約束とプリザーブドフラワーと残酷とたった一つの嘘。

人影

約束。

 ずっと、月を見ていた。

 僕の頭上を覆う闇に、かすかな光が散らばっている。それは点であり続けるだけで、線になることはない。きっと、星だって一人でいるのが好きなんだと思う。誰かに繋がりを求めることはなく、ただ、自分が自分であり続ければいい。

 星に意志なんてものが存在するのなら、きっとそう思っている。

 僕は顔を上に向けるのが辛くなって、その場に寝そべった。

 ここは、都会の中にある公園だ。そこそこ広く、管理もされている。滑り台とジャングルジムが合体したような遊具と、隅っこの方に鉄棒がある。電灯も設置されていて、でも、こんな深夜になってしまえば、その光は誰の役に立つこともなく、ただひっそりと立っている。電灯も、星と似たようなものなのだ。

 ここは軽く坂になっているから、寝そべるにはいい場所だった。地面はひんやりとしていて、ほんの少しだけ気持ちいい。

 寝そべると、首の筋肉が弛緩して、疲労が血液と一緒に流れていく。肌に触れる空気は冷たくて、指先がかじかんで動かなくなっているのを感じる。でも、なぜだかそれも心地いい。

 冷たさというのは、清潔な感じがする。きっとそれは、冬の空気が透き通っているからだろう。

 視界がうんと広がって、隅から隅まで、夜空で埋め尽くされた。改めて、空という偉大さに触れる。

 星がまばらに自己主張する中、月が浮かんでいた。星と比べるとずいぶんと大きく、空と比べるとずいぶんと小さく見える。

 僕は、月に手を伸ばしてみる。そっと撫でられたのなら素敵だった。月の質量は、きっと柔らかいだろう。全部、掌に収まってしまえばよかった。


 君がいない。


 そう思うと、悲しくなるし、同時に苛立ちも湧いて出る。それは僕の心臓の中でぐちゃぐちゃに混ざり合って、しばらくすると、涙となって目から零れる。

 胸が締め付けられるようで、血液が僕の体内で暴れるみたいで。ひどく気分が悪い。


 君は、月に連れていかれてしまった。それはかぐや姫のように、幻想的とは言い難かった。見えない力に引っ張られて、月へと浮かんで、消えてしまった。これは、比喩でも何でもない。


 僕の生きる理由は君だったはずなのに。僕は今でもこうやって、生きながらえている。悲しいはずなのに、生きる理由がなくなったはずなのに。どうして僕は生きているんだろう? 僕が生きているという事実が、君といた幸せを否定しているみたいだ。


 でも、現実というのは残酷で、これだけ僕が君と一緒にいたいと願っても、君が僕と一緒にいたいと願っても、叶うことはない。


 僕たちが、「月人つきひと」である限り、月の重力には逆らえない。


 この世界には、眠れない人種が存在する。それは日本の中では、特に珍しい話でもなく、三〇人に一人くらいの割合で、月人がいる。


 月人は、その時がくると月に連れ去られてしまう。だんだんと体から、地球の重力が抜け落ちて、宙に浮かんで月まで行ってしまう。

 だけど、それが怖いわけではなかった。どういうわけか、僕たち月人はその事実を受け入れてしまっている。孤独を過ごした夜の数だけ、僕たちの死への恐怖は掠れていくのかもしれない。


「孤独だ」


 そう言って、僕は嘆いてみる。口から出たその声は、まるで感情が籠ってなく、説得力を持たない。


 僕は立ち上がる。喉が渇いたからだ。この公園にはありがたいことに、自販機まであるのだ。時々自販機の下にお金も落ちているから、ありがたい。


 ふわっ、と体が宙に浮いた。

 ……そう言えば、そうだった。


 僕の重力はもう、半分くらいしかない。






 重力と、月。嫌でも君のことを思い出す。それはまるで呪いみたいに、僕の身体に纏わりついて離れない。

 君はその日、月に浮かんでいってしまった。僕は君の手を繋いでいて、君が月に引っ張られるのを肌で感じていた。

 僕はその時高校一年生で、君は高校三年生だった。

 僕は君と、たった一つだけ約束していたことがあった。それが、僕の生きる理由だった。

ただ、曖昧に現実が辛かった。僕が月人だから、周りと違う劣等感に苛まれていたからもしれないし、差別的な目を向けられていたからかもしれない。

 あるいは、理由なんてないのかもしれない。

 どうせ、いつかは死ぬ。

 ずっとそう思って生きてきた。

 学校でできる友達だって、裏では僕の陰口を言っていることくらい知っていたし、他人から向けられる善意には大抵、見返りが必要なことだって知っていた。全部、面倒くさかった。だから、死にたかった。どうせ死ぬのに、自分の幸せが何かも知らないのに。

