たった一つの嘘。
美月の顔にぶつかって、美月は体勢を崩して尻もちをついた。
波が跳ねる。
美月の服に染み込んで、その部分が、黒くなる。
美月は目を大きく見開いて、僕の目を射抜いていた。
やがて、美月は、まるで今殴られたことに気づいたみたいに、気だるげに立ち上がった。
美月の拳が僕の顔を打つ。
小さい手なのに、意外と痛い。
波の音が、僕たちの間を埋める。
そして、僕は再び美月を殴る。
ズキリ、と胸が軋む。
僕はかまわずに殴り続ける。
時々反撃が来て、攻守が逆転する。
美月は笑っていた。
心の底から楽しんでいる笑顔だった。
その顔を、殴る。
そして、殴られる。
海の中でもみくちゃになって、高揚感が僕の中で踊る。
殴る。
拳で、美月の頬を感じる。
蘇る。
凍花の感触が。体温が。細い腕が。
全部全部蘇る。
誰もいない海に鳴る波。心のさざなみ。高揚感。
蘇る。
蘇る。
蘇る。
でも。
胸が苦しい。
殴る度に、胸が苦しくなる。
僕は顔をしかめながら、自嘲するみたいに笑う。
殴る度に、美月の顔が揺れる。
美月が壊れていく。
でも、それでいいんだ。
壊れてしまえばいい。
僕にできることは、それしかない。
僕は美月のおでこを殴った。
視線がぶつかる。
美月はどこか寂し気な、つまらなさそうな顔をしていた。
ばしゃん。
美月の姿が消える。
さっきまで美月のいた海面に、泡がぶくぶくと上がっている。
人魚にでもなったんじゃないかと、一瞬馬鹿なことを思った。
——これでいいのか?
だって、美月はずっと苦しかったんだ。だったら、死ぬ以外に、どんな方法があるんだよ。大人にも頼れなくて、僕にも何にもできなくて。だったらそんなの死ぬしかねぇだろ。
美月は優しいんだ。月人を差別しないくらい、迷子犬を見つけてあげたいって願えるくらい、優しいんだ。毎日僕と話してくれるくらい、優しいんだ。
なのに、救いようがなくて。これ以上苦しんでほしくない。
だったら、殺すしか————。
僕は海面に浮かぶ泡を見つめる。
それはすぐには消えずに、しばらく波に揺られてから、弾けて消える。
あ。そういえば。
溺死って、一番苦しい死に方だったな。
気が付けば、僕は美月を抱えて波打ち際にまで来ていた。
冷たい空気が、濡れた僕たちの肌を撫でる。
氷に触れているかのような冷たさが、僕たちの感覚を奪っていく。
波が時々僕たちの肌にあたる。それが、どこか心地いい。
「美月」
僕は美月を抱きしめる。
美月には体温が宿っている。冷たくなんかなくて、僕との間に温度が生まれる。
「死なないでくれ……」
気が付けば、僕はそんなことを吐いていた。
自分の言葉ではないみたいだった。
プリザーブドフラワー。
「深月が月まで連れて行ってくれるなら、いいよ」
僕はぎゅっと美月を抱きしめる。
僕は美月に、生きていてほしかった。
あの日から、美月のいじめは加速し始めた。僕が美月を殴った時にできた、顔の傷のせいだった。いじめをしているやつらは、あまり人の目に触れるような場所に傷をつけなかったが、その傷が奴らのストッパーを緩めてしまったのが悪かった。
顔に、スカートから除くふくらはぎに、腕に。青い傷が塗られていく。肌にヘドロを埋め込んだようなそれは、日に日に大きく、肥えていく。
僕があの日、感情に従って美月を殴ったから。美月がどんどん壊されていく。
僕があの日、美月を殴らなければ。なんて。ありふれた後悔をしている。そんなことをしたって現実は何一つとして変わらないのに。思考は言うことを聞いてくれない。
そして、僕の重力も徐々になくなっていく。重力が四分の一を切った時から、その速度は加速している。海で殴り合ってからまだ一週間しか経っていないのに。僕の重力はもう、十分の一くらいだ。体重計に乗ると、もう五キロくらいしかない。
