プリザーブドフラワー。
君は本当に僕の人生を狂わせてくれた。僕の狂い方は、月を見たときの狂い方に似ていた。太陽の光よりも柔らかい、夜に灯る薄黄色の光は、吸い込まれるような魅力を放っている。それは少々人を狂わせる。昔話に、月を見るとオオカミになる人間がいるのもきっと、そう言う理由だ。
「私はプリザーブドフラワーなんだよ」
と、凍花は言った。君と出会ってしばらく経ったころだった。僕たちは、深夜の真っ黒な海が波打っている浜辺を歩いていた。夜の海はまるで墨のようで、本能的な恐怖が体を駆け巡る。膨大な質量が波打っているその様は、まるで呼吸をしているように見えた。波が唸って、靴に掠って、染み込んでいく。
凍った花と書いて、凍花。だから、プリザーブドフラワー。
「プリザーブド加工したらその花は、五年とか十年間、枯れることもなくその形を保ち続ける。美しい姿をその身に刻み付ける。それって、とても素敵なことじゃない?」
そうかな、と僕は返した。凍花は困ったように笑った。
「深月の由来はなに?」
その質問に、顔をしかめる。僕は僕の名前をあまり好きになれない。
それはまるで、僕という人間を決めつけられているみたいだったから。この世界には、月人への差別は未だになくなっていない。
「元々、僕の名前は深海になるはずだったんだ。深海みたいに、静かで、落ち着いていて、深く、どこまでも続いていて……。そんな素敵な名前になるはずだったんだ」
僕は、拳を握る。骨が軋む音がした。
「でも、僕が月人だったから。深月になった」
人種で僕の名前が変わったんだ。僕が月人じゃなかったら、僕は深海だった。でも、僕は月人で。だったらそんなの、望まれずに生まれてきたみたいじゃないか。だって、僕が深月だということは、僕の親が望んだ深海じゃなかったということだから。
「僕なんか、生まれてこなかったらよかったんだ。最初っからなかったことになっていれば、こんなことにはなってなかった」
僕は溜め息を吐き出す。それと一緒に、言葉も。
「死にたい……」
嫌なことを思い出した。
最悪だ。
それで傷つく君を見たかった。
僕はちらりと君の顔を覗く。
君は僕の期待通り、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
でも、その顔を見ていると、愛おしさと罪悪感がぐちゃぐちゃに混ざり合うだけで、不快なのには変わらなかった。
僕はその顔に、同じくらいひどい顔で、自嘲気味に笑って見せた。
その時だった。
左頬に痛みが走った。一瞬何をされたのかわからなかったけど、君の右手が体の前に来ているのを見て、頬を打たれたんだと理解した。
凍花は笑うかと思っていた。でも、違った。
凍花の表情はどこか真剣味を帯びていた。真剣味と言うか、殺意に似た何か。僕にはその感情がわからなかった。一瞬の恐怖を感じた後、怒りが湧いてきた。
なんで殴るんだよ。
右手を振り上げて、思い切り振りぬく。
気持ちのいい音が鳴った。
君の顔が左に流れる。
凍花と、その状態で視線がぶつかる。
少し、緊張していた。
それが高揚感だと気づくのにしばらくかかった。
それから、どちらからともなく、殴る。
もみくちゃになって、波と一緒にもつれ合う。服に染み込む海水は冷たくて、徐々に僕たちの体温を奪っていく。
殴る。殴られる。拳も頬も痛い。時々触れる波は冷たいし、服はびちょびちょになって。もう、波と言うより海の中でもみくちゃになって。
でも、楽しかった。互いに叫び声も上げずに、ただ静かに拳を飛ばし合うのが楽しくて仕方がなかった。
でも、だんだんと疲れてきて。
もういいかなって。
凍花の拳がおでこにあたって、脳が揺れたとき。そのまま流れに任せて、背中から海に沈んだ。
なんか、全部面倒くさかった。
ただ、今は本当に幸せだった。
高揚感で体が浮いて、月の光に疲労は吸い取られていく。体全部で感じる海はやっぱり大きくて。
きっと、幸せを致死量まで摂取してしまったんだと思う。
だからもう、いいかなって。
ここで死んだら、キリがいいかなって。
背中から、沈んでいく。
鼻から、口から泡が吹き出て、さらに沈んでいく。浮力を失った身体は、真っ黒な海に沈んでいく。
苦しかった。でも、それでもなんだか心地よかった。
やがて、僕の身体にぬくもりが纏わりついて、身体が上昇した。
気づいたときには砂浜に打ち上げられていて、僕の身体を凍花が抱きしめていた。
凍花は寒さで震えているみたいだった。
「……死なないで」
凍花は訴える。
「深月は、死なないで」
