対応する人」に携わる仕事で、母親は「発症者」に対する仕事であった。だからこそ、仕事への向き方が、そのまま思想へ影響しているのかもしれない。

 そんな家族の間、智八はどちらの立場に寄った意見は持ち合わせていなかった。彼の胸中に抱いているのは、単純な恐怖だ。それは自分が「発症者」になってしまうという恐れであり、自分の身近に「OBRに発症した人」が現れてしまうのではといった不安だ。臆病な性格を自覚しているが、智八はこれが一般的だと思っている。

 両親のような考え方は、一種の職業病のようなものであり、自分と同じような立場であれば、そこに至らないものだ。透子は明確に口にしたことはないが、おそらく母と同じ道を歩もうとしているのだと思う。

 遠藤家の中で特定の職業に縛られない智八こそが、もっとも世間の考え方に近いものだと思っていた。

「トモ」

 ふと声をかけられる。想像の海に沈んでいた智八は現実へと引き上げられる。

「学校はどう?」

 母の聡子だった。彼女がこうして食事中に話しかけてくることは珍しい。智八は少し驚いてしまった。いつも感情を表に出さない彼女は、家族から見ても冷たい人という印象がある。だが、家族しか知りえない彼女の表情もある。今、聡子はまさに智八に向けて、外では見せないだろう優しい表情を浮かべている。口は笑っていないが、目が柔和な感じに下がっている。

「え、うん」

 なんて答えようか。こういうとき、気の利いた言葉が出ないのは、自分の知識のなさのせいか。

「……大丈夫、問題ないよ」

 当たり障りのない答え。智八は我ながら退屈な回答をしてしまった、と軽く後悔する。

「そう」

 聡子もそう答えると、また食事に戻った。彼女の言葉も少ないのだが、自分と違って、しっかりと受け答えしているように見えるのは、落ち着きのある佇まいだからだろう。

 その日、食事の席で家族と交わした会話はそれぐらいだった。


 その後は両親が仕事に、智八達が学校に出かけるまで、いつもどおりの日常であった。

 しかし、智八は学校に向かう途中、ふと思い返していた。あのとき母が声をかけたのはなぜだったのだろう。

 日常的な家族の会話であり、他と比べても変わった光景ではなかった。けれども、智八には母が声をかけたことには、なにか意味がある、あるいは何か伝えようとしていたのではないか、と思えてしまった。このように考えるようになったのは、自分が成長したからか、それとも日々の陰気な報道ばかりに当てられて、考えすぎてしまうようになったからか、わからない。

 智八が家族の中で、これほど母のことを考えたのは、今までなかったかもしれない。智八のぐるぐるとした思考は学校にたどり着くまで続いた。




 この世界の人々は未知なる恐怖と対峙している。

 罹患した者たちを「OBR発症者」と称し、世界中がその対応に追われている。この病に対して、人類は多くの課題を抱えていた。

 まず、原因が解明されていない。

 人から人へ伝染るということは確認されていない、一方で「OBR発症者」は特定な人の集団という範囲に集中して見られるという報告もある。何をきっかけとして、集団感染のような現象に繋がるのか、何も手がかりを見つけられていないのだ。

 そして、2つ目の理由にして、この病気の最大な特徴がある。

 それは発症することで、人体に「大きな変化」が現れるという点だ。発症による変化は人によってばらばらである。頭部が肥大化したり、腕が増えたり、背中が元の体を上回るほど膨れ上がったりと様々だ。尻尾のようなものが確認された、という報告もある。発症者によって、症状がまったく違うという点が原因解明や名称を決定する上での障壁となっていた。

 さらにOBR発症者の大半は理性を失っていた。会話が通じなくなり、そして、大抵の者は暴れてしまう。暴れた結果、その周囲にいる人々が被害に遭う。中には命を落としてしまう事例もあった。

 そこで「鎮圧」する人が必要とされた。彼らは公的な特殊部隊「Special anti-OBR Team」、略称は「SaOT(サート)」と呼ばれ、通報を受けると出動し、発症者の対応に当たった。OBR発症者の状況にもよるが、最悪の場合、そのまま殺すこともあった。

 人とは思えない、異形な存在が暴れる。

 その光景だけを見れば、彼らOBR発症者を単なる病人として扱えない人々が生じるのも必然であった。特に、その存在に家族や友人を奪われた話がある。そういったエピソードが拍車をかけ、「OBR発症者」ではなく、「怪物」「化け物」として排斥を支持する人も多くなっていた。