美月の掌に立ったことがあるけれど、なかなかに不思議な感覚だった。
僕たちはどんどん死にかけている。地球から見放される僕と、クラスメイトから見放されている美月。なんだか、似ているような気がした。
そう言えば、僕と美月の名前も似ている。深い月と美しい月。並べてみるとなんだか素敵だ。輝いて見えなくもない。
死にかけている僕たちは、それでも時間の共有を止めなかった。僕も美月も、この世に未練なんてないし、遺書を書く相手もいない。だから、僕たちは運命共同体のように、言葉を交わし合った。
楽しかった。ただ純粋に、美月の隣にいることが。
それは僕が美月に恋心を抱いているからかもしれない。
まぁ、そんなことはどうだっていい。
この感情が恋だったらなんなんだ。
友情と何が違うんだ。
美月の隣で座っているだけで幸せなら、この感情の名前なんてどうでもよかった。
どんどん儚くなる僕たちは、ずっと笑い合って過ごした。
眠れない夜を共有して、乗り越えていった。
孤独と孤独を並べて、ふたりぼっちを演じた。
美月と肩が触れ合う距離で、寝転がって夜を眺めた。
時々夜道を散歩して、迷子犬を見つけに行ったりした。
そうしている間、僕の心はとても充実していた。美月にも、愛着が湧いて、美月が隣にいるのが当たり前になった。
でも、そんな日々も長くは続かなかった。
それは、僕が月人だから。それは当たり前のことだったし、そのことはもうとっくの昔に受け入れていた。
けど、僕はまだその日に来てほしくなかった。
僕は、まだ決めかねていることがあったから。
きっと、この選択肢に正解なんてものは存在しないのだろう。
美月の幸せを考えれば考えるほど、わからなくなる。
僕があの時、美月にそんな勝手な約束をしなければ、こんなことにはならなかった。命を天秤に載せる羽目にはならなかった。
僕はその日が来るまでに、決心した。
そして、僕が目を背けていたその日が、僕の首を締め付ける。
今日だ。
今日、僕は月に吸い込まれるんだ。というのを、僕は直感的に感じ取っていた。
別に、怖くはなかった。
あぁ、今日死ぬんだな。と思うだけだった。
前から異変はあった。
月光を浴びても、疲れがとれなくなった。
それは、僕にとっての寿命の終わりを告げるのには充分だった。
頭に疲労がたまって、圧迫されているような錯覚を覚えていた。
目の奥が、押し出されるような痛みを抱えていた。
だから、その日が来ても僕はそれほど取り乱さなかった。
僕はその日も、いつもみたいに美月を待っていた。
僕は滑り台を滑っていた。おしりを地面につけずに、しゃがんだまま滑ろうとしたけれど、靴の摩擦のせいで、滑ることができなかった。重力がなくなったんだな、と実感した。
「なにしてるの」
僕がそうしていると、声がした。
振り返る先に、制服を着た美月がいた。
一瞬の動揺の後、僕は微笑む。
「滑り台を滑ってる」
「楽しそうには見えないけど」
「楽しくないな。僕の体重が軽すぎて滑ることができない。今の僕は靴よりも軽いんだ」
「そう」
美月もにたりと微笑む。
「今日だよ」
と、僕は言う。
「ほんと?」
「あぁ」
僕はその証明に、滑り台のてっぺんから思い切りジャンプする。
体が上昇する。
そのまま月に届きそうなくらい、長く。
ずっと長く、僕は上昇する。
風船にでもなった気分だった。それはなんだか心地よかった。
やがて、速度は落ちていき、僕は下降する。
やっぱり、靴が体重よりも重いから、靴に引っ張られて地上に着地した。
「今日、なんだ……」
美月の腫れた顔から力が抜けていき、笑顔みたいになる。
美月は、僕の手を取った。
美月の手はやっぱり小さかった。掌に張り付いたかさぶたが、僕の手をくすぐる。
美月はぎゅっと力を入れる。
「約束、覚えてるよね」
