九月一日


 みち、あたし結婚するんだ、とが言い出したのはちょうど私たちがルームシェアを初めて五年になろうかという時だった。

「もうあたしも二十七じゃん、身を固めないといけないと思ってさ」

 にこにこと左手の輝くものを見せられて、私は無になっていく。

「……誰と」

「パート先の同僚。まーくんていうんだけど」

私は「そう」とだけ言った。るるの即断即決ときたら、昔から変わらない。私とルームシェアすると決めたのだってそう、私のカムアウトを受け止めたのだってそう、だからるるの結婚は、彼女の割り切ったその性格の延長上に自然に存在するものだった。

 わかっていた。

 わかっていたけど、恐れていたことでもあった。

 いつか、るるが私から離れていく――。


「実はおなかに赤ちゃんもいるの。まーくんの」


 絵に描いたような快晴だった。東向きの窓からはさんさんと朝日が差し込んできて、るるのお気に入りのサンキャッチャーにまぶしい光を当てていた。光はあまたの虹に、そして虹はるるのまっしろな二の腕に映り込んだ。

「……そうなんだ」

「うん、だから、もうみちはあたしの面倒なんか、見なくてもいいんだよ」

 るるは眉を下げた。私はそれ以上るるの顔を見れずに、ばかばかしいくらいほのぼのした、サンキャッチャーのつくる小さな虹を見つめた。

「あたしは、あたしの面倒、ちゃんと見ることにした。だからみちは、自分のために生きていいんだよ」


 私はその日いつも通りの時間に家を出て、欠勤の連絡をした後、駅のトイレで朝食を吐いた。失恋と浮気と、それから、それ以上の、到底受け止めきれない衝撃のなかで、下水と汚物のにおいを嗅いでいた。

 

 いつだって自分とるるのために生きてきた。正社員として働くことができなかったるるのために――水道光熱費は折半、食費も折半、だけど、るるには常に好きにできるだけのお金をあげていた。るるが「好きなこと」に打ち込めるように。るるはそのお金で部屋を飾り、二人暮らしのアパートを花で満たし、きれいな模様の入ったグラスや、ガラスづくりの箸置きを買ってきた。ものを知らない私のために、るるは私の私服を見繕ったし、料理が壊滅的にできない私の代わりに、るるはおしゃれなカフェみたいなご飯を作ってくれたし――私は、自分のためにるるに尽くしてきた、そしてるるを愛していたからるるに尽くしてきた。その分るるは、彼女は、私にありあまるほどの愛でもってこたえてくれていたと、そう思っていた。

 でも、そうじゃなかった。全然違った。


――だからみちは、自分のために生きていいんだよ。


 ちょきんと、切り離される感覚。るるはよく花の剪定をして、きれいな花を咲かすためにつぼみを選んでは切り落とした。こうすればきれいな花が咲くんだよって。


――だからみちは。


 私はるるの人生から摘まれてしまったのかもしれない。

 思えば思うほど、胃か食道か、はたまたその奥か、せぐりあげてくるものをこらえられない。出るものもないのに、おえ、と嘔吐えずく。頭がひどく痛み、涙は止まらない。鼻水も止まらない。

 胃液の酸っぱさに飽きる頃になって、駅のトイレのドアがけたたましく叩かれる。

「ちょっと、いつまで入ってる気だよ。めっちゃ待ってんだけど」

 叩かれてるっていうか、蹴られている。がんがん鳴るのが頭なのかドアなのかわからなくなって、私は便器に顔を近づけたまま吐いたものを水に流し、口元を乱暴に拭って立ち上がった。

「ごめんなさい」

 出会い頭ににらみつけてきたその女性は、私の小さな謝罪を聞き、それから私の顔をじろじろ見た。それから険のあるまなざしを引っ込めた。さらには小声で、

「つわり?」

 私は力なく答える。

「違います、どいて」


 とにかくトイレがいた、邪魔者はいなくなろうと早足でトイレを出る私の背後から、さっきの女の声が追いかけてくる。

「待て! ちょっと待って。なあ、おい」

 並ぶ行列が私たちを密やかに視線で追ってくる。見ないでほしい。誰もこっちを見ないで。「おい、待ってってば」


 混み合ってる駅の往来、そのど真ん中で、私は彼女、に捕まった。

 彼女の手は冷たかった。その指といい手首といい、これでもかとじゃらじゃら言わせているアクセサリーが、人肌ほどには温まっていなかったからだった。じっさいヨリの手は冷たい。低体温なのだと後で知った。


 人の目が気になって、私はうつむき、彼女の手を思い切り振り払う。

 見ないでほしかった。

 誰も、私を見ないでほしかった。なのに彼女は、私だけ見ていた。

 

「……きょう暇?」


 今になってみれば、それがヨリの「ヘルプミー」だったことがよくわかる。だけどそのときの私には、変な女に絡まれている、という認識しかなかった。


「暇に見えますか」

「や、その、なんてーか……、」

 ヨリ――女は頬を掻いた。真っ黒に塗られた爪が少し欠けている。目の下は溶けたシャドウで汚れており、よくよく見れば真っ黒な隈が浮いていた。鼻のよこにほくろがあるのに、そのほくろの上までラメが落ちてきているのを見て、私はようやく気づく。

 彼女も何らかの理由で泣いたのだ。


「……暇です」

「そ、そっか。どこ行く?」

「どこへでも」


 所詮剪定された花だ。どこへ行っても同じ、帰る場所がなくなっただけで。


「……じゃ、カラオケでもいくかあ」

 女が言った。「あたし、ヨリコ。ヨリって呼ばれることが多いかな」

「私はみちるっていいます」

「じゃ、で。よろしく」

 るると同じことを言う。私は枯れた涙の奥で、目を伏せる。彼女が差し出す手はやはり冷たい。


 

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