 生きている実感も、気力もなかった。

 さっさと、月にまで上ってしまいたかった。

 永遠と、孤独な夜を過ごした。中学生くらいまでは、誰かと一緒にいたような気がするけど。

 僕が高校生になって、全部捨てた。もう、ただひたすらに、人間関係がめんどうくさかった。

 そんな、死にかけの僕が出会ったのは、君だった。

 君の名前を、よる凍花とうかと言った。

 僕はその日、暇すぎて、夜の公園で滑り台を滑っていた。なんとなくおしりを、滑り台につけるのが嫌だったから、しゃがんだまま滑った。靴の摩擦のせいで滑りにくくて、時々バランスを崩しかけた。なんとなく楽しかった。

「なにしてるの」

 その声は、まるで夜空に浮かぶ星のように、脆い黒色に溶け込むような声だった。

 僕はその声のする方に顔を向けると、凍花がいた。

 新月のような、優しい黒色の髪をした女の子だった。きっと、整った顔をしていた。電灯の光が邪魔で、遠目ではよく見えない。とにかく、髪が綺麗だったのを覚えている。長くて、柔らかな黒色で。まるで、この世にある色を全部混ぜ込んだような、そんな複雑で繊細な黒色をしていた。後々聞いてみると、高校三年生だったらしい。

「滑り台を滑ってる」

「そんなのみたらわかるよ」

 そう言って、凍花はくすりと笑う。手で口元を隠すような仕草は、なんだかくすぐったくなるような、可憐さがあった。

「君も、月人?」

 僕は凍花の言葉に頷く。

「重力は?」

「まだ何も変わってないけど」

「そう……。私はもう、半分しかない」

「……いいなぁ」

「え?」

「もうすぐ、月に行けるのが」

 人間関係を全部捨ててしまったからか。どうやら僕は嘘を吐くのが下手くそになっているらしい。

 言ってすぐそれに気づいて口を覆ったが、吐いたことばが戻ってくることはない。

 そんな僕を見て、また凍花は笑った。

「別にいいよ。私の前では。だって、もうすぐ月に行くんだから。それより。聞かせてよ。君が、月に行きたい理由」

 ここで、僕が『月が綺麗だから』と答えていたら、僕たちの関係は変わっていたのかもしれない。それを君が告白だと受け取って、君が死ぬまでの、恋愛を楽しむ道もあったのかもしれない。

 でも。

 僕はこの時、君に正直に話してよかったと思う。

「死にたい。全部、めんどくさい。勉強とか、人間関係とか。楽しい事なんて何もないのに。だから、もう死にたいよ」

 本当は、そんなに死にたいわけじゃなかったけど。ただ、全部面倒くさくて、頑張るくらいなら死んでしまいたい、と言うだけだけど。

 君は僕の言葉を聞いて、空に視線を向けた。その視線を追うようにして空を見ると、そこには月が昇っていた。

「今日は、月が綺麗だね」

 本当に、綺麗だった。空に浮かぶ満月は、まるで世界を照らす電球みたいで。夜空を完全に殺すことはなく、共存するみたいに、暗闇に寄り添っている。

 きっと、凍花の声もそんな風だった。暗闇に寄り添うみたいに、僕の希死念慮を全部抱きしめるみたいに、その言葉を言った。

 その言葉は、その頃の生きる理由そのもので、今の僕が生きているのもきっと、その言葉の所為だ。

「もし私の重力が逆さになったら——。私が、君を月まで連れて行ってあげるよ」


 ——それから、もうかれこれ三年。僕は高校三年生になった。






 さんざん月に行ってしまうことを嘆いてきたのはいいが、僕にとってそれはどうだっていいことだった。ただ寿命が短いというだけで、帰る場所が土か月かの違いだ。一文字違いだから、神様が誤字でもしたんだと思う。

 僕にとって問題というのは、眠れないことだった。

 疲れは、月の光を浴びればとれる。それは僕が月人だからだ。疲れが抜き取られていく感覚は、海に沈んでいく感覚に似ていて、それがなんだか心地いい。

 でも、こんな夜を独りで過ごさないといけなくなる。隣に君がいてくれたらいいんだけど。夜になって、周りに誰もいなくなって、周りの輝きをぼんやり見つめながら、ろくにピントも合わせずに、どうだっていいことを話し合う時間が愛おしかった。