 こうした流れから、人々は未知なる現象によって不安や恐怖に押しつぶされる日々を送り、思想の違いなどによる亀裂も生じていた。


 智八は未だ本物のOBR発症者を見たことがない。

 彼の知識はニュースやインターネットで確認できる程度のものだ。興味本位で画像や映像を調べたことがあり、背筋が凍る思いをしたことがある。智八は自分の認識や知識を一般人程度であると思いこんでいる。誰もが自分と同じように好奇心で調べ、誰もが後悔し、恐怖心を抱くようになる。

 だが、自分たちの中で本物を目撃できる人は、ほんのわずかだろう。報道の煽りを受けて、身近な危険として思わされているが、実際には遭遇することがない、遠い世界の話だ。

 現に智八はこれまでも学生生活を日常として送れている。家族全員も同じで、クラスの同級生からもそういった話は聞かない。平穏な日々に甘んじている。これは決して悪いことではない。智八の両親のような人々が、社会に貢献し、努力を重ねてくれたおかげである。働く彼らに感謝の念を忘れることがない限り、自分たちはこの日常に身を委ねていいはずだ。

 学校における智八の生活も平凡そのものである。周りから浮いた存在でもなければ、孤立しているわけでもない。入学から今日まで、深い交友関係を作れているわけでもなく、隣の席の生徒など、近場にいる同級生と少し話をする程度だった。控えめな性格であるため、自分から積極的に交流を作ろうとしない。当たり障りのない受け答えをするものだから、特別誰かに嫌われるようなこともない。

 智八は毎日の通学も一人であることが多かった。通学に利用する電車内でも、駅からの通学路も一人だ。

 この日もいつも通りの学校での日常を終え、智八は最寄り駅で降車をして、駅前の通りに出る。繁華街のような賑わいはないが、この静かな景色を智八は気に入っていた。日は西の方角へ落ちていき、空を赤く映し出そうとしていた。智八と同じように帰路に着く人々が多い。ここは住宅街として、サラリーマンや主婦、学生など様々な人が暮らしている。

 そんな見慣れた光景の中で、智八は一つ違和感を覚えた。

 視界に端に映った存在。そこには智八と同じような年代の学生がいた。知らない制服だが、紺色を基調とした上下を着崩し、深緑なネクタイをだらしなく首からぶら下げていた。きっちりとアイロンがけされた制服に対し、その着こなし方はどこか不自然だ。表情も明るくない。目の下に浮かぶ隈が、深く沈み込んだ顔色を際立たせている。かけられた眼鏡のレンズに細く刻まれた傷跡が、長年使用したものと思わされた。

 彼は見上げている。高架橋が作られ、人々の上を移動するようになった電車。その電車に対して、まるで救いの神を求めるかのように見ている。その目つきに、智八は危険な匂いを感じていた。

 彼を見ていて、しばらく気づく。彼は鞄を持っていない。学生であるなら、勉強道具を入れるため鞄は必須のはずだ。だが、彼の腕はおろか、足元にも鞄らしきものはなかった。

 彼の体はこわばっている。心做しか、智八には震えているように見えた。智八から見て、彼の心境は明らかに普通ではない。

 声をかけるべきだ。智八はそう思ったが、行動に移せない。どう声をかけたらいいか、突然話しかけてもいいのか、そもそも自分の思い込みではないか。思考がぐるぐると糸を巻き、結論へたどり着けない。まるで彼の心境が伝染るかのように、智八の体も緊張し始めていた。

 変化がすぐに訪れた。彼は頭を抱え、苦しそうにうなり始めた。気分が悪そうだ。智八以外の人も、彼に気付き、心配そうに見つめている。

「あの、大丈夫ですか?」

 通りかかった白髪の婦人が声をかけた。結局智八は早めに彼の異常に気がついたにも関わらず、話しかけることができなかった。自分の惨めさを情けなく感じた。

 声をかけられたのに彼は反応しない。彼の足元に、かけていた眼鏡が落ちる。彼の足がそれを踏みつける。ゆっくりと彼は顔を上げる。智八の角度から見ても、その目が充血していることに気がつけた。

 もう彼の心境がおかしいという表現は済まされなくなっていた。

 彼の見た目に"変化"が現れようとしている。

 唸り声を上げながら、彼は声をかけた人に手を伸ばす。その手は彼女の喉元に吸い込まれていく。

 婦人の悲鳴が響く。周囲の人々の足が止まる。婦人は倒れ、彼はそれに覆いかぶさろうとしていた。野次馬の中から、勇敢な大学生ぐらいの青年が一人飛び出し、彼に勢いよくぶつかる。彼の体は投げ出され、青年は婦人を助け出そうとする。