僕は凍花を抱きしめた。
この時の凍花とはもう恋人同士だったから、何も恥ずかしくはなかった。ただ、凍花の身体に宿る体温が愛おしかった。
「君が月に連れて行ってくれるまでは、生きてるよ」
それから、しばらくそうしていた。流石に恥ずかしくなって、凍花を身体から引きはがした。すると、凍花の身体が羽毛みたいに浮かんだ。
そんな昔のことを思い出していた。
未和美月と出会ったその翌日の深夜のことだ。
どうして、こんなにも鮮明に思い出すことができるんだろう。
それはまるで——、プリザーブド加工されているみたいに。枯れることなく、美しい姿を刻んでいる。
「深月」
その声に、僕は振り返る。
「こんばんは、美月」
「こんばんは」
美月が隣に座って、それで安堵する。
「今日も眠れなかったのか」
「うん。いつものことだよ」
美月は、そのまま夜空へと視線を向ける。
眠れない、という感覚は、僕にはわからない。けど、きっとそれは僕にとっての新月の日みたいなものなのだろう。僕たち月人は月の光を浴びることで、眠ることをカバーしているみたいだから、月光がない日は、ちょっと疲れがたまっている。
「美月は、どんな夢を見るんだ?」
そう尋ねると、美月は嬉しそうに微笑んだ。
「美味しいものをたくさん食べる夢」
「それは……、幸せそうだな」
「うん。幸せ」
美月は、僕の前で弾むように夢の話をする。
月人は、きっと多くの人が「夢」を見ることに憧れを持っている。それは、人が空を飛ぶことに憧れることに似ている。
だから、美月の夢の話を聞くのは楽しかった。まるで、どこか知らない国の昔話を聞くみたいだった。
「でも、時々夢の中でもいじめられる時があるから、それは嫌だな」
「夢の中でもいじめられるのか」
「うん。まぁ、その時はすぐに起きちゃうけど」
美月は乾いた笑みを零す。
「だから美月は不眠症なのか?」
「いや、まぁ……。そんなとこ」
美月は曖昧に返して、コーンポタージュを飲んだ。
僕は上を見上げるのが面倒くさくなって、その場に寝転がる。美月も僕をまねるようにそうした。
「夢って、普通は会えない人に会えたりするんだっけ」
「うん」
「僕にも、会いたい人がいるんだよ。だけど、もう、月に行っちゃった」
「……そうなんだ」
「僕はそれを、許さない」
「……うん」
目を閉じる。
波の音が蘇る。
頬の痛みが蘇る。
潮風を思い出す。
凍花の体温を、感触を、においを思い出す。
姿を、思い出す。
全部全部綺麗で、僕が死ぬのには十分すぎるくらい、美しくて。
なのに。
僕は今でも生きている。
「夢を見たら、凍花にも会えるかな」
その声に、美月は何も返さなかった。
「なぁ、今日も月が綺麗だ」
沈黙が流れる。寂しい沈黙だ。まるで、僕が独りみたいな。そう思うと、途端に胸の中を、不安が満たしていく。
「美月?」
上半身を起こして、隣にいる美月を見る。
美月は小さな寝息を立てていた。
気持ちよさそうに眠っている。
それを見て、僕はほっと胸をなでおろす。いなくなってなくてよかった。
もしかしたら僕は、無意識的に僕の隣が空白になることを恐れているのかもしれない。
僕は着ていた上着を美月に被せた。眠っている人は、体温調節をする機能があまり働かなくなるらしい。寒くて起きたら、だめだろう。
上着を被せているときに、美月の首筋に傷が見えた。
それはかすり傷ではなく、もっと深く、痛々しいものだった。
ぞっとした。顔から血の気が引いた。
美月を隅から隅まで検閲する。
太ももにできた青い打撲の跡。腕についているシマ模様。
きっと、服に隠されているだけでもっとあるのだろう。
——美月はいじめられている。
その事実を、もう一度思い出す。傷を見て初めて、そのことを理解する。
口だけで、どうして伝わらないんだろう。本人はもっと苦しんでいるはずなのに。どうしてこんな形でないと伝えられないんだろう。そして、どうしてそのことを僕に見せなかったのだろう。
眠れない、と美月は言った。
それはきっと、いじめが原因で。
夢の中でもいじめられて。
どうして美月がそんな目にあわなくちゃいけないんだろう。
悔しかった。
悔しいし、悲しい。
「可哀想に」
僕がそう零すと、美月の目から涙があふれた。
また、夢の中でいじめられているのだろうか。
僕はその涙を、僕の親指で拭き取る。
その涙には微量に、体温を含んでいた。
美月は泣き止まなかった。
そして、三○分くらい経つとすぐに目覚めた。
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