 孤独には慣れているはずなのに、君がいないというだけで、なんだか寂しい気持ちになる。

 僕は月を眺めながらどうだっていいことを考える。どうだっていいことを考えないと、君のことで頭が埋まってしまう。胸が締め付けられて気持ち悪くなるから、君のことはあまり考えたくない。

 そう言えば、普通の人たちは、「夢」をみるらしい。現実ではない妄想の世界に入り込んで非現実的な光景を見たり、行動をしたりする。常識の欠落したその世界は、なぜだか居心地がいいと聞く。

 それに……。会いたい人に会えることもあるらしい。

 夢を見ることができたのなら、君にだって会いに行けるのだろうか。

 首を締めて、気絶しでもしたら会いに行けるだろうか。

 君に会えるなら、死んでもいいかもしれない。

「月人?」

 そんなとき、声がした。

 僕は勢い良く振り返って、その顔を確認する。

「どうしたの? そんなにびっくりして」

「いや……、急に話しかけられたから」

「怖がりなんだ」

 別に、そう言うわけじゃないんだけど。と言おうとしたけれど、流石に話が面倒になりそうなのでやめておいた。

 目の前の女の子は、凍花ではなかった。

 まず、凍花は長い黒髪なのに対して、目の前の女の子は、髪が肩の高さくらいまでしかない。肌の色は、今が深夜だというのにも関わらず、真っ白に見えた。

 それに。見たこともない制服を着ている。

「それで、貴方は月人?」

「あ、あぁ……。うん。そうだよ」

 すると、女の子は笑った。

「名前は?」

あずま深月しんげつ

「不思議な名前。私は未和みわ美月みつき。よろしく」

「よ、よろしく」

 僕たちは、あまりにも不自然な握手を交わす。僕は、さっき自販機で買ってきたコーンポタージュをカイロ代わりにしていたから、多少は温かい。

 でも、目の前の女の子の手は冷え切っていた。コーンポタージュのぬくもりが吸い取られていく。

「あったかい」

「まぁ、うん」

「今、ひま?」

「あぁ」

「じゃあ、少し話そう」

「君も月人?」

「私は違うよ」

 月人だったら良かったんだけどね。と、呟くように美月は言った。

「じゃあ、早く寝た方がいい。寝ないと、疲れは癒えないよ」

「私、不眠症だから。最近眠れなくて」

 不眠症、と僕はその言葉を繰り返す。眠れるはずなのに、眠れなくなる症状。過度なストレスなどが、主な原因。

「ストレスになりそうなこと、あった?」

 僕がそう尋ねると、美月は苦笑いを浮かべた。

 踏み込んではいけないところに踏み込んでしまった。そう思いつくのに時間はそうかからなかった。何とか話題をそらしたいけれど、その話題も思いつかない。

 僕たちの間を、肌を突き刺すような空気が埋める。

 冬の空気は透明だ。乾燥しているから、よく光が際立って見える。

 だからだろうか。僕の視線は自然と、月に向かう。

「私、学校でいじめられてるから」

 乾いた笑い声に紛れるように、その言葉が聞こえた。

「だから、本当は今日死のうって思ってて。でも、なんか無理だったから、明日死のうかなって」

「……そうなんだ」

 なんだか、懐かしい気持ちになった。僕にも、希死念慮に囚われていた頃があったなぁ、と。今ではそれは変わらない。でも、自殺をしようとは思わなくなった。それは、重力が半分になったことも関係あるんだろうけど。

 いや、違うか。懐かしいっていうのは、そういうのじゃない。

 僕は、君のことを思い出していた。

「……月が、綺麗だ」

 とっさに思い付いた話題がこれしかなかった。

 でも、本当に綺麗なんだよな。その綺麗さは、少々人を狂わせるのかもしれない。美しさ、と言うのは人の判断を狂わせる。だってそれは、理性でも感情でもないから。何にもとらわれない概念だから、僕の身体を、言葉を好き勝手操る。

 だから、きっとこれは口が勝手に動いただけだ。

 でも、これもいいかもしれない。君が月で何をしているかはわからないけど、きっとこれは君が間違っていたという証明になる。

 そして、僕は言った。

「もし、僕の重力が逆さになったら——。僕が、君を月まで連れて行ってあげるよ」

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