 だが、青年が動くよりも先に、吹き飛ばされたはずの少年が体をバネのようにしならせ、青年に飛びかかる。青年に組み付き、彼は青年の肩に文字通り噛み付いた。

「うわぁああああああ!!」

 恐怖によるパニックが始まった。人々は混乱し、慌てふためき、我先にと逃げ出した。

 青年の肩に赤黒い染みが浮かび上がる。苦痛な声が空気を裂く。婦人は間近で起こった光景を信じられず、助けられた事実も忘れ、這うように逃げ出した。彼は食らいつく肩を放そうとしない。その顔にできた歪みが、氷に広がる亀裂のように浮かび上がる。彼の口端は耳に到達するほどまで伸び上がっていた。それは決して、人間としてはありえないものだ。しばらくして、口から青年の肩を解放する。青年は痛みで動けず、その場にうずくまるだけだった。

 智八は動けないでいた。恐怖で体が縛り付けられ、その光景から目を離せなかった。今、遭遇している存在を信じられなかった。

 思考が定まらない。頭の中が熱くなり、今置かれている状況を理解できない。

 単なる暴力騒ぎと思いたかった。

 だが、悲鳴が飛び交う惨状と、本能がけたたましく鳴らす危険信号が、その正体を告げようとしている。

 OBR発症者。

 それと目があう。

 その顔はもう人間とは思えないものだ。白目が失われるほど赤く充血した目、鋭利な刃のように三日月型に裂ける口、鉄が埋められているかのような角張った顎。こちらを見下ろす表情は、獲物を狙う肉食獣を思わせる。自分と同じ年代だった面影はもうない。眉間から広がるひび割れのようなシワが、少年の顔から知性を奪っていた。

 ――彼らの大半は理性を失う。

 どこかで聞いた言葉が、脳内を走った。

 殺されるかもしれない、という恐怖が智八の心臓を握りしめている。体は金縛りにあったかのように強張り、一歩もそこから動けない。

 かつて少年だった存在は、智八を襲う気配がない。ただ、見つめるだけで、その場に棒立ちしている。

 奇妙な光景であった。

 二人の少年が互いを見つめ合ったまま動かない。どちらも近づかず、離れようともしない。

 あたりから人は消えていた。その空間にいるのは智八とかつて少年だったものだけだ。不気味な静けさが二人の間を漂っていた。緊迫した空気の中、どちらが先に動き出すか、駆け引きを行っているようだ。

 少年だった存在が動いた。

 ゆっくりと背中を折り曲げ、智八の顔を下から品定めをするように、顔を近づけようとした。

 その動きに合わせるように智八は上体を反らし、一歩身を引いた。

 だが、震える足がまともに体を支えることができず、尻餅をつくように倒れた。肩に下げていた鞄を胸の前に持っていき、盾のように持ち抱える。今の智八にできる最大限の防御だった。

 少年だった存在はそんな智八を見下ろすだけで、襲おうとはしない。彼の背後で倒れている青年は気を失っているのか、身動き一つしない。智八の肺から吐き出される、過呼吸気味な息遣いだけが耳に伝わる。

 自分の命はあと一歩のところで終わろうとしている。智八はもはや諦めの境地へと達しようとしていた。

 その時、サイレン音が空を裂いて、智八達のもとに届く。サイレン音は徐々に近づいてくる。自分たちがいるこの場所へ。少年だった存在は、サイレン音がする方角へ振り向く。智八も釣られるようにように、顔を向けた。いくつものサイレン音が不規則に重なり合い、その空間を支配しようとしていた。

 智八達の目前に複数の車両が到着する。警察車両に混じって、ひときわ体格の大きい白色の車両があった。車両の横には白兎をモチーフにしたロゴに、「対OBR特殊部隊(SaOT)」の文字が見える。ニュースでしか見たことがない、鎮圧する者たちであった。

「動くな」

 鋭く、低い声が貫く。

 頑丈な装備に身を包んだ複数の人々が陣形をなしている。声を上げた一人は中腰で銃を構えている。その横には透明な盾を構える人。守りの体勢を作り上げていた。彼ら二人の背後にも、車両の扉を盾に見立て、銃を構える幾人かの特殊部隊が見られる。

 智八は自分の背後から静かな足音が近づいてきたことに気づく。智八が振り返るより先に、自身のそばに二人組の特殊部隊がたどり着いていた。

「もう大丈夫だ」

 温かみを感じる声が、特殊部隊が身につけるマスクの奥から響いてきた。智八の肩に優しく手が置かれる。その手に導かれるように、智八はおぼつかない足取りで立ち上がり、この場から退避しようとする。