それは疑問形の体をなしていなかった。
僕はそれにどう返したらいいのかわからず、ぎこちない動作で頷いた。
「あぁ、覚えてるよ」
というか、僕はそのことしか頭になかった。
美月はそれを見て、やっぱり安心したように力を抜いた。
「よかった」
僕は目を閉じる。
最近、力を抜くと目が閉じるようになった。
眠るって、こういう感覚なのかなと、どうでもいいことを思った。
「なぁ、美月」
僕たちはコーンポタージュを片手に、坂になっている芝生に寝転がる。……手を繋いで。
視界に広がる空に、真ん丸の月が浮かんでいる。
その光はどこか人工的で、太陽の光を反射しているとは思えない。
月の表面にはうっすらとクレーターが見える。
月人が現れてから、月のクレーターは少なくなっている。昔は、月の表面にウサギの模様があったらしいが、今はその面影すらない。
完全な球体になった月は、僕たちを照らす。
「なに?」
しばらくの沈黙のあと、美月はそう言った。きっと、口を開くのが面倒くさいんだろうなと思う。顔が腫れているから、口を開きにくいのだろう。
「……何もない」
「なにそれ」
美月はくすりと笑う。
僕はコーンポタージュを口に運んだ。
「いろいろ、あったね」
「そうだな」
ほっと息を吐くと、白くなって出た。
隣で美月がそれを見て、子供みたいに笑う。
「でも、思い出話をするには、ちょっと浅すぎるね」
「……そうだな」
思い出話をしたかったけれど、これという思い出が思いつかなかった。
「でも、楽しかったね。いや、楽しいっていうよりかは……、充実してたね」
「そうだな」
芝生の感触が、身体から離れる。
「私、深月と出会えてよかったかも」
僕はコーンポタージュを一気飲みして、缶をゴミ箱めがけて放った。入らずに、道路にぶつかる堅い音が鳴った。
「月って、どんなだろうね」
僕はぎゅっと手に力を入れて、美月を掴む。僕の足が月に向かって逆立ちになる。
でも、まだ美月を連れていけない。
「もっと、くっついた方が楽じゃない?」
「……だけど」
「だけど?」
「…………」
何を迷ってるんだ。今更。
決めただろ。
僕は美月を月まで連れて行くんだ。
一緒に、月まで連れて行って、美月を楽にしてやるんだろ。
「ねぇ、ハグしよ?」
美月は僕を引っ張って、無理やりに抱きしめる。僕は美月のわきの下に手を入れて、背中に手を回した。
柔らかいな、と思った。
温かいな、と思った。
いい匂いがするな、と思った。
美月の振動の鼓動が、ほんの少しだけ感じる気がするけれど、そういうわけでもなかった。
「あったかいね————」
美月は掠れた声で言った。
それはまるで、月光みたいに、繊細で、淡い声だった。
僕は、いつの間にか瞑ってしまっていた目を開ける。
視界が広がる。
目の前にあるのは、美月と、その足がくっついている地面だった。
後ろを振り向くと、満月があった。
地面がなかった。
それでやっと、僕は浮いていることを理解した。
心臓が浮くような、そんな心地よさを感じた。
美月の顔が、目と鼻の先にある。
このままキスでもできてしまいそうだ。
美月は泣いていた。頬に涙が歌っていた。
でも、笑っていた。綺麗な笑顔だった。
そして、その首に————。
傷がある。
「美月」
僕は彼女の名前を呼ぶ。
——本当にこれでいいのか?
と、自問する。
——いいんだよ。
と、僕は答える。
だって、これ以外に美月を救う方法が、どこにあるんだ。
他にあったのなら、美月はもうとっくの昔に救われているだろ。
何を今さら躊躇ってんだ。
美月の幸せを願うなら、こうするのが一番だろ。
離すな。僕が浮いても、死んでも離すな。
「生きてよ」
自分で何を言ったのか、一瞬理解できなかった。
あれ?
なんで、僕はそんなことを。
でも。
でも……。
でも……!
