帰省
香久山 ゆみ
帰省
なんとなく違和感を感じたけれど、実家に帰ってきたのが久々であるせいだと思っていた。だから、具体的におかしい箇所に気付いたのは、三日も経ってからだった。
階段が一段少ない、と思う。家にある時計すべて時間が合っていない。几帳面だったはずの母なのに、細かいことは気にするなと笑っている。気になりだしたら次から次へと。ガスの元栓のつまみはこんな形だっただろうか。蛍光灯カバーの色が以前より青白い気がする。そんな感じで、そこはかとない違和感があるものの、いまいち決定打に欠ける。いや俺の気のせいかもしれない、と。
おふくろの手料理ってこんな味だっけ? いや俺が都会の味に慣れたのかもしれないし、はたまた齢とると味覚が衰えて味付けが濃くなるというし。親父はこんな熱心に相撲中継を観ていただろうか? 昔は缶ビール片手に野球中継を観ていたものだけれど。いや、それはおぜさんだったか? 結局は俺の思い過ごしに違いないのだ。なのに、一度気になり出したらあれもこれもと、どんどんどつぼに嵌まっていく。もう考えるのはよせ、脳の片隅が伝令を送る。
「なにしに来たの」
玄関を出ると、若い女が門の向こうから顔を出した。薄っすら見覚えがある気がするが、すぐには誰と分からない。両手にゴミ袋を抱えたまましばしぽかんと相手を見つめて、ようやく記憶の回路が繋がった。
「……小糸?」
「そうだよ」
にかっと笑った顔が、はっきりと数十年前の幼馴染と重なった。
「老けたなあ」
しみじみ口にすると、「相変わらずデリカシーがないなあ」と嘆息された。だが、比較対象が記憶の中の十歳少女なのだから仕方ない。
「なにしに来たの」
真顔に戻った小糸が聞き直す。まったくデリカシーないのはどっちだ。親の反対を押し切り飛び出したとはいえ、息子が実家に帰るのがいけないことか。昔から小うるさい。
「二十年ぶりだってのに、愛想良くしろよ」
溜息を吐くときょとんとした顔をしている。「なんだよ、ついでだし上がっていくか?」、声を掛けると、表情が歪む。
「なんだよ。べつに何もしねえよ。顔出してくれたら母さんだって喜ぶと思うし」
「……ねえ、本当になにしに来たの? そこ、空くんの家じゃないよ?」
「え……?」
ひゅっと息を吸う。背中を冷や汗が伝う。怖くて振り返れない。ここは俺の家、だろ?
「空くんのご両親は事故で……。先月、お葬式したよね。空くんその時帰って来たよね。でも、上の空だった。お通夜の途中でふらりと抜け出して、深夜に青い顔して戻ってきたよね。その後ずっと心ここにあらずで。ねえ、あの時どこ行ってたの? おぜさんの所じゃないよね? ずっとこの土地を離れてたってあの伝承は覚えているよね」
「やめろ!」
そうだ、俺は……。記憶の底を攫うちりちりした頭痛を振り払う。二十年ぶりの帰省、薄暗い部屋、すすり泣きと献花の香り、居間に集まる親戚の話し声、酒の匂い、二つ並んだ真っ白な布団。いたたまれなくて、新しい蝋燭と線香に火を繋いでから、そっと抜け出した。背後に幼馴染の視線を感じた気もする。
「この世なぞどうせすべては幻なんだ」
遠い昔、おぜさんは言った。
小さな祠に棲むおぜさんの所には近付くな。そう言われていたが、幼心に土地の閉塞感を感じていた俺はよくおぜさんを訪ねた。だめだよと言いながら小糸はあとを付いてきた。
「困ったらいつでも来なさい」
おぜさんは言ったが、中学に上がる時にはもう顔を出すこともなかったし、家を飛び出す時だって。
あの夜、黒い後悔を抱えて町を彷徨った。なんにも間に合わなかった。夢も叶わなかった、家族も幸せにできなかった。東京の狭いアパートで深夜に鳴ったベルがすべてを終わらせた。なけなしの所持金で何とか辿り着いたのは、覚えのない実家だった。足腰の弱った両親が数年前に全面改築したらしい。
ふらふら夜道を歩いて小さな祠の前に辿り着いた。扉を開けると当時と変わらぬ顔が「代ってあげよう」と微笑んだ。
四十九日間の準備期間を経て、俺は帰ってきた。実家ではなく、この小さな祠に。祠の中はよく知る内装で、元気な両親が迎えてくれた。少しちぐはぐなところもあるけれど、紛れもない幸福がここにある。
「ねえ、何持ってるの?」
俺が両手に抱える袋を見つめて、小糸の表情が歪む。いや、歪んでいるのは俺の輪郭かもしれない。――もういいんだ。微笑んで、俺は扉をそっと閉じた。
帰省 香久山 ゆみ @kaguyamayumi
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