 しかし、その動きに気づいたのか、少年だった存在はその歪みきった顔をこちらに向けて両目を見開く。赤々と光るその目と智八の目が合う。

 野獣のような唸り声を上げて、飛びかかってきた。

 人間とは思えないその跳躍力に、智八は体を強張らせた。

「逃げなさい!」

 特殊部隊の一人が智八を庇うように前へ出る。透明な防護盾を前へ出し、少年だった存在にぶつける。盾は彼の顎下に当たり、その顔に大きな歪みが浮かんだ。盾を持つ特殊部隊が足に力を込めて、前へ踏み出すと、その体は軽く吹き飛ばされ、地面を転がった。

 転がった少年だった存在に向けて、タイミングを狙っていた別の特殊部隊が発砲した。銃弾はその足首を貫き、少年だった存在は泣き叫ぶような声を上げる。叫びながら立ち上がろうとするも、片足に力が入らないのか、膝立ちの状態に崩れた。

 好機と見たのか、特殊部隊の隊員が再び発砲する。少年だった存在の左肩に被弾し、仰向けに倒れる。倒れると同時に、複数の隊員が少年に馬乗りになるように、少年だった存在を抑え込んだ。装備している防護服のポケットから、得体のしれない金属製の装置を取り出して、それを噛ませる。

 装置が起動し、少年だった存在の顎と首を巻き込むように、金属の格子が展開された。少年だった存在は格子に挟まれた口を開けることができず、喉を震わせて、隊員を睨みあげる。

 睨まれ、暴れられている中でも特殊部隊の人々は慣れたように少年だった存在の手足を縛り上げていく。

 智八はその一連の光景を見ていた。一人の隊員に介抱されるように、連れて行かれながら、目をその状況から離すことができなかった。

 少年の瞳が、脳裏に焼き付いていくのを感じた。



 智八が襲われる一連の状況を少し離れた建物の屋上から眺める姿があった。

「通報から、およそ3分。早いねぇ」

 黒いパーカーのフードをかぶり、顔を隠し、表情が見られないようにしている。片手のスマートフォンで駅前で起きた騒動を映像として記録していた。

「あの学生は期待したほどじゃなかったか。……とすると、近くにいたあの子はどうかねぇ」

 フードの奥から邪な笑みが浮かび上がる。表情の奥底に湛える悪意な感情を誰にもさとられることなく、その人物は建物の屋上から姿を消した。




 智八は自室にいた。

 どのくらい時間が経ったか、自分が何をしたのか、記憶が曖昧だ。特殊部隊に連れられ、なにか検査のようなものを受けた気がする。未成年ということもあって、職場の両親に連絡をした記憶もある。いや、思い返すと、連絡をしたのは自分や特殊部隊の人ではなく別の人だったか。スーツを着た人が自分の代わりに連絡してくれたような気もする。

 自分が体験したことはそれぐらいで、その後は何事もなく解放され、足早に帰宅した。頭が浮ついていて、何も考えることができず、自分の部屋へ向かった。自室のベッドの上で寝ても、智八は落ち着けなかった。記憶の中の光景が映像となって頭の中を駆け巡り、何をすればいいかわからなかった。瞳を閉じても、目の奥に焼き付いた映像が消えない。絶望する同年代の少年、歪んでいく少年の顔、真っ赤に染まった両目。そして、広がる赤黒いシミ。

 二回扉を軽く叩く音が聞こえた。

 そのノックで智八は現実に引き戻される。

「……トモ、入っていい?」

 透子の声だった。その声に安堵を感じた智八は思わず大きな声で返事をしてしまう。

 控えめにドアノブが降ろされ、扉が開かれる。透子は頭だけを覗かせ、こちらの様子を伺う。智八と目が合うと、顔をほころばせ、部屋に入ってくる。開けたときと同じくらいゆっくりと扉を閉め、智八の隣に座った。

「大丈夫?」

 まっすぐとこちらを見つめる。きれいな瞳。充血してる様子などない。目を見ていると、あのときの光景を思い出しそうで、智八は目をそらした。

「……だい、じょうぶ」

 自分でも頼りないと感じるほどの声音だった。恥じるようにうつむく。視界に映る自分の両足が無力に揺れている。

 ふと柔らかな感触が智八を包み、引き寄せられる。

「大丈夫だよ、トモはここにいる」

 透子の両腕に抱かれていた。

 懐かしいと感じた。思い返せば、幼い頃はいつも泣きわめく自分をこうしてあやしていた気がする。年齢を重ねるとともに、こうしたスキンシップはなくなっていった。

姉である透子は智八に対して昔から世話焼きだ。勉強の面倒を見てくれて、一緒に遊んでくれて、友達との関係などの悩みも聞いてくれて。彼女は常に智八のそばにいた。傍から見ると少しいき過ぎた構い方かもしれないが、智八は嫌に感じたことは一度もない。

