残酷。

 一週間もすると、僕と美月はかなり打ち解けていった。一週間、毎日こうやって顔を合わせていると、だんだんと美月が隣にいることが自然になっていく。まるで、美月が僕の身体の一部になっているみたいに。


 実際にはそんなに距離は近くなっていない。一週間という期間は大きなものだけど、僕と美月の間には確かに、見えない線引きがされていた。


 相手の内側に特に踏み入るわけでもなく、僕たちはただ、月を眺めながら言葉を交わしていた。


 けど、僕は美月を心の奥では心配していた。


 線引きを守るけれど、美月の姿も、僕たちの関係と一緒に着々と変化していった。僕はそれに気づかないふりをするけれど。


 美月の身体に刻まれている傷の数が、日に日にその数を増やしている。


 打撲の跡も、首に見える謎の切り傷も、腕の傷も。


 ずっとひどくなっていく。


 それに呼応するように、美月は制服ではなくなった。


 その原因が、いじめにあることに気づかないほど、僕の想像力は乏しくなかった。


 傷が傷に上塗りされていく。


 青く腫れたふとももは、もっと太って大きくなる。


 血が固まった、どす黒いかさぶたが肌に張り付いている。


 だというのに、服でそれを覆い隠して、僕の前では笑っている。


 それが何だか怖かった。


 美月という人間がいつかぽっきりと壊れてしまいそうで。


 美月は優しいんだ。僕と一緒にいるときに、迷子犬のポスターを眺めていたのもそうだ。


 それ以上に、美月は月人を差別しなかった。


 きっと、そう言うのは優しい。


 そんな優しい美月を救ってやりたい。


 でも、いじめを止める方法なんて、僕にはわからないし、そもそもとしてその勇気すら持ち合わせていない。


 だったら、それを見て見ぬふりをして、美月の居場所となる他ないだろ。


 僕は凍花とは違う。


 僕が、美月を救ってやる。


 月まで連れて行って、僕が。








「月に行った月人はどうなるの?」


 と美月は僕に尋ねた。


 僕と美月が出会ってから二週間ほどの月日が流れたころだった。


 その日の月は大きく欠けてしまって、光っているのはほんの一かけらほどしかなかった。


 まるで、星が集まってできた結晶みたいだった。


 そんな月から零れるように、星が散らばっている。


「星にでもなるんじゃないかな」


 と、僕は詩的に返して見せた。やっぱり、月というのは人の感覚を狂わせる力があるようだ。


「真面目に答えてよ。私は結構真面目に気になってる」


 僕はほんの短い呼吸をして、吐き出す。


「月と一体化するんだよ。それで、月とおんなじ物質になって、消える。それはまるで、クレーターを埋めるみたいに」


 僕たちは月へと昇って、クレーターの真ん中に立ち、そこから月と一体化する。


 地球から月を見ていると、そんな最後もなかなかいいんじゃないかという気がしている。だって、あんなに輝いている星の一部になるんだから。


 地球で、骨も残らないくらい燃やされるよりかは、幾分かマシに思える。


「私も、月になるのかな」


「さあ」


「深月は怖くないんだ」


「うん」


「月人だから?」


「きっと」


「深月は生きたい?」


「別に」


「じゃあ、死にたい?」


「別に」


「生きる理由は?」


「月になるため」


「変なの」


 しばらく、沈黙が流れた。


『深月は、生きて』


 凍花の声を思い出す。


 本当に、プリザーブドフラワーみたいに、僕の頭の中でその言葉はいつまでも形を保ち続けている。きっと、歪むことも、霞むこともない。


 じゃあ、美月はどうだろう。


 僕が月に行くときに、美月を連れて行ってあげられるのだろうか。


 いや、連れて行かないと。だって、約束をしたから。


 でも、なんでだろう。


 どうして、苦しんでいる人が死なないといけないんだろう。


 死ぬべきは、苦しめているやつらだろ。


「重力は?」


 僕の思考を遮るように、美月の小さな声が僕の鼓膜を揺らした。


「多分、四分の一くらい」


「じゃあ、もうすぐなんだ」


 美月は嬉しそうに笑う。


「多分、後一か月くらいだな」


 僕もそれに、笑顔を返したつもりだった。


 でも、うまく笑えている自信がなかった。








 その日は、月が出ていなかった。


 昨日の欠片のような月を思い出す。あれが消えてしまったと思うと、なんだか寂しい気持ちになった。それよりも。


