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 志摩子が家でお母さんから聞き出してくれた情報によれば、喫茶マーメイドの彼は店主のお孫さんで、なんと私たちと同じ高校に通っているらしい。学年はひとつ下。あんな綺麗な男の子、この学校にいただろうか。そう思うのは私が知らないだけで、聞き込みをしてみると彼はこの学校の有名人であった。


「あぁ、広瀬くんね。変わり者だよね」

「このまえ、階段を自転車で降りてきたの見たよ。すごい静かだった」

「英語の発音がすごく綺麗なの」

「バスケやる時、広瀬が入ったチームは勝つね」

「真夏におしるこドリンク飲んでた」

「広瀬くんが屋上でサボってるとこ、何度も見ましたね。あ、私? 私はほら、そこはアレですよ。あはは」


 中でも納得したのは「中学の時、先輩のバンドに誘われてボーカルやってた」と、「とにかくモテる。えぐい程モテる」のふたつ。あんなにきれいな声をしていたら歌って欲しいと思うだろうし、あの声で歌われたら数々の恋が生まれるだろう。何しろ私だってそうだ。むしろ、歌われてもいないのに恋しちゃってる。


「……なりたい……広瀬くんの彼女に」

「無理だと思うよ、応援はするけど」


 彼女になって、あの声で名前を呼んでもらいたい。あの雰囲気ある瞳で見つめられたい。私が広瀬くんのマーメイドになりたい。


「いや、人魚姫の最後は泡じゃん」

「それでもいい。ひと夏の恋に身を焦がしても……幸せな泡に、なれるのなら……」

「……ダメだな」


 などと阿呆な事を抜かしながら、私は喫茶マーメイドに通い詰めた。お弁当を買える時もあったし、買えない時もあった。志摩子が幻のお弁当だと言ってた通り、喫茶マーメイドのお弁当は競争率が高かった。私のように広瀬くん目当てで買いに来る女子あり、ランチのために買って行くサラリーマンあり。

 ご近所のご老人によるお達者ウォーキングチームが買い占めしてる場面に遭遇した時はさすがに叫びそうになった。

 手に手にビニールの手提げを持ったご老人の群れを見送るが早いか、ショーケースに駆け寄ると、広瀬くんは珍しく目を見開いて私を見た。


「べっ、あの、お、お弁当っ」

「あぁ……さっきので完売です」


 そんなぁ、と項垂れる私を数秒間見つめてから、広瀬くんはいったん店の中に引っ込んで、戻って来てショーケースの上に何かを置いた。コト。わずかな音を立てたそれはレトロなパッケージのキャンディ。これたぶんレジ横に置いてあるやつ。


「すみません、またどうぞ」


 雑な慰めだ。頭がくらくらした。初めて見た広瀬くんの笑顔。くしゃりと悪戯っぽく笑った、太陽すら裸足で逃げ出すような、とびっきりまぶしい笑顔だった。


 それから私と広瀬くんは、お弁当を買う時に少しずつ言葉を交わすようになった。と言っても、天気の話とか、前回のおかずが美味しかった話とか、学校行事の話とか、お弁当はおじいちゃんが作ってる事とか、広瀬くんはご飯を盛るだけなのだとか、そんな所だ。


「ここのお弁当って本当に美味しいよね」

「ありがとうございます」


 広瀬くんの「ありがとうございます」は少し照れたように発音される。表記で言ったら「あとざいまぁす」に近くて、ラフなようでいても良く通る声のそれはちょっとだけ広瀬くんに似ている。大好きなあの声で、はにかんだような「あとざいまぁす」を聞けて嬉しくなった私は、勇気を出してもう一言、言葉を繋いだ。


「広瀬くんも好き? ここのお弁当」

「好きじゃない、かな」

「……じゃないの?」

「うん」


 いつかのように輝く笑顔を見せて、広瀬くんが言う。


「大好き」

「んうッッ……」


 思わず口元を抑え、顔をそむける。これは見なくてもわかるようになってしまった事だけど、いま、広瀬くんは嬉しそうに笑っている。


「今日はサバ味噌弁当です」


 笑いを含んだ声がメニューを告げて、ショーケースの上にお弁当の入ったビニールの手提げが乗せられた。ぴったりの580円と引き換えに、軽く会釈をしながらそれを受け取る。

 揶揄われてるだけってわかってる。わかってるけど。それでも私は、きっとまた明日もここに来てしまう。


「小骨に気を付けて。またどうぞ」

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