 姉の優しさに甘えてしまいがちな面は、智八の弱いところであった。

 柔らかいぬくもりに包まれ、過去を思い起こしながら、智八は思わず無性に甘えたくなる衝動を感じた。しかし、寸前のところでその感情を抑え、自立しようとする理性を優先する。

「ありがとう、お姉さん。もう大丈夫だよ」

 不安や恐怖をすべて拭えたわけではないが、透子に心配をかけたくないと、彼女の抱擁から自ら抜け、立ち上がってみせた。

「そっか」

 そんな智八を見つめる透子の瞳は、どこか儚げだと感じた。

「帰ってきたら、父さんや母さんにも話そうね」

「そうだね」

 智八はただ透子の瞳を見つめる。こちらを見返す、彼女は今何を考えているのか。自分のことをどう見ているのか。それらを想像しようとしたが、何も思い至らなかった。

 いつからだろう、姉が考えていることを、想像できなくなったのは。


 その夜、智八は両親に事の顛末を話すことになった。

 彼らの反応は意外にも落ち着いていた。いや、智八が不安に思わないよう、あえて冷静に努めていたかもしれない。

 特に父親は繰り返し言い聞かせてきた。

「SaOTの人たちに見てもらったんだろ?」

 お前を無事に家へ送り届けた、彼らを信用しろと、そう言っているようだった。父親の言葉も理解できるが、智八はどこか寂しい気分を感じた。本当に自分のみを案じているのか。素っ気ないと思われても仕方がない態度だ。

 母親の聡子もいつもどおり平静な雰囲気を出している。

 ただ、智八は少しの違和感を覚えていた。その場に漂っていた、少し緊迫した空気に当てられて、勘違いをしていたかもしれない。けれども、智八は聡子が僅かだが、苦しそうにしているように思えた。

 単に不安がっているのか、それとも何か悩んでいるのか。

 昔からほとんど表情を崩さない人だ。でも、家族だからこそ、その表情の違いに気づける。状況報告をしているときの聡子は、智八ではなく、どこか遠い場所を見つめているような気がした。

 智八の話を聞いた母は、最後まで黙ったままだった。

 ただ、一言だけ。

「ゆっくり休みなさい」

 それだけを告げた。

 最低限の言葉のみ、だが、智八は父と違ってその口調から素っ気なさは感じなかった。何かを考えている。親子の勘として、それはわかった。けれど、一体何を想像しているかまでは、推し量れなかった。

 智八は自室で姉に慰めてもらったことを思い出す。その時も、今と同じように、姉が考えていることを想像しようとした。

 母が考えていることも、姉が考えていることもわからない。父は雑でそこまで何も考えていないかもしれないが、智八が気づいていないだけかもしれない。

 これまで、家族のことはなんとなくわかっているようなつもりでいた。

 例えば、彼らの仕事場での姿。

 父は家と同じように素っ気ない感じなのか。母は外でもこの鉄仮面を被っているかのように冷たい表情を崩していないのか。彼らが仕事に対して、どのような姿勢で臨んでいるかなど、しっかりと会話したことがなかった。

 透子の外における姿もあまりよく知らない。母と同じ道を進むべく、理系の大学に通っていることは知っている。中学と高校から交友関係が続いている友人が多く、周りから慕われやすい。大学でも多くの友人がいると聞いている。だが、その人たちの顔を実際に見たことはない。

 自分は思っている以上に、自分の家族のことを知らない。

 智八の脳裏にあの少年の瞳がよぎる。

 彼にも家族がいたはずだ。その家族はどんな人だったのだろう。そして、その家族は今、どうしているのだろう。

 きっと今の自分の心境よりも、悲惨なものなのだろう、と智八はそう思った。


 夜。自室のベッドで横になりながら、天井を見つめる。

 当然、なかなか寝付けない。目を閉じたら、あの目が浮かんできて、体中が震えそうに感じるからだ。

 頭の中がぐるぐると映像が駆け巡っているような感覚。何度も何度も同じ光景が繰り返される。

 それはあのような姿になる前の、少年の顔。

 そして、発症した後の、少年の目。

 智八はそれらの映像が感情や思考を縛り付けているような気がした。

 眠ったら、絶対それが夢に出てくる。

 誤魔化すように寝返りを打つが、目の前が天井から壁になっただけで、頭の中は変わらなかった。

 この夜、智八は疲れて気を失うように眠ってしまうまで、ずっとこの状態が続いた。

 ――あの子は、なんで、あんなにも悲しそうだったんだろう。

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