 月人にとって、新月は敵だ。


 だって、その日は疲れがとれないから。疲れがとれないと、脳が圧迫されるような不快感を覚えて、ろくに集中できなくなる。


 肌を刺す空気は、僕の表面の感覚をどんどん鈍くさせる。足の裏の感覚ももうすでになくなって、足の指を動かすと変な感じがする。


 カイロを持ってくるんだったと後悔した。今日はコーンポタージュを買うお金も持ってきていない。


「深月」


 と、僕を呼ぶ声がした。


「こんばんは」


 と僕は返す。こういう時、どんな言葉を返したらいいのか、僕は未だにわからない。こんばんは、は他人行儀な気がするし、美月、と返したらもうそれこそカップルみたいだ。


 美月は僕の隣に、いつもみたいに座る。座った美月は、立っている時よりもずっと小さくて、なんだかそう言う生物に見える。


 僕は、じっと美月を観察する。昨日と違うところはないか。


 やっぱり、傷が増えている。首についている傷は、一体なんだろうと、不思議に思う。


 でも、一番違ったのは、今日の美月が笑っていないことだった。


「今日、なんかあったのか?」


 踏み込んでいい領域か、僕にはわからなかった。


 夢を見た、と言う返しでも、いじめられた、と言う返しでも、どちらでもよかった。


 なのに、美月は僕の質問に答えることはなかった。


 ただ、居心地の悪い沈黙が流れていく。


 だから、空に浮かんでいる月を探した。


 でも、見つかることはなかった。


「海に行こう」


 と僕は言った。ここではないどこかなら、美月も話してくれる気がしたから。


 何の脈絡もない誘いだった。


 でも、美月は僕の誘いに頷いてくれた。








 潮風が、僕たちの髪を弄ぶ。月明かりのない海に、光源はない。目が暗闇に慣れたとしても、世界の輪郭はぼやけたままだ。その感覚はまるで、瞼を閉じているようで、夢の中にいるような、浮遊感を覚える。


 いや。僕の身体に重力がない所為かもしれない。もう、僕の重力は四分の一しかないから。力強く地面を蹴ると、自分の身長くらい飛ぶことができる。月に行ったらこんな感じなのかなと、なんとなく思った。


「海って、デカいよな」


 と、僕はあたり触りのないことを言った。


「うん」


「……少し、僕の話をしてもいいか?」


 美月は何も言わなかった。


 息を止めるような静寂の後、僕は口を開く。


「僕は、実は死にたかった。ずっと。重力がなくなる前から。別に、理由という理由もないけど、ただ、面倒くさくなったんだよ。全部。人間関係とか、勉強だとか。美月みたいにいじめられていたわけじゃない。全部、めんどくさくなって、生きる意味が分からなかった。だから、死にたかった」


 砂浜が、僕の足の裏をくすぐる。音もなく砂は崩れて、足跡の代わりに小さな凸凹を作る。風は公園で感じる風よりも、幾分か冷涼だった。


「でも、死にたいって感情は、間違ってるはずないんだよ」


 僕は足を止めて振り返る。僕の足跡を辿るようにして歩いていた美月も、同時に固まった。視線がぶつかる。暗くて相手の表情も見えない。でも、美月の首の角度とか、呼吸をする胸のふくらみとかが、なんだか泣いているみたいに見えた。


「美月はさ、初めて僕に会った時。まるで申し訳ないみたいに、その感情がまるで間違ってるみたいに、死にたいって言ってたからさ。でも、その感情は間違ってなんかない。死にたいって感情は、もっとずっと正しい。誰にも否定される必要なんかない。……何も、間違ってなんかないんだよ」


 どうして、死にたいという感情が間違っていると言われるのだろうか。


 確かに、死にたいという感情は、その人を不幸にしてしまうのかもしれない。悲しい感情で、辛い感情なのかもしれない。現実に絶望している証明なのかもしれない。


 でも、それは間違ってなんかない。悲しいって思うのも、辛いって思うのも。全部、大切な感情なのには他ならない。それを、否定なんてできるはずがない。


 美月は僕の言葉に、何の反応も示さなかった。呼吸が乱れることもないし、ましてや目から雫が落ちることもなかった。


「じゃあ、『死ぬ』ことは?」


 細い声だった。世界の、ほんの小さな摩擦が生み出すような、そんなかすれた音だった。


 しばらく、波の音が僕たちの間を埋める。


 暗闇に、緊張が滲む。


 頭の中で、人生が反響する。


 死にたい。生きたい。生きる理由なんてない。生きないといけない。辛い。でも、名残惜しい。


『深月は、生きて』


 なんで?