やっぱり、美月には生きていてほしい。
そう、どうしても思ってしまうんだ。
「なんで……」
美月の顔が、徐々に絶望に染まっていく。
涙に、別の感情が混ざっていく。
吊り上がるように上がっていた口角が下がっていく。
「なんでよ! ねぇ!」
ぎり。と、指先が僕の背中に食い込む。
僕は美月が目をそらした。
「約束したじゃんか! 私、ずっとこの時を待ってたんだよ? ずっと、ずっと! これがあったからずっといじめにも耐えてきたんじゃんか! なんでよ!」
「ごめん……」
僕は腕の力を抜く。
そのことに気づいた美月が、僕の服を、腕に爪を突き刺す。
「私、実は月人だったんだよ」
「……え?」
「夜の時間だけは、普通の人になりたかったから! 私が月人じゃなかったら、そもそもいじめられてなんかなかったから……」
「……そっか」
「時々寝落ちしたふりしてたのも全部嘘! 深月を騙してただけ! どうせ月に行くからさ……、連れて行ってよ……!」
美月は歯を食いしばる。僕の身体は、より強く月に引っ張られる。
「ずっと苦しかった! 今日、やっと解放されると思ってたのに……、嘘って言ってよ……!」
美月は、絞り出すように言った。
「私がこれ以上生きて、なんになるの……?」
僕は目を瞑る。
不思議な感覚だった。
まるで、天井にぶら下がっているみたいだ。
でも、その天井は、今まで僕の足と信頼を積み上げてきた地面なんだから。
美月がこれ以上生きていたって、苦しむだけなのはわかってる。
月人なら、大人になれずにこうやって月に吸い込まれることなんて、ざらにあるのもわかってる。
大抵の月人が、三十歳を迎えずに月に行くことなんて知ってる。
でも。
いじめが終わったら?
それまでに生きていたら?
まだ、希望があると思う。
僕には、美月を守れる力なんてない。
誰も、その力を持っていない。
持っているのに、使わない。
だから、美月はずっと傷ついたままなんだ。
誰も、美月を楽にすることなんてできない。
だけど。
苦しみ続けることなんてわかってるけど。
辛いままなんだってわかるけれど。
生きていてほしい。そう思ってしまう。
美月の未来が幸せなものなんだって、信じてしまう。
「美月は、生きてよ」
「いやだ!」
「お願いだから……!」
「いやだいやだいやだあああああ‼」
僕は、美月の手を剥がす。
「やめてよお! ねぇ!」
「幸せになってほしんだよ! 美月には!」
「じゃあ! 救ってよ! いじめをなんとかしてよ!」
「生きて。生きて。生き抜いて。それで、幸せになって」
僕はそう言って、美月を引きはがした。
ふわっ。
体が吸い込まれる。
落ちていく。
「あああああああああぁぁぁぁぁぁぁ……」
美月が、僕に手を伸ばしている。
僕は目を瞑った。
目を瞑ると、涙が出た。
涙は僕とは反対方向に落ちていく。
ねぇ、僕の選択はあっていたのかな。
大切なものは壊したくなる。それは命も同じなのかな。
落ちている間に、僕は思考する。
やがて、地球が丸いことがわかるくらいの高さまで落ちていた。
振り返ると、光っていない、灰色の月があった。
どっと、脳に疲労が乗っかる。眠たくなる。
美月はこれからどうなるんだろうな。
生きてくれるかな。ずいぶんと無責任なことをいったな。これからも、明日も、明後日もいじめられるんだろうな。誰にも助けられずに、ただ孤独を過ごすんだろうな。
やっぱり、連れて行った方がよかったかもなぁ。どうして連れて行かなかったんだろうなぁ。僕にもっと勇気があったら、連れていけたのかなぁ。
僕は、月にふわりとぶつかる。
月の表面って、砂なんだ……。
僕はふらふらと、月の表面を彷徨よう。
それにしても、眠い……。
頭上を見ると、地球がある。青い。それに、丸い。その真ん中に、孤独な女の子が一人。
僕の代わりに、誰か寄り添ってくれたらいいな。
やがて、僕は大きなクレーターを見つけた。
そこに、砂になりかけている凍花がいた。
目を瞑って、気持ちよさそうに死んでいた。
僕の選択は、これでよかったのかもなぁ……。
僕はその場に倒れ込んだ。
意識が薄れていく。
約束とプリザーブドフラワーと残酷とたった一つの嘘。 人影 @hitokage2023
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