第3話 Bless & Breath
数日、雨が続いた。
ハーピィは羽が濡れるのを嫌うらしく、雨の日は流石にラピスも現れない。
会えない時間。向こうも私と同じように、次の晴れを待ち望んでくれてるのかと思うと、不思議と胸がどきどきした。
とはいえ、塔に行けないとすることがない。
「……楽団、顔出さないと」
やることが無いと、ふと考えてしまう。ずっと黙ってサボったまま、一体何日経っただろう。そろそろけじめをつけるべきだ。やめますって、一言伝えにいかないと。
ひねくれた私だけど、別れも告げずに消えることの身勝手さくらいは知っている。
……その先の人生のことなんて、怖くて考えられもしないけど。
雨の日の練習場は、都の端っこの方にある館だ。
窓の外から覗き込むと、3rdトランペットの……私の席には、もう別の誰かが座っていた。
「……当たり前か。伝える手間、省けたな」
やっと苦しみが終わったんだ。カルミアとかいう荷物を抱えたまま、大好きな音楽を邪魔され続けた楽団のみんなの苦しみが。
背を向けて歩き出す。雨足は次第に弱まっているのに視界が滲んでくる。おかしいな、傘どこに忘れたっけ。ううん、ちゃんと左手に握ってる。
「…………あー」
欲しくもなかった幸せでも、手をすり抜けると悔しいのか。随分浅ましい生き物だったんだな、私。
音楽を愛してないと言い張ったのは、音楽に愛されてないと知るのが怖かったからか。
「……ほんっと、
正しい合奏に不必要なノイズなんて、この雨に溶けて、消えてしまえればいいのに。
……明日、空が晴れて。塔の上に誰も来なかったら、あの子はどんな顔をするだろうか。
雨音が遠ざかるにつれて、音楽が街に満ち始める。音楽に愛された者たちの奏でる、聴きたくもない音の洪水が。
相変わらずここは海の底みたいだ。息が苦しくて、空が遠くて、聴きたい声が聴こえない。
「……会いたい」
呟いて、ようやくついた決心。見計らったように、私の足は濡れた地面を蹴って駆け出していた。
◇
片手の荷物を落とさないようにしながら、いつもより濡れて滑る梯子を登り切った頃には、雨は止んでいた。雲間から白く細い光が差し込む様はどこか神秘的で、暫しの間見惚れてしまった。
「……ラピス」
言葉は無意味。合図はひとつ。
ケースからトランペットを取り出し、光に呼びかけるようにロングトーンを吹き鳴らす。
ずっと遠くまで届けと祈る。
……彼女は、来てくれるだろうか。
雨上がりの空を越えて、私に会いに来てくれるだろうか。
私の隣で、歌いたいと思ってくれるだろうか。
「……ひとりは、いやだよ」
みんなが私を必要としなくても、私自身は孤独に耐えられない。
会いたいよ。一緒にいたいよ。
肩にかかる重み、白い羽の温度、透き通った歌声。
全部が恋しくて、愛おしい。
音楽の才能も、楽団の席も、水底で息をする権利も、もう何もかも要らないから。
ラピス。どうかあなただけは、私の隣にいてほしい。
「……カルミアさん?」
背後から聞こえた声に、ぎょっとして振り返る。
「がっ、楽団長……っ」
「お、驚かせてごめんなさい。練習場の窓の外にあなたを見かけた気がして、追いかけてきてしまったの。……ここは危険よ。地上の魔法音楽があまり届かないから」
楽団長の後ろには数人の楽団員まで並んでいた。もしもの事態に対処するために。
「……その、今の音はカルミアさんが? とてもまっすぐで芯のある音色だったわ。ちゃんと毎日練習していたのね」
楽団長の言葉が頭に入ってこない。この状況は非常にまずい。だって私はたった今……。
「ぱるるみゃーっ!」
「……っ」
来ちゃダメ、なんて言えるか。
私から呼んでおいて、拒絶するような言葉なんて吐けるか。
「ま、魔獣……!?」
その沈黙が、最悪の裏切りになった。
「カルミアさん下がって! 総員、構え! 演奏準備!」
洗練された動作で、楽団長は演奏を指揮する。ついてきた数人の楽団員も、落ち着き払って即興の合奏を開始した。
「ぴ? ……ぎぃっ……!?」
私を見つけて嬉しそうに舞い降りたラピスの喉から、一番聞きたくなかった苦悶の声が漏れる。
「っ、あ、ああ……! やめてっ、ラ、ラピスが……!」
聞き届けてもらえるわけもない。楽団長たちにとって、ラピスは危険な
やめてよ。ここで演奏なんてしないで。魔獣を滅ぼす「正しい音楽」を、こんな場所まで持ち込まないで。
この塔は、ここだけは私たちの天国だったのに。
私たちには、もうここしか残ってなかったのに。
(……ああ。違う)
私が
ろくな演奏もできずに、魔獣と仲良く馴れ合う私も。
たとえ人を傷つけなくても、紛れもなく魔獣であるラピスも。
平和な音楽の都には、必要ない
音の海の中で呼吸もできない出来損ないが、水底で生きていくことは、やっぱりできないんだ。
「ぴぃぃ……ぴぎぃぃっ……!」
頭を抱え、苦しみ呻くラピスの身体を、私は力いっぱい抱き締めて。
濡れた床を蹴り、二人で塔から飛び立った。
「……っ!? カル……っ」
一瞬で遠ざかる声と音楽。
「ぴ……?」
「……ラピス。逃げて、どっか遠くまで」
あなたを苦しめる音が、聴こえなくなる所まで。
「もう二度と、こんな都なんかに飛んでくるなよ」
好き勝手に言って、手を離す。別れも告げずに消えることの身勝手さは知っていたから。
溺れるのは私一人でいい。
バイバイ、私の天使。
救ってくれてありがとう。
「大好きだよ」
息を止めて、目を閉じて。
身体は風に沈んでいく。
そのはずだったのに。
「……何でよ……。もう、いいじゃん……」
柔らかな浮遊感。肩に走る痛み。
ラピスが鉤爪で私を掴み、両腕の翼で羽ばたいていた。
「ぴぃぃ~~~……!」
白い羽根がひとひら、またひとひらと舞い落ちていく。
もがく。抗う。出来損ないの命をひとつ、呑み込もうとうねる荒波に。
身体が少しずつ持ち上げられて、空に近づいてるのがわかる。
「もういいよ……私、戻りたくないよ。天使なら、連れてってよ……聴きたくもない音、聴かなくてよくなる場所まで……」
「ぱ……る、る、みゃぁぁああー!」
諦めに抗うみたいに叫んでから。
「ぁ……」
ラピスは、高らかに歌い出した。
「~~~♪」
誰も苦しませない、天使の歌声。
俯いていた視界の隅、鈍く光る金色。
「……あーあ……何で私も、こんなもんずっと大事に持ってんだ……」
顔の前まで持ち上げ、右手を添えて、前を向く。
ずっと大嫌いだったトランペット。
私を苦しめ続けてきた、へたっぴな音色。
……大事に決まってるだろ。
この音色は、ラピスとの絆で、思い出なんだから。
辛くても、苦しくても、大切なただ一人が聴いてくれるから。
「すぅ……」
……まだ私は、息をしてやるんだ。
二人で。好きに奏でてやるんだ。
無意味で、無価値で、低俗で……二人だけのための音楽を。
「――――――――」
◇
「ダメだ、どんどん高く……巣まで連れ去るつもりか……?」
「あの高さでは追撃は……楽団長、残念ですが彼女はもう……」
楽団長は何も答えずただ見上げていた。白く煌めく翼を広げ、みるみる大地から遠ざかっていくハーピィとカルミアの姿を。
遥か空の上から、音楽だけが降り注ぐ。
魔獣を苦しめるはずの魔法音楽と、人間を苦しめるはずのハーピィの歌。
調和などありえなかったはずの二つの音が織り成す、空を舞う羽根よりも自由で美しい旋律が。
「……なんて綺麗な音……」
なのに自分は、彼女に何てことを。
きっとあのハーピィは、これまで追い詰めてしまったカルミアの最後の拠り所だったのだ。なのにそれさえも奪おうとした、大義と名づけた自己満足の音色で。
結果、彼女は塔から飛び降りて……ここではない何処かを望んだ。
「……ごめんなさい……」
もう届かない偽善を口にした時。
白翼に抱かれた少女が……こちらに手を振るのが見えた。
助けを求めたようには見えなかった。彼女の顔は、楽団にいた時には一度も見せなかった穏やかな微笑みが浮かんでいたから。
「……皆さん」
振り返り、
「『門出』を」
それは数ある魔法音楽の中で唯一、魔獣ではなく都を発つ旅人に向けて演奏される曲。
赦しは請えない。贖罪など望むべくもない。
今はただ、都を飛び立つふたりの翼に祝福を。
どうか空の向こうに、新天地を見つけられることを祈って。
◇
「……はは、『門出』か。……今までお世話になりました」
眼下の塔から微かに聴こえた、やっぱり私には耐え難い上手な音楽。
「ぴぃー……」
「音、怖い? ……うん。じゃあもう行こうか」
明日生きていられるかもわからない、恐ろしい魔獣がはびこる都の外へ。
雲の上か、地の果てか、虹の先か。私たちが、私たちでいていい場所へ。
「ぱるるみゃ、ぴぴ」
しっかり掴まってて……そんな風に聴こえて、ラピスの脚をぎゅっと掴む。
もう勝手に離したりしないよ。
いつまでもへたっぴでお互いを苦しめない人間と天使の音楽が、百年経って二百年経って、いつかどこかの国でおとぎ話に変わるまで。
ずっと一緒に、二人だけのコンサートを続けよう。
「連れてって、ラピス。私たちの楽園まで!」
「ぴぴぃーっ!」
風の声しか聴こえない、誰も届かない空の上で。
ふたり、大きく息を吸って――
Angel & Trumpet ~孤独な演奏家と喋らない天使~ リン・シンウー(林 星悟) @Lin_5_star
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