「死ぬことも間違いじゃない」


「じゃあ、死んでもいい? 今、ここで」


 美月の髪が、強風に流れる。暗闇に溶ける、新月色の長髪が靡いて、複雑で不規則な曲線を描く。まるで、ぐちゃぐちゃに混ざり合う感情みたいに、髪と髪が絡まり合う。


「お前なんか死んじまえ」


 震えた声で美月は言った。


 心臓に突き刺さるような、鋭利な言葉だった。


「なんでお前がここにいるんだ。きもい。消えろ。肉便器。無能。ブス。ブタ。触るな。病気が染つる。学校なんか来るな。お前に人権なんかない。死ね……。死ね!」


 拳を身体に叩きつけながら、叫ぶ。


 語尾が荒くなっていく。喉を絞り出すように紡がれる声は、僕の心臓を徐々に圧迫していく。


 体がだんだん動かなくなった。筋肉が、美月の言葉に固まって、感覚が鈍くなる。


「上履きをゴミ箱に入れられるのも当たり前。机に落書きされてるのも、黒板に暴言が吐かれてるのも当たり前。トイレに連れていかれて殴られるもの当たり前、排泄物混じりの水かけられるのも、授業中閉じ込められるのも当たり前! 教室でスカート破かれるのも! ハサミで髪切られるのも! 脱がされるのもちんこ咥えさせられるのもそれの動画撮られるのも全部全部当たり前!」


 美月はもつれるような足取りで僕に近づく。


 そして、眼前まで迫って。


 僕の胸倉をつかむ。まるで、僕の心臓を握りつぶすように。


「当たり前だけど、慣れることなんてなくて、ずっと辛いまんま。……知ってる? 殴られるのって、痛いんだよ。骨に拳が直接当たるから、殴られた後も、ずっと痛いんだよ。そのせいで筋肉が固まって、動けなくなって、吐き気がして。最近では教室でつるし上げられて、私の居場所なんかどこにもない」


 美月の苦しみが直接僕の身体に流れ込んでいくようだった。聞いているだけでも、こんなにも苦しい。美月の首に刻まれた、あの毒々しい傷跡に目が行く。前よりもずっと深く、腐ったような色になっている。


「知らないでしょ。殴られたらどれだけ痛いか。知らないでしょ。お腹を思いっきり、何発も蹴られて、逆流する感覚とか。血とゲロが混ざった色も、脳みそがどろどろに溶けるような感覚も、自分の意志が暴力にかき消されていく感触も、身体の自由を奪われて、ミンチにされて、吊るしあげられる恥ずかしさも。何にも知らないでしょ」


 なのに、と言って美月は言い淀む。


「先生に相談しても、受け流されるだけで何もなんないし、親に相談しても、お前が悪いって。相談したことがばれたら、足の爪はがされた。……プライドなんて、自尊心なんてもう、一かけらも残ってない。痛みと羞恥しかない。もう、私の身体は腐ってる。……絶望しかないんだよ」


 抱きしめてしまいたかった。


 大丈夫だと言ってしまいたかった。


 でも、そんなこと言ったってどうにもならないことは僕にはわかる。


 何が大丈夫だ。


 救える力もないくせに。


 僕にそんなことを言う資格なんてない。


 いじめられてもない僕が。


 不幸じゃないのに不幸だと嘆いている僕が。


 美月にしてあげられることなんて、何一つとしてない。


「なのに……。死にたいって言ったら、それも否定される……。何なの……。殺してよ……」


 波の音が聞こえなかった。


 感じるのは、僕の心臓で感じる、美月の食い込んだ指先だけだった。


 温度も何も感じなかった。


「この首さ。私が反抗したら、カッターナイフをここに突き刺してくるの。……動脈ギリギリのところ。動脈さえ切らなかったら、死なないから……」


 僕の中で何かが切れる音がした。気持ちのいい音なんかじゃない。肉と肉が引きちぎられるような、そんな生々しい音。


 動脈を切られたみたいに、生ぬるい何かがそこから僕を満たしていく。


 どうして。美月がこんな目に。


「突き刺されるたびに、自分で首を動かして死のうかなって思うけど。できなくて。もう、どうしたらいいかわかんないよ……」


 美月の額が、僕の心臓に載る。


 温かかった。


 でもきっと。


 脆くて、触れたら簡単に崩れてしまうくらい、脆くて。もうすでに壊れかけている。




 僕が、美月にしてやれること。


 なんだ?


 考えろ。


 何か、できるはずだ。


 どうしたら美月を楽にしてやれる?


「ねぇ、深月」


 波の音にかき消されるくらい、かすかな声が僕に訴える。


「死にたい……」


 美月の頬に、初めて涙が伝った。


 そうだ。


 僕にできるのは、一つしかない。








 ——僕は思い切り、拳を振り下ろす。

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