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 生まれて初めて足を踏み入れたライブハウスとやらは、ごみごみして、どことなく煙の匂いがして、薄暗い空間だった。

 ワンドリンク制でーすという投げやりな受付のお姉さんにジンジャエールの代金を支払い、あっち、と示されたバーカウンターで飲み物と引き換える。お姉さんの髪の色、ものすごいな。ほとんど白に近い金髪と、半分から下がショッキングピンクになっているその色合いは、でもこの空間だときれいに馴染んでいる。氷がいっぱい入ったジンジャエールをストローで飲む。


 喫茶マーメイドのショーケースの上に、ライブのチラシが置かれたのはつい先日のことだった。お弁当を買う時に、何気なく置かれた紙束に気付かなかったら、ここに来ることは無かった。広瀬くんは自分の出るライブに自分から誰かを誘わないだろうなと、何となく思う。

 ライブは何組かが順番に出るもので、広瀬くんの出番は四組中三番目だった。楽器を持ったメンバーに混じってスタンドマイクを抱えた広瀬くんがステージに現れると、会場のそこかしこから黄色い声があがる。

 マイクチェックすら艶っぽくこなした広瀬くんが正面に向き直って、悪戯をする前の子供のように少しだけ笑った。照明がいったん全部消えて、またゆっくりと灯る。

 ギターのイントロから曲が始まる。透明としか形容しようのないクリアで美しい歌声が辺りを包んで、しんしんと広がり続ける。時に身体を揺らしながら弾むようにリズム良く、また時に切なく掠れるように、そして美しいビブラートの伸びやかなロングトーン。広瀬くんの歌声で会場が満たされる。

 今まで味わった事のない種類の気持ち良さで、自分の身体が泡になって空気に溶けてしまいそうになった。否、今なら泡になっても後悔しない。きっと。


 知らない英語の歌詞の曲を気持ち良さそうに数曲歌って、途中で水を飲んだ。その姿さえ美しかった。

 最後の曲の前にパーカッションが穏やかなリズムを刻む中、広瀬くんがマイクに声を乗せる。


「今日は俺のために来てくれて……あ、俺のためじゃない?」

「おかげで最高の夜でした」

「ありがとうございました」


 最後の「ありがとうございました」は私の知ってる「あとざいまぁす」の亜種の発音で、思わず口元がニヤけてしまった。そのまま曲が始まって、私はステージに立つ広瀬くんの姿を静かに目に焼きつけた。



 月曜の朝。弾む足取りで向かった喫茶マーメイドのショーケースの窓は閉じていた。これまでも、朝のお弁当販売がない日は予告なく閉ざされていたので、残念だったけれど気持ちを切り替えて翌日にまた訪れた。だけど、火曜も水曜も木曜も、窓は開いていなかった。コンビニ弁当に飽きた金曜日、恐る恐る近寄ると、どうやら窓が開いている。

 そっと覗き込むと、丸椅子に腰かけたおじいちゃんが静かに舟を漕いでいるのが見えて息を飲む。玉手箱? と一瞬本気で思いかけた。けれど、おじいちゃんはふと目を覚まして私を見た。


「お弁当かい? お嬢さん」

「……はい」


 のろのろと炊飯器の蓋を開けるおじいさんを目で追いながら、でも、何となくしていた予感を現実のものとして受け入れる準備をする。広瀬くんの三倍くらいの時間をかけてビニールの手提げに入ったお弁当がショーケースの上に置かれた。私は代金を差し出しながら口を開く。


「あのう、広瀬くんは」


 おじいさんは眠そうに瞬きをした。


「孫かい。あいつなら留学したよ、アメリカって言ってたな」


 そうか。やっぱりな。そうだよね。そんな予感はしてたんだ。心の準備は出来ている。でも、さみしいな。


「またどうぞ」


 おじいさんの声に会釈を返して学校へ向かう。

 お弁当は美味しかった。さくさくした薄い衣の魚のフライも、牛肉で包んだウズラの卵も、レンコンのきんぴらも、ブロッコリーのおかか和えも、黄色がきれいな出汁巻き卵も。


「料理を習おうかな」


 私が言うと、正面に座っていた志摩子が柔らかく微笑んで「いいんじゃない」と言った。いいんじゃない、美味しいの、作りなよ。

 教室の窓から見上げた空は濃い青色をしていて、もうじき夏が来るんだなと私は思った。

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セイレーンのお弁当 野村ロマネス子 @an_and_coffee

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