少年と蝶:温泉を巡る物語
蓮見庸
少年と蝶
「ねえ、このお湯ぬるぬるするよ」
「ああ、そうだな。アルカリの温泉だからな」
泳ぎ出そうとする子供を捕まえて脇に引き寄せる。
ふぅ、とわたしは大きく息を吐いた。
硫黄のにおいが鼻の中に忍び込んできた。
ひとりで写真を撮りにきたはずなのに、どうしてこんな子供と温泉に入っているのかと考えてみるが、少しのぼせてしまったのか、もうそんなこともどうでもよくなってきた。
*
梅雨の明けきらないどんよりとした空。
湿度と気温が高く、服が身体にべたべたとまとわり付いてくる。
ここは首都圏からほど近い、といっても車で数時間走ったところにある、有名な自然あふれる観光地。歌にも歌われ、ああ、あそこかと日本人なら誰もが知っていると言っても過言ではないが、実際に来たことのある人となると案外少ない。
そのせいか、ネット上には間違った情報もちらほら見られ、場違いな格好で来る人も多かった。
そして当のわたしもその中のひとりで、観光地だとたかをくくっていたのが失敗だった。
「なんだこれ。完全に山じゃないか」
駐車場からバスに乗り換え、狭い山道を揺られること30分。着いたところはどう見ても山の入口だった。バスから下りた人たちは、ちゃんとした登山靴を履き、掛け声に合わせながら準備運動をし始めた。街中に行くような白いシャツにローファーという格好の若者もちらほら見かけた。わたしはといえば、足元はスニーカーで、それなりに体を動かせる格好だったのが、まあさいわいといえばさいわいだった。
『登山届けを出しましょう!』『道迷いに注意』『計画的に早めの行動を!』『熊に注意!』『花は見るもの、とっていいのは写真だけ❀』
そんな看板がそこかしこに掲げられていた。
『1グループ1枚でお願いします』と書かれたケースに入ったパンフレットを手に取った。
今いる場所を確認してみる。地図の真ん中あたりを探していたがなかなか見つからず、載っていないのかといぶかしんだ時にやっと目に入った現在地は、まだまだ地図の端の方だった。目的としていた花のマークがたくさん描かれた湿原、その入口まで1時間。
目的地は、そう、この花のたくさんあるという湿原。新しく買ったカメラと広角レンズで写真が撮りたかったのだ。
「入口まで1時間も歩くのか…しかもそこからさらに…1時間か……。仕方ない、せっかく来たんだし、とりあえず行ってみるか」
往復4時間かかるなどという単純計算すら考えることなく、またそれがどれだけたいへんかという認識もなく、わたしは軽い気持ちで歩き始めた。
登り始めは木で土をせき止めてできた階段だった。しばらく歩き続けると、頭上を覆っていた木々の陰は濃くなり、足元には草が生い茂り、道はだんだんと狭くなってきた。それにしても蒸し暑い。異常なほどの湿度だった。額からは汗が流れ落ち、もう足が疲れてきた。しかしながら時計を見るとまだ10分も歩いていない。
『あと50分か』
そう思いながら歩くことさらに20分。
『やっと半分か…』
そう思った時、
「おじさん、どこから来たの?」
わたしは急に声をかけられ、驚いて振り向いた。
いつからいたのか、今時あまり見ないような、丸坊主で所々に穴の空いた半袖Tシャツ、そして半ズボン姿の少年が後ろから話しかけてきたのだった。小学3年生くらいだろうか。
「おじさん、どこに行くの?」
わたしはおじさんと呼ばれたことに少し腹を立てぶっきらぼうに答えた。
「どこって決まってるじゃないか。湿原の入口」
「それってどっち?」
「は? どっちって、この先……あれ?」
わたしは確かに道をたどって歩いていたはずだが、見上げた視線の先に道はなく、足元は草で覆われ、すでに道と呼べるものではなくなっていた。
わたしは立ち止まり来た方を振り返った。あたり一面草が生い茂り、点々と木々が立ち並ぶ同じ景色が続いていた。
いつの間にこんな所を歩いていたのか、歩くのに精一杯で周りの景色も目に入っていなかったらしい。頭上を覆っていたものもなく、太陽の光が薄雲を通して照りつけ、どうりで暑いわけだった。
『おかしいな…』
「ここでもうそんなに疲れてちゃ、遭難しちゃうよ」
「遭難?」
物騒なことを言う子供だと思いながらも、『遭難』のふた文字が頭の中でじわりじわりと大きくなっていった。山で遭難。ネットでよく見る言葉だ。まさか自分が? こんな観光地で? いやいやそれはないだろう。
「きみはここで何をしてるんだ? そっちこそ迷子になるぞ」
「ぼくはね…何をしてると思う?」
「知らないから聞いてるんじゃないか」
「えーっとね、教えてあげない!」
そう言いながら木の陰に走っていった。
「おい、ちょっと!」
そう言いながらわたしは少年が隠れた木に駆け寄った。そして後ろに回って見たが、もうその姿はなく、かと思うと今度は急に後ろから笑い声を投げかけられた。
「そんなとこにいやしないよ!」
振り向くと少年はまた別の木に隠れ、わたしは慌ててそちらへ走っていったが、またもやその姿はなかった。
「そこじゃないよ!」
わたしは再び少年を捕まえようと走り出したが、足がもつれて尻餅をついてしまった。
その様子を見て少年はお腹を抱えて屈託なく笑った。
「あはははっ! おじさん面白いから、いいところを教えてあげるよ!」
少年はまた走り出し、わたしはそのあとを追ったが、今度は少年の姿を見失うことはなく、突然に視界の開けた場所に着いた。
「これ見てよ!」
少年はこちらを向いてどうだとばかりに得意げに立っていた。
彼の後ろには、濃い紫色が散りばめられた淡い緑の絨毯が広がり、点々と鏡のような池があった。
よく見ると紫色のそれはあとでパンフレットを見て知ったのだが、カキツバタの群生で、細くとがった葉先から今にもこぼれ落ちそうなしずくがキラキラと光っている。
池は急に晴れ渡った空の深い青を映していた。そこには子供の手のひらほどの大きさの切れ込みの入った丸い葉が浮かび、睡蓮を小さくしたような白い花がぽつりぽつりと咲いていた。
わたしはしばしその光景に目を奪われ、写真を撮ることも忘れてしまっていた。
パシャリパシャリと、カメラのシャッターを切る音が響く。あたりはそれほど静寂に包まれていた。空には白い雲が音もなく次から次へと流れていく。周りには誰もいなかった。
「こんなものかな」
我ながらいい写真が撮れたと思う。『秘密の場所に咲く花』とでもコメントを入れておけば、SNSの反応もいいだろう。
少年は最初はおとなしくしていたのだが、じっとしていることにすぐに飽きてしまったのか、わたしが写真を撮っているのもお構いなしに、あちこち駆け回り邪魔をしてきた。
時計はすでに昼を回っていた。時間があっという間に流れていたようだ。
「もう帰ろうよ。雨が降りそうだよ!」
少年は早く帰ろうと、しきりにせかしてくる。わたしは曖昧に返事をしてきたが、指差す空は黒い雲が覆いはじめ、ぽつりと雨粒さえ落ちてきた。
「こっちだよ!」
わたしは慌ててカメラをしまい、少年に付いて走っていった。
少年は木をよけ、草をかき分けながら走っていく。子供といえども走るのは速い。わたしは転ばないように早足で歩くのが精一杯だった。先を行く子供は律儀にわたしが来るのを待って、そしてまた走っていくのだった。
道と呼べるようなところは一度も歩かなかったが、出口は突然現れた。しかも出た場所は登山口ではなく、バスに乗り込んだ麓の集落だった。
「どうなってるんだ?」
狐につままれた思いで後ろを振り返る。そこは人が入ることのないようなただの林で、古ぼけたお墓がいくつか並んでいる。空を見上げると、黒い雲はどこかへ消え去り、ところどころに青空が見えていた。
「おじさん、おれ温泉に行きたい」
わたしを待っていた子供は笑いながら、突然こんなことを口にした。
「温泉?」
「うん!」
「温泉か…」
わたしはしばし考え込んだ。この汗を流せたら気持ちいいだろう。自分の着替えは車に入れてあるが、どこの子供とも分からない少年を連れ回していいものだろうか。そんな大事なことに今になってやっと気がついた。温泉どころではない。
「きみの家はどこなんだ? 帰らなくていいのか?」
「うちはすぐそこだから心配しなくていいよ」
「このあたりに住んでるのか?」
「そうだよ」
どおりで詳しいわけだ。なら大丈夫か。あとで家に送っていけばいいだろう。
「タオルとか持ってるのか?」
「これでいい」
少年は首に巻いていたタオルを手にして言った。
「それはそれとしてだな、温泉なんてどこに…」
「ほら、ここだよ、ここ!」
少年が指差す建物の壁に描かれていたのは、大きすぎて目に入らなかった温泉マーク。
「よく来るのか?」
「たまにね」
玄関の自動ドアが開くと、少年は隙間を広げるように中に入っていき、浴場と書かれた矢印の方へ一目散に走っていった。
受付の初老の男は特に気にする様子はなく、わたしに向かって言った。
「大人一人、600円ね」
男は手慣れた手付きで千円札を受け取ると、お釣りとレシート、そして青いタグの付いた鍵をトレイの中に置いた。
わたしは地元の土産物や手作りの手芸品などが売られている売店を過ぎて、矢印に沿って浴場へと向かった。ロッカーの番号は19番。服は汗と湿気で重さを感じるほど湿っていた。
浴場は10人入ればあふれそうな内湯がひとつ、同じ大きさの露天がひとつ。まだ時間が早いのか、先客はなかった。少年はというと、すでに湯船の中でお湯を引っかき回して遊んでいた。
半開きになった扉をカラカラと引いて浴場に入ると、かすかな硫黄のにおいが漂っていた。
水道の蛇口をひねり、シャワーを頭からかぶった。汗を流すと気持ちもすっきりしてきた。ふう、と思わずため息が漏れた。
そして身体を洗い始めたころ、少年はお湯から上がりわたしの脇に立って言った。
「露天風呂に行きたい!」
「行けばいいじゃないか」
「開けて!」
そうか、子供にはまだ内湯と露天風呂を隔てるガラスの扉が重いのかもしれない。
「身体を洗うまでちょっと待ってろ」
少年はわたしの横の洗い場に座り、真似をしだした。
「風呂に入る前に身体洗ったのか?」
「うん!」
わたしと少年は親子か兄弟のように身体を洗い、少年は待ちきれない様子で露天風呂を隔てるガラスの扉の前へ小走りした。
「早く!」
「走るとあぶないぞ!」
わたしは片手で扉を開け、片手で駆け出しそうな少年の肩をつかみ、そのまま一緒に露天風呂に入ることにした。
露天風呂といっても、ただガラスの扉の外側にある湯船、という程度のものでしかないと思っていたが、いざ外に出てみるとなかなかいいものだった。お湯が浴槽に注ぎ込まれる音、鳥のさえずり、遠くから川が流れる音が聞こえてくる。そして、子供のはしゃぐ声…。
「おい、おとなしく入ってろよ…」
ゆっくりと湯船に入ると、熱めのお湯が身体にまとわり付いてきた。両手をこすり合わせてみると、ぬるりとした感触が伝わってきた。
わたしは相変わらず暴れている子供を押さえつけると、顔にお湯をかけられた。うっすらと硫黄のにおいがした。
「なんだか疲れたな」
子供のはしゃぐ声を耳にし、硫黄のにおいを感じながら、いつの間にやらうとうととしてしまったらしい。
気が付くと子供の姿はなく、ガラスの重い扉は半開きになり、曇ったガラスに『バイバイ』と書かれていた。
わたしは脱衣所も見てみたが、床には濡れたあとが残っているだけだった。
曖昧な記憶を思い起こしてみたものの、子供が湯船から出ていく音がしたようなしなかったような、まあ、どちらにしても姿がないことだけは確かだった。最後にあいさつくらいはしたかったと、少し残念だった。
近くに住んでいると言っていたから、もう家に帰ったのだろうと、別段なんの心配もしてはいなかったが、受付でロッカーの鍵を返す時、男に聞いてみた。
「子供は帰りましたか?」
わたしの言葉が聞こえなかったのか、それともうまく伝わらなかったのか、男はわたしの顔を見て怪訝そうな顔をしたあと、にやりと愛想笑いを浮かべただけだった。
集落を少し歩いてみたが少年の姿を見ることはなく、駐車場へ向かった。
車の運転席のシートに収まり、自動販売機で買った炭酸の効いたジュースをひと口すする。冷たい液体がほてった体に染み込んでいった。
手持ち無沙汰だったので、カバンからカメラを取り出し撮った写真を眺めた。
一面に広がる淡い緑の絨毯、そして濃い紫の花々。しかし、そこにあるはずの少年の姿はひとつも写っていなかった。
わたしの撮影の邪魔をするように、何度もフレームの中に入ってきて、同じ構図の写真を何枚も撮る羽目になったのだから、うまく少年が入らないように撮ったということはあり得ない。写真を削除してもいない。実際に同じような写真が何枚も続いている。
奇妙に思い、1枚の写真を拡大してみた。
するとそこには、紫色の花の間を飛び回る蝶が写っていた。
誰かに呼ばれたような気がして顔を上げると、フロントガラスの前を1羽の蝶がひらひらと舞っていった。
わたしはふと懐かしい人の顔を思い出し、目頭が熱くなるのを感じた。
少年と蝶:温泉を巡る物語 蓮見庸 @hasumiyoh
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