3
ゴゴゴと鈍い音を立てながら志摩子が机を動かす。それをぼうっと見ていた私に目線をくれてから、ひとつ、溜息を吐いた。これって朝から何度目になるんだろう、と頭の表面で思う。
「ほらほら、お昼だよ」
「……うん」
「いつまでもぼーっとしてないで」
「……うん」
腰に手を当てた志摩子がもう一度溜息を吐いた。それから、机の横にぶら下げてあるビニールの手提げを見る。
「食べるんでしょ」
「食べる」
「じゃ、ほら。お弁当広げなよ」
お弁当。単語に反応してビニールの手提げに手を伸ばす。掛け紙を解いてお箸を避ける。蓋を開けると小振りのメンチカツが二つ顔を出した。
千切りキャベツと喫茶店のお約束こと真っ赤なナポリタン的パスタ、茹でたブロッコリーが彩を添え、小さな仕切りで区切られたスペースには黄色が美しいだし巻き卵、こっくりと茶色く染まったじゃがいもとシイタケとインゲン豆の煮物、ほうれん草とにんじんの胡麻和え少々と、これは何だろう。
淡いピンク色のくるくる巻かれたもの。バラの花みたい。そう思いながら箸でつまんで口に放り込むと、思いのほか酸味と歯応えのあるそれは、大根の甘酢漬けなのだった。
「酸っぱ!」
思わず声が出た。
それで正気に返った私は、箸を握り直すとお弁当を食べすすめる。出汁巻はほの甘く、煮物はきりりと醤油が効いている。胡麻和えはコクがあるのに優しい味がして、小振りに見えたメンチカツは中身ぎっしりのジューシーな代物だ。
何より、米がおいしい。
あの素敵な人が私のためによそってくれたと思うと、更に美味しい。
「おいしい」
「でしょ? 良かったねぇ」
志摩子は知っているんだろうか、あの人のことを。
薄暗い店内にショーケースの上の窓から差し込む朝の光。それが照らし出した、あの横顔。きれいだった。こちらを見た彼が口を開いた瞬間、世界が変わった。あんなに透明で、あんなに美しくて、あんなに心地の良い声は聴いたことがない。
「反則だわ」
「は? そこまで美味しいの? 感謝してよね」
見当違いの志摩子の言葉もありがたく感じるほど、世界に感謝してしまう。胸の中が暖かくて、時折りちりちりと焦げるような、この感覚。これはまさに……恋。
ご飯とメンチカツを一緒に口の中へ放り込み、息継ぎの間も惜しんで煮物と胡麻和えをかき込み、しっかり塩っぱい梅干しとご飯の組み合わせを楽しんで、出汁巻でフィニッシュ。
箸を置く。
「志摩子ちゃん」
「……何、あらたまって」
「私、恋しちゃったみたい」
「いや、その食欲」
「恋、しちゃった」
先ほどまでの溜息とはニュアンスの違うやつが志摩子の口から漏れ出して、それから眉尻を下げた。
「嫌いじゃないよ、柚実のそういうとこ」
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