九月二日

カラオケオールなんか大学生の二次会以来のことだった。手持ちの曲をそうそうに使い切ってしまった私は、タフにロックを歌い続ける女を見上げていた。

 飲み放題のアルコールはおなかをたぷたぷに膨らませた。特にビールがよくなかった。酔わないのにおなかばかり膨れて苦しい。これだったら最初からいつも通り、ハイボールにでもしておけばよかった。何にしても、選ぶのが面倒で、「じゃあ、同じのでいいです」と言わなければよかっただけの話なのだけど。

「もう歌わないの。みち」

「歌える曲がないの」

 私はすべてにうんざりしていた。

「だって同じ曲を歌ったってつまらないじゃない」

「いいじゃん、何度だって同じ曲を入れなよ」

 ヨリはまたロックを入れた。曲が始まるまでわからなかったが、それはヨリが最初に入れたハチャメチャな失恋の歌だった。私はこの日、通算五回この曲を聴かされることになった。

 

「あたし、恋人に捨てられちゃったんだよね」


 何回目かの失恋ソングの後で、ヨリが言った。「捨てられたってのも嘘かもしれない、付き合ってたかすらわかんない。今となってはそう思うよ」

 私は何度か酔いのなかで瞬きをした。

「すてられた?」

「そ。いなくなっちゃった。荷物ごと。痕跡ごと」

 喫煙ルームの中にはタバコの煙が満ちていた。

「残されたのはたばこだけ。たばこがなくっちゃ生きていけない私だけ。あの人、私にたばこだけ教えていなくなっちゃった」

 私はようやく、ヨリの、彼女の溶けたメイクを見つめた。

「いつ」

「今日の朝、起きたらどこにもいなかった。駅に探しに出た。いつもの通勤の駅」

「いなかったの」

「いなかったんだよ」

 ヨリはゆっくり瞬きをして、深く深く息を吐き出した。

「職場まで行ったよ。仕事も辞めてた。最初っから、そんな人いなかったみたいだった。――あたしには生理がきてた。むかむかして、それなのにトイレが空かなくて。めっちゃドア蹴った」

「そしたら、トイレから私が出てきたわけね」

「そう」

 ヨリは今までのことと今朝の出来事すべてをつないだ。糸みたいな煙がふうっと彼女の唇から伸びて、空気に溶けていく。

「あんたとこうしてカラオケに来たの、奇跡みたいな偶然だと思ってんだ、あたし」 

「どうして?」

「駅のトイレのドアから出てきた、あんたも泣いてたから。なんか、親近感」

 私はヨリの吐息を形作る煙の中で、こう答える。ぬるくなった不味いビールを飲み干して。

「それって、の間違いでしょう」


 私はそのままヨリの家に転がり込む、恋人だったかどうだったかわからない女がいたそのスペースに滑り込んだ私は知らないにおいのするベッドでヨリと寝た。セックスしたんじゃない。一緒に同じ布団に入って抱き合って眠ったのだ。

 私はヨリの癖のある髪の、慣れないシャンプーの匂いを嗅ぎながら――るるのことを考えた。るるには何も言わずにオールしたり会社を休んだり、今までに無いくらい振り回しているんだけど一向にスマホに連絡が入らないあたり、彼女も自分の言ったことの意味をわかってるんだと思う。あのるるが私に気を遣うなんてこと、ひっくり返ってもなかったのに。


 連絡の無いスマホが痛い。

 これで、彼女がいつも通り「仕事早く終わんないの」とか「早く帰ってきてよ」とか、そういう甘えた言葉を掛けてくれたなら、私は彼女を憎んで罵ることができたのに。それすら。それすらるるは許してくれない。彼女は私が思っている以上に、周到な女だった。


 ヨリが寝言で、誰かの名前を呼んだ、なんとか、かんとか。とにかく二文字の名前だった。でも子音も母音も判然としない上、私の鎖骨のあたりに吸い込まれてしまった。し、ヨリの前の彼女のことなど知りたくもなかった。

 きっとヨリは恋人の夢を見てるんだろう。

 私はヨリのふくらみやぬくもりだけを欲していた。そしてそれを全部るるに置き換えた。ぜんぶ。


『私、結婚するんだ』


 むなしい行為だとわかっていても、やめられないことはある。

 私はヨリをきつく抱きしめた。呼吸が苦しくなったのか、ヨリが苦しそうに体をくねらせる。それでも、やめなかった。私はヨリをどうしたいのかわからなかった。抱きたいのか、苦しめたいのか、いっそ殺したいのか、それとも。

──ヨリは、るるではない。

 私はヨリを自由にする。そして鳴らないスマホのことを考えながら、ようやく眠りにつく。太陽は高く登っている。きっと部屋のサンキャッチャーは、たくさんの虹を作って彼女の居室を彩るだろう。


 そこに私はいないけど。

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花の咲かない窓辺にて 紫陽_凛 @